悠然とソファに座を占め、典雅な所作で紅茶をゆっくりと賞味するその人物を前にして…ケイはごくストレートに途方に暮れていたし、シェインは苦虫を噛み潰したような表情でその人物の挙動を観察していた。
ケイとしては、交渉はシェインに一任する肚だった。ところが、そのシェインがひどく険しい表情のまま先刻から一言も発しようとしない。
…とにかく、雰囲気が重すぎる。
キリディック=トゥグリーフ連邦駐在副使。マリクの上司。マリクはこの上司のドタキャンを利用して、ケイとシェインを地球から脱出させようとしたのである。そこへ当の上司が忽然と現れ、経過をさっくり無視してなんだか突拍子もない依頼をしてきたのだ。
ケイの解釈が間違っていなければ、このひとは自分の部下に勝手に名前を使われた恰好の筈だが…そこは全く頓着していないらしい。むしろ、予定された状況の進捗を見に来て、おやまだここまでしか進んでないのかい?といった風情である。全く以て訳が分からない。
軌道エレベータの個室とは思えない、広壮なリビング。洗練されたスタイルのセンターテーブルをコの字型に囲むソファのうち、問題の人物は両側に肘掛けの付いた一人がけに座を占めている。ケイとシェインが座った長椅子からは斜め横…直角の位置だ。
交渉の時に真向かいに座ると対決姿勢に陥りやすい、横に座ると近すぎる、斜めの位置がベストだという。そんな雑学を教えてくれたジェスターが先程から沈黙したままなのも、ケイにとっては不安のタネだった。
馥郁たる芳香を放つ紅茶のカップ。その脇には3段の瀟洒なケーキスタンドが鎮座し、プレートの上には魅惑的な色彩を纏うフルーツタルトやスコーン、マフィンやプチケーキがひしめいている。
小腹も減った。タイミングは絶妙。…それというのに、どうにも手を出しづらい。
先程まで朗らかなツアー・コンダクターだったマリクまで、シェインと似たり寄ったりの表情でテーブルをセッティングしたあと、ミニキッチンへ引っ込んでしまったから、声もかけられなかった。
雰囲気の重さと、スイーツたちの声なき懇請に抗すること能わず、ケイは遂に口を開いた。
「えーっと、つまり…どーいうこと?」
しかし、ケイの問にキリディックはすこし意地の悪い笑みで答えた。
「…なるほど、〝ジェスター〟はその辺あまり丁寧に説明していないようだね。私はどうも彼に警戒されているようだ」
「え、あー…そうなの?」
ケイの問いはジェスターに向けられていたが、当のジェスターはやはり慎重な沈黙を守ったまま。いつもならお節介なほど喧しいのに、珍しいこともあるものだ。
「良いさ、依頼内容をきちんと話すのは契約の基本だからね。
大丈夫だよ、マリクが君たちにお願いするつもりでいたのと基本的には同じだから。
さっきも言ったが私は君たちを連邦に突き返すつもりなんて更々ないし、保護を条件に火中の栗を拾わせようっていうのでもないから。そうだな、至って人道的な人助けさ。それで…」
キリディックはそこで一旦言葉を切り、後方…マリクが引っ込んでいったミニキッチンのほうをさらりと流し見て言った。
「なぁマリク、いい加減で機嫌直して出てきてくれないかな」
暫く間があって、マリクが自分用のティーカップとソーサーを手にしたまま姿を現す。彼は彼で、先にキッチンで立ったままお茶を始めていたらしい。
「別に私は機嫌を損ねたりしてません。大体、何であなたが私の機嫌なんて気にするんですか」
表情は台詞を完璧に裏切っていた。ティーカップで口許を隠し気味にしてはいるが、目許は微妙に引き攣っている。
「いや、悪いとは思ってるよ?でも、お前だって同じこと考えてた訳だし…」
「だったらどうして最初から言ってくれないんです!」
「言ったら止めただろう。私が一枚かんだら事が大きくなるとかややこしくなるとか言って。やることは同じなのに」
「うっ…」
「はい、突っ立ってないで座る。大体、私の名前を使うのに本人に内緒っていうのもどうかと思うな。だから詰めが甘いっていうのさ」
「…ひょっとして、最初からひっかけるつもりでわざわざカ・アタ・キルラの件をキャンセルなんて言って…!」
「用があったのは本当だよ。先方は恐ろしく身持ちが堅いんで、お茶させてもらうのが精一杯だったがね。それにしたって出会い頭で〝可能な限り手短に〟とか…つれないことを真顔でいうんだから非道いと思わないか?久し振りのオフラインなのに」
