妖精の森

『誰だよ、廃墟だなんて言ってんのは』
 一応人が住めるようにはなっている室内を満て、思わずぼやいてしまった。
「しかし、用意がいいね。この季節に暖炉なんざ」
「…雨が降ると、膝の具合が悪くてな。ここ二、三日はずっと焚いておったよ」
 俺は抱えていたその娘を暖炉に一番近い長椅子に横たえた。
「他に人は…?」
「おらん」
「この子、ひょっとしてあんたのお孫さん?」
「よく聞くやつだの」
「この状態で聞くなってぇのが無茶じゃないのか?」
 俺はむっとしたが、とりあえず先に急ぐことがある。
「それより、この子は怪我をしてるんだ、手当てを…」
くな、今それを捜している」
 成程、その老人は長持の中を探っていたのだが、俺はそこまで思い至らなかった。…だめだ、まだ血が上がっているらしい。あれだけ水を被ったというのに。
 よっぽどいつもは使わないのか、やたらじいさんが手間を取るのにこっちのほうがくたびれて、俺は手近な椅子を拝借した。
 ──────憶えているのは、そこまでだ。

***

 次に気が付いたとき、まず視界に入ったのは白い手であった。
「……?」
 半眼のままで額の上に乗せられた手巾を手で触れ、その時初めて自分が寝かされているのに気づいた。
「…不思議な人ね」
 白い手の主が側にいた。一瞬呼吸が停まるほどに深い、深い碧が覗き込む。
「…言うのと言われるのが逆だな」
 邪魔くさい手巾を退けようとして、止められた。
「熱があるって自覚がないの?おとなしくしてなさい。傷が化膿して、とんでもないことになってるんだから」
 きつく言い渡されて、俺は初めて自分の身体の異様な熱っぽさに気がついた。
「えーと…」
 最後の記憶を辿る。確か、椅子に座り込んで…。
「おい、怪我は…!」
 彼女は笑った。
「大丈夫よ。あなたに比べればね」
 黒髪の下に、白い布が見え隠れしている。だがその言葉通り、元気そうではあった。髪を上げている所為で、右眼を両断する傷がよりはっきり見える。
 だが、その瞼の下には深い碧があった。
「見えるのか、右眼。その…」
 訊いてしまってから、訊くべきことでなかったかと言い淀んでしまう。だが、答えは存外あっさりと返ってきた。
「一応ね」
 怒らせなかったことに安堵して、俺はズレた手巾を戻しつつ、ついでに訊いてみた。
「…爺さんは何も答えてくれなかったが…ここは何だ?あの爺さんや…君は何者なんだ?」
 彼女の顔をかすめたのは、苦笑だったのだろうか。
「あなた、衛兵隊の人でしょう」
「…Ja…」
「だったら知らないほうがいいわ」
「…どういう意味だ?」
 彼女は少し困ったように、髪の下の右眼に手を遣ったまま、何も言わない。
「…その眼…いったい誰が…?」
「…初めてね」
「え?」
 半ば感心したように言われて、反応に困った。
「私の右眼を見て、怖れこそすれ誰がやったんだなんて言った人はいなかったわ」
「…何でこわがらなきゃならないんだ? 傷は本人の責任じゃない。負わせた奴が悪いんだ」
 気を失っていたときと、随分感じが違うのに俺は少々戸惑っていた。あの時は十六か十七ぐらいにしか見えなかったが、今では俺と同い年だと言われても、そう違和感がない。
 ─────『リャナンシー』…だ。昨夜の、冷たく深い碧で俺を突き刺した…。
 でも今、その深い碧は冷たくはなかった。ただただ、深かった。底の見えない、深い淵。
「負ったのは、まだ子供のときだったんだろう…?」
 彼女は立ち上がって、窓を開けた。朝の光がさっと入りこみ、眼を射る。
「…忘れた。多分、十にはなってなかったと思うけど」
 俺は、何も言えなくなった。…何処のどいつだ、十歳にも満たない女の子の眼を潰しかけた大莫迦は!
「…済まん」
 目をそらして、ようやくそれだけ言った。今度こそ悪いことを訊いた、と思ったのだ。
「あなたが謝ることじゃないでしょ」
 彼女は笑っていた。それは自嘲めいてさえいない。本当に年齢不詳だ。女の身であれだけの剣技を身につけているとかいうのとは全く違う次元の強さを感じて、圧倒される。
