肚に響く太鼓の音が、荘重な律動をつくる。
篝火と、時折薪が崩れて舞う火の粉が織る微妙な陰翳。その中で、壇に向けて厳かに祈りの言葉が宣られた後、その舞は始まった。
端然たる剣舞。常は結い上げている漆黒の髪が緩やかに編みおろされ、凜とした動きに追随して流れる。上背があり、背筋もぴしりと伸びているからおそろしく見栄えがした。手首、足首につけられた細い金属製の飾りが、挙措に応じて鈴と紛うほど鋭利な音を立てる。
笛が奏でる旋律は初めて聞くが、サーティスはその律動に憶えがあった。
そして、舞の様式も酷似している。
先年、従兄であるルアセック・アリエルⅤ世の即位式に際し、サーティスは先代「風見」の代理として立った。その時、至極短期間で叩き込まれることになった奉納舞。あれとほぼ同じなのだ。
水を讃え、風と遊び、焔を掲げて大地と生きる。シルメナの主神は風神、シェノレスのそれは海神と言われるが、根となる思想は同じなのだろう。シルメナ王に仕えた風の眷属は、やがて南へ流れてシェノレスに根を下ろしたという伝承がある。故に、シェノレスの祭祀はややシルメナに似ると聞く。
シェノレスは島嶼部によくあるように、混淆民族の国だ。祭祀の流儀はシルメナのそれと土着のものが入り混じり、地名や名前はそれ以降に流入したと思しき民族の響きを持った言葉に置き換わっている。言葉の響きも、旋律も違うのに、何かひどく懐かしい…不思議な感覚にとらわれて、サーティスはその舞に見入っていた。
「風見」継承の儀に際しては、新旧の「風見」は被衣を纏う。
旧の「風見」が多くは代理者となる事情からそうなったらしいが、あの継承の儀に関しては…新旧両方が代理者であった。
ツァーリが仕掛けた謀略の贄となって落命したラエーナ・カティス姫の代わりに、セレスがその名を負って役を担ったのだ。事前に知らされていなかったサーティスは、祭儀の最中にそれこそ一瞬呼吸が停まるほど驚いた。
頭髪を布で包み、被衣を着ければ遠目にはほぼ顔は見えないから、淡い金髪のカティス姫であるはずの「風見」に黒髪のセレスが入れ替わっていたとしてもそうそう露見することはない。それでも流石に、相対するサーティスにわからないわけはなかった。
結い上げて淡色の布で包んだセレスの黒髪。僅かな後れ毛が被衣の下でわずかに揺れた――――。
――――クロエは被衣を着けてはおらず、たっぷりとした射干玉の黒髪はその所有者の動きに応じて流麗な線を描いて揺れている。
その舞に見入るうちに、ふと自分が何処に居るのかわからなくなるような幻想に囚われ…膝に置いた手に力を込めた。…まだ、そんなに吞んではいないのに。
気がつくと、楽は止んでいた。
周囲の喝采に弾かれるようにして、サーティスは顔を上げる。その時、クロエが真っ直ぐ此方へ歩み寄ってくるのが見えた。
賞讃の言葉を口に乗せようとして、次の瞬間思わず呑み込む。歩み寄ってきたクロエが、稚気たっぷりの微笑で手を差し伸べたからだ。
「…クロエ?」
「御辺、実は心得があるとみたぞ。本来は対の舞だ。少し付き合え」
「ちょっと待て…いきなりか!?」
「手足が動いていたぞ。基本的な動きは叩き込まれてるんだろう。律動は精確だった。良いから来い。何、少々は私が合わせてやる」
「無茶を言う…!」
これを無茶と言わずに何という。サーティスは狼狽いだが、ここで強硬に謝絶しては座が白ける。
「失敗っても、知らんぞ…」
とうとう立ち上がったサーティスに、クロエは笑って持っていた剣の柄を向けた。サーティスが渋々受け取ると、自身は燃えるような紅い花の枝をとる。どこから出したかと思えば、昼間、半ば崇拝に近い眼差しを彼女に送っていたあの村娘が、たった今舞の慰労のために差し出した花だった。
