緑瞳の鳥

 黙して横たわるギルセンティアの白い峰々を見つめて、少年は乗騎の手綱を握る拳に力を込め、切れんばかりに唇を噛み締めていた。
 紫水晶のような双眸が、今は苛立ちと悲しみを抑え込もうとして曇る。冬のギルセンティアで消息が途絶えるということは―――それが10歳にならぬ子供であればなおのこと―――生存の可能性は限りなく零に近い。それは、いまさら誰に教えられる必要もない厳然たる事実であった。
「リオライ様…あなたの咎ではありません」
 一馬身さがって馬を立て、小刻みに震える肩を見て見ぬふりをしていたカイが重い口をひらく。
「…では、誰の咎だと?」
 声は、揺れる寸前の危うさがあった。
「サマンだったから、何だって言うんだ!! あんな小さな子だったのに……ノーアの懐はそれ程に狭いのか! 寄る辺のない子供一人救えないほどに!?」
 八つ当たりだと、少年自身がよくわかっていた。少女は自ら出て行ってしまったのだ。少年―リオライの立場を悪くすることを懼れて…。それは不幸な行き違い以外の何物でもなかった。ノーア大公は少女の保護を確約してくれたのだ。
 カイは、若いというより幼い主が持て余す苛立ちを包みこむように言った。
「…では、哀しいことの起こらない大陸街道を築きあげてください、リオライ様」
 貴方はいずれ、大陸街道の要衝たるツァーリの実権を執る身なのだから。そこまでは、カイは口にしなかった。言えば、逆効果だと理解っていたからだ。

 リオライは、何も言わずに白い山嶺を見つめていた。ややあってカイに顔を見せないままに騎首を返す。

 リオライ=ヴォリス。つい先日、世襲宰相たるヴォリス家の、正式な後継者としてツァーリの王都ナステューカへ召還されることが本決まりになったばかりだった。
 その件自体は随分前から取り沙汰されていた。だが、ついに本人がそれを了承したのである。

 ――――――向かい合わねばならぬ。少年にそれを決意させたものが何であったのか、識る者はそう多くない。

***

「だからね、とっても綺麗な女の人だったの」
 ノーアを発って、イェンツォへのゆっくりした旅の途上。マキが、愁柳には従順だったがサーティスには口答えと意見のしほうだいというとんでもない娘だということがだんだん分かってきた頃のある日のことだった。
 冬女神さまに遭った夢を見た、というマキの話の前半は、はっきり言ってサーティスもまともに聞いていなかったが、途中から待てよ、と思い至った。
「銀色の髪が腰ぐらいまであったの。すごく細くてさらさらしてて…綺麗だったなぁ…。寂しかったんでしょうって、部屋の中に入れてくれて、ずっと笛で優しくて綺麗な曲、吹いててくれたの。それから、夏には赤ちゃんが生まれるんだって」
「…何?」
「だから、赤ちゃん。お腹も触らせてもらった!いっぺんだけだけど、動いたのわかったんだ」
 それを聞いて、サーティスの中でいくつかの会話が符合した。

『今、たまたま管理しているのが私だというだけの話ですよ。それなりに理由があるんですが』
『…それは去年の秋辺りから銀姫将軍が人前から姿を消しているのと関係あると見て良い訳か?』
『さて?どうでしょうか』
『……幸い私も、今はただ一つだけのことを心配していれば良い身の上ですし』

 成程。商業都市でもあるアズローは、決して静かなところではない。それに、銀姫将軍がしばらく立回りができない身である以上、人前から姿を消すのも納得できる。
 佐軍卿たる愁柳がもうすぐ春になるというのに対サマン防衛線の心配もせず、キルナなぞにのうのうと腰を落ち着けているのも、「それなりの理由」があった訳だ。

