『落ち着け。これは真水だ。飲める』
女の声としてはかなり低い。だが、それだけに通りが良く、しっとりと染み込むような響きを持っていた。突如として口腔に流れ込んだ水に、サーティスは一瞬だけ自身が何処に居るのか見失いかけていたが、後で思えば自分でも驚くほど素直に与えられる水を口にしていた。
ようやく開いた視界に飛び込んだ、燐光を放つ海が…その時はこの世のものとは思われなかった。燐光を受けた黒髪と、怜悧な美貌もまた……その時は少々憂世離れして見えたから、一瞬、いよいよ冥府の扉をくぐってしまったかと思ったくらいだ。
クロエ。シェノレス神官府・典薬寮の神官だと言った。
年齢がよくわからない。おそらくは、やや歳上といったところだろう。神官というなら、得体の知れない行路病者であろうと介抱を厭わないのは当然なのだろうが、あまりにも泰然としていてかえって面食らう。薬種の採集に来ているにしても、あの大蛇といい…斯様に物騒な生物も跋扈する島に、女の身でたったひとりで赴任というのは少々奇異な気がした。
…いや、わからない。熱の所為か、上手く思考がまとまらない。
傷を洗い、排膿の作用を持った薬草を貼用し、滋養と十分な休息をとらせる。…完璧だ。処置に当たったのが自分でもそうする。だから今は余計なことは考えずに熱がひくのを待つべきだ。そう結論づけると、サーティスは思考を放棄しておとなしく睡魔に身を委ねた。
いずれかの薬種の匂いだろうか。薬種の中には壮絶な異臭がするものも存在するのだが、眠りに落ちかけたサーティスの意識が最後に捉えたのは…穏やかな芳香だった。
***
ふと目覚めた時、陽は傾いていた。
「少し飲め。随分と汗をかいている」
少し体温の低い手が、布で額を拭う感触に…サーティスはゆっくりと身体を仰向けに返した。その動作で、すぐ脇の棚に水差しと椀が置かれているのが視界に入る。
「…ああ、そうだな。もう、夕方か?」
サーティスは緩慢に身を起こして椀を取った。口をつけるとまだ冷たい。汲んだばかりなのだろう。乾いた喉には心地好かった。空にした椀を机に戻して、俄作りの牀から足を降ろす。
「水場に転がしていた奴を捌く約束だったな…」
「ああ、もう捌いた。午後から少し時間があったのでな」
「そうなのか。治療費代わりにと思ったんだが」
「莫迦を言ってないで少し落ちついて休め。心配せんでも病者の介抱は典薬寮神官の職務だ。御辺から金銭なんぞ取らん」
「そういうものか」
「そういうものだ。生産活動に従事しない代わり、我ら神官は無償で傷病者の治療や介護に当たる。シェノレスに限ったことではない。何処だってそうだろう」
「やれやれ、手強い商売敵だな」
「御辺らには御辺らにしかできないことがあろう。…我らは結局、神官府の法を越えて動くことはできぬ。今回はたまたま上命にて私がこの島に在ったから御辺に手を差し出すことができた。御辺のように心の赴くままに出ていける訳ではない」
手許不如意な時だってあるから、心の赴くままに出かけられるというわけでもないぞ…そう反論しようとして、サーティスはやめた。額に落ちかかる、黒檀か黒曜石で出来た垂飾のような黒髪の下で、やはり黒檀のような双眸が少し切なげな色彩を閃かせたように見えたからである。
だが、クロエはふっと軽く頭を振って話を変えた。
「そうだ、御辺の大切な姫御前は無事のようだぞ。鳩が戻った。
先だってシルメナの船が嵐で吹き寄せられ、ドン・レミ近くで座礁、大破。島が近かったお陰で殆どが助かったようだが、それでもかなりの数の怪我人と数人の行方不明者が出ているな。御辺もこの数人の中に入っているのだろう。
ドン・レミに派遣された神官からの報告では、その船に乗っていた…年の頃は十二、三ばかり、少年と紛うような…元気の良い黒髪の娘が乞われもせぬのに遭難者の救護に駆け回っていると。その娘の尋ね人の風体は、どうやら御辺に一致している。折り返しで確認の文書を出したから、明日か…遅くとも明後日にははっきりするだろう。迎えも頼んでおいた」
