獅子帰還 Ⅲ

 リオライは結局その後もサマンが蠢動する季節はノーアに身を置いた。その間対サマンの戦で実戦経験を積み、ノーアの将としての名を確固たるものにしていく。そして、そうでない時期はナステューカにいた。
 アリエルはリオライがナステューカにいる間はリオライから、リオライ不在の間はリオライの委嘱を受けたエルンストから指南を受けていた。
エルンスト曰く、「護身の術としては十分」な技量を身につけてはいたが、幸いというかそれを実用に供するような状況になることはなかった。

 ―――――――そして、大陸暦897年が訪れる。
 リオライがサーレスク大公邸たるサレン館を訪れるのは稀であった。サレン館に残ることを許された数少ないシェノレスの人間のうち、アリエルと同年の乳母子めのとごで近侍衛士を務めるマティアスが名状し難い視線でリオライを睨んでいるのに気付いてから、アリエルのほうが頻繁に館を出るようになってしまったのである。
 来客に対する非礼を叱責するのは容易いが、ヴォリスの嗣子という肩書きに対するシェノレス出身の近習の反撥はその程度でどうなるものでもないことをアリエルはよく識っていた。そして、リオライはリオライでその「ヴォリスの嗣子」という肩書きに少なからず居心地悪さを感じていることも理解していた。双方に気を遣った結果、やはり自分が館を出るのが穏当という結論に至った訳だが、それはそれでマティアスの心痛を増やしていた。結局、アリエルがシェノレス出身の近習に対してさえ心を開いている訳ではない、という事実に頭を垂れるしかなかったからだ。
 アリエルが出て行く先は言わずと知れたユーディナの文書館か、ミオラトの廃園である。
 廃園の利点は修練場として遠慮なく使えるというところにあった。書庫の書物は件の修道院へ移され、盗賊の標的になりそうな財物は僧院や国庫へ納められていたが、建造物そのものは何一つ手を入れられたわけではない。言ってみれば荒れ放題だったが、広さだけは申し分なかった。上品な宮廷剣技とは疎遠なリオライが剣を揮うには丁度良い。…ただ、それに付き合うアリエルは常に限界近くまで体力を費やした。
 リオライとしてはそれなりの手加減をしているのだが、平生へいぜいの運動量の差はそのまま体力差であった。ごく短い時間であれば悪い勝負にならないのであるが。
「ここまで!」
 リオライがようやく剣を引いて言った。てんで勝目のない立ち合いであったにもかかわらず、アリエルの口許は少し笑っている。
「やれやれ・・・いつまでたってもかなわないな」
 剣をおさめ、大きく息をついて座り込む。呼吸が上がって足下がふらついていることなど見通されているから、この際余計な意地は張らない。
「まあそう慌てるなよ、おいそれと追いつかれてたら、教えた方の立場がない」
 エルンストからは「護身術」以上の評価は貰っていないアリエルの剣だが、「素地すじはいいが立場をわきまえないと傍迷惑」という些か手厳しい註釈コメントも貰っている。半分はリオライに対しても言っているつもりなのだろう。…要は「立場のある身の上で、単身うろうろしないでくれ。護衛する方の身にもなってみろ」というお説教である。
 そうはいっても、リオライの微行おしのび癖については一応見て見ぬふりをしてくれているのだが。
「・・・で、一体何があった?」
 さりげなくきりだされて、野草の穂を弄んでいたアリエルの手が止まった。
「・・・・・・・一睡もしてないだろう。目が赤いぞ」
 訂正の余地がないほど見事に言い当てられ、手を額に遣ったついでにその陽光色をかき上げると、もうひとつ大きく息をついた。
「私の考え過ぎならそれで良いんだが。もし本当に何かが動いているのなら、それを調べてみないと。ただ、私にできることがあるかどうか」
「戦か!」
「・・・・シェノレス。それもおそらくそれほど先の話ではないよ」
 王太子は、先刻までの顔色の良さを完全に喪失していた。