「…さて…と。じゃ、そろそろ本題」
 彼女は、椅子に戻って真っ直ぐ俺を見た。深い碧が、不意にその温度を下げる。
「単刀直入に尋くわ。この館の、何を探りにきていたの?」
 それならこっちも下手な隠し立てはすまい。そう思って、正直に言った。
「…友人が殺された理由」
「いつの話?」
「三、四日前」
「…どんな人?」
「リチャード。いつも竪琴を持ってて、わりと背が高い。優しげな顔立ちで、歳は俺と同じくらい。ちょっとくすんだ金髪で、目の色は…」
 そこまで言いかけて、俺はリチャードの目の色を正確に憶えてなかったことに気が付いた。まだそう月日が経った訳ではないというのに…生きている人間というのは薄情なものだ。俺は失望に似たものに胸を押さえつけられて、すこし声を落とした。
「…よく憶えてない。たぶん、暗めの色だったと思う。
 医者に運び込まれてしばらくして、死んだ。医者の診たてでは、複数の人間で寄ってたかって刺し殺したらしい。…お前にできることじゃない。…でもお前は知っているはずだ。何でリチャードが殺されたのか!」
 彼女を責めるつもりなどない。だが、声が鋭角的になるのを抑えることは出来なかった。言ってからしまったと思ったのだが、彼女はただすこし憂鬱そうに…ぽつりと言った。
「…憶えてるわ。…死んでしまったのね、あの人は」
「誰だ?…誰があんな事を…!?」
「…仲間…らしい連中に」
 彼女は深く溜め息をついて言った。
「その人はね…この館に忍びこもうとしていた連中を諫めようとして、逆に殺されたの」
 ─────この館には、しばしば財物狙いの盗賊が入るのだという。彼女が剣を取ってここを守っているのも、そういう連中を排除する為らしい。第三隊の仕事にも、時折そういう奴らの掃討がある。館の衛士が十分に居るところなら最初から狙われはすまいが、没落した家の館には衛士さえ居ないことはままある。そんなときは館の住人が自ら剣をとることだってあるのだ。
 その夜も、彼女は盗賊一味を見つけたが、その盗賊共は諍いの最中だった。どうやら中の一人が盗みをやめるように説得を試みていたらしい。
 おそらくはそれがリチャードだった。
 彼女の話によれば、リチャードらしい竪琴の音がよくこの辺りで聞こえたという。おそらくリチャードは静かなこの辺りで、一人、森の歌でも作っていたのだろう。
 そこへ、知り合いらしい声が聞こえる。リチャードとしてはこんなところに用があるのは自分ぐらいだろうと思っていたから、いったい何事だろうと行ってみる。すると同僚が廃墟とはいえ盗みにはいろうとしている。…律儀な男だ。看過できなかったのであろう。
 リチャードは弓を得意としていたが、接近戦になると複数を一度に相手に出来るような技量はない。失敗の腹いせに殺されたというところだろう。
 つくづく、運のない男だ。
「…丁度その時、警邏中の兵士が通りかかったから…私は姿を消さざるを得なかったのよ。私のこの傷は、大体の人には怖いものに映るから…」
 自嘲めいた苦笑いをして、彼女は右眼の傷に触れた。
 巷ではリチャードのことも彼女の所為にされているなどと、とても言えなかった。しかし、彼女はそれを知っているかのようにさらっと言ってのけた。
「…でも、私の所為にされても仕方無いわね。実際、あの人は殺していないにしろ、これまでに一体何人…なんて憶えてないもの」
「…そんな…!」
「事実よ。…連中、以前にも館から財物を盗み出しているの。私はそれを探している。…この間からうろついている賊どもを捕らえては締め上げているのだけれど、いまのところ空振りね」
 彼女は冷然と言い放った。
 深い、碧。こっちまで寒くなってくる…。
「…喪われた財物を取り戻すまで、私は〝狩り〟をやめるつもりはない。私の命に代えても捜し出す。そのためなら何人だって狩るわ。…納得した?」
「え、あ、ああ」
 不意を突かれたもんで、出てきたのは余り締まりのない返事だった。
「…とにかく、今日一日は静かにしてなさい。分かった?」
「Ja…」
 俺はもう、反論する気力もなくて、深い溜め息の後そう言った。

