少女は、物心ついた頃からその邸にいた。
周囲には乳母や教師など世話をしてくれる大人の姿はあったが、父親なり母親なりの話を聞くことはなかった。ただ、『お館様』といわれる絶対的な主人が存在し、自分が此処で養われていることはその『お館様』の意向であることだけは理解できた。
一般的な読み書きだけでなく、数カ国の言葉と歴史・地理、貴顕の嗜みとされる儀礼・慣習・作法を修めることが求められたが、ほぼ…邸から外へ出して貰えることはなかった。
邸の中と、敷地内の庭園までが、少女の小さな世界のすべてであった。
しかしそれを窮屈と感じるような何かは、少女の裡に育ってはいなかった。衣食に窮することのない穏やかな日々を厭う積極的な理由は、なかったのである。
将来に関する漠とした不安が無かったと言えば嘘になろう。ただそれすらも、自分の手の中のことではないのだと…敢えて聞かされなくても解っていた。
邸の日々は単調で、客人が訪れることもひどく稀であった。
ただ、教師の来ている時間や、稽古事の間は勝手な行動は許されなかったから…少女が知らないだけで実は訪れる者がいたのかも知れないが。
しかし、その日の客人は邸の者にも完璧な想定外であったようだ。
その時は琴の練習時間で、しかも自習中であった。午後から雲行きが怪しかったのだが、雨が降り出したことにも気づかず少女は琴を弾き続けていた。
ふと、あまり聞いたことのない声が戸外から聞こえてきた気がして、少女は手を止めた。その時になって初めて雨が降り始めていることに気づき、窓を閉めるために立ち上がった。
窓に近寄ると、はっきりと外の声が聞こえてきた。
格別怖ろしいという感じも受けなかったから、とにかく何だろうかと窓を押し開けてそっと身を乗り出す。その時丁度、乗騎を裏手にある厩でやすませるためだろうか。客人らしい人物が馬を牽いて此方へ回ってくるのが見えた。
目が合ってしまい、少女は、窓を閉め損ねた。
来客に対し不用意に姿を晒してはいけない、と教えられてはいたが、少女はまた来訪者の面前で扉や窓を閉めることの無礼も弁えていたのだ。
だから、ある意味途方に暮れてそのまま立ち尽くす。
その当惑を理解してのことかどうか。その人物は馬を近侍の者に預けてゆっくりと窓に近づいてきた。
北の国、ノーアの身分ある男性であることは着ている服で理解る。きちんとした剣帯で剣を佩いているから少なくとも騎士階級以上。見たこともないほど見事な黒髪をやや無造作に背で括っている。
「騒がせて済まない。君が、ミティア?」
遠目には堂々とした体躯と所作から大人かと思っていたが、近づいてにこやかにそう言った人物はまだ成人前と見えた。つやの良い黒髪を無造作に項で括っている。
「あ、はい…」
当惑からまだ自由になれず、些か締まらない返答をしてしまってから、少女は慌てて身を屈めて礼を執った。
「――――ミティア=ヴォリスと申します、閣下」
軍人で、ある程度高位にある可能性が高い場合の敬称としては間違っていないはず。有職故実1の教師の気難しい顔を思い出しつつ、噛まないようにできるだけゆっくりと、少女は言葉を発した。
だが、それは曇天を吹き払うような笑声で報われる。
何か間違えてしまっただろうかと少女が半ば涙目で顔を上げたとき、彼は身を二つに折って笑っていた。
「…ああ、笑ってしまってすまない。閣下はよせ、ミティア。俺はリオライ。君の…多分、兄ということになるんだろうな」
***
ヴォリス家…宰相家と同義であり、160年前の大侵攻において大功のあった王弟ヴォリスを始祖とする、臣籍にありながら実質ツァーリという国を動かしてきた一族である。
王女が降嫁したり、ヴォリス家の娘を公子が娶ることは勿論、ほぼ歴代の王妃を輩出してきた。一族に妙齢の娘がいないときには、他家から女児を貰い受けて養女とし、立后した例もある。
今も別邸にそういう意図で養われている少女がいる、という話は、リオライも聞いていた。形式としては妹に当たるのであろうし、全く関心が無い訳でもなかったが…リオライが邸に立ち寄ったのは格別それを意図してのことではなかった。
本邸にいるのが嫌でリオライが頻々と外出するのはいつものことだが、たまたま雨に降られた。いつもであれば雨中の騎行とて然程忌避するものではなかったが、実はその日、単騎で飛び出して道に迷ったところを傅役であるカイに捕捉されてしまったのだった。
その経緯があり、このあたりに別邸がひとつあったはず、というカイの言葉に素直に従っただけであった。
そのカイも、少女のことは知っていてもこの邸にいるということは知らなかったらしく、立ち寄ったものかどうか躊躇したらしいが…どちらかというと邸の者が気を遣った。当然であろう。長兄が急逝したのち、嗣子としてわざわざノーアから呼び戻されたリオライの存在を…別邸といえヴォリス家に仕える者達が知らぬ訳がない。況して次代当主であることがほぼ確定している者を粗略にできる訳がなかった。
少女の乳母で後見を務めるソーニャ=ゼレノヴァはアレクセイと同じくヴォリスの傍系の出であったが、ヴォリスの宗家から大任を委ねられたという責任感を背負っている所為なのか、リオライにしてみるとやや堅苦しい印象を拭えなかった。カイがアレクセイを「変わり種」と評する理由を、リオライがはっきりと認識するきっかけとなった人物でもある。
ソーニャは後刻ミティアを正装させ、まるで臣下が君主に目通りするかのように挨拶をさせてリオライを心底辟易させた。自身が期間限定な家出をしかけたところを捕まり、まさに連れ戻される途中という面目もへったくれもない状況でなかったら、間違いなく席を蹴っていただろう。