「…そこで同意を求めないでください」
キリディックが心の底から切なそうに吐息するものだから、マリクはもはや反論する気力もなくなったらしい。カップをソーサーに戻してテーブルに置き、徐にケイたちの対面に腰を降ろす。
「彼らに状況を説明するために資料はととのえてあるんだろう?出し惜しみしなくていいからここで開けてしまおう」
「お持たせのケーキを強請る客ですか、あなたは。…はいはい、お見通しですね。まったく、私を何だと思ってるんでしょう、このひとは」
センターテーブルに組み込まれたホロ機能を立ち上げながら、マリクがぼやく。後半はややごにょごにょと口の中だったが、正面にいるケイとシェインにも筒抜けるくらいだから、当然キリディックの耳にも入る。
「信頼に値する部下だと思ってるよ。…まあ少し、詰めが甘いがね」
マリクの懊悩に全く頓着していない、端麗な微笑。さらりと言い放たれ、マリクが項垂れた。2秒ばかり動作が止まってしまったが、半ばやけくそのようにリターンキーを叩く。
「マキ=セイラル」
キリディックのよく通る声。それと共に背景のない人物像が現出した。
「わ…っ…」
ケイは声をあげかけて呑み込んだ。美しいストレートの黒髪を肩まで垂らした少女だ。歴然たる美女というには年齢が足りないが、十分に目を惹く容姿であった。だが、今はそれを賛美していられる状況ではない。
「シファー=セイラルの〝娘〟でASL所属の門技術研究者の一人だ。Lー委員会については何か?」
「へっ?実在すんの?」
「まあ、そんなところだろうな。シファー=セイラルはLー委員会のメンバーだ」
「えーと…大災害から人類を救済するために尽力した組織、とか。都市伝説だと思ってたよ、俺」
「概ね正解。まあ、あんまり表に出ると面倒になるから、公的には人類連合の諮問機関ってことになっているが、地球を再生させ、激減した人類を新天地で再興させるために他星系への移住を提案、実行に移した者達というのは本当だ。そのための技術を提供したのがASL…Apse Sentinel Laboratory、Lー委員会のメンバーから情報提供を受けて実際に技術開発に携わる部署で、これも人類連合の管掌する技術開発組織ということになっている」
「何だか話が大きくなってきてピンとこないんだけど。〝ことになってる〟がさっきから何回か出てきてるってことは、実情はちがうって意味だよね?」
キリディックは少し驚いたように質問者に目を留め、悪戯っぽい…というより幾分意地悪い微笑をその口許に浮かべて問い返した。
「そこツッコんで話すと説明に少々時間がかかってしまうが…いいかな?」
ケイは一瞬硬直し、次に顔じゅうに冷汗を浮かべ、最後に項垂れた。
「…スミマセン話進めて…」
「いや、時間に余裕はあるから別に構わないんだけどね。
さて…10年ばかり前のことだ。ASL内部…もっと言えば門の開発技術者間で運用に関する意見対立があって、そこに起因するいざこざから、死傷者も出た」
そこまで聞いて、ケイがはっとして息を呑む。おそるおそる、といった態で隣にいるシェインを窺うと、その表情は凍り付き、顔色は蒼白というレベルを超えていた。
いきなり地雷を踏まされた感触に再び冷汗を垂らしながら、ようやくのことでキリディックの方へ向き直る。…このひと、知ってて言ってるよな?
ケイの些か非難がましい視線をものともせず、キリディックは坦々と説明を続ける。
「彼女はアルバート=リストと同じ立場で研究に携わっていた。そのリストの事故死に身の危険を感じたらしい。研究データ諸共姿を隠し…以来、消息が途絶えている」
「…まさかと思うけど、闇から闇に葬られたとかいうコワい話?」
こんないたいけなお姫様が?ケイは暗然としたが、キリディックは首を横に振った。
「無事なのは確かだ。ただ、自分の意志で身を隠しているのか、囚われているのかは実のところ判らない。さっきは〝囚われのお姫様〟なんて言ったが、実は天ノ磐戸の天照大神、という可能性もあるんだ。ああ、ここは一応お詫びと訂正を」
「なんだそうか、吃驚した」
「門の管理はいまだに連邦の専権事項なんだが、門の技術そのものが基本的にまだ非公開だって話は知っていたかな?
