獅子帰還 Ⅰ

空へⅡ

 辺りは、いまだ冬の女神シアルナの白い袖に覆われている。早春の陽光はまだ弱い。だが、雪渓はその僅かな光を受けて燦然と輝き、眩しくさえあった。
 その只中に、二人の人影がある。二人ともノーアの衣装に身を包んでいたが、ノーアでは稀とされる黒髪であった。一人は西方風に結いあげ巾で纏めていたが、年若いほうは肩を超えるほどの髪をそのまま風に流している。
 西方風に髪を結いあげた人物は、このノーアではシュライと呼ばれていた。異邦人ながら佐軍卿シュライと尊称されるノーア軍の重鎮である。
 だが今、その佐軍卿はただ、いっそ痛ましいほどの表情で静かに青年を見ていた。
 吹き渡る風に煽られる髪を構うこともなく、青年は立ちつくす。慄然として身動きできずにいたのだ。だが、崖に憶した訳ではなかった。二年前、ここで何が起きたのかを、今はっきりと思い出したのだ。
 彼が、何のためにそこにいたのか。そして、何をしようとしていたのか。
「兄上、俺は…!」
 慄えは一瞬で姿を消している。そして、この二年間どこか霞んだ彩しか見せなかった瞳の紫が、彼本来の剣の如き鋭さをもって甦っていた。
 だが、シュライは束の間、かけるべき言葉を失う。
 彼は、締めつける慙愧と戦っていた。だが、それに押し潰されることは無かった。決然と眼を見開くと、言おうとした何かを呑みこみ、宣するが如き力強さで別の言葉を口にした。
「館へ、戻ります」
 そして、返事を待たずに騎首を返し馬腹を蹴った。
 青年が駆け過ぎたあとのかすかな風がやむのを感じ、シュライは天を仰いだ。
 あの生気に満ちた紫水晶アメジストの如き双眼の光を、覇気を、周囲がどれほど待ち望んだだろう。だが、一方でそれが彼にとって過酷な選択を強いることになるのが理解っているだけに、来るべき時が来たことをなげかずにはいられなかった。
「リオライ…」
 それが、彼を兄と呼ぶ青年の名であった。リオライ=ラフェルト。ノーア大公ミザンの猶子1。雪女神と呼びならわされる銀姫将軍シアラ・センティアーナルフィリアスの猛き守護獣と北方の民サマンから畏怖される勇将。帰ってきて欲しいと周囲すべてに望まれていた姿。
 だが、青年にはもう一つ名がある。…断ち難い鎖にも似た、彼がこの世に生を享けた時の名が。
 シュライも同じような鎖に苛まれ、苦難の末にそれを断ち切って今ここに在る。はるか西方に在ったとき、彼は別の名を持っていた。だが今は、雪女神の片腕としてここに在る。
 平坦な道程ではなかった。血を流し、流させ、シュライ自身今も残る傷を負いながら、やっと辿り着いた。
 だからこそ、願わずにいられない。シュライを兄とも慕ってくれる青年が、居るべき場所を平穏のうちに手に入れることを。
 …それが、いかに無理な願いと理解っていても。

***

 ノーア大公邸は、やしきというより城砦というに相応しい規模と威容を誇る。周囲は堀に囲まれ、出入りは跳ね橋のみ。だが、今は戦時ではないから城門の出窓ペヒナーゼに歩哨を立てて橋は下ろしてある。
 その歩哨が思わず飛び上がるような勢いで、騎馬が駆け込んでくる。それが何者か、歩哨に立っていた者にはすぐわかったから止めだてはしなかったが、何事かと城門を下りた。
「リオライ様、何か…」
「シェラ、いるか!?」
 思わず絶句する。彼の直属の主君たる青年が、単騎駆け込んで中庭へ出るなり城門を振り返って呼びかけたのだ。一瞬、夢を見ているのかと思う。だが、身体がほとんど反射的に城壁塔の階段を蹴っていた。
「は、はい!! ここにッ」
 シェラと呼ばれた青年が、殆ど飛び降りるようにしてリオライの前に片膝をついた。動揺と、期待を織り混ぜた表情。
「・・・ツァーリへ行ってくれ。俺もすぐ行くが、その為にも情報が欲しい」
 彼、シェラが二年間聴くことの叶わなかった語調。表情から動揺が消えた。
「承知!」
「ユアスも連れて行け。他の連中には俺から声をかけておく。頼んだぞ!」
「はっ!」
 喜色満面…というのはこの際言い過ぎではあるまい。
 シェラはリオライの前を辞すと少し走って短い口笛を吹いた。彼のいた塔の上から鷹が舞い降りてくる。
「エルウ、仕事だ!・・・・・忙しくなるぞ!」
 鷹が、応えるかのように鋭く啼いた

