残照の日々 Ⅳ

「ア、アンリー様?」
 ソランジュが薬を調えた盆を携えて帷帳を開けた時、起き上がって寝台を下りようとしているアンリーを見つけて、少しだけ慌てた。また、夢遊状態に入ったのかと思ったのである、だから、ソランジュを見たアンリーの台詞にはもっと驚かされた。
「…海を見てくる。心配ならついてきてもいいが、どうするね?」
 ――同行しない訳がなかった。

***

 急峻な坂道を降りて辿り着いた早朝の海辺は、凪いでいた。
 視界の片側は海、片側はその頂上に神官府本殿を擁する絶壁である。神域として無闇な立ち入りが禁じられた場所でもあるから、二人の他に人影もない。
 アンリーの危なげない足取りに、ソランジュは後ろからついて歩いた。こんな、意識がはっきりしているのは最近珍しい。眠っているか、目を開けていてもその視線はひどく茫洋としていて、ひどいときには口を開けば意味の取れない譫言だけになる。
「…アンリー様」
 おずおずと、ソランジュは尋ねた。
「何だろう?」
「…先日のこと…本当に憶えていらっしゃらないのですか?」
「何故?」
 まるでアンリーが皆を欺いているかのような物言いをしてしまったことに気づき、ソランジュが思わず自らの口を押さえる。
「…あ、あの、申し訳ありません、只今のことはお忘れくださいませ…!」
 アンリーが、微笑った。
「そう硬くならなくていい。…そうだな、とぼけているように見えても仕方無いし…それに」
 いったん言葉を切り、潮風が乱す緋色の髪を軽くおさえて彼方を見る。
「…事実、まったく記憶にないと言えば嘘になる」
 ソランジュは弾かれたように視線を上げた。
「夢を…夢を見たのだと思っていた。余りにもぼんやりしていたしな。手間をかけてすまなかった、ソランジュ」
 病に倒れマルフ島の紛争処理から外れざるを得なくなってからというものの、どんどんこの人は透明になってゆく。人間らしい息づかいというものが感じられない。意識もさだかでないまま彷徨い歩く時など、殆ど気配を感じさせないのだ。
 こうして朝の空気の中に立っていると、このまま動き始めた風の中に溶けてゆきそうな錯覚すら感じさせる。

 ソランジュにはそれが怖かった。

 アンリーの余命は幾許もない。そしてそれをアンリーは知っている。…というより、アンリーはそれを望んでいるように思えてならない。
 このまま終焉おわってしまうとしたら、この人はいったい何のために生まれてきたというのか。シェノレスの為か。神官府の為か。…父たる大神官リュドヴィックの為か。

 ただ先月、国王レオンの船団が出帆する直前あたりからだろうか。病の床にありながら、時折薄く開いた眼の奥に強い光を宿していることがある。その眼が何を映しているのかはわからない。ソランジュには見えないものであることだけが確かだったが、ソランジュはそれがこのひとを此処へ留め得るものであることを祈らずにいられなかった。

 今もきっと、潮風に向けて手を延べる彼の眼に映っているのだろう。しかしその表情はひどく穏やかであった。自分にも見えればいいのに、とソランジュは心から思う。…彼をこの世に引き留め得るとしたら、多分もう、それしかない。

 ─────それは、おそらく希望と呼ばれるものであろうから。

「…何を、泣いている?」
 そう問われて、初めてソランジュは自分が泣いているのに気づいた。
「いえ、風で目に塵が入りました」
 とっさにそう言って目を伏せる。ソランジュを気遣う暗褐色の瞳は、ひどく優しい。…それだけに、哀しい。
「帰ろう。つきあわせて済まなかった。…もう用は済んだ」
 はい、と言ったものの、ソランジュはアンリーの台詞の意味をはかりかねた。
「何を…聞かれましたか?」
 凪の刻を過ぎ、吹き始めた潮風はいったいアンリーに何を告げたのだろう。
「…風の、声だよ」
「何か、便りはありました?」
 アンリーは、一瞬間を置いた。

