陽光消ゆ Ⅴ

陽光消ゆ

 百数十年前、ツァーリが周辺4国を押さえたときからの懸念。それは、ほかならぬその国々の連帯であった。
 例えばシェノレス。過去に何度も反乱を起こしているが、いずれも散発的なものでツァーリの本土はおろか、総督府も落とせないままに鎮圧されている。シェノレス一国が蜂起したところで、痛くもかゆくもないという絶対的な兵力差と財力差があったのだ。
 ただし、複数の国が呼応して挙兵すれば話は別だ。それゆえ代々のツァーリ王は三国の分断には過敏とも言える政策を敷いてきた。
 ただ、ノーアについては少し扱いが異なる。
 ノーア。ツァーリの周辺4国の中では唯一災禍を被っていないかのように見えるが、これは先の戦において、当時のノーア大公が干戈を交える前にツァーリと条約を結ぶことで戦火を回避した結果である。ノーアはサマンとの大規模な戦の直後で、天嶮ギルセンティアだけを盾として対ツァーリとの戦に突入することは危険と判断したのだった。武力侵攻を背景に迫った条約が完全に平等なものであるはずがなかったが、拒むだけの力はなかった。盟約という上っ面に隠されてはいても、それは結局、ツァーリがノーア一国を丸ごと予備兵力として組み入れてしまったようなものであった。
 しかし、それら全てが現王カスファーの代になり、緩んだ。それを正確に見極め、突いたのがシェノレスの大神官リュドヴィックである。
 無論、代々の大神官には監視がついている。リュドヴィックとて例外ではなかった筈だ。それでも水面下で何かが動き出したのは、おそらく動けない彼に代わって三国の間を自由に往来する者が現れて以降のことであろう。
 ただの細作にできることではない。相応の外交手腕、そして識見・・・・おそらくアリエルのもとに現れた緋の髪の青年。
 ――――おそらくは大神官自身の血縁者。
 リーン・シルメナ両国はツァーリに対してはこれまで通りの恭順を示しつつ、裏で牙を研ぎ、シェノレスに密かに物資を援助してツァーリ軍の壊滅をてぐすね引いて待っている。これまで、あっという間に鎮圧されてきたシェノレスが総督府をいとも容易く陥落させ、カザルまで攻め寄せたのは確かにツァーリ軍の緩みと言えた。だが、その後カザルを橋頭堡に半島をじわじわと勢力下に収めるために投じられた物資は決してシェノレス一国で賄えるものではない。
 そこには、リーンとシルメナの支援があったのだ。長い海岸線を持つリーンの海運、砂漠さえも踏破するシルメナの陸運。それらがシェノレスという中継地を得て、大陸街道という絶対の有利を持つはずのツァーリを迂回バイパスする連携を可能にした。
 シェノレス一国を相手にしているつもりで徹底抗戦を構えようものなら、たちまち横合いから脇腹を噛み裂かれることになる・・・。
 これが、リオライとアリエルが探索の結果として導き出した結論であった。
 しかし、国王は耳を塞いだ。さらにアリエルを軟禁してその口を塞いだのだ。そして追い討ちをかけるかのようにリオライを襲った事故・・は、アリエルを手も足も出ない状況に突き落としたのである。
 そんな中で、ツァーリ軍はじりじりと後退を余儀なくされていく。ツァーリ軍自体の腐敗と弱体化、そしてシェノレスのレオンの存在が、一昔前の笑い話を現実のものにしていた。
 それでもカスファーは、認めようとしなかった。
 もはや猶予はなかった。アリエルはレオン捕縛を知り、最後の手段に踏み切ったのである。
 リーンとシルメナがシェノレスと連合を組んでこの4国体制を覆そうとしているのだ。リーンとシルメナが表立って参戦してくる前に停戦を実現しなければ、ツァーリに未来はない。
 その真実が知れれば、停戦論を唱える者も出てくるだろう。誰でも良い、誰か一人でも言い出してくれれば事は足りる。
 だが、アリエルの声に応えた者はいなかった。
 蟄居を命ぜられたアリエルは、自ら命を断った。だがそれは絶望に駆られてのことではない。アレクセイに託されていた、アリエルの遺詔となった詔書を読めば、リオライにはその意図がすぐに理解できた。
 ほぼ孤立無援の中でも、リオライの帰還を信じてくれていたのだ。
 リオライは自身の浅慮を悔いた。自分は父宰相を敵視するあまり、その息のかかった者全てを一律に敵と認識していたのだ。それは却って、アリエルを孤立に追い込みはしていなかったか。
 現に…たった15歳のリュースが、あの時兄の遺詔を抱えて馳せ着けた。
 あの瞬間まで、リオライはリュースを王妃レリアの傀儡としか考えていなかった。リュースにあれほどの行動力があるなどと、毫も思っていなかったのだ。
 まだ子供。決して頑健とは言えず、いつも奥の部屋で几帳に囲われている印象しかなかったリュース。それでもラリオノフ公であり、二位とはいえ王位継承者。
 兄の自害を知らされた直後。リュースは震える声を振り絞って、ラリオノフ公の名の下に王太子ツェサレーヴィチの詔書の継承を宣し、執行者たるリオライを承認した。
 そうすべきだと、自分で決めて。