雨が上がり、帰途についたリオライは…普段は謹厳実直な傅役の忍び笑いにたまりかねて苦言を呈した。
「いい加減に…笑うのをやめないか、カイ」
「おや、言えた義理ですか? リオライ様だって、健気な姫御前が懸命に礼を執っているというのに…あの爆笑はないでしょう」
「不可抗力だ。こっちは妹がいるというから挨拶にいったのに、あれだけ緊張した上に閣下だって?これが笑わずにいられるか。おまけに後からご丁寧に正装させてまで…」
「ああ、あの時は…リオライ様にしてはよく我慢なさいましたよ。まあ、ゼレノヴァ夫人は少し極端なのですがね。概ね、貴族の女性というのはああしたものなのですよ。…念のために申し上げておきますが、ナルフィ様は良くも悪くも規格外ですからね?」
「…そんなことは言われなくても解る」
リオライは眉間を揉んで唸った。ノーア公女ナルフィリアス=ラフェルト…敵味方から銀姫将軍と尊称されるリオライの義姉。正装といえば軍服だと言い切り公式の場で長衣姿など見せたことのない女傑で、リオライにとって姉であると共に剣はもとより弓や馬に至るまで、武芸一般の師でもある。
暫く進んだ後、リオライはもう一度口を開いた。
「なあカイ。…あの娘…ミティアを、可哀想だと思うのは俺の傲慢か?」
「率直に申し上げれば…そうですね」
主の性格をよく把握しているから、カイはこういったときに余計な包み隠しはしない。
「不自由な生活に甘んじているというなら、リオライ様とて、ある意味似たようなものでしょう。ただ、妹御ではあることですし、どうにかしてやりたいと思し召すなら、リオライ様の力の及ぶ限りのことをしてさしあげればよろしいのでは?」
「そうか…」
リオライはそういい、乗騎に鞭をあてた。
***
その後、リオライは時折邸を訪い、乗馬の鍛錬と称してミティアを邸から連れ出すようになった。乗馬は必須ではないにしても、決して貴人の嗜みとして不要なものではなかったから…ゼレノヴァ夫人にも禁ずるべき理由はなかったのである。夫人も元来、厳格ではあったが過酷な人でもなかったから、予め期日を知らせておけば喧しいことを言われたりはしなかった。
ただそのゼレノヴァ夫人も、連れ出した先でリオライがミティアを友人に引き合わせていると知ったら、態度を硬化させていたかも知れない。
ミオラトの廃園に埋もれていた稀覯書が縁で出会った友人――――王太子アリエルである。
その時点では、リオライはいまだ正式な謁見の前で…リオライはアリエルが王太子、サーレスク大公の名を持つことを気づいていたが、アリエルはまだリオライがヴォリスの名を持つことを知らなかった。
ただ、リオライにしてみればミティアがいずれ王妃として入内することを前提に育てられているなら、今はまだお互いの立場を知らないにしても、ミティアを王太子たるアリエルに引き合わせたからといって何の差し障りがあろう筈もないと思っていたのである。
事がそれほど単純ではないことを知ったのは、リオライが正式に国王に謁見し、アリエルにリオライの素性が知れてからのことであった。他ならぬアリエルが、自分がこれ以上ミティアと接触を持つことは良くないだろう、と言い出したからだ。
このときばかりははかりかねて、リオライは率直に理由を訊いた。
自己満足と言われようと、少なくともリオライは妹を息苦しい邸から出してやることに相応の意味を見いだしていたし、最初に出会ったときに人形のようであった少女の笑みが、アリエルと話すことで少しずつ生気の彩りを添えつつあることを素直に喜んでもいたからだ。
アリエルのほうも、多弁とは言い難いが聡明なミティアとの会話をそれなりに愉しんでいたように見えていたから尚更。
だがアリエルの、すこし困ったような面持ちの理由はリオライの想定範囲を超えていた。
「…言いにくいのだけれど…宰相が彼女を入内させるというなら、それはリュースの妃としてではないかな」
リュース。現王妃レリア、宰相の娘、リオライからすれば実姉がカスファー王との間に儲けた王子の名である。確かミティアと同い年か、少し下の筈。やや病弱であることが、宰相をして王太子アリエルをその地位に留めていると専らの噂であった。
リオライは、正直なところその可能性についてほぼ完全に失念していた。
系譜上、リュースはミティアからすれば甥に当たる。しかしそんなことはヴォリス家の歴史上いくらでもあったことなのだ。元々、国王の身辺を身内で固めつつ、新しい血を入れるために養女を迎えてきたのだから。
リオライは自身の浅慮で宰相がアリエルの処断に動く口実を作ってしまったのではないかと蒼くなった。しかしユーディナ文書館のアレクセイ=ハリコフに言わせるとそうとも限らない。
『宰相閣下は本来、血脈よりもツァーリの安泰を重んじる方です。リュース様のほうがこのままあまり頑健とは言えないまま…あるいは最悪、成人を迎えることができなかった場合、宰相閣下はミティア様を王太子殿下に入内させ、殿下を取り込む方を択ばれるでしょう。
まあ、ただ…リオライ様が王太子殿下の立場を慮られるというなら、直接引き合わされるのはお控えになった方がいいでしょうな』
この時ばかりは、リオライは素直に司書の忠言に従った。ただし、アレクセイを通じて二人が書簡を交わせる仕組みを作ることは忘れなかった。この仕組みが…リオライがギルセンティアで消息を絶って後、リオライの安否を案じる二人を繋ぐ細い糸となる。
しかしそれは、ミティアを凄惨な場面に立ち会わせる結果ともなったのだった。