陽光消ゆ Ⅲ

陽光消ゆ

 夕刻のような曇天の下、一触即発の空気が満ちていた。
 つい先程、王都の森の中で落雷でもしたかというような轟音が鳴り響いた。その正体を確かめるべく、随所で衛兵隊のみならず貴族の私兵団の伝令が駆け回っている。そんな中で王都に入ったリオライは、サーレスク大公邸への道を衛兵隊第一隊・親衛隊に阻まれていた。
「現在、大公邸には何人たりとも近寄せてはならぬとの陛下の命です。先程の音のこともございます。あるいは王都にシェノレスの間者が入り込んでおるやも知れませぬ。なおのこと、お通しできません」
「ほう、この俺をシェノレスの間者と抜かすか。何が《陛下の命》だ。宰相の差し金だろうが」
「な、何もそのような…いえ、とにかくお通しできません。我々を動かせるのは王族の方々だけです。例えあなたが宰相閣下の御子息でいらっしゃっても・・・・」
 親衛隊の抗弁に最悪の形で神経を逆撫でされて、ついにリオライが一喝する。
「ツァーリ存亡の境だぞ、今は!」
 北の地で「雪女神の猛き守護獣」と畏怖される勇将の剣幕は、儀仗兵以上の職務に就いたことのない者にとっては既に白刃を突きつけられているが如き圧迫感であったろう。
 腰に剣を佩くのみ。リオライはその剣に手をかけてさえいないが、衛兵隊の隊士がその一喝に思わず軽く仰け反る。
 リオライは低く唸るように言った。
「…ああ、理解っているさ。俺はこの王都ナステューカではいまだ無位無冠の身だ。だからこうして理を尽くして頼んでいる。リオライ=ヴォリスが火急の用向きにてサーレスク大公アリエル殿下に目通りを乞う、とな」
 しかし忍耐も限界だった。このままでは埒があかない。ついに、リオライの手が剣に掛かる。
「…これ以上何を言っても無駄か。推して参る!」
 当然、兵士が身構える。
「待ってください!」
 少し高い声が、一触即発の空気を裂く。リオライと、彼の部下、そして親衛隊士全ての視線が単騎馳せつけた人物に集中した。
「王族の命令ならば、聞けるんですね?」
 金褐色の髪の少年は手綱を引き、馬を鎮めるとわずかに幼さを残してはいるが凛とした声で言った。慣れない騎行に息を上げている。剣は佩いていてもおそらく抜いて振るうことなど論外。だが、その双眼の強い光は親衛隊士どころか、リオライにさえ一瞬声を堰き止めさせた。
「・・・ではラリオノフ公である僕が命じます。通してください」
「リュース!?」
 ようやく、その名を口にする。リオライでさえ、この事態には一瞬頭の整理を付けかねた。
 ラリオノフ公リュース。リオライの姉でもある現王妃レリアが生んだ第二王子。レリアと、宰相がアリエルを廃してでもと望んだ次代王。…しかし…
 周囲の狼狽を意に介すことなく歩を進めたリュースは、もう一度ゆっくりと繰り返した。
「通してください」
 リオライのそれとは異なる、得体の知れない迫力に押され、親衛隊士が道をあけた。一番早く自我を取り戻したリオライが続いて通る。そして、彼の部下達が。
 親衛隊士達が呆然としたままお互い顔を見合わせるころ、曇り空が耐えきれなくなったかのように雨を降らせ始めた。