***

 第三隊の連中が心配するだろう…とかいう考えが全く出てこなかったのは、多分俺がぼーっとしていた所為に違いない。
 「獣並み」とまで言われた回復力の俺が、たかが傷口が膿んでしまったくらいで熱を噴いて三日も寝こんだのも、やっぱり俺がぼーっとしていた所為だろう。
 この傷がある間はここにいられるな、などという不謹慎なことを考えた所為かもしれないが。
 状況が変わったのは三日目の朝、例の爺さんがひょっこり姿を表して言った言葉の所為だ。
「…お前にその気があるなら、あの子をこの館から連れ出してやってくれんか」
 沈黙を前置きにやおらこんな事を言われた日には、普通、誰でもうろたえるだろう。この爺さん、自分が何を言ってるかわかってるんだろうか。
 孫娘…というわけではないのかも知れないが、身内には違いなかろう。それを、何処の馬の骨とも知れない男に連れ出せと?
「そう耳まで真っ赤にならんでもええわい」
 爺さんに苦笑まじりにそう言われて初めて、俺は自分の顔色を知った。
「…お前は何かが違うんだ。今までこの館に侵入しようとして叩き伏せられた奴は腐るほどいたが、留め置いて介抱したことなどなかった」
「最初に俺を邸に引き入れたのは爺さんだろ」
「まあ、行きがかり上そうなっただけだ。…儂も此処に住んで長いが、斬りかかってきた相手を助けたあげく、手当しろと喚くような奴は見たことがなかったからな」
「…ま、そうだろうな」
 自分で言うのも何だが、爺さんの言うことも尤もだ。でもあの時は、そうすべきだと思ったのである。だから大抵、「莫迦正直」だとか、「人を信用しすぎる」とか、いずれも「それでよく世の中渡ってるな」という台詞で締めくくられる形容をされることが多い。それで痛い目を見たことも数限りなくあるのだが、性分だから仕方ない。
「それでも、傷が癒えるまでは置いてもいいと言ったのはあの子だ。儂とてお前さんをこれほど長逗留させるつもりなどなかったさ。手当てしたらとっとと放り出す、という選択肢もあったのだからな」
「なるほどな」
 実直に、そうされていても不思議はなかっただろう。廃墟だと思って不法侵入したことには違いないのだから。
「あの傷が、あの子をこの館に繋ぎ止めておる。…このままではあの子が余りにも不憫。…このままこの館で待っていたとて、辛いことがあるだけだ。
「…何を…待って…?」
「…館のあるじ
「あんたじゃないのか」
「莫迦いっちゃいかん」
 爺さんは即座にそう言った。
「…この館がこうなったのは、ほんの十年ばかり前のことだ。それまで、ここにはちゃんと主人がいた」
「…誰だ?」
「言っても分かるまいよ。…王族につらなる御方とだけいうておこうか」
「…ふーん」
「不憫な御方だ。母君が早世され、あとには敵ばかりが残った」
 父親が欠けようが、母親が欠けようが、こういうお屋敷暮しで何が不憫だ、と内心思ったが口には出さなかった。
「…わしらはあの方の母君についてこの国にきた一族だ。母君とあの方を守るのがわしらの役目。無論それは、あの子も同じこと」
 俺は、すうっと血が引くのを感じた。
「…我が一族に生まれれば女も男もない。主上をお守りするのが唯一の役目。そう教えられる。そうして役目を全うすべく鍛錬する。
 だがあの子はまだ…いとけない童女だった。剣を握ることさえ思いも寄らぬほどのな。しかし殿下が害されようとしたとき…あの子は身を呈して庇い、あの傷を負った」
「そんな、女の子だぞ!?」
 無茶苦茶だ。そんなこと、あっていいわけがない!
 思わず声を荒らげはしたが、俺は彼女の…守られる側でなく守る側に共通の立ち居振舞に気づいてはいた。
 無論、鍛錬したのは事件の後なのだろう。素質なのか修練なのか、今の彼女が相当の手練れであるのはわかる。対峙する者の背筋に氷を滑らせる、細身の剣そのもののような鋭い剣気。彼女を鍛え上げたのは、主を守り切れなかった悔恨か。それとも…
「…殿下も命はとりとめたものの、とてもこれ以上王都にお留めする訳には行かないということで、我らの意見が一致した。…わしらは、殿下を国外へ逃がし申し上げた」
「…そりゃあ大変だね」
 俺の相槌は、いささか誠意に欠けていたかも知れない。
「それまでが大変だった。殿下は、あの子を置いたまま脱出されるのを拒まれた。あの方の御気性では無理もない。…御自分を庇って、女子の身で顔に傷を負ったのだから。しかしわしらも、あの方には一刻も早くナステューカを離れていただきたかった。…そう思う余り、わしらはひどい嘘をついた」
 ピンときた。
「まさかあんたら…」
「あの子は死んだ…と申し上げた」
 つかみかかろうとして、俺は左肩の傷に押し留められた。さすがに呻きが漏れる。痛みが薄らぐのを待って、ようやく言った。
「…自分らの都合で…なんて事を…」
「儂らの罪は、儂らのものとして受け止めておるよ」
 俺は、その時ほどその爺さんが小さく見えたことはない。随分と年くって、もう臨終間近いんじゃないかと思うほど、小さく、弱々しく見えた。
「酷いことをした。あの子にも、殿下にもな。自失しておいでのあの方にわずかな近侍の者だけを付け、なかば強引に王都から連れ出した…」
「……」
 もう一言二言何か言ってやりたい気分だったが、爺さんの様子を見ていたらそれ以上何か言うのが気の毒になって、口を噤んだ。
「…近侍からの報告も途絶えてしまって、殿下がどうなされておるのか、今は分からぬ。去年だったか一昨年だったかの冬を本国シルメナで過ごされたらしい、ということは聞いたが…いつお戻りになるのかさえ、儂らにはわからぬ」