「姫御前は勘弁してくれ。そんなお上品なもんじゃないぞ、あれは。…だが、助かった」
絶対に無事でいる、という漠とした確信とでもいうべきものはあったが、こうして聞くとやはりほっとする。クロエの、それを見透かしたような微笑に少々ばつが悪くなったサーティスは、立ち上がって蔀戸の傍へ足を進めた。
「…大分、身体が軽くなった」
暮れかけた空を見ながら、サーティスは正直な感想を口にした。
「汗をかいて気持ちが悪いなら、浴びてくるがいい。
ああ、水に入る前に裏手に置いた甕から木酢 1 をとって岩へ撒いておけ。蛇避けになる。今朝はそれを言いそびれた。驚かせたようで悪かったな。あれほどの大物はそう頻々と出る訳ではないが、小さいのは結構ちょろちょろしているから」
「…何から何まで、すまないな」
「その間に夕餉を支度しておく。…さっきも言ったが、宮仕えの身では行けるところは限られていてな。返礼をしてくれるというなら旅の話でも聞かせてくれ」
「…あまり珍しい話でなくてもよければ」
「楽しみにしておく」
***
身体の熱さは消退していた。
サーティスは言われたとおり木酢液を岩壁に撒いてから水に入った。樋から流れ落ちる清冽な水を背とその傷にかけると確かに沁みたが、朝ほどではない。流れ落ちた薬草は血膿を纏いつかせてはいたが、傷自体が熱を持っている様子は既になかった。後はもう一度貼っておけば十分だろう。
朝は気づかなかった…というより気づけなかったが、件の薬草は水場の脇に群生していた。そう言えば、山中の水場によく生えている類のものだ。おそらく新鮮なものを使うために敢えて刈らず、生い茂るままにしているのだろう。排膿作用を期待して使うなら、新鮮な生葉を揉んで使うから…至極理に適っている。
打撲の痛みもかなり低減していた。そういえば背の傷の処置の後、打撲の痛みがあるなら塗っておけと軟膏のようなものを渡された。ふと思い出す。眠り込む前にかいだ穏やかな芳香は、あれだったのだ。あとで可能なら処方を教えて貰おう。
そんなことを考えながら水の感触を楽しんでいると、何の前触れもなく木戸が開く音がした。
「サーティス! 浴びたならついでに背の傷を処置させてくれ。もう一度貼れば十分だと思うが…」
――――一再ならず手当てをしてもらっておいて今更だが、水を浴びているとわかっていて叩音もなしに踏み込むのは如何なものか。…まあ、屋外で叩音もないか。それに、いちいち意識するようでは職務にならないのだろう。
しかし…傷と熱とで朦朧としている間ならともかく、普通に身動き出来るようになってまで孺子と大差ない扱いというのも…それはそれで不本意だ。ここでそれを言い立てても始まるまいが。
「わかった、お願いしよう…」
サーティスはその時背を向けてはいたが、少々非難がましい眼で肩越しの返事をしてしまったのは致し方なかった。
クロエが微かな含み笑いさえして応える。
「至極ぞんざいなことで済まない。背中に広範囲な傷があると、着衣の脱ぎ着というのはそれなりに難儀かと思ったのでな。…非礼、赦されたい」
「…心遣いに感謝を」
返ってきたのは低い忍び笑い。サーティスには、継ぐべき言葉がなかった。
***
その日から数日を、サーティスはクロエの手伝いをして過ごした。身体のほうは順調に回復していたが、船が来ないことには何処にも行けないからだ。
上命とはいったが何か特殊な任というわけではなく、典薬寮で扱う薬種の確保・分類・加工・搬送準備といった、彼女に言わせれば至って日常的な職務だという。小さな島だが生物相は多様で、他の島では採れないものもあるから、相応の知識と眼をもった神官が定期的に来てはこの任に就くのだと。
乾燥させた薬種を種類別に梱包する作業をしながら、サーティスは訊いてみた。