 何故、リュースを信じてやれなかったのだろう。一度、アリエルは提案したのだ。リュースを味方に付けられないかと。無理だと言ったのはリオライだった。あの時点では確かにそうだった。…しかし、将来的にアリエルの孤立を防ぐために何らかの布石を打っても良いはずではなかったか。
 そうしなかったのは他でもない、リオライの思考に染みついた父宰相ジェド、王妃レリアに対する反撥だった。あるいは、自分がいれば解決できるという傲慢。いずれ、至って感情的な判断。
 ―――挙げ句、一番大切な時に動けなかった。

 慚愧に身を切り刻まれながら、リオライは奥歯を噛みしめて昂然と顔を上げた。悔恨に足を止めることはいつでもできる。だが…今、すべきことは。

「ノーア公よりの伝言、ノーアの意志をお伝えする。
 この度の戦、ノーアは出兵できませぬ」
「・・・何と!?」
 一度に血の気を失った国王に、リオライは国王を睨み付けて容赦なく事実を叩き付けた。
「ノーアはこの度…一兵たりともギルセンティアから南へ動かすことはできませぬと申し上げた。
 ノーアはシェノレス・リーン・シルメナの同盟にくみするものではない。しかし今、同盟に拠って戦端を切るであろうリーンないしシルメナの後方を扼すためにギルセンティアを越えることは、ノーアの存立を危うくする…というのが、ノーア公ミザン=ラフェルトの判断」
「それは事実上の盟約破棄ではないか!」
 宰相が声を荒らげる。だが、リオライはそれを完全に無視した。
「ミザン=ラフェルトの意をお汲みあれ、陛下。盟約があるからこそ、ノーアはギルセンティアを越えて背後からツァーリを討つことはしないと申し上げている」
 つまりは「後背から攻めないだけ感謝しろ」ということなのだが、そこは丁寧な措辞でくるみこむ。リオライは慇懃に続けた。
「最後の機会です。
 王太子ツェサレーヴィチアリエル殿下が敷いた布石が生きている今を逃せば、ツァーリは和約の時を永遠に失ってしまう。
 ――――ツァーリ王太子にしてサーレスク大公アリエルが、シェノレスのレオンと結んだ休戦協定を、今すぐ国王の名において発効させるべきだ。リーン・シルメナ両国が挙兵してからでは、全ては遅い!!」
 卒然と吊り上がった雷霆の如き声が、空気を裂く。獅子の気迫に、この場において最高位にある筈の人間が怯んだのを、その場に居合わせたほとんどの者が見た。…だが、リオライは再び語気の槍をおさめる。
「速やかにカザルへ和約の使者を送ることです。イェルタに集結するツァーリ軍が次に大敗を喫すれば、おそらく東と西から、リーンとシルメナが同時攻撃をかけてくる筈。そうなったら和約の条件はこちらにひどく不利なものになっても、呑まざるを得ない。
 百数十年前、ノーアがそうであったように。
 ―――時代は変わったのです、陛下」
 ノーアの出兵拒否は、カスファーに今のツァーリの立場を理解らせるにはこれ以上ないというほど有効な材料であったはずだ。
 …しかし。
「まだ、敗けてはおらぬ。・・・わが軍は、イェルタ湾で反逆者どもを打ち破ったばかりではないか。何ゆえにこちらから膝を屈せねばならんのだ!!」
 これでも、理解らないのか。半瞬、リオライの頭に血が昇った。・・・・が、それを扉の叩かれる音が抑える。
「何事じゃ、この非常時に・・・!!」
 そう言いかけたカスファーが、血色を無くした役人の様子に顔を強ばらせる。急使である事を宣する通信筒を抱えているのに気付いたのだ。
「申し上げます、イェルタの衛兵隊…第三隊隊長より急使が参っておりまして…」
 この時、誰もがこの小役人に注目して、本来であれば急使といえど入ることはできないこの朝議の場に紛れ込んだ人影に気づいていない。
 唯一人の例外がリオライであった。入ってきたのは、シェラと呼ばれるリオライの部下の一人。