村娘達が放つ、紛うことなき嫉視の…しかも無数の箭で射られながら、サーティスは壇の前へ出た。祭壇に礼を執り、立ち上がってクロエと相対する。
「…高価い治療費になったものだ」
「違うというのに。…そう硬くなるな、楽しめば良い」
「簡単に言う…」
露骨な渋面をつくって見せたが、一度身体が憶えた律動というのはそうそう忘れるものではないらしい。太鼓が鳴り、低く朗麗な笛の旋律が耳に届いたときには、身体が動いていた。
互いに剣と花を向け、対の動きで舞う。喩えて言うなら、一緒に楽を奏している感覚に近い。釣り込まれるようにして身体が動くのは、それはそれで心地好かった。
してやったりというクロエの表情に一抹の口惜しさを感じはしたが、いっそ凄艶でさえある微笑を失望に曇らせるのは…もっと口惜しい。
律動に身を浸し、旋律を聴き、相方の呼吸を…動きを映す。
―――― 水と、風と、一体になる。
***
歌舞音曲の篝火は遙か後方…まだまだ宴は酣と見えた。奉納舞が終わり、集落の若者達の交歓が始まると、長老方も三々五々引き揚げて行く。それに紛れて、クロエとサーティスもまた家路についた。
いつかと同じように…汀を海蛍が漂い、地上に銀河を成す浜を、ゆっくりと歩く。
「いや、楽しかった!」
クロエの目許はわずかに朱を刷いていた。しかし歩容は確かなものであった。自身では「嗜む程度」と言っていたが、 長老方だけでなく次々と訪れる村の娘たちに付き合ってそれなりの量を呑んだ筈だ。それでこれか。
「全く、無茶をさせる…あの場で俺が失敗ったらどうするつもりだった?」
「どうにでもなるさ。元来、おおらかな祭だ。それに、期待以上だったではないか。奉納舞を〝楽しい〟と思ったのは…実に久し振りだ。
まあ、詮索しないという約束だから…何処で仕込まれたか…などとは訊かんが」
「…それは有難いな」
くっくっと楽しげに笑うクロエは舞の時に受け取った花の枝を持つだけであったが、サーティスのほうは帰り際に持たされた酒肴を入れた、取っ手の付いた藁籠を肩に掛けていた。
前を歩くクロエは編み降ろしていた髪を解いて、腰を覆う程の豊かな髪をゆったりとした神官衣と一緒に風に流している。鮮やかな紅の花の枝を持ったまま漫ろ歩く様は、いつもより少し稚く見えた。
「…礼を言うよ、サーティス。楽しかった」
ふと足を止めて、微かな吐息の後で呟くように言った。しかし燐光揺らめく汀をうち眺める横顔は、その言葉と裏腹にどこか寂しげだ。それまで汀と岩場の中間あたりを歩いていたが、クロエがついと方向を変えて岩場へ向けて歩き出す。
「…莫迦な男の話をしよう」
クロエは岩場に腰を下ろし、花の枝も傍らの岩の上に置いて汀を見た。
「幼馴染みだった。私と、あの男と…もうひとり」
ただ黙して追従したサーティスは、その岩に背を預けるようにして砂の上に座を占めた。
砂は既に暑熱の呪縛から解放されていた。かすかな湿り気がひんやりとして心地好い程だ。
「…護りたいものがあったんだ。護りたいなら手を伸ばせばよかったのに…その男はそうしなかった。そのくせ、失ってしまってから…恋々として思い切れずに苦しみ続けた。莫迦としか云い様がない。
何も出来ないというなら、せめて傍に居ろと言ったのに…その男は見果てぬ夢を追う方を択んだんだ」
そう言ってクロエはもう一度、天を仰いで細い吐息を空へ逃がした。足を高く組み、僅かに喉を反らせたその影が燐光に浮かびあがる。それは先程の端然とした神楽舞とは全く別物の…ひどく艶冶な姿でありながら、零れた呟きはひたすらに低かった。
「何故、できることから手を着けようとしなかったのか。寿命の尽きかけたひとりの女に安息を与えてやることが、それほどに無意味か。十年、二十年の計がそれほどに大事か」
不意に、硬い音がした。クロエの指先が、岩にも突き立つ勢いで爪を立てたのだ。