系外移民が一段落した頃、優先度が下がったことからASLでも門の研究は長らくストップしていた。一定のリスクが残ったままだったんだが、とりあえず惑星開発に必要な資材、人材が送り込めたから、まずは移民先が落ち着く方が先だ、となったわけだ。
それがようやく再開されたのがつい20年前の話。ところがアルバート=リストの事故死、マキ=セイラルの失踪によって、現在は再度中断したままだ。相変わらず情報も非公開。いまだに気楽な星間旅行という話にならないのはその所為さ」
「えーと、そういえばそうか」
太陽系外植民、アル・アティルのような地球以外での国家樹立、人類連合結成…考えてみれば星系間移動技術そのものが開発され、初めて実用に供されてから既に世代を超えるほどの時間が経っている。人類の技術開発速度を考えれば、とっくの昔に星系間旅行が一般化していてもおかしくない時間の筈だった。
しかしなんだかんだ言ってもまだ人類は復興途中なのである。技術そのものにリスクが残っているというなら、それを冒して星系間移動を行う理由はそれほど多くないだろう。
「そっかぁ、実直に危ないから制限してるんだ。てっきり、連邦が皆に好き勝手うろうろされたら困るから制限してるのかと思ったよ…て、何?」
キリディックが再び興味深げに注視しているのに気づいて、ケイは思わずフルーツタルトに延ばしかけた手を止めた。
「いや、意外と鋭いなと思って」
「何だよそれ」
「まあまあ、話が横に逸れそうだから…とりあえずそこは今スルーしよう。
…で、彼女の居場所と研究データの在処はこの十年ばかりその筋の注目の的だったんだが、杳として知れなかった。ところが、どうも最近になってその居場所がわかりそうだ、という噂が流れたのさ。彼女の身柄と研究データはどの陣営だって喉から手が出るほど欲しがっている。俄に不穏な空気が流れ始めたという次第だ」
「えーと、俺…荒事は向きじゃないかも」
話の風向きが剣呑になってきたものだから、背中に冷汗を感じてケイが予防線を引く。
「大丈夫、そこで君の能力だ」
「…え?」
ケイが硬直する。すると、それまで沈黙を保っていたシェインがようやく口を開いた。低く唸るような声であった。
「…ケイの能力で、マキ=セイラルの居場所を特定する…そんなところか」
「ご明察」
意を得た、というようにキリディックが微笑した。
「あなた方は彼女の居場所をある程度は絞り込んでいる。だが、決め手に欠けるし、下手に動いて他の陣営に察知されるわけには行かない。だからケイの能力で彼女の居場所をピンポイントで特定し、可能なら秘密裏に彼女の身柄を確保しようというんだな」
シェインの言葉に、ケイが青くなって打ち消すように両手を振った。
「わぁお、待った待った!いいたかないけどね、あんたら俺の能力とやらを過大評価してない?」
「いやいや、控えめに言って有史以来ほぼ初めて出現した能力だよ。だからこそ君は収監されることになったわけだし」
「そりゃそうなんだけど、それについちゃまあ、他にも原因が…」
「私はね…彼女が身を隠す原因を作った連中が、率直に言って嫌いなんだ。それと、彼女とは些かご縁があってね。彼女が窮状にいるなら何とかしてあげたいと思っているのさ。
ウチで把握してるところでは、彼女が月にいるのはほぼ確実らしい。ただ、そこから先が…ね。
そこで、ケイ=クサカベ、君の能力で彼女を捜し出し、シェイン・A=リスト少佐には実際の救出作戦行動の手伝いをしていただきたいと思ってる訳なんだ」
「無茶だって!」
思わず跳び上がって全力で首を振ってしまい、眩暈に襲われてケイは座り込んだ。
「大丈夫、君の能力についてコントロールに難があることは織り込み済みだよ。随意的・効率的な行使にはある程度調整も必要だろう。そこはウチで持つから、ひとつ協力しちゃ貰えないかな。君だって能力がコントロール出来るに越したことはないだろう。
そうして貰えるなら、ミッション完遂後は君らにアル・アティルに籍を用意する。当然、連邦には以後一切手出しさせない。どうかな?」
一見、端正な美貌が人好きのする微笑を浮かべて至極まっとうな提案をしているようにしか見えないが、うっかりここで頸を縦にふってしまうと大変なコトになりそうな気がして、ケイはシェインの方を窺い見た。だが、シェインはといえば難しい顔をしてキリディックを凝視したままだ。