「ああ…いい便りだ」

 アンリーは微笑んだ。安堵の笑み、といったのが、一番当てはまりそうであったにも関わらず、それはソランジュの胸中を波立たせずにおかなかった。

 ───────この日…シュテス島北西岸…シャトー・サランの港に、マルフ改めティーラ島からの船団が無事投錨している。

***

 船団の到着は、予定より一日早まっていた。
 レオンが、途中で嵐を察知し航海を急がせたのである。そのかいあって、海が時化しけたのは船団が入港した後のことであった。
「…これは、潮待ちだな。エルセーニュにはいるには、あと四日はかかるか…」
 シャトー・サランはシュテス島にあるから、此処からエルセーニュへは騎馬で半日程度の陸路も存在する。しかしそれは余程急ぐならの話だ。道は狭隘で整備も十全とはいえないため、運ぶ物や人員が多ければ海路を使うのが一般的であった。
 船長らの会議でのことである。長老格の船長の言葉は、レオンの感覚と一致してはいた。
 …だが、レオンのなかで、何かがはじけた。
『そんなに、待てない』
 何をそんなに焦っているのか。自分でも解らなかった。
「……船長、俺は一足先に陸路でエルセーニュにはいる」
 船長たちがざわめいた。
「…いかがなされました、レオン様」
 船長たちを納得させうる根拠を、レオンは持たない。だが、四日も待てない。それははっきりしていた。
「皆を、四日後にエルセーニュで迎えよう」
 我ながら無茶苦茶を言っているな、とは思ったが、船長達はそれを了承してくれた。ティーラ島でレオンが我慢に我慢を重ねたことを、馴染みの船長達はひどく気の毒がっており…同時に出発前から病床にある友人アンリーを案じていることもよく知っていたのだ。
「それでは、供の者を」
「要らない。かなり急ぐ旅になるから、疲れた皆にはきつかろう。大丈夫だ、エルセーニュくらい、一人でゆく」
 レオンの無茶は今に始まったことではない。エルセーニュヘの先行を認めた時点で、それもまた了承したも同じだった。
「…それでは、四日後、エルセーニュで」

 ─────だがこの言葉は、成就されなかった。

***

 エルセーニュ、神官府本殿。
 本殿の首席枢機官であるリシャールが執務にあたっている一郭は、当然ながら人の往来が多い。だが、リシャール自身がいる部屋は基本的にひとりずつ呼び入れられる。ただ、普通ならリシャールの傍には決裁待ち、決裁済みの書類を運搬したり、記録がたの書記官がいるものだが、ソランジュが呼び入れられたとき、その部屋にいたのはリシャールだけだった。
典薬寮頭てんやくりょうのかみ補佐官・ソランジュ=フォーレ参りました」
 形式に則った礼を執りながら、そのことをこの女神官が訝しんだのは確かだった。
「典薬寮頭不在の折、代行業務の一部も担う君にわざわざ足を運ばせて…済まないと思っている」
「ご配慮、痛み入ります。ですが、これが私の職務ですので。…ティーラへの輸送物資目録、こちらに。承認をお願いします」
「見せて貰うよ」
 受け取った書類に眼を通しながら、リシャールは女神官のもの問いたげな視線を感じていた。彼女にとってはいっそ不気味な沈黙だったのだろう。無理もない。
 実のところ、リシャールも言うべきか迷ってはいた。それでも終に…書類に目を落としたまま、口を開いた。
「…だいぶ、手を煩わせているようで…済まないね」
「それは、アンリー様のことを仰っておいでですか?」
 柔らかな亜麻色の髪を後ろで緩く纏めたこの女神官の反問は、慇懃な態度と言葉をを維持していたが…非難の微粒子を含んでいた。
「あの方は、ご自身の病と闘っておいでなのです。…であれば、それを支えるのは、私たち典薬寮医術神官の職務です」
 リシャールが顔を上げると、優しげな面にやや厳しい色彩を載せてソランジュは真っ直ぐリシャールを見ていた。それは…いっそ睨んでいる、と表現されてもよかった。
 リシャールは、自分が言葉を選び損なったことに気付いた。
 ここ暫く、リシャールのところへもアンリーが牀を抜け出しては行方を晦ますという報告が上がっていた。典薬寮からではなく、本殿、大神官家の家宰1からであった。
 以前のように禁域の海辺をふらついていることもあるようだが、いつの間にか姿を消し、何事もなかったように牀で休んでいると。
 今はその立場から外れているとはいえ、アンリーは本来大神官直属の細作組織であるネレイアの統領である。往時の身体能力であればその程度は造作もないことであろうが、衰耗の激しい現在、実体さだかでない海精ネレイデスのようにふっと姿を消してしまうアンリーに、家宰としては薄気味悪さすら感じているようであった。
 その状況を、この娘が知らない訳はない。だが、ソランジュの態度には揺るぎがなかった。
 リシャールは、ソランジュがアニエスの傍に侍っていた頃から彼女を識っている。そして彼女の、アンリーに対する感情も知っていた。クロエがアンリーに付ける医術神官としてソランジュを推したとき、リシャールの脳裏をそれがよぎらなかったと言えば嘘になる。あるいはこの物静かだが芯の強そうな娘の想いが通じるなら、あるいはアンリーの心の崩壊を引き留めるのではないかとも思い、それを承認した。
 ただそれは、この娘にとって過酷な任ではあるまいか。
『あれは、つよい娘です。彼女を措いては、他に任せられる者はいません』
 懸念を口にしたリシャールに、典薬寮頭てんやくりょうのかみクロエは明瞭にそう言い切った。
 ――――だが…誰もがあなたのような勁さを手に入れられるわけではないよ、鋼のクロエクロエ・レ・アスィエ
 そんなことを考えていた自分と、自分の浅知恵を、リシャールは嗤った。
 魂を磨り減らし、人でない者になってゆくようにさえ見える弟を、どこかでおそれていたことに気づいたのだ。それを、この娘は目を逸らすことなく真正面から捉えている。
 病と闘っている弟にも、それを全力で支えようとしている娘にも、何もしてやれないどころか…気の利いた言葉のひとつもかけてやれない自分が歯痒い。だが、その歯痒ささえ仕方ないことと処理してしまう自分がいる。
 リシャールは、自身がこの娘を羨んでいることに気付いた。
「…済まない、埒もないことで時間を取らせたな。この件は承認した。次の船団に積み込めるよう、指示を出しておこう。さがって良い」
「畏まりました」
 ソランジュが静かに退出する。それを見送ったあと、思わずリシャールは嘆息を漏らした。
 だが、ほぼ入れ替わりに、別の医術神官が蒼白な顔でリシャールの執務室に飛びこんできた。神官の伝えた内容に、リシャールは一切の表情を消して立ちあがる。
 ――――大神官リュドヴィック、危篤。