 ――――――何が起こった?
 あるじの下問に、シェラはまず主の足下に膝を突いて小役人の第一声を待った。取り次ぎの役人が震える手で通信筒におさめられた文書を開く。
「・・・イェルタ湾に結集しておりました軍のうち、殆どの部隊が本日昼過ぎの津波に呑まれ、壊滅…壊滅いたしました。第三隊はこれより救助に向かうが、少なくとも半数は溺死したものと・・・」
 全く想定外の事態に、さすがのリオライも一瞬言葉を失う。
 ――――――イェルタ湾のレインから連絡です。あれからご指示通りエルウを飛ばした処、レインは無事、エルンスト隊長と接触できたとのこと。割とすぐに返事が戻りました。俺もサーレスク大公領あたりまでは行ってみたんですが…ひどいもんですね。沿岸一帯、キレイにならされてしまってます。
 シェラはその目で見たものを思い出してか、額から流れ落ちた汗を拭ってから口を開いた。
 ――――――ただし第三隊は、事前にエルンスト隊長が警告、高台へ避難して無事。隊長の警告を聞いて一緒に避難したいくつかの隊も難を逃れたようです。レインもエルンスト隊長を捜して動き回ってなければ、呑まれるところだったと。
 ――――――カザルは?
 ――――――いくらか船が破損、もしくは流されたようですが、兵力としてはほぼ無傷であろうかと。エルンスト隊長の話では、おそらくレオンが事前に感知、警告したのではないかということです。やはり、そういう・・・・類の人間だろう、と。
 ――――――“海神の神子”・・・か。成程。
 天災とはいえ、とどめを刺すには十分過ぎる。
「それと、日蝕が…津波の到達とほぼ同時刻に、蝕が起こりましてございます。
 王都はこの天候故、観測は殆ど叶いませんでしたが…イェルタ湾岸は薄曇りながら陽の欠ける様が見えました。天地の怒りを畏れ、生き残った軍もほぼ軍の体裁を成しておりませぬ。
 また、カザルの城門が開きました。城門の外で堂々と…陸路、進発の準備を調えつつあり…!」
 通信文を握る手をおののかせ、声を震わせて役人がその場にへたり込む。
「遮るものはありませぬ。陛下、陛下…このままでは湾岸は制圧され…王都は…王都ナステューカは落ちます!」
 最後の一言は通信文に書かれた文言ではなく、役人の悲鳴であった。
 しかしシェラの報告は至って冷静だ。
 ――――――レインからですが、エルンスト隊長が斥候ものみを出して調べたところ、おそらく、サーレスク大公領を目指しているのだろうと。おそらく、シェノレスは単独・・講和に踏み切る心算ではないかとのことです。
 リオライは天を仰いだ。やはりシェノレスはアリエルの講和案を呑んだのだ。アリエルの覚悟に応えてのことか。いや、違うだろう。それも確かにあるのかもしれないが、おそらくシェレノレスを裏で支援してきたリーンやシルメナが一気呵成に領土を削り取りにかかるのを牽制するつもりだ。三国でツァーリを食い散らしにかかれば、三国の間での衝突は免れない。程良く・・・丸めねばならないのだ。
 シェノレス大神官リュドヴィック。やはり怪物としか言いようがない。レオンが囚われた事さえも利用した。…旗印たるレオンを奪還するために仕方なく、単独講和に踏み切ったと。
 それにしても反応が早い。やはり、カザルには大神官の意を正確に汲む代理者がいるのだろう。
 アリエルは王太子のまま逝った。ならば、国王が明確にそれを無効としない限り、アリエルの結んだ停戦協定は遺詔として効力を持ち続ける。
 リオライには、ツァーリにおいて実権を伴った官職はまだない。だが、王太子アリエルは遺詔の継承者としてラリオノフ公リュースを、執行者としてリオライを指名していた。王族の命令の執行者としての権限は、勅令に準ずる。そしてリュースは先程略式とはいえ継承を宣したから、条件は揃っている。