「そんなもの…私は、理解りたくない!」
噴きこぼれそうになった感情を、唇を噛み締めることで、寸前で呑み込んだのがわかる。
黒檀の双眸は海蛍漂う汀を映していたが、それは今、いっそ自ら燐光を放っているようにさえ見えた。
「…今は、何処に?」
かけるべき言葉を探しあぐねて、サーティスはようやくそれだけ口にした。だが、クロエはふっと指先の力を緩めてもう一度天を仰ぐ。一度閉じてから開かれた黒檀の双眸も、その時は既に燐光と見えたものを湛えてはいない。
「知らん。海神宮 1 であろうよ…。おそらくもう、遭うこともあるまい」
先程までの熱を何処かへ置き忘れたような、静かな声音。
「あぁ、御辺がそうだといってるわけではないぞ、サーティス。…そうだな、御辺の韜晦すような笑い方が、あの莫迦に少し似ていると思っただけだ。
…男という奴は…ひとりの女を幸せにすることよりも、天下国家を論じる方が高尚だと思っている莫迦が多い。御辺はそうなるなよ。…可愛い姫御前、決して泣かすな」
姫御前は勘弁してくれ…と、些細な訂正をいれられる空気ではなかったから、サーティスはただ口を噤む。
この冷静な女神官の裡にある…思いがけず烈しい焔を見た気がした。
一見、何者にも揺るがされることなどないとさえ思える彼女が何を見て、何を感じて、かくも苛烈な感情を育てたのかは、聞いた話からだけでは推しはかることはできない。だがこの時、サーティスの意識に昇ったのは…同じ射干玉の黒だが肩に触れない高さで綺麗に切り揃えられた髪と、深い碧の双眸だった。
『殿下は…私にとって大切な御方です。それは、いつも変わらない…十年、二十年前から、そしてこれからもずっと…! でも、それではいけないのですか?
この想いは、かえられません。もし殿下が、それをお許しにならないというなら…今ここで、私の命を絶ってください』
ひっそりとした微笑の下に包まれた、勁烈な想いを…あの時は既のところで踏み躙るところだった。
セレス。飛び立ってしまった鳥。他者の腕で咲いた花。…わかっていた筈なのに。
自分の中の度し難い甘えに気づいて…サーティスは一時期、酷い自己嫌悪に陥った。そこから立ち直るのも決して自分ひとりで出来たわけではないが、今でも時々ふと思い出して心が乱れる時がある。
クロエの言う姫御前…マキといるときには、胸奥に残る僅かな痛みを時に自覚する程度だ。良くも悪くも目紛しいほどに忙しくて、囚われている暇がない。
だが、何かの理由でひとりになると、ふと捉まってしまう。
そもそも、セレスへの想いそのものが…マーキュリア・エリスの陰翳を引き摺っていることを、サーティスは自覚していた。だからこそ、余計に度し難いのだ。
大切なことには変わりはない。だから、幸せになって欲しい。そう思っているのに、逢えばこの腕に抱きたくなる。
――――苦しめるのが、理解っていても。
藁籠を砂の上へ置いて、サーティスは知らず、自身の頭髪を掻き毟っていた。髪を整えていた飾り紐が解け、襟元にわだかまる。それがどうしようもなく鬱陶しくて、闇雲に引っ張った。
「…莫迦、首が絞まるぞ」
顔を上げた時、思いも寄らぬ近さに黒檀の双眸があった。
繊麗、それでいて強靱な指先が、サーティスの指を解き、襟元で蟠り絡まった飾り紐をするすると解いていく。
「そう唸るな…御辺を責めた訳ではない」
言われて初めて、サーティスは自分が唸りに近い声を発していたことに気づく。襟元を滑る指先の感触が妙に心地好いのと、絡んだ紐の不快感を取り去られる解放感に、小さく息を吐いた。
飾り紐がすべて取り去られ、岩の上に静かに置かれた。下げ緒に通された、小さな勾玉が触れ合って音を立てる。飾り紐を置いたクロエの手が、そのままもう一度サーティスの頬に滑った。