***

 その夜、エルセーニュは雷雨に見舞われていた。
「…まあ…レオン様!」
 夜も更けてからの来訪者に、ソランジュは目を丸くした。
「どうなさったのです?…マルフからの船団と御一緒だったのでは…?」
「船団はまだ西岸の港シャトー・サランだ。急ぐことがあったんで、俺だけ陸路を戻ってきたんだよ。…アンリーの容体は?」
 ソランジュの表情が曇る。それだけで、レオンには十分だった。
「…思わしく、ないか…」
 レオンは、事を切り出すのに一瞬躊躇した。だが、いつまでもそうしていられないのは明白だった。ひどい胸騒ぎ。一刻も猶予がない。そんな感覚。
「…アンリーに、会えないか」
「今から、ですか?」
「ああ」
 流石に、ソランジュが眉を曇らせた。本来なら普通に人を訪うにも憚られるような時刻だ。況してや、病人を見舞うには。しかしそれを他ならぬレオンが、しかもやや切羽詰まった様子で求めるのだから、ソランジュの困惑は深い。
「…アンリー様は…もうお休みに…」
 戸惑いながらソランジュがそう言いさした時。風が動いて、奥の帷帳が開かれた。
「いいんだ…ソランジュ。私は待っていたのだから」
「アンリー!」
 レオンの声は、思わず上擦った。あれから一月と経っていないというのに…また少し痩せている。だが、その眸の光だけは異様な程に勁い。口許にはあえかな笑みさえあった。
「おかえり、レオン。…マルフ、いやティーラ島のこと…無事に終わって良かった。…よく、やったな」
「そんな事…アンリー、おまえ大丈夫なのか?」
「…大丈夫だとも…約束だからな。待っていたよ」
 アンリーは、もう一度穏やかに微笑んだ。本当に、穏やかに。だが、その笑みがソランジュにはたまらなく不吉なものに思えた。あの朝の海辺で見た、安堵に満ちた微笑と同じに。
「…ソランジュ、悪いが少し席を外していてくれ。後で呼ぶから…。それと…」
 一度、言葉を切る。
「ありがとう」
「…はい…」
 ソランジュは一礼して下がったが、その顔からは血の気が退いていた。アンリーはそれを見送って、ゆっくりと視線をレオンに戻した。
「レオン、約束したな。海が繋がっているものなら、南の海を越えてその向こうに行く方法があるかも知れない。その方法を探してみようと」
「うん、言った」
「ツァーリの軛を断ち切るために、私はヴァンと南寄り航路を確立し、ツァーリの介入を受けない交易ルートを築いた。それは今まで地図に載っていなかった島を見つけ、拠点とすることで成り立っている…そこまでは話したと思う。
 …その島々を含む列島と、その先に続く陸地を記した地図が…存在するんだ」
「…え?」
 アンリーが、手燭を取って今出てきた帷帳を払う。その向こう、墨を流したような暗闇に、灯火が光を投げかけた。
 アンリーに差し招かれるまま、レオンは帷帳を潜った。
 壁龕ニッチ燈盞とうさんに火を入れたあと、アンリーは手にしていた手燭もそのまま小さな机の上に置いた。
 前にこの部屋を訪った時は、アンリーは呼吸もしているのかどうかという状態だったから、まじまじと室内を見た訳ではない。牀と、床頭の机があったなというくらいである。燈盞を置く壁龕のことなど気が付かなかったし、机の上の、油紙に包んだ紙の束もあったかどうか憶えていない。
 アンリーはふらつくでもなく机の上に置いてあった油紙に包んだ紙の束を手に取ると、取り出して牀の上に広げた。
 その頬にはわずかに赤味がさし、暗褐色と見えた双眸は紅榴石ガーネットにも似た深紅色の光を湛えている。いつかの海辺で、この向こうに人の住む陸地があるかも知れないと言ったときの…稚気さえ垣間見せる微笑がそこにあった。
「昔…大侵攻よりも、それこそ聖風王の御代よりも昔。人はこの海の向こうに陸があることを識っていたし、おそらくは往来もあったのだと思う」
