「…心が壊れるほどに深く傷つくものなら、最初から逢わせなければよかったとお思いですか?」
リオライ=ヴォリス。父親すら眉ひとつ動かさず更迭した、烈気に満ちた若き宰相…だが、今は大切な友人を亡くし、大切な妹をも喪いかけて途方に暮れているひとりの若者。その彼に何故、セレスは更に追い詰めるようなことを口にしてしまったものだろう。
この青年は妹の悲嘆に心を痛めるあまり、その原因を作ったのが自分ではないかと危惧している。…父宰相に昂然と刃向かった烈気とは裏腹に、ひどく繊細な部分も併せ持つことにセレスは驚きを感じていた。
しかし。
逢わなければよかった。心を傾けねばよかった。本当にそうだろうか。
『…兄様、お嗤いになりますか。力なき身で不遜なことではありますが…私は、あの方が遺されたものを護りたいのです』
涙を湛えながら、それでも可憐な口許に微笑を浮かべて…ミティアは宣した。一時は自らを狂気の一歩手前まで追い詰め、命すら絶とうとしたほどの想い。それは確かに、ミティアがアリエルに出逢うことがなければ生まれ得なかった苦しみをもたらしたのだろう。
しかし彼女はそれら全てを呑み込んで、未来へ向かって踏み出すことを択んだ。マキの助言はあったにしても、彼女は間違いなく己の力で自身を闇の中から救い出したのだ。
籠の鳥。リオライの言うとおり、ミティアは豪奢な鳥籠に飼われるがごとき身の上であったかもしれない。だがその中でさえ、ミティアはヴォリス本邸の人の出入りや、侍女たちから聞き取るわずかな情報の中からアリエルに仕掛けられた宰相の罠に気づいたのだ。非凡な能力と言うべきだった。
彼の王太子が自身の命と引き換えに遺したのは、和平の約束だけではなかった。勁く聡明な王妃も、また。
――――その出逢いを否定するのは、おそらく間違っている。セレスはそう言いたかった。
かつて、セレスも苦しんだ。二度と逢うことの叶わぬ身で、いつまでも旧主の館にとどまることはできないのが判っていて…館を護ることを理由に留まり続けていた彼女に、エルンストは手を差し出した。
『お前をここにひきとめてるものが何かなんて、俺は訊かない。でも、それが苦しいのなら…俺の処に来い、セレス』
だが館を出て、衛兵第三隊で傭兵として生きることを択んだその直後。心ならずも旧主に再会してしまい、激しく心を揺らすことになった。
しかし今、セレスは此処に在る。
ものごとには必ず始まりと終わりがある。出逢いも別れも、自分で選択出来ることは稀だ。どれほどの深い想いがあり、強い願いがあろうが、いつまでも一緒にいられる筈もない。
――――だからこそ、択んだことを悔やむのは無益。だがそれを今、自分が得々とこの年若い宰相に説諭するべきことかどうか。
しかし…
「そうだな、それこそ…傲慢の謗りを免れまいな」
セレスの思惟が伝わった訳でもあるまいが、ゆっくりと、年若い宰相はそう言って深く息を吐いた。
「セレス、力を…貸してくれないか。あの子を、支えてやって欲しい。俺はこの上、ミティアまでも喪いたくはない」
セレスは、思わず呼吸を停めた。
「差し出口をおゆるし頂いた上に、勿体ないお言葉です、閣下」
絞り出した声は、多分揺れてしまった。…ああ、なんて狡い。それでも、彼女がそれを望んでくれるなら。
「セレス、何か…?」
意を決して、セレスは顔を上げる。
「閣下…赤児は…いるのですよ。後は、ミティア様からお聞きになって下さい」
それだけを言うのがやっとだった。
***
リュジノヴォの離宮へ赴いたミティアに、セレスは警護の名目で同道することになった。そして夏。その地で女児を出産する。
エミーリヤである。
ミティアはエミーリヤを猶子として迎えた。以後、女児はエミーリヤ=ヴォリスとしてミティアの手許で育つこととなる。
マキは頻々とリュジノヴォを訪れた。表向きはゼレノヴァ夫人の懇請でミティアの話し相手として呼ばれた格好だが、半分はエミーリヤを構いに来ているようなものだった。ヴォリスの猶子であるエミーリヤにはきちんとした乳母がつけられているのだが、マキがその乳母に次いで赤児の扱いに長けていたことに驚かされたのはミティアだけではなかった。
「えーと…まあ、あっちこっち旅してる間に、自然と。お産に立ち会ったことだってあるし。…って言うか、お母さんになったからって突然赤ちゃんをあやせるようになるわけじゃないって…ホントなんだね?」
ぐずるエミーリヤを抱っこ一発でぴたりと泣き止ませ、新たな発見に瞠目しつつ言うのだからセレスもミティアも立つ瀬が無い。
「あ、そーいえば! セレス姐さん、結局隊長さんに何にも言わずに出てきちゃったでしょ!? サティ、困ってたよ?」
マキに軽く睨まれて、セレスは思わず返答に窮した。
「…ごめんなさい」
「謝る相手が違うってば。…ったくもぉう、隊長さんは隊長さんで立場がどーとかって素直に来ようとしないし!逢いたいなら逢いたいって言えばいいのに。ううん、どのみち王都に戻ったら人目が煩いから寄りにくくなるんだろうし、こっちにいる間に十日やそこら、隊なんかディルに任せて会いに来ればいいんだ!