***

「…ひょっとして…昨夜眠ってないの?」
 彼女の言葉は、大当たりだった。眠らなかったのではない。眠れなかったのだ。
『…お前にその気があるなら、あの子をこの館から連れ出してやってくれんか』
 どうにかしてやれるものならしてやりたい。だが、それとこれとは話が別だ。
 第一、彼女はそれを望むのか?この数日、彼女が示してくれているものを、厚意と取るべきか好意と取るべきかで、事情はずいぶん違うのだ。
 爺さんの思惑はわかる。この邸に留まっていたとて、彼女は何も報われはしない。それよりも、別の倖せを探す方がいい。…そんなことはわかっている。
 だが、彼女はどうなのだ。二度とまみえること叶わぬ主を待ち続けること…それを彼女がどう思っているのか。
「…何だか、昨日よりも調子悪そうね」
 傷のほうは加速度的に治癒していくのが分かる。だが、別の意味で身動きが取れなくなってしまったのだ。
 考えてみたら、まだ名前も識らない。…名前?
 ふと考えた。井戸に落ちたとき、左腕にしていた守護の輪に、名前が彫ってあった…ような気がする。
 守護の輪とは、戦場にその身を置くものがその命を守るためにはめる、守護の力を持つとされる石を嵌め込んだ腕輪バングルのことだ。身分、立場によって造りは様々だが、女物の腕輪としてはかなり重厚だったのを憶えている。守られる側でなく守る側の覚悟を示すような、凜乎たる細工。
「…心配事?」
 何気ない言葉が、これほど心臓の拍動に影響を与えるというのは、そうざらにないと思う。
「熱はもうすっかりひいてるし…それで眠れないとしたら、何かが気にかかってるとしか思えない」
 白い手が額に触れる。咄嗟に、守護の輪に目がいった。古い書体で丁寧に彫り込まれた文字を読み取る。
「…セレス…?」
 彼女は、ちょっと驚いたように手を引いた。そしてすぐ、腕輪のことに思い至ったらしい。左手を退いて軽く腕輪に触れながら、悪戯っぽく笑ってこういった。
「…そう読んだの?」
「違うのか?」
 彼女はふっと視線を腕輪に戻した。だが実のところ、腕輪なんか見ていなかったような気もする。
 その口許に微かな笑みさえ浮かべて、彼女は言った。
「セレス…か。それでいいわ。…今度からそう呼んで」
「お、おい、違うのか?」
「違わないわ。本人がそう言っているんだから間違い無いわよ」
 執拗しつこい、という感じで軽く睨まれ…何も言えなくなる。
 随分後になって、それが彼女の本名のごく一部であり、しかも少し発音を間違えていたことを知った。