 アンリーが指し示した数枚の地図。一枚目はシュテス島とその周辺の島。レオンが、現在の大陸の民が識っている世界はここまでだ。南寄り航路に含まれる諸島も一応載っている。だが、二枚目以降…それらと微妙に重なりながら描かれる、更に南とおぼしき海には、大小の島が点在していた。…そして、最後の一枚にはシュテス島よりも遙かに大きな陸地の、半島部分が描かれている。
「この、地図は…!」
 レオンは、自身の鼓動が強く、そして早くなるのを感じた。
「シェノレスは、少なくとも聖風王の御代より前から国としての形があったのが判っている…大陸でも最も古い国の一つだ。神官府は、その中で立場を変えながらずっとここにあったが、その創成期は言葉も文字も今とは随分違っていたようだ。
 神官府や祭祀に関する言葉だけが、今の我々の話し言葉とかなり語感が異なるのはそういうことらしい」
常世国ニライカナイとか、海神宮わだつみのみやとか?」
「そうだ」
 アンリーが意を得たりというように微笑う。かつて…たった二人の生徒相手に開かれていた私塾の若すぎる教師と…おなじ笑みであった。
「だから、古い記録がかなり良い状態で保存されている。…それこそ、メール・シルミナの風神殿にひけを取らないくらいの…な。
 これは、神官府の奥の棚に仕舞われている地図を私が転写した。一般には開示されない棚だ。…隠していた、というより…忘れ去られていたのだと思う。何故なら、此処に記されただけでもかなり潮流が入り組んでいるし、危険な岩礁も多い。
 おそらくは聖風王の御代となるよりも前、狂嵐と呼ばれる天変地異があったときに、往来が途絶えたのだろう。人が減り、危険を冒して遠洋へ出る利が薄くなった為に、そのまま忘れ去られた…あるいは、狂嵐の天変地異で潮流が変化してしまって到達が困難になったか、だ」
「じゃあ、海の向こうが海神宮とか、常世国ってのは…」
「その頃、この国に居た人達が…危険を冒す遠洋航海を戒めるために若い世代をそう諭したのではないかと、私は思っている。つまりはそれだけ、危険が大きかったということだ。だからこの地図は秘された。秘されるうちに、忘れられた。そんな処ではないかな」
「…でも、行けるんだよな?」
 知らず、声が震える。高鳴る鼓動が肺腑を震わせるかのような感覚に、レオンは思わず地図の上へ置いた手を拳の形に握りしめていた。
「少なくとも…お前はここへ来た。このシュテス島へ」
「…俺?」
 アンリーは頷き、小机の上に置かれていたもう一つの油紙の包みをレオンの前に置いた。レオンがそれを開くと、なかば朽ちながらなお往時の鮮烈な色彩を窺わせる布片の上に、金貨が一枚置かれていた。
「お前を乗せていたのが異国の船だったことは話したな。お前は異国の服を纏っていたと。これはそのときの服…だいぶ傷んでいたから本当に切れ端だけだが、織り方が独特だから一番状態が良いところだけ乾燥させて取っておいた。この貨幣はその衣嚢に入っていたものだ。貨幣かどうかも判らないな。ひょっとしたら、何か護符アミュレットのようなものだったのかも知れない。ただ、保存が可能だったのはこれしかなかったんだ」
 レオンはおそるおそる、金貨を手に取った。
 刻印された肖像はすり減って、男女いずれとも判らぬ。まあ肖像であったらしいというのがおぼろげに解る程度である。だが、その周囲に刻まれた文字は、明らかに文字だとわかるものだった。…ただし、読めないが。
「私は大陸中の文字という文字を調べた。ある程度の類似をみるものはあったが、判読可能なほどのものはなかった。…これがおそらく、大陸の文字ではないからだ。そして、この織物…