 ───今、あの閑静な別邸で、最強の竜王に護られ、ノーア公国の嗣子がゆっくりと冬女神の胎内に育ちつつある。

 それにしても愁柳の落ち着きっぷりからして、ノーア公女に関わることだが悪いことではないと察しはつけていたものの、我ながらかなり気づくのが遅かったと言わねばなるまい。
「…ねえ、イェンツォってどんなところ?」
 …この娘。頭の回転が早いのは良いが、話に付き合うほうとしてはめまぐるしくて、疲れる。
「マキ、今朝から何度目だ?」
「んとね、七…じゃない、八回目かな」
「お前ね…」
「だってサティってば、小出しにしか喋ってくれないんだもん」
「話す度に、脱線させるのは誰だ?それに、名前を勝手に端折はしょるなといってるだろうが」
「仕方無いよ、言う度に舌噛みそうになるんだもの」
「『サーティス』は言う度に舌を噛みそうになって、『愁柳』はきっちり言える訳か?」
「うん! …あ、でも言いづらかったら愁でいいって言ってくれた。ティェでもいいよって」
 元気一杯に肯定されて、サーティスはこれ以降彼女に関しては一々呼称指導をする気力が失せた。
 それにしてもティェ(おとうさん)か。出発の時も、相当手放しがたいふうではあったが…
「いっそ愁柳の養女にしてもらえばよかったのに。そうしたほうが苦労がないぞ。あの通りのお館暮しだし、もう祭司共も追っては来れん。私なんぞについてきたって、下手すればその日の糧にも困ることになりかねないんだが?」
「その時は一緒に困ろう、サティ」
「…マキ。意味分かってて言ってるか?」
「うん!」
 ──────愁柳も、サティも、同じ位大好き。でもね、マキは強くなりたい。だからね、サティと一緒に西方へ行って、クロウとベンキョウしてくるの。
 当人さえ良ければ館に引き取ろう、という愁柳の申し出を、マキはそういう言葉で鄭重に断った。

 強くなる。…何のために?あるいは、誰のために?

 尋かなくても、愁柳からマキがアズローを飛び出した経過を聞いたサーティスには、薄々分かっていた。強い子だ。自分の無力をただ歎くのではなく、その間に一歩でも二歩でも先へ進もうとする。
 サーティスはつやのいい黒髪をくしゃりとやって、言った。
「…何が知りたい?異国の言葉でも、地理でも、天文でも…私の知っていることならいくらでも教えてやるぞ」
「サティ、剣は上手だよね?」
「…教えるのが上手いかどうかは別問題として、武術一般、弓以外なら一応人並みかそれより上だと自負しているが」
「あ、弓は大丈夫。まだあんまり強い弓は無理だけど、結構遠くを当てられるんだよ。こうみえても。今度見せたげるね。だから、そのほかを教えて」
「承知した」
「それにしたってなんで弓だけ?」
「…師匠が教え忘れたんだ。素質がないんで諦めたのかも知れんが…その所為か知らんがいまだにこれだけはな。短槍や短剣の命中率からして異様に…おい、あまりでかい声で言うな」
「わー、ひょっとしてサティの弱味なんだ!?」
「…五月蠅うるさい」
「言わないよぉ。ふふ、サティにもそういうことあるんだ」
「当たり前だ。私だって人間だぞ。できることしか教えてやれないし、知っていることしか伝えられん。…ああ、だが、お前にその気があったら、もっと沢山のことを知る方法はあるぞ」
「え、何、どこへいけばいいの?」
「…イェンツォ。これから向かうところだ。特に風光明媚というわけでもない……殺風景な砂礫の谷だが、ある意味どんな財宝よりも貴重なものが埋まっている。……時にマキ、お前字は読めるか?」
「そんなもの知らない!」
「だったらそこからだな。まあ、ゆっくりと教えてやる」
「…なんか…道程長そう…」
「そう急くな。自分の調子でやればいいんだ」
「…うん!」
 春を運ぶという、すばしこくて背の黒い小鳥の目は、確か緑色ではないはずだ。だが、サーティスは何となくあの鳥を連想した。

 いつか飛べるまで、ゆっくり翼を紡げばいい。その間は護ろう。緑瞳の鳥が、自らの空へ飛び立つまで…

END AND BEGINNING