***

 身体が弱かった所為か。周囲が皆、自分を壊れ物のように扱う。
 ヴォリス宰相家の血統たる母后レリアと、国王カスファーの子。今でこそラリオノフ公、でもいずれは王太子ツェサレーヴィチと公然と口にする者ばかり。
 ――――兄上サーレスク大公がいるのに。
 彼がそう言ったとき、付けられた教師、近侍の者は揃って怪訝な顔をする。軽侮と憐憫が、他でもない王太子たる兄・サーレスク大公に向けられていることに、リュースは当惑を感じざるを得なかった。当惑は混乱を呼び、彼を常におどおどとした態度にさせた。それは母后レリアにとっては赦しがたいものであるらしく、母后レリアはよく扇で息子を打擲した。しかしすぐに後悔するのか、女官に手当を命じる。
 ――――公子として恥ずかしくない振る舞いを身につけなさい。
 打擲した後、決まって目を逸らせながらそう言い放つ母に、リュースはこうべを垂れるしかなかった。
 ラリオノフ公リュース。その名が重くて仕方なかった。重荷でさえあった。
 その日、やはり些細なことで母に叱責を受けて打たれ、流石に部屋の中にいるのも気が塞いで王都の森を散策していた時のことである。
 修道院跡の廃園。空の青、森の緑と、大地の黒の狭間で、軽やかに、のびのびと修練用の剣を振るう者達の姿を見た。
 ふたりとも、知らない者ではなかった。
 一人は、叔父にあたる。次代の宰相としてノーアから呼び戻されたという母后レリアの弟。自分はおろか、レリアとも似たところがなくて戸惑うが、艶の良い黒髪と鮮烈な紫瞳が印象的な人物だ。
 …だが、その紫瞳が自分を見るときは、ひどく退屈そうで、路傍の石を見るように熱を喪っている。歓心を買おうという気力さえ萎えてしまうような、ひどく冷えた両眼。
 だから、邸にいる時も宮廷にいる時も…母后に促されての挨拶以上の言葉は、交わせずにいた。
 もう一人が…王太子たる異母兄。サーレスク大公アリエル。その廃園にいる時は、宮廷にいる時よりも表情が柔らかくて、少しだけ饒舌だった。
 リュースの周囲にいる者は皆、王太子は寡黙で何を考えているか解らないとやや退き気味である。しかし、寡黙なのは周囲に味方が少なく、余計な言質を与えない為の用心なのだと、初めてわかった。
 邸さえも、この人には味方ばかりではないのだ。だから、しばしばこの廃園を居室にしている。リュースはそのことが判ってから、親近感のようなものに牽かれて時に邸を抜け出してこの廃園へ来た。
 母のように打擲を受けたことがある訳では決してないのだが、年若い叔父のことはどうにも苦手で…彼がいる時には早々に退散した。だが、兄がひとり、蔦が絡んだ四阿あずまやで本を読んだり…書き物をしているときは、今日こそは声をかけよう、明日こそは話をしてみようと立木の陰で暫くもじもじしては結局帰るということを繰り返していたのだった。
 だからそんなある日、不意に声をかけられて跳び上がるほど驚いた。
「そんな薄暗いところにいると、蛇を踏んでしまうよ。こちらに来てはどうかな」
 叔父のようにぴしりと空気を裂くような烈しさはないのに、よく通る声だ。怖ず怖ずと立木の陰から出ると、兄は四阿の机の上を片付けてきざはしを降りかけていた。
 蔦が絡んだ石造りのきざはしもまた、ほどよい緑陰の中にある。
「こちらへ。風が通って涼しいから」
 柔らかく笑んで階に腰掛け、手招きする。だが、ふと少し考えるような間を置いた。
「ここは宮廷でもないし、ラリオノフ公と呼ぶのも妙なものだが…」
「あ…どうか、リュースと。…兄上」
 確かに宮廷であれば、リュースはそう呼ばれねばならないし、リュースは兄に対してでも王太子殿下ツェサレーヴィチと呼びかけねばならない。しかしリュースとて、喧しい宮廷儀礼を此処へ持ち込むつもりは毛頭なかった。
 リュースが慌ててそう言うと、兄はもう一度先刻の柔らかな笑みをして差し招く。
「ではリュース、おいで。面白いものをみつけたよ」
 そう言って兄が見せてくれたのは、古い図面だった。ミオラトが修道院として改修される前のもので、宮廷として使われていた頃の名残を持っていた。廃園の奥に収蔵されていた稀覯本が仕分けされユーディナの文書館へ収められて久しいが、空っぽになった書庫の隙間にこの図面が挟まっていたのをつい先日みつけたのだという。
「貴重な資料だからいずれユーディナのアレクセイに保管を頼むつもりなのだけれど…なかなかに面白くてね。此処が宮廷だった時代がどれほど物騒だったかよくわかるよ」
 促されるままそのきざはし…兄の隣に座り、リュースは持てる知識を総動員してその図面に向き合った。古い図面の見方や、古文に近い記述法で記された註釈はリュースにとっては理解の域を超えていたが、この兄がいたく楽しそうに笑うのを間近に見られたのがひどく嬉しかった。少なくとも自分はこの兄に嫌われてはいない、という安心感もあったであろうか。
 そんな機会がそう何度もあったわけではないが、一度だけ…叔父以外の人物と一緒にいるところに行き会ったことがある。
 知らぬ者ではない。ミティアという、外祖父ジェドが引き取って別邸で育てている少女だ。
 子鹿色とでもいうのだろうか。穏やかな淡い色合いの髪と、肥沃な大地と同じ眸をした娘。水際立った美貌というわけではないが、年齢の割にひどく落ち着いて見えたのを憶えている。母后レリアの邸へ挨拶に来たことがあり、言葉を交わしたことがない訳でもなかったが…表情も言葉も少なくて、とても会話とはいえなかった。
 それが叔父とはまた別の意味で、苦手意識を持たせる理由になっていた…。
 彼女もまた、そこにいるときにはひどく無邪気な笑みをしていた。宮廷はおろか住居としている別邸でも…多分、自分と同じような窮屈さを甘受しながら生活しているのだろうなと思わせる笑み。
 …共感を覚えながら、そこに踏み込むことはできなかった。