「さて、こちらの手札は晒したんだ。静止軌道ステーションまであと丁度24時間というところか。準備で12時間は欲しいから、まあ、そうだな、返事は12時間後、一晩ゆっくり考えて貰ってからってところでどうだろう。
とりあえず君たち二人で…何ならケイ、君の〝ジェスター〟にも相談してくれて構わないよ。〝ジェスター〟には悪くない返事が貰えると、私は確信してるけどね」
キリディックが立ち上がろうとするのを、シェインが挙手で留める。キリディックはいっそ興味深そうな表情でもう一度ソファに腰を落ち着け、シェインへ先を促した。
「…さっきから聞いてると、俺たち二人が行動を共にする、という前提で話が進んでるようだが、ケイが乗っても俺が乗らない、もしくはその逆だったらどうなる?それと、返答が二人ともNoだった場合」
それに反応したのは、キリディックよりもケイの方が早かった。
「えーっ!シェインってば俺を見捨てるつもりなのか?」
声は大きいが、まるで傘を持たないまま出先で雨に降られたような表情である。シェインが苦い顔でケイの後頭部を軽くはたいた。
「情けない声を上げるな。とりあえず黙って聞いてろ。…で?」
「無論、二人とも乗らない、って話になっても地球圏からの亡命に関してはウチで責任を持たせて貰うよ。どちらかが、という場合も同様。ただしその場合の亡命先はアル・アティル以外にはなるけどね」
「ケイの能力は気になるが、アル・アティルへの亡命を希望しないなら固執はしない、と?」
「まあ、そういうことだね。それと君は自分の価値を過小評価しているよ、シェイン・アストレア=リスト。ウチとしては有能な軍人としての君もそれなりに引き抜く価値のある存在だが…君の場合はそれだけじゃないからね。…そろそろ思いだしているんだろう? さっきから頭痛を堪えてる顔だからね」
キリディックの指摘にケイがシェインを見る。
「…やっぱり…具合、悪いのか?」
「気にするな。大したことはない。
…あんたがたの提案については理解した。返答は12時間後に」
「よい返事を期待しているよ…」
キリディックが立ち上がったので、マリクがテーブルのホロ機能を切った。ところが主人がそのまますたすたと立ち去ろうとするので、慌てて声をかける。
「…っ…どちらへ?」
「いや、もといた個室へ戻るだけだけだが。私が此処に二人も居ちゃ不味いだろう?」
「此処にいる限りバレる話じゃないと思うんですが…それに個室って…いつの間にそんな手配してたんです」
「それは…内緒。ほったらかしにしてたら、いろいろ骨折ってくれたひとにも悪いからね。とりあえず約束の時間には戻ってくるから」
「…ッた、あなたって人は…いつか寝首掻かれますよ!」
「それはそれで面白いかもしれないね。そういうわけで、済まないがマリク、あとはよろしく。ああ、お茶とお菓子ご馳走様」
そう言うとキリディックは軽快に手を振って個室を出て行ってしまう。
それを見送ったマリクはもはや怒る気力もなくしたらしく、些かぞんざいな吐息を零したあとで端然とカップとソーサーをミニキッチンへ下げにいった。
そうして、改めて淹れ直した紅茶をそつのない動作で供すると、丁寧に一礼する。
「予定といろいろ変わってしまいましたけど、あの方が提案したことと、私の考えていたことにそう隔たりがあるわけではありません。
正直、あの方と違って…私は自分のやってることにそれほど自信があるわけじゃない。本気で連邦とコトを構えるつもりも更々ない。マキが本当に、困った状況にあって助けを求めてる訳じゃないって可能性だってあるわけです。それから、Mr.リスト、あなたのお父さんが事故死でなく謀殺だった…そんな話を今更蒸し返すことになるのを承知の上で、この話を持ちかけることを…心から申し訳なく思っています。
それでも、私は無為でいることは耐えられなかったんです。ひょっとして私は、あなた方に手を差し伸べたつもりでとんでもない面倒ごとに巻き込んでしまったのかもしれない。
だから…私にはあの方ほどの影響力があるわけではありませんが、あなた方が今の話を聞いた上でやっぱり御免だというなら…私の権限の及ぶ限り、必ずどこか他星系へ亡命する準備は整えます」
マリクが至って真剣な表情で再び頭を下げる。小柄で童顔というのは、交渉においてなめられやすいという一面を持っているかもしれないが、真摯さを疑うことすら憚られる容姿というものがあるとすればまさにマリクがそうだった。
「ありがとう、Mr.シャイア」
シェインは穏やかに笑んで言った。