***

 爽やかな初夏の宵。何も変わらぬ一日が終わろうとしているようにしか見えなかった。
 数日前に届いた書簡でリオライが明日あたりナステューカ入りする旨の連絡を受けており、少しだけ心が軽い。ただ、昇った月は一瞬息を呑むような緋色で、灯火を落とすといっそう不吉な色彩を投げかけてきた。
 何となく目を逸らせ、ベランダに面す窓に背を向けた。その、瞬間。
「動かれませねように。王太子殿下」
 その気配は、まるで背後に突然実体化したかのようだった。三歩あるけば書机の上に剣があったのだが、どうしようもない。
「誰だ…と言っても、言うつもりはないのだろうな」
 アリエル白身、背に冷や汗を感じなくもなかったが、不思義と声は震えなかった。明瞭な害意を感じない所為だろうか。実際、刃物を押し当てられた訳でもない。…だからといって、持っていないという保証はないが。
「今は、言えません。…殿下、剣は諦めなさい。私はそんな事の為に来たのではないのです」
 どうやら見透かされたようだ。吐息一つの後、言った。
「聞こう。何の用だ」
「今すぐ、何も聞かずに私とツァーリを発って下さい。事情は後でお話しします」
「・・・・・・!」
 一陣の風が吹いて、視界の隅に今夜の月のかけらのような彩が散った気がした。ぎくりとしたが、どうやら髪かベールのようだった。
「…宰相あたりの密命か?」
 本気でそう思っていたわけではない。だが、意を受けたつもりの誰か、ということは十分にありえた。自身でも嘆かわしいとは思うのだが、アリエルはある意味そういったひねた思考も想定ができるようになってしまっていた。
「そうだと言えば、来て下さいますか?」
「違うな。ツァーリの者ではないだろう」
「今、事情をすべてここでお話しする訳にはいかないのです。かといってこのままあなたがここに留まられるなら、いつか必ず御身に危険が及びましょう」
 危険。それは一体何を示すのか。…ろくでもない心当たりがありすぎる。
 アリエルは、小さく息を吐いて言った。
「私はサーレスク大公アリエルだ。確かにあまり味方の多い立場とは言いかねるが、私はツァーリで生まれ、ツァーリで育った。今更どこにも行くところはないし、逃げることが許される立場でもない。
 誰かとは問わぬ。御身の心遣いは有り難いが、私はその誘いに乗るわけにはいかない。聞き分けてくれないか」
 リオライに出会う前であれば、どう答えていたかわからない。だが、今のアリエルの返答は揺るがなかった。
「…残念です。王太子殿下」
 その声と共に、背後の気配がスッと消えた。
「待て!」
 振り返った時、アリエルは見た。淡い光の中でさえ明らかな緋色の髪が、ベランダの向こうへ消えるのを。
 柵に手を掛けて下を見る。姿は既になかった。
「これを…飛び降りたか・・・」
 真下は石畳である。一歩誤れば足を折る。
「・・・・・?」
 ふと、潮の匂いがした。この、海から遥か離れた森の中で。
 一陣の風がすぐにそれを流し去ったが、それは確かに蒼波の上を渡る風の香であった。
 そして、あの言葉イントネーション。ツァーリの言葉ではあったが、かすかに訛りのようなものがあった。何となく記憶にある。…間違いなく、母アニエスのそれであった。
「まさか、シェノレス‥・・・!」
 シェノレスが、その神官家の血を引く自分をツァーリから連れ出そうと考える状況とは、一体何か。
 答えは、明白であった。

***

 シェノレスの細作しのびがナステューカを遊弋している―――。
 アリエルはこのことを他の誰にも話さず、リオライにだけ打ちあけた。
 近習の者を信じなかったわけではない。マティアスなどは母アニエスがシェノレスに帰された際、アリエルの許に残された数少ない近習のうちのひとりであったが、彼がこのことを知れば…間違いなくシェノレスと連絡をとろうとするだろう。その真意をただすために。
 だが、そうなればおそらく宰相に気取られる。何が起ころうとしているのかわからない現状で、それはひどく危険だった。最悪…内通、謀反を疑われて処断の理由にされかねない。保身に汲々とするのもあまり心地の良いものではないが、自分から処断の材料を提供するのも業腹であった。
 そしていまひとつ。月夜の来訪者の言葉が、必ずしもシェノレスの総意ないし大神官リュドヴィックの本意でなかった可能性もあると考えていた。つまり、来訪者の独断であった場合。…そうであれば、あれだけあっさりと引き退がったことの説明がつく。
 いずれにしても、何が起こっているのかわからなければ動きようがなかった。

