数日ぶりに晴れ渡った空と、青い海の狭間…ラ・ロシェルの沖合に、一艘の船が停泊していた。
港というほどのものはラ・ロシェルにはない。集落のはずれに位置する入り江の一隅に桟橋がひとつあるきりで、それも水深が足りないから、漁舟か艀船しか寄れない。
連絡を受けてクロエとサーティスが入り江へ出てみたとき、その船から降ろされた小さな艀船の上にその姿はあった。
「――――っ…!」
まだ遠いから、しかとその言葉が聞き取れた訳ではない。此方とて連絡を受けているから辛うじてわかるというのに、少女は既に浜に立つ人々の中から尋ね人を捜し出したのか、舷側から身を乗り出してちぎれんばかりに手を振っている。
元気の良いことだ。だが…あれでは、落ちる。
クロエが隣に立つサーティスを見遣ると、同じことを感じていたのか…僅かに焦ったような表情で、波打ち際へ向かって数歩を踏み出していた。その、少し余裕のない表情が可笑しくて…思わず声をかけ損なう。
その時、何のはずみか艀船が揺らいだ。やはりというか、小さな身体が毬でも零れるようにどぼりと落ちる。
丸腰で大蛇に遭遇しても顔色の変わらなかった男が、一気に血の気を喪うのを思うさま楽しんでから…クロエはそのまま海に踏み込もうとするサーティスの腕を捉えて軽く後ろへ捻った。
「――――おい…!」
「待てというのに」
「捻る方が先か。一歩間違ったら肩が抜けるぞ」
「加減はしている。ほら、よく見ろ」
毬のように勢いよく沈んだ身体は、やはり毬が浮くように水面へ飛び出した。魚が跳ねるように一度腰近くまで跳び上がったが、立ってみると水深は少女の胸あたりである。これには少女も少し吃驚したらしく、立ち尽くして暫時左右を見回す。
船頭が心配して棹を差し出すが、少女は笑って謝絶すると、抜き手を切って此方へ向かって泳ぎ始める。…が、あることに気づいて、クロエは少し声を高くした。
「――――指で底を掻くな!」
クロエの声は届いたらしく、少女は暫く泳ぐと途中で水を掻くのをやめた。指先で珊瑚混じりの砂を掻くとその欠片で指を切ることがある。クロエの指摘の意味を瞬時に理解したのだろう。手が底に触れそうな水深になったところで立ち上がり、革鞋を履いた足で注意深く割れた珊瑚を踏み分けながら進む。それでも徐々に速度を上げていた。
「…御辺の大事な姫御前は、大層利発だな。おまけに大した脚力だ」
「だから、あれを見てまで姫御前はよせ。厭味か?」
「とんでもない。感心しただけだ」
実際、ただ忙しないだけではない。興味のままに突っ走っているようで、ちゃんと周囲を見ている。
「――――サティ!」
波を蹴立てて浜へ上がると、水飛沫を散らして跳ねる毬のような勢いのままサーティスの胸に飛び込む。びしょ濡れなのだが、全く頓着していない。それについては、受け止めた方も同様だから何も問題ないというところか。
「…全く、向こうで待っていればよかったのに」
「冗談!雨で何日船が遅れたと思ってんの!? 手紙で無事だってわかってても、もうこれ以上待てなかった!」
勢いだけは良いが、サーティスの襟元を掴む手には結構な力がこもっていたし…弾けんばかりの生気を湛えた緑瞳はわずかながら涙目になっていた。失言に気づいたサーティスが狼狽える。
「わかったから泣くな。こんなこと、バレたらまた愁柳にどやされる」
「大丈夫、言わないって」
「お前…あれを舐めてかかるなよ。どうにも奴は、順風耳 1 でも飼ってるんじゃないかと思うときがある。一体どこから聞きつけるんだか…」
「それは愁の人徳ってやつでしょ?」
「…正直どっちでもいいが。…それよりマキ、クロエだ。手紙に書いただろう」
サーティスの言葉に、少女がぱっと居住まいを正す。クロエに向き直り、シェノレス式に一礼した。
「ええと、マキといいます。今度のこと…本当に、ありがとうございました」
跳ねる毬のような先程の動きとは別人のような…端然とした挙措。この数日で習い覚えたとは思えないくらい、流暢なシェノレス語の挨拶だ。クロエは知らず、口許を綻ばせていた。
「シェノレス神官府のクロエだ。こちらこそ潮待ちの間、随分と彼には助けてもらった。お陰で職務が早く済んだから、私もこの便でエルセーニュへ帰る算段がついたよ。有り難う」
利発で可愛らしい「姫御前」の、潮水で濡れた髪をかきやる。クロエがあまりしげしげと見る所為だろう。少女が少し不思議そうにクロエを見上げた。
「シュテスまで渡ると聞いた。しばらくは一緒だな。シェノレスの船はシルメナのそれとは少し造りが違うだろう?珍しいものもあろうから、楽しんでおいで。時々、旅の話を聞かせてくれると嬉しいが」
「私でよかったら、喜んで!」
瑞々しい若葉の隙間から零れる木洩れ日のような笑みを閃かせて、少女が頷く。クロエは改めてそのつやのよい髪を軽く撫でてから、到着した艀船から降り立った神官衣の一団へ眼を向けた。うち揃って砂の上に片膝を折り、クロエに向かって慇懃に一礼する。
「では、また後刻」
そう言って踵を返し…職務に戻る。神官衣の一団も立ち上がってクロエに追随した。
到着した船は神官府が用意したものだ。採集・選別・梱包した薬種を積み込み、シュテス島までの数カ所の島に分散して備蓄しておかねばならない。艀船に乗って上陸してきた数人はその搬送のための人員である。その指揮を執る立場に、クロエはいた。
もうすぐ、戦がはじまる。あの男が全てを棄てて準備した戦が。
それは確かにシェノレスの悲願たるツァーリ打倒のためのものであったが、戦である以上、確実に血は流れる。だから来る戦…クロエはただ、あの少女が涙を流すような事態が起こらないことを願う。
だがそれも、祈り以上のことは出来ないと、クロエは知っていた。
――――守るものさえ間違えなければ…サーティスがあの男と同じ轍を踏むことは、ないだろう。
ふと足を止め、踵を返して入り江の穏やかな風景を視界におさめる。クロエは小さくつぶやいた。
「サーティス…可愛い姫御前、決して泣かすな」