***

 館の前に着いた途端、脆い鎧は音もなく砕けた。リュースは滑り落ちるように下乗するとがたがたと震えながらその場に座り込む。その両眼からはとめどなく涙が溢れ出した。
「リュース・・・・」
「早く・・・・行ってください・・・・早く…早くしないと…!!」
 しゃくりあげながらも涙でいっぱいの両眼を見開き、必死に言葉を押し出すリュースに、リオライはそれ以上敢て何も聞かず、ただ頷いて行動に移った。
 部下達も行ってしまい、庭に一人残って雨に濡れるリュース。雨と一緒になって頬を濡らすものを止めようと、懸命に目を擦る。
 シェノレスのレオンが捕縛され、審問が開かれた日の午後であった。2年前、突如として病による静養として邸を出ることを禁じられてしまったアリエルから、つい昨日ユーディナ文書館のアレクセイを経由して書簡が送られてきた。
 丁寧な字で綴られたものが、遺詔を意識して書かれたものであることはリュースにもすぐに判った。
 遺詔。ツァーリの国法に照らせば、たとえ発した者が死後に王族たる権利を剥奪されようと、継承する者――基本的には王族――そして執行者がいればそれは効力を持つ。
 託されたのだ。それを理解した時、身体が震えるのを感じた。
 何も知らず、ただ母と祖父の言うことだけを聞いていれば日々が過ぎていく。いずれそんな状況に甘んじることが赦される立場ではないことだけは理解していたつもりだった。だからあの緑の学舎まなびやでのことを思い出しながら、知るべきと思ったことを懸命に学んだ。いつか、補弼する立場として兄に認めて欲しいと思いながら。
 だが、突如として頭上に降りかかったものが重すぎて…身体の震えを止めようとしても巧くいかない。ここに至るまで、きっとずっと身体は震えていた。
 でも、自分が動かなければ。
 託してくれた。ならばそれに応えたい。叶うことならばあれを遺詔になどしたくない。
 その思いだけでここまで来た。
 座り込んだまま、泥濘の中についた膝を握りしめながら…リュースはゆっくりと息を吐き、口を開いた。

「・・・・兄・・・上・・・・」

***

 サーレスク大公邸、サレン館に仕える者達の大半は、ヴォリス家が差配した者達だ。リオライに対してその行く手を阻もうとする者などいなかった。それどころか館中の者がそわそわと落ちつかなげに動き回り、リオライの来訪を知るや、指示を求める有様である。
「先程、突然文書館ユーディナのアレクセイ卿が見えられて、アリエル殿下にお目通りをと…何やらひどい姿なりで、その上あの方としては大層な剣幕でした。私共もお通ししたものか判断を付けかねておりましたら…とうとう無理矢理押し通ってしまわれて…外の衛兵隊が通したのであれば閣下のお許しあってのこととは思うのですが、私共には何のご沙汰もなく…」
 おろおろと指示を求める家令1の要領を得ない説明を最後まで聞けるような忍耐なぞ、リオライはとうの昔に摩滅させていた。
「とにかく通せ!」
 殆ど押し退けるようにして家令を下がらせ、あるじの居室へ向かう階に足を掛けた。その時、戦場で嗅ぎ慣れた…今最も不吉な匂いが鼻をついて慄然とする。
 一瞬の空隙の後、リオライは一気に階を駆け上がった。しかし、階上のホールに立ち尽くす人物を認めて再び足を止める。
 アレクセイ=ハリコフであった。
 いつも身綺麗にして書庫の文机の前に端然と座しているこの男が…煤と泥に汚れ、開け放たれた扉の向こうを茫然と凝視みつめている。蒼白になったおもてをゆっくりと巡らし…リオライの姿を認めると、扉に手をかけたまま緩々とその場に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
「アレクセイ、無事か!」
「…私なりにできることはやってみたつもりだったんですがね…すこしだけ…遅うございました…」
 そして、深く嘆息する。
「…申し訳ありません、リオライ様」
 リオライは自身の顔からも血の気が引いていくのを感じながら、座り込んだアレクセイの傍らに歩を進め、開け放たれた扉の向こうを見た。

 ――――――一番恐れていた光景が、そこにあった。

***

 放置されていた傷にようやく手当てをして貰い、ついでに血泥に汚れた身体を洗って服も替え、一息ついて海に視線を投げたレオンは、戦慄した。

 ―――――――来る!

「アンリー!」
 今朝のような、漠然とした危機感ではない。水平線のはるか彼方、明確な映像を伴った予感の正体を捉えた時、彼は友人の名を呼んだ。
「ここまでだ。皆をひとり残らず砦の中へ。来るよ・・・」
 ルイは一瞬硬直したが、アンリーはめんくらった様子もなく即行動に移った。
 全ては整然と、かつ速やかに進められた。船を繋ぎ、すべての兵員を砦に収容する。対岸のツァーリ軍に何一つ悟らせる事無く、兆候をはらむ潮風の中で、その時は刻々と近づく。最後の扉が厳重に閉められた頃、陽は真南より西に傾き始めていた。
 望楼に立つレオンの傍に、ルイと、軍装を解いて白い神官衣をまとったアンリーが佇む。はるか下、波逆巻く海を見つめている。はためく神官衣を水滴が濡らし始めた。
 今朝のレオンの言葉通り、細かな雨が降っている。だが、それもまた一つの先触れでしかなかった。
 
「潮が・・・・」

 はるか水平線が、俄にふくれあがった。

  1. 家令…家の事務や会計を管理したり、他の雇い人を監督する人。