「…御辺のそんな顔が見られるとはな。舞わせてみて正解だった」
「そんなに、面白い顔をしているか…俺は」
「そうだな、金仏と1 いうわけではなくて、単に韜晦すのが上手いだけだというのは…よくわかった」
先程と同じ、ひどく婀娜っぽい微笑を閃かせて…クロエは頬に触れていた手を、するりと顎へ滑らせた。
「サーティス…私は今、ひどく狡いことを考えているかもしれんぞ…?」
何だ、それは。そう云おうとした唇が、柔らかく塞がれる。
驚かなかったと言えば嘘になろう。だが、宥めるような、慰撫すような…ひどく繊細な触れ方に、思わず眼を伏せた。いとも簡単に侵入を許したのは、言葉を発しかけていたこともあろうが…捻じ込むというには程遠い、しなやかな舌先の動きに反応し損ねた所為だった。
惜しむように…緩々と離れた後、そっと口許を軽く拭われる感触に薄目を開けると、繊細な指先に拭われた紅が付いているのが見えて…すこし痺れさえしている唇の間から、細く息を押し出す。
クロエが祭に出かける前、衣服を改めた時…そういえば、薄く紅をひいていた気がする。いつもはあれで紅をひいていなかったのかと、軽く驚きを感じたのを思い出した。
たったあれだけのことで酔わされかけた。そのことに僅かながら口惜しささえ感じて、口許に強いて笑みを形作る。そうか、これが負け惜しみというやつか。
「…やれやれ、こうやってあの村娘も誑し込んだのか? 仮にも神職のくせに、あまり罪作りなことをするなよ。お陰でこっちが側杖をくう。先刻なぞ、視線で人が殺せるものなら、という眼で睨まれたぞ」
クロエが嫣然と微笑う。…完全に虚勢と見做されたようだ。
「誑し込んだとは人聞きの悪い。
あの娘はな…半年後には親の決めた相手と祝言が決まっているというのに、不安で夜も眠れないというから相談に乗っていたのさ。
祝言を控えた若い娘には、よくあることだ。最初は処方をしてみたんだが…あまり芳しくないので軽く手解きしただけだ。そんな事情であまり深入りしてもよくあるまい?
…適当なところで突き放さないと」
それは限りなく優しい微笑でありながら、唇から零れる科白はおそろしく容赦ない。
「軽く手解き、か…。そこで同意を求められても、困る…」
やはり喰っていたか。全く以て余計なことだが、初心な村娘があの手管で慰撫された日には、常の男などどうでも良くなってしまうのではないか?
「…それで? …狡いこと、というのは…今、此処にある温かさに縋るだけなら、誰も傷つかないという意味か?」
喉を滑る繊妍な指先の感触にまた思わず吐息を零しそうになりながら、サーティスは訊いた。
クロエは嗤う。
「…狡いだろう? 歳を経るというのは、狡くなるということではないかと思うことがある。足掻いてどうにかなることとならないことの区別が付くようになって、諦めることも上手になって…それでも持て余すときは…少々、狡くなるしかない。
…誰も傷つかないかどうかは、知らんがな…」
黒檀の双眸が細められる。この島の奥に棲むという大型の山猫もかくあろうかという、凄絶な…だが、同時に艶めかしい笑みが、薄く紅の残った唇を飾った。
「何が歳を経る、だ…。妖かと思うほど年齢不詳なくせに」
手を伸べ、クロエの唇に残った紅を指先で拭う。拭った下から現れた鮮烈な紅唇を、サーティスはさらりと撫でた。
「紅をひいたより、余程紅い…」
そのまま射干玉の髪が纏わりつく項を引き寄せ、今度は此方から唇を重ねる。黒髪に指を潜らせ、その感触を味わう。
そう、狡い。目を閉じて、心で何かを見逃して。…全てを知って、それでも委ねる。
潮が引いて間もないのだろう。まだ微かに湿った砂に、引き寄せたクロエの身体を横たえる。その動きで、豊かな射干玉の髪と、平時のものより更に白く柔らかい祭儀用の神官衣が、ふわりと砂の上に広がった。