***

 リオライが謁見を願い出た時、ノーア大公ミザン=ラフェルトはついに来るべきものが来た、と感じた。そもそも彼の帰郷はこの為であったし、あの事件が無ければとうに済んでいた筈の事であったのだ。
 彼が謁見の間に入ってきた時、腰には二年間手も触れなかった剣があった。飾りが少なく、極めて実戦向きに鍛えられた代物であり、彼が13歳の時、ノーア公自身が与えたものであった。
「父…否、大公殿下。私は、ツァーリ王太子ツェサレーヴィチアリエル殿下の要請で参りました」
 ノーア大公には分かっていた。リオライは答えを知っているのだ。知っていながら、決断をせまるために、敢えて尋ねようとしている。
 時は、その流れを変えたのだ。返答するのに何の迷う事があろうか。だが彼をためらわせたのはそんな事ではない。言えば、彼は行くであろう。ツァーリへ。そしてそこでリオライを待ちうけるものは、実父たるツァーリ宰相との衝突なのである。
 リオライが不利だとは、ノーア公は露程も思ってはいなかった。問題は、むしろその衝突自体にあったのだ。
 その双眸の、深く・・・鋭い色彩。決意の程など今更聞くまでもない。ノーア大公は内心で吐息し、威儀をただす。
「・・・・・聞こうか」

***

「・・・・カイっ!!」
 厩舎で馬たちの餌を準備していたカイは、頓狂な声をあげて走りこんできた友人を穏やかに諭した。
「何だレイン、馬たちが驚くだろう。そんなに慌てなくても、空は落ちて来やせん」
「誰がそんな心配するか。リオライ様が記憶を取り戻されたって、今・・・・!!」
「リオライ様が!?」
 悠長が服を着ている、と言われるカイでさえもつい声が大きくなる。レインはまだはずんでいる息をなんとか落ちつかせて続けた。
「大公殿下との謁見が終わったら、すぐにツァーリへ下られるそうだ」
「ツァーリヘ…か…」
 急に、この暢気者の声が沈んだ。
「どうした?」
「いや、何でもない・・・さてと、それなら早く皆に食わせとかなきゃならんな」
 カイはおもむろに作業に戻った。レインのほうはといえば、逸る気持ちを抑えきれずにすっかり浮足立っている。
「シェラとユアスは先発したらしいぜ。俺達も早く準備しなけりゃな!」
「わかった。こいつらのことは任せておけ」
「おうっ!頼んだぜ」
 騒がしい同僚が出て行った後、黙々と作業を続けるカイの面には、つい先刻ノーア大公が浮かべたものと同種の苦悩が宿っていた。
 カイは今でこそノーアの国都・アズローに居を構える身だが、生まれはツァーリである。
 ―――――ツァーリでアリエルが生まれ、シェノレスでアンリーが生まれた年。同じくツァーリの、王城に近いある館で一人の男児が誕生した。
 そこはカイの家からすれば主筋しゅうすじにあたる家柄であった。カイの姉に当たる人物が乳母として立てられ、まだ十歳に満たなかったカイも侍者としての役目を与えられた。しかしある日突然、まだ一歳にも満たぬその男児は、北国ノーアへ里子として放り出されてしまったのである。
 カイとて当時はまだ年端もいかぬ少年であったから、何が起こったのか知りようもなかった。ただ、乳母として共にノーアに赴いた姉に付き従ったのみである。しかし長じるにつれて、当時のツァーリ宮廷の中に流れた噂を聞き及び、男児がひどく下らない揉め事に巻き込まれ、あらぬ嫌疑をかけられて放擲された事実を知る。
 さらに下らないことには数年を経ずしてその嫌疑も晴らされ、剰え男児をツァーリに呼び戻す算段まで進んでいると聞いて…カイは職分を超えると理解っていながら苦悩することになる。
 カイの苦悩をよそに、男児はノーアで大公の猶子として遇され、ノーア公女ナルフィリアスの鍾愛2をうけ、まっすぐに育っていった。大公家の一員としての武人に相応しい教育を授けられ、素質と努力でもってそれに十二分に応えた。
 事実、北方民族との戦で度々戦功をあげ、敵方から畏怖される勇将に育っていった。つやの良い黒髪を獅子のたてがみの如く靡かせ、十代の終わり頃には様々な出自の者たちの間から幕僚と呼べる人材を集め、その微妙な立ち位置から独立部隊に近い戦力を持つに至る。
 ―――――雪姫の猛き守護獣・リオライ=ラフェルト!  
 無論、そうなるまでリオライが何も知らずにいたわけではない。10歳になる前に一度ツァーリへ連れ戻され、一悶着の末に猶予期間としてノーアでの生活を許された格好である。
 カイの主筋にあたる、リオライの父親…それが、ツァーリ宰相ジェド=ヴォリスであった。
 ヴォリスの家は後継者としてリオライがツァーリに腰を落ち着けることを望んではいた。だが、リオライのほうがあからさまな反発を示していたし、父親ジェドもいまだ健在であったから、さしあたって帰国を急がせることもしなかった。リオライが父親には反発しても、ツァーリ国王へは一応恭順の姿勢を堅持していたからでもある。
 言ってみれば、双方落とし所を探りながらの猶予期間モラトリアムであった。そんな中で、あの事故は起こったのだった―――――――。

 ―――――――程なく、リオライとその部下十人余がノーアを発つ。
 時に、イェルタ海戦でレオンが捕縛される前日、早朝のことである。

  1. 猶子ゆうし…平たく言えば養子のこと。ほ子の如し、が語源とか。相続関係が生じないもの、生ずるもの、時代によって様々らしい。  
  2. 鍾愛…大切にして可愛がること。