***

 名前が分かった(…と言っていいものかどうか)ところで、ようやく俺は衛兵隊のことを思い出していた。
 ディルである。はっきり言ってあいつは心配症だから、俺が出て行ったきり音信不通になればどういう反応を起こすか、正直頭が痛かった。
 で、次に思い至ったのが。例のおやっさんの話である。
 今回の一件を丸く収めれば、俺に隊長職を譲る…という、あれだ。
 あの時は冗談じゃないと思ったが、考えてみれば今の俺は隊舎住まい。セレスを連れ出したところで、住まい一つ提供してやれる訳じゃない。だが隊長職に就けば、セレス一人ぐらいは何とか面倒が見られるだけの経済的余裕はできる…筈だ。
 …とそこまで考えたとき、ひどく先走ったことまで考えている自分に気がついて、あんまりなしょうも無さにおもわず落ちこんでしまった。
 俺はベッドから降りて、風に当たって頭でも冷やそうとふらふらと庭園のほうへ出てみた。
 午後の陽が容赦なく照りつけているが、少し強い風のおかげで余り感じない。庭園そのものは荒れているが、生命力の強い木々が、燃えるような緑で陽をはねかえしていた。
「…どっかで見たことあるぞ?」
 テラスの前、列を成して植えられている木々に目を止める。
 ここら辺にはない木だ。ここよりも、もっと…
「西方の木よ。尤も、ここにあるのはシルメナにある木を挿し木したものらしいけど」
 燃えるような緑の間で、風に煽られて鴉羽色が躍った。樹の幹に軽く手を触れ、その木立を見上げている。
「…セレス…」
「春になると、薄紅色の花が一斉に咲くわ。夜にね、その下で篝火を焚いて照らすと、夜空の色に花の色がとてもよく映える…」
 それは、十年前の情景だろうか。まだこの館にもっと沢山の人々がいて、おそらくは彼女の想い人であった館の主がいて…
『…要するに、妬いてんのか。俺は』
 そういう結論に達したとたん、俺は小さく呻いて反射的に頭をかきむしってしまった。
 自慢にもならないが、昔から…欲しいと思ったものが素直に手に入ったことなどない。はなから届きようがなかったり、手を伸ばした瞬間に消え失せたり。
 あるいは、既に他の誰かのものであったり。
 ――――お蔭で、諦めることばかり上手になってしまった。欲しければ奪えとけしかけられたことも一再ならずあるが、踏み込めたためしはない。
 そんな臆病さが、腕の中のものさえ喪う結果になると…わかっているのに。
「…エルンスト?」
 訝しげ…というより不審そうに、セレスが問うた。無理もなかろう。
「…悪い、なんでもない」
 頭を振る。ごちゃごちゃした頭の中をなんとか落ち着かせようとしたのだが、強く振りすぎたのか軽く眩暈を感じてすぐ傍の立木に手をついた。どうにか態勢を立て直したはいいが、今度は間隔を詰め過ぎてセレスをその木に追い詰めたような形になってしまって、すこし慌てる。
 すぐ目の前の、透徹した深い碧。
「…あの…な、セレス」
 その碧眼に、感情は窺えない。むしろ、冷静に観察するかのようなその眼差し。ひるまなかったと言えば嘘になる。
「セレス、あのな…この館を、出る気があるか?」
 それでもその頬に手を触れて、俺はまっすぐその深い碧を見た。
「お前をここにひきとめてるものが何かなんて、俺は訊かない。でも、それが苦しいのなら…俺の処に来い、セレス」
 爺さんに言われたからじゃない。断じてない。この気持ちに嘘はない。…だがセレスはどうなのか。もう二度と会うことができないあるじを、いまだ想い続けているのか?
 だとしたら…
 ─────深い、深い、碧。俺を、射抜く…。
 いたたまれない、沈黙。それに耐えかねた俺は、セレスが何を言おうとしてかその唇を開きかけたとき…思わず唇で塞いでいた。