ね、エミーだって会いたいよね?」
同意を示したものかどうか、嬰児が小さな手でマキの鼻梁を撫でる。
マキに掛かれば、事態はいっそ羨ましくなるほどに簡潔明瞭。それを素直に肯んじることができないセレスとしては、苦笑するしかなかった。
「優秀な傅役も到着したことだし…すこし、歩いてきます」
セレスは産後、体調を崩している間に痩せた。それは即ち、剣を扱うための筋力の低下を意味した。再び剣をとれる体力を取り戻す為、セレスは自らに訓練を課していたのだ。
離宮は湖畔に建っている。湖畔に沿った小径を一周程度は良い距離であった。
湖に枝をさしかける木に、白い花が咲いていた。
百日紅の白花だ。散り際で、湖面に白い花弁が浮いている。
過日、王都の森を舞った風花を思い出す。季節は巡り、秋が、そしてまた冬が来る。だが、あの時の重苦しさは既に無い。
どれほどの深い想いがあり、強い願いがあろうが、いつまでも一緒にいられる筈もない。
――――だから、今は。
その時、不意に耳に入った蹄の音に思わず身を硬くする。何ということだろう。こんな近くまで気配を悟れないなんて!
腰の剣に手を掛けた。今、どのくらい戦えるだろうか?
だが、セレスはその馬の足音が耳慣れたものであることに気付く。
ガサリ、と灌木の茂みが揺れ…額に流星を持った黒鹿毛1が首を出した。
「済まん、こんな処に出るはずじゃなかったんだが…行けるか、ランツェ?」
その声は、酷使に耐えて悪路を突っ走ってきた乗騎に向けられたものであるようだった。主人の心配を頓着するでなく、生い茂った下草を踏み分けてランツェが姿を現す。
「…隊長」
思わず気が抜けて、セレスがレイピアの柄から手を離す。その声で、馬上のエルンストも気付く。些かばつが悪そうに下乗すると、すこし俯いて言った。
「…休暇中だ。隊はディルに預けてきた」
言わんとするところを悟って、セレスは微笑う。そして、その腕を伸べた。
「…エルンスト」
***
「…ひとつ、訊いてもいいかしら」
たっぷり遊んでもらって程良く疲れたか、他愛なく眠ってしまった嬰児を起こさぬよう上手に揺り籠へ寝かせるマキに、ミティアが問うた。
「あなたはひょっとして、以前から…兄様を識っていて?」
リオライ=ヴォリスの話が出る時の、この快活な友人が浮かべる微妙な表情。理屈ではなく、直感だった。だがその時、ミティアは始めて…その貌に僅かではあるが翳りが落ちるのを見た。
だが、その翳りは一瞬で払拭される。
「それは、知ってるよ?なんたって天下の宰相閣下だし?」
「あの、そういうことではなくて…いいえ、ごめんなさい」
ミティアが俯いてしまったのを見て、マキはすこし居心地悪げにその黒髪の毛先を弄んだ。ややあって、重たげに切り出す。
「…ごめん、多分…あの人は憶えてないと思う。随分前のことだし。それにね…」
風が涼しくなってきた。マキは窓際に寄って窓を閉め、ゆっくりと振り返る。そこにあったのは今までに見せたことのない…切なげな翳りを宿した微笑。
「それにね、私…多分…もう死んじゃったと…思われてるんだ」
ミティアは呼吸を呑んだ。
「…私ね、本当はノーアで北方民族って呼ばれてる集落の出身なの。
でも、そこで殺されそうになったから…村も、本来の名前も棄てて、南へ逃げた。まだほんの子供だったし…すぐに死にかけたところを…リィは助けてくれた」
サマンという民族が、ノーアでどう扱われるか…ミティアは知っている。
「私に、名前をくれたの。…それって、命を貰ったのとおんなじなんだよね」
マキは微笑んだ。
「私ね、私を拾ったことでリィが怪我したり、立場が悪くなるなんてイヤだった。リィの力になりたいと思った。…だから、離れた。力が欲しかったから。
でもね、最近ちょっと…わかんなくなってきちゃった。リィは、何だって持ってる。今更私の小さな力なんて、必要ない…かなって。
逢いたいことは…逢いたいな。今はまだ、駄目だけどね。逢って、元気だよって言って…それから…」
ふっと、初夏の陽に燦めく新緑のような双眸が潤む。だがそれを一瞬で払拭して、悪戯っぽく唇の前に指を当てた。
「絶対に内緒だよ、ミティア様。こんなこと、セレス姐さんにも…サティにだってまだ話してないんだもの」
ミティアはマキに歩み寄ると、この年少でありながら時にひどく老成した雰囲気を醸す友人を両腕で包み込んだ。
「…マキ…私に、出来ることはある?」
「うん、ありがと…。とりあえずミティア様、頑張って立派な王妃様になって?それがきっと、リィを…貴女の大切なお兄さんを、助けることになるよ」
嬰児をあやすように、ぽんぽん、とミティアの背を軽く叩いた。
――――自分が出来ることは何だろう。その身の能う限り、彼女たちは考え続ける。