 こればかりは、アリエル一人ではどうにもならなかっただろう。
 しかし、話を聞いたリオライがその部下達を四方へ放ち、情報収集をさせた。もとよりノーアとツァーリを往復するうち、二国にまたがる広範な人脈を築いていたリオライである。実は、リーンやシルメナにさえも相応の伝手つてを持っていた。
 探ったのは物資の流れである。周到に準備された戦ならば、必ず物資の流れが発生している。それがリオライの持論であった。
 シェノレス一国に対ツァーリの戦を仕掛けるだけの経済力はない。それは現在の大陸情勢においての常識であった。シェノレスが事を起こそうとしているなら、必ずどこからか、何かが流入している筈。その推論の下に集めた情報を二人で分析するうち、アリエルはもとより、リオライですら慄然とさせる事実がその姿を現す。
 しかし皮肉にも二人が最終的な結論に達したその日、シェノレス大神官リュドヴィックの号令一下、南国領シェノレス駐在のツァーリ軍は、ほぼ半日で壊滅させられた。
 意を決したアリエルは、集めた資料を基に父王にこの事態の裏にあるものを訴え、戦を避けるように進言した。
 しかし、待っていたのは「過労による病」という名目での軟禁であった。
 報せを受けたリオライが、半ば押し入るようにしてでもサーレスク大公邸へ入れたのは…皮肉にもリオライの身分故であった。次代宰相となることを前提にツァーリに戻されているリオライを、ヴォリス家の差配した者達が拒否できる訳はない。
 一緒に軟禁されていたマティアスはその来訪に苦虫を噛みつぶすのを隠そうともしなかったが、リオライはそれを鄭重に無視した。好かれていないことは気付いていたが、今はそんなことに頓着していられない。
「また、妙な入れ知恵しやがって」
 アリエルから経緯を聞いて開口一番、吐き捨てるように言った。
「やはり、宰相なのだろうか・・・・・」
「他に誰かいるか?こんな陰険な手に出る奴が。しかし、正直見損なった。宰相は、適切な情報があれば状況の分析ができる人間だと…一応思っていたんだが」
 実父を平然とこきおろす友人を見て、憔悴した顔に少し苦笑を浮かべた…が、それもすぐに失せる。
「このままシェノレスと戦うのは危険だ。大神官リュドヴィックの思惑にみすみす乗るようなものだからな。そうなったら今度はツァーリが焦土と化す。過日、シェノレスがそうされたように・・・・」
 リオライは内心吐息した。彼にとって、王都は決して住みよい所ではないだろうに。…だが、これが彼の覚悟。あくまでもツァーリ王太子ツェサレーヴィチとして生きると決めた、サーレスク大公アリエルの覚悟であった。
 それを、リオライは支えようと思った。そうするためなら、ナステューカに居を定めてもいい。それまで心から棄てたいと願っていた「宰相の嗣子」という立場から逃げない覚悟を、決めてもいいと思った。
「…何とかして、この事態を認めさせねばな。とはいえ、国王が耳を塞いでいるのでは何にもならん。国王が耳を塞いでるとしたら、宰相が塞いでるのと同義だし、こうなったら有力貴族を使う手だな。他にだれもいないわけではない・・・・・」
 アリエルがふと顔を上げて、言った。
「…リュースは、どうだろう。彼の言う事なら父上や宰相も聞く耳を持たれるのでは」
「だめだろうな」
 至極あっさりと、リオライは言った。
 ラリオノフ公リュース。アリエルの異母弟であるが、その母はリオライの実姉・レリアである。父親べったりのこの姉とも、リオライは不仲であった。
「あれは王妃、つまりは宰相の傀儡だ。ついでに言えば、王太子として今まで実績も積んでるお前が理を尽くして説明してわからんものが、あんな年端もいかない子供の言うことに耳を貸すものか」
 ひどく冷たい声だった。彼自身、どうも宰相…父に関しては思考が硬くなりがちなのだ。姉、つまり現王妃とその子であるリュースについても同様であった。
 ただ…このことは後日、リオライの慚愧の種子たねとなる。
「こうなったらあの国王がのらくら逃げられないだけの切り札を出すしかないだろうな」
「切り札…?」
「ノーアだ。父…っと、ノーア大公ミザン=ラフェルトが持っている。明日にでもここを発って、一度帰ってくる。そう長くはかからんだろう」
「ノーア大公…では」
「うん、俺達の推論の確認も含めてな」
「…では、私もお連れ頂けませんか。リオライ卿」
 その時割り込んだ声に、リオライは少し驚いて視線を巡らせた。アリエルも同様であった。
 事ここに至っては隠し立てしても仕方ないから、アリエルは侍衛士マティアスを二人が話をしている部屋、入口近くに控えさせていた。主の話に割り込むなど本来は許されない無礼であるが、アリエルが然程気にかけていないのと、マティアスのひどく余裕のない表情にリオライはそれを咎め損ねた。
 そもそも、この生真面目そうな近侍衛士には嫌われている。リオライにはそういう認識があった。それが客観的にも間違いのない事実であることは、アリエルが時折マティアスの態度についてそっとリオライに謝罪していたことでもわかる。
 シェノレスからついてきた者であれば、ヴォリスの血筋に対する敵愾心…というか怨恨は致し方ないとして、この申し出の意図は読めない。
「…唐突なことだが、理由を訊いていいかな。マティアス。君は一応、私の侍衛士ではあるのだけれど」
 穏やかにアリエルが問うと、マティアスの余裕のない表情からさらに血の気が引いていった。
「…見届けさせて頂きたく…」
 それだけ言って、表情を隠すように頭を下げる。
 リオライは天を仰いだ。要はあるじの命運を賭けるに足るのかという部分において、ほぼ信用されていないということなのだろう。アリエルもマティアスの申し出について同様の感想を持ったとみえて、小さく吐息した後で言葉を選びながら口を開いた。
「…マティアス、君の責任感には敬服するけれど、それではあまりにも…」
「いや、構わんよ、アリエル。無論、アリエルの許可があればだが?」
「リオライ…」
 アリエルは少し躊躇ったが、最終的には頷いた。マティアスの懐疑がリオライに同行することで少しでも解消するのなら、それも必要な事だろうと思い直したのである。そもそも、必要に駆られてとはいえ…アリエルが近侍衛士であるマティアスにさえ大切なことをきちんと話していなかったことが、拗れた原因のひとつであることはアリエル自身がよくわかっていた。
 アリエルから諾を貰ったリオライが、マティアスに向き直って言った。
「いいだろう。マティアス、同道を許す。ただ、この時期のギルセンティアをかなり強行することになるから、覚悟は決めて貰うぞ」
「…感謝いたします」
 頭を下げたまま、マティアスが応える。
「心配するな、アリエル。もう一度月が満ちるまでに、事は全部片付くさ」
 そう言って笑って見せ、リオライはマティアスを伴って館を辞した。連れているのがリオライでなくば、確実に止められていたが、此処でもリオライの身分が物を言った。リオライ自身は毫も嬉しくはなかったが。
 そして、リオライはついに気づかなかった。もう一人、館を訪おうとしていた者がいたことに。金褐色の髪をしたその少年は、先刻から小径こみちより足を踏み出しかねていたが、ついに訪問を諦め踵を返したのだった。