 レオン、お前はあの南海の向こうから来たんだ。渡るつもりで渡っていたのか、それとも何らかの事故で漂流した挙げ句のことかは判らない。でも…確かにお前は、あの海の向こうから生きて・・・このシュテス島へ辿り着いたんだ」
「俺が、南海の向こうから…?」
「空から落ちてきた訳じゃない。来れるものなら、行けるだろう。…この地図に記された列島を一つ一つ、確認しながら進むことが出来れば、必ずその先の半島に辿り着ける。そこから先がどうなっているかは、それこそ行ってみなければ判らないが…」
 地図上の列島を指先でなぞっていたアンリーがおもむろに顔を上げた。
 鼓動はレオンの肺腑を激しく揺さぶり続けている。頭が熱い。これだけ胸躍る感覚を味わったのは、どのくらいぶりだろうか?
「…凄い…凄いじゃないか! 行こう! 
 もう、邪魔されやしないんだ。今ならもうあの海へ自由に乗り出せるんだ…行ってみよう!」
 レオンは上擦りそうになる声を懸命に抑え、地図を握りしめてアンリーを見た。だが、そこにあったのは少し寂しげな微笑。
 その一瞬、冷水がレオンの胸腔を駆け下った。そうだ、今此処に居るのは…
「そう…だよな。俺…俺は今…『王様』なんだっけ。そういうわけには、いかないか…」
 アンリーは穏やかに首を横に振った。そして、静かに微笑む。
「いいな…いい顔だ。お前のそんな楽しそうな顔、久し振りに見たよ。
 済まない、レオン。私が南寄り航路をひらき、シェノレスのいくさを支えたのは、お前をこんな不自由な身の上にするためじゃなかった…断じて!
 皆で、南の海へ漕ぎ出す為だったのに…本当に、済まない…」
 先程までの、少年のような双眸の輝きは失せていた。伏せ加減の、病み疲れた暗褐色だけがそこにある。だが、ふと…拳を握りしめて、アンリーが口を開いた。
「レオン…私の伝えようとしていることは、神官府への裏切りかも知れない。そして何より、お前に対してひどく残酷なことかも知れない。
 だが、私はあえて告げる。それを聞いた上で、お前が私を殺そうとしたとしても、私は抗わん。…好きにするといい。むしろ、今になって私がお前に何かつぐなえるとしたらそのくらいだ」
 顔を上げたとき、そこにはただ勁烈な奉献者ネレイアの眸。
「…アンリー…?」
「…レオン、お前は自分の力をどう思っている?」
「どう…って…」
「シェノレスの守護神たる海神。その御子。…ある意味では確かに真実。…だが、ある意味で虚構。レオン、お前の力は神によるものなどではない。お前自身…お前の血が持つお前の力。…水を感じ、水を動かす…お前の力は水圏すべてに渡る。たかが風を感じることができるだけの私など、及びもつかない…」
「…アンリー…何を言って…?…」
 それはいつものアンリーではなかった。熱に浮かされた…どこか、憑かれたような喋り方だった。何か薄ら寒いものすら覚えさせる…。
「聞け、レオン。
 聖風王の御代よりも遙か昔…異能を以て人々を統べた者達が、世界を人々に返却かえすべく大陸史からその姿を消した。そのすえは大陸に、ただ人々の営みを見守れと蒔かれた。
 私が大神官家から風の血を受けて生まれたように、お前は水の血統を受けて生まれた。南の海の向こうにある大陸…そこで、お前の…お前の一族の力がどんなふうに人の営みの中へ編まれていたのかは判らない。だが、神官府…いや、父リュドヴィックは、おまえが水の血統に属することに気付いて〝海神の御子〟として祀り上げたのだ。

 …そう、我々は憎まれて当然なことをした。きちんと調べればわかったかもしれないお前の出自を隠し、反ツァーリの旗印とするため…我々は海神の名を用いてお前を利用した…!」
 初めて、アンリーが声をあららげた。

  1. 家宰… 家の仕事を、その家長にかわって取りしきる役目。執事といったほうが通りが良いかも。