 リオライは奥歯を噛みしめて、魂を抜かれたような表情で宙を仰いでいる国王を見た。そして踵を返す。
 国王が動かないというなら、いますぐリオライ自身が王太子の遺詔執行者としてサーレスク大公領に乗り込み、強引に休戦協定を発効させるしかない。イェルタのツァーリ軍壊滅などという報が広く流れてしまってからでは、諸々やりにくくなる。
 何を引き換えにしてでも、これだけは果たす。結果としてクーデターに近いやり方になってしまったとしても、これだけは!
 ――――――だが。
 リオライが踏み出したまさにその時。突如、背後であがった人間のものとは思えぬ奇怪な絶叫が広間を揺さぶった。段を駆け登る音、刀槍がぶつかる音、絶叫、怒号、それらが一時に渦巻く。シェラが主を守ってその身を玉座と奏者壇の間に身を滑らせた。

 足を止めて振り返る、たったそれだけにかけた時間をリオライはひどく長いものに感じた。
 階の上、玉座で繰り広げられる惨状は、胸腔に霜が降りるような感覚をもたらすものだった。
 国王カスファーが、俄に何と言っているかも判然としない叫び声を上げながら侍者が捧げ持つ剣に手を掛け…抜き放ったのだ。咆哮しつつ抜き身の剣を振り回し、まず侍者が斬られた。止めに入った衛士がひとり、そして玉座に最も近かった者…宰相が取り縋ろうとして薙ぎ払われる。
 玉座は血にまみれた。
 衛兵が壇上へ駆け上がり、酩酊しているかのようにふらつきながら剣を振り回し続ける国王から凶器を取り上げんとして、槍を逆さに取り押さえようと試みる。
 だが、逆さにした槍にも石突がある。
 数人の衛兵のうち、誰の石突があたったものかは判らぬ。後ろから頸部を打たれた王がそのまま横臥して動かなくなった時、水を打ったような静寂がおりた。
 血に塗れた玉座。やはり血に塗れ、伏せながら呻く侍者や衛兵、そして宰相ジェド=ヴォリス。横臥し、見開いた眼球を上転させ、口角から泡を零しながら痙攣する国王カスファー。
 北方民族サマンとの戦で…比べものにならぬ修羅場を、リオライは駆け抜けてきた。本来、この程度の流血沙汰で怯むような神経は持ち合わせぬ。それでも、悪夢としか思えぬ光景であった。
 誰もが凍り付いたような静寂の中で、階段の中程に倒れ伏していた宰相が最初に身を起こし、動かなくなった王の下へ膝行いざっていく。
 その時になってようやく医官を呼ぶ者があったのか、居並ぶ廷臣の列をかき分けて典医が駆け寄った。一人がまず王の脈を診、次いで現れた数人が宰相をはじめ倒れた者達の手当を始める。
 宰相はなおも両腕でようやく身体を起こして国王の方を食い入るように見つめていたが、典医が蒼ざめながら告げた言葉にがくりと肘を折った。

「――――――国王陛下、ご逝去…!」

***

 津波が退いたカザルから、シェノレスの騎馬隊・・・が姿を現したのは既に夕闇が迫る頃のことであった。
 シェノレスは海戦を得手とし、陸戦の経験は乏しい。それがツァーリのみならず大陸における一般的な認識であった。実際に今までの戦闘のほとんどが海戦であり、シェノレスのまとまった騎馬部隊などというものの存在が表に出たことはない。だから事実上、このときカザルを進発して半島を北上した一隊が歴史上初めて現れた「シェノレス騎馬隊」であった。
 シェノレスがカザルを接収してこのかた、リーン・シルメナの支援を受けながら戦線を維持する傍ら…シェノレス軍がツァーリの王都ナステューカを攻略するために準備を進めていた部隊である。 