 ――――もう一度月が満ちるまでに、事は全部片付くさ・・・・。
 この予言は、実現しなかった。リオライはノーアへの往路の途上、まさに天嶮ギルセンティアで事故に遭い、随行していたマティアスとともに崖下へ転落したまま行方不明となったからだ。

***

 ツァーリへは「行方不明」の報までしか入らなかったが、リオライの部下達の死に物狂いの捜索の結果、シェラの鷹・エルウが見つけ出した彼は、確かに生きていた。
 随行し、一緒に転落したマティアスは命を落とした。・・・背に矢を受けていたのである。そのことが、部下たちにひとつの確信をもたらす。これは事故でなく、謀殺未遂なのだ。マティアスが随行した経緯が経緯だけに、マティアスがリオライを害そうとして返り討ちに遭ったという推測をする者もいたが、それではマティアスが背に傷を受けていたことの説明がつかない。
 純粋な事故ではなかった。誰かが、リオライを害そうとしたのだ。そしてマティアスは護衛としての任を果たした。・・・しかし、それが誰なのかが判らない。リオライにノーアへの謁見をしてもらっては困る誰かがいることだけが確かだった。
 しかし、リオライ本人からそれを聞くことは叶わなかった。
 発見されたリオライが当初意識不明であっただけではない。その後意識を回復したものの、その記憶の一切が喪われていたのだ。
 自身の名前はおろか、生まれ育った場所、親しい者たち・・・それら全てが彼の中から喪われていた。
 そのことが判ってから、厳しい顔でリオライの生存を秘することを提案したのは銀姫将軍シアラ・センティア―と尊称されるノーア公女・ナルフィリアス=ラフェルトであった。リオライを実弟のように鍾愛し、また武人として鍛え上げた女傑である。
 誰に狙われているのかさえ判らない状態で、傷も負っていては戦うことは難しい。せめて傷が癒えるまで…可能であれば記憶が戻るまで生存を秘するべきだというノーア公女の判断に異を唱える側近はいなかった。ノーア公ミザン=ラフェルトも例外ではない。
 そしてノーアにおいてさえ、彼の生存は秘された。リオライを家族として迎えいれていた大公家の一族、リオライ直下の部下達を除けば、大公邸の中のほんの一握りの人間が知っていたにすぎない。リオライの部下でさえ、アレクセイ=ハリコフのようにナステューカに残留していた者には知らされなかった。
 それだけ微妙な立場にいた。そして微妙な問題を持ち込もうとしていたのだ。
だから、一切の記憶を失い別人のようになってしまった彼を見る者は、元に戻って欲しいと願う反面、このまま何も思い出さずにいたらという思いを拭い去ることは出来なかったのだ。
 ノーア側にいた者は、特に。
 時間が経てば経つほど、後で彼が苦しむことになると知っていても・・・
 周囲がそんな複雑な想いを抱える中、リオライの記憶は傷が癒えた後もなかなか戻らなかった。このため公女ナルフィリアスの夫君である左軍卿シュライの庇護の下、ノーアの国都アズロー郊外、キルナにある館で人目を避けて静養を続けていたのだった。