「単独で就くには少々危険な任ではないのか。件の蛇のような大物もいることではあるし」
「心配するな、あの大蛇程度は大人しいものだ。熊とは言わんが大型の山猫もいるぞ。薬種にはならんから狩りはしないが」
「…基準はそこか」
この神官なら素手で熊とでも渡り合いかねない。そう思ったのが顔に出たか、クロエは笑って言った。
「無論見分ける眼が必要だから、神官としての経験年数によっては複数で来る場合もあるが…なに、有り体に言えば、私にとっては半分休暇のようなものだ。ひとりで悠暢やらせてもらっているのさ」
「…それは済まない。休暇の邪魔をしたか」
「何、構わんさ。御辺と話をするのは相応に楽しい」
話といっても殆どが薬種とその使用法についての議論だ。彼女は旅の話を、と言っていたが…互いにとって興味対象だから、そっちへ流れていくのは致し方ない。
乾燥させた薬種を、付箋をつけた紙で包んで木箱や樽に詰め、直射光の当たらない岩陰に集積する。運び出す時には神官府から人手が送られてくるらしいが、集積するところまでと言っても結構な重労働である。女の身でよくやるな、と時々様子を見るのだが、実に軽々とこなしている。身体の使い方に相応の鍛錬を窺わせた。
「適当に休め、サーティス。無理をすると身体を傷めるぞ」
「この場合、言うのと言われるのが逆な気がするんだが気の所為か?普通は男手が要る作業だろう」
「そういうものか。私にとっては日常だからよくわからん。御辺は一応、病み上がりだからな。侮った訳ではないから、気を悪くしないでくれ」
そう言って、動きを止めるのは採集した薬種の目録を読んだり書いたりしている間くらいだ。 至って動作に無駄がない。
ふと、浜の方からひとりの娘が籠を持って歩いてくるのが見えたから、クロエに伝えた。クロエはああ、と言って手を止めると、木箱の上に帳面を置いて浜へ向かって歩いて行く。娘と話をして籠を受け取ると、さらりと身を翻してまた帰ってきたが、娘の方は踵を返しながらも此方をちらちらと見ているのに気づいて些か居心地が悪くなった。クロエを気にしている、というより、どうにも自分が警戒されているような気がしたのだ。
女ひとりの家に上がり込み、そのまま居座っている怪しげな男…という評価が、実態はともかくとして傍目には全く以て言い訳のしようがないほどに的を得ていることに、今更ながら気づいたのである。
クロエが受け取った籠の中には、今日獲れたと思しき魚介や野菜があった。
「村の娘か」
「ああ、滞在中は時々向こうへ行って診療もしているから、時々返礼で届けてくれる。それと、今夜は神事があるとかで祝詞を頼まれた。御辺も行かんか、サーティス?」
「いいのか?余所者が行っても。それでなくても、何か凄い眼で睨まれた気がするんだが」
「構わんさ。嬥歌1 だ。それに…睨まれたのではなくて、熱い視線を送られたのではないか?こういう僻地では、若い男は貴重だからな」
そう言って、クロエは揶揄うような笑いをしてから籠を裏手の水場へ運んでいった。新鮮なうちに捌いてしまうつもりなのだろう。
サーティスは先程の娘の様子を思い出す。…いや、やはり違うだろう。熱い視線を送られていたとしたらクロエのほうで、あの娘がサーティスに向けたのはどちらかというと、胡散臭いものを見るような…もっと言えば想い人についた悪い虫に向ける、言ってしまえば嫉妬の視線に近い。
やっぱりやめておく。此処で大人しくしておくさ。病み上がりだからな。そう言おうとしたとき、クロエがふと足を止めた。
「…そう言えば、酒が飲めるぞ。消毒に使うような素っ気ないものではなくて、正真正銘の神酒がな。御辺、好きだろう」
振り返ってそう言ったクロエは、いっそ勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