 今回の出陣に際して、シェノレスは機動力を維持するためにかなり規模を絞っており、翌朝には壊滅したツァーリ軍主力の亡骸が累々と並ぶイェルタ湾岸に到達する。湾岸には寸前で避難し無傷だった少数のツァーリ軍の残兵がいたが、戦闘は起こらなかった。ツァーリ軍は生存者の救出に手一杯であったのだ。

 湾岸に生き残った部隊のうちのひとつ…衛兵隊第三隊はシェノレス軍の北上を確認していた。
 シェノレス騎馬隊北上などと、前代未聞の事態である。斥候に立った隊士が慌てて報告に戻ると、隊長エルンストは泰然として言った。
「ありゃ軍使だ。もう戦は終わるさ。報告は上げておく。それよりこっちは、生きてる者がいるなら助けてやらんとな」
 そして、敢えてその行く手を遮ることはしなかった。

 シェノレスの一隊もまたツァーリの残存兵力を一顧だにせず、整然とサーレスク大公領へ入った。そこで、宰相の代理者を名乗る人物に対峙することになる。
 その人物は二十人に満たない部下のみを引き連れ、薄明の丘陵に休戦旗を立てて待っていた。紫瞳黒髪の青年は、かの王太子と同年ほどと見えた。
 先頭に馬を立てていたレオンを認め、単騎進み出る。

「ツァーリ宰相代行、リオライ=ヴォリス。
 王太子ツェサレーヴィチアリエル殿下の遺詔、その執行者として…シェノレスとツァーリの和議発効につき、シェノレスのレオン殿に会見を申し入れる」

 よく通る声だった。遺詔、という言葉に…レオンが静かに蒼ざめる一方で、すぐ近くで馬を立てていたアンリーの上体がぐらりと傾いだかに見え、ルイが咄嗟に馬を寄せる。
 だが、アンリーはすぐに鞍の前輪に手をかけて立てなおした。
「アンリー…!」
「大事ない」
 ルイはわずかに俯いたアンリーの顔色を見て、背を氷塊が滑るのを感じた。
「大事ないって顔じゃないぜ。おまえ…顔色が完璧に台詞を裏切ってるぞ」
「本当に大丈夫だ。それより…見るがいい、ルイ。あれがあの・・ヴォリスの後裔、ツァーリ宰相の嗣子、北方のサマンが“雪女神シアルナの猛き守護獣”と称え畏れる傑物だ。
 …やはり、生きていたな・・・・・・
 手綱を取り直したアンリーの低く唸るような声に、ルイはひどく不吉な響きを感じた。カザルの胸壁上で、アンリーが血の臭いがするといって座り込んだ時と似た…漠とした不安。

 レオンもまた単騎進み出ると、威儀を正した。
 リオライが鄭重に問う。
「シェノレスのレオン殿とお見受けする」
しかり。シェノレスのレオンと、王太子アリエル殿下の間で成立した誓約に拠り…シェノレスは、ツァーリとの和議を希望する。ツァーリの意志は如何いかん?」
「もとより…」
 触れるもの全てを切り裂くかのような眼光が、その一瞬だけ…ふわりと和らいだかに見えた。
 レオンは、王都からの脱出行の際に頭の隅を掠めた疑問の答えを見た気がした。かの王太子が、孤独にも絶望にも蝕まれることなくその意志を貫けた理由は、ここに存在したのかと。
 だが、すぐに紫水晶は剣先の如き厳しさを取り戻した。当然だろう。レオンにとっては停戦、和議が成れば一つの区切りがつく。だが、この人物にとっては此処がすべての始まりになるのだ。

 899年シアルナの中月、シェノレスとツァーリの間の停戦協定は、シェノレスのレオンと…王太子アリエルの遺詔を継承したラリオノフ公リュースの間で発効した。ラリオノフ公リュースが、ツァーリ国王として登極したのは、その数日後のことである。

END AND BEGINNING