――――酒、という言葉に誘惑されたか、クロエの稚気さえ纏うくせにひどく優美な微笑に絆されたかは…定かでない。
須臾の空隙の後、サーティスはあっさりと降じた。
「…では、お供仕ろうか」
***
嬥歌。シュテス島と違ってラ・ロシェルのような僻地の島ではそういった素朴でおおらかな祭りもまだ息づいている。
幣帛 1 は村のほうで調えてくれる。クロエは潔斎し衣服を改めたのみで夕刻の浜辺に踏み出した。随員としては荷物があるなら持つ、とサーティスは言ったが、特にないのだから二人ともほぼ手ぶらだ。
集落と、クロエが仮庵としている苫屋の丁度中間あたりに、海に向けて広く張り出した岩場がある。集落の住人全員が集ってもまだ余裕がありそうな広い岩場は、剥き出しの岩というわけではなく、砂がちの土に覆われており低いながら草木も生えていた。暑熱の昼間であればその木陰はささやかな休憩の場ともなるだろう。
広場の海際には神域を宣する注連縄が張られ、壇が築かれている。ぐるりと焚かれた篝火の周囲には人が集まっていた。そして壇と広場を囲むように敷かれた薄縁の上には、既に酒と肴が処狭しと並べられている。
波は穏やかで、月も佳い。
「存外人がいるものだな」
少し遅れて歩いていたサーティスが広場の様子を目にして感歎の吐息を漏らした。集落はあるがあまり規模は大きくない、と説明していたので、広場に集まった人の多さに少し驚いたらしかった。
「暑熱の日中にはあまり出歩かないというのが島人の知恵だ。だから日中にはあまり集落に人影が見えない。その代わり、夕方から夜にかけて外の仕事をしている。そうでなければ早朝、陽のあがらないうちにやってしまうのさ」
「理に適っているな」
そう言って、おりからの陸風に乱された豪奢な金褐色の髪を飾り紐で抑え直す。いかにも無造作に見えて、神事に携わる神官の基本的な約束事に則った結び方であるのを、クロエは視線の端で捉えていた。彼自身が今現在纏っているのが、借り物とはいえ神官衣であることを一応配慮したものか。だとしたら、神官としての基本的な知識も備えていることになる。
シルメナの血を引いていて、神官に関わりのある…そして広範な薬種の知識。風神殿の関係者とみるのが妥当とは思うが、風神殿、しかも本殿の関係者なら、本来そうそう出歩ける身分ではない筈。
――――詮索しないで貰えれば有難い。
そうは言っても、どうにも気に掛かってしまう。
双眸の奥に決して融けることのない氷塊を抱き、それでいて人好きのする微笑を浮かべて…肝心な所は何一つ明かそうとしない。そんな、旧知の誰かと似た雰囲気が訳もなく腹立たしくて…惹かれるのだ。
祭の雰囲気や酒は、人の口を軽くする。多少あざとくさえある言い回しで誘ったのも、祭がこの飄々とした人物の心を覗く因になりはしないかと目論んだのだった。
だが、そうしてまでこの男の何が知りたいのか。実の処、クロエ自身にもあまりよくわからない…。
広場に足を踏み入れた途端、娘達がわっと寄ってきて篝火の照らすほうへクロエを誘った。口々に、自分の薄縁に並べた酒肴へ導こうとする。クロエはひとまずそれを謝絶して、上座の長老方へ挨拶をした。客人のことについてもことわりをいれる。漂着者を預かっていることはあらかじめ話を通してあったし、それは神官の役目でもあるから何も問題は無い。むしろ、漂着者は神域に親い存在として鄭重に扱われるのが常であるから、サーティスはそのまま長老方の座に近い薄縁のひとつに導かれる。
サーティスはといえば、些か居心地悪そうではあったが……やはり並べられた酒に降ることにしたらしい。
「最初が少々窮屈かもしれんが、何、私の職務が終わるまでのことだ。今日は止めないから存分に吞め」
そっと耳打ちすると、サーティスは早速注がれた酒杯を掲げつつ微笑って言った。
「まあ、ある程度覚悟はしていたがな。……良いさ、御身の神楽舞を観せて貰うには佳い席だ」