「とりあえず…すこし、考えさせてくれないか」
***
ジュニアスイートの部屋。寝室に鎮座するクイーンサイズのベッドは空で、バスルームからは水音がしていた。
一体のアシスタントドローンがミニキッチンでコーヒーを準備をしている。ふと動作を止め、くるりと向きを変えてルームエントランスへ滑っていった。
扉の前でピタリと止まってスイッチを押す。扉が開いた。
「お帰りなせいませ」
「はい、ただいま」
開いた扉の向こうに立っていたのは、キリディックであった。
部屋がスーペリアシングルで契約されている以上、搭乗時に貸与されるキーは一枚である。本来の部屋主が在室していれば持ち出す訳にはいかないから、キリディックは部屋に残しておいたドローンに解錠させたのだった。
ちなみに現在ケイとシェインがいる、本来「キリディック=トゥグリーフ」の名で契約されている部屋に入るときは…堂々と総合接客カウンターへ行って本名で紛失を届け出た上でキーの再発行を依頼したのだった。
「いい匂いだね。ということは、彼女はもうお目覚めかな」
するりと身を退いてキリディックを通してから、ドローンがいそいそと後をついて行く。途中、主人からクーフィーヤとイガールを受け取ってクロゼットへ寄り道するが、キリディックがリビングのソファに身を落ち着けるまでには戻ってきた。
「はい、先程。いまはお風呂をつかっておいでです。風呂上がりにコーヒーをご所望でしたので、準備を。マスターも何かご希望がありましたら」
「折角いいコーヒーの香りがしていることだし、私はアイリッシュ 1で貰おうかな」
「かしこまりました」
ドローンがキッチンへ消えるのと入れ替わりに、部屋の主がバスローブ姿で髪を拭きながら出てきた。
「あら、帰ってたの。用事は済んだ?」
つやの良い黒髪をショートカットにした長身の女性である。バスルームには壁面と天井に埋め込んだドライヤーがあって、快適な風で髪と身体を乾かしてくれるのだが…彼女曰く、『髪は自然乾燥が一番』と決して使おうとはしない。水気を粗く拭き取っただけの黒髪は凜とした美貌と相俟ってそれなりに艶っぽいのだが、本人が無頓着なのとキリディックが自然体なので、場の雰囲気は艶めかしさとは至って縁遠かった。
「とりあえず一段落さ。ご協力に感謝するよ、マリエ」
マリエと呼ばれた女性は、キリディックが伸ばしかけた腕をさらりと躱すとよく手入れされた白刃のような微笑を湛えてキリディックを一瞥し、その傍をすり抜けた。
「協力…はしてないな」
「おや、そうかい?」
「あなたがラウンジにいたから声掛けてみただけよ?他は知ーらない」
「…貴女のそういうところ、助かるよ」
マリエは悪戯っぽく笑ってそのままベッドルームへ直行した。一旦扉を閉めて着替えを物色していたが、すぐに扉を開けて上半身を覗かせる。
「ただし!あんまりやんちゃしてアウラを困らせないでね」
キリディックは穏やかに笑んで言った。
「…肝に銘じるよ」
***
広壮でも華美でもないが、上品な調度に囲まれた部屋。
長椅子に、肘掛けに頭を預けて一人の女が伏せていた。
色の淡い髪を流れるに任せ、半ば閉じた両眼の色彩は明らかでない。ゆったりとした部屋着に身を包んでいた。
テーブルの上にはホロディスプレイが複数のウィンドウを展開している。
女は表示されては消えていくデータを横目で…すこし物憂げに流し見ていたが、ふとホロディスプレイの画面を手刀で両断する。画面が直ちに消え失せ、ディスプレイの低い唸りが消えて部屋に静謐が戻った。
ひどく大儀そうに身を起こす。だが、その白い肩からゆったりとした部屋着を滑り落としたら、その後の動きは急にきびきびしたものになった。クローゼットに掛けてあった紺青のスーツに身を包むと、殆ど鏡を見ることもなく色の淡い髪を手早く結い上げる。
FIO長官・アウレリア=アルフォードの姿がそこに在った。
上品なローテーブルに手を翳すと、その上面が淡く発光し、操作卓が姿を現す。その時、はかったように続き部屋のドアがノックされた。
「いいわ、入って」
開いたドアの向こうには、ランドルフ=ダグラスの姿があった。
「調子は?」
「問題ない。時間を取らせてしまったわね。ごめんなさい」
即座に返ってきた答えに、ダグラスは必ずしも納得できたふうではなかったが…そこを追及することなく、示された画面に目を落とした。
「ダミアンに動きが?」
「いいえ、今のところは。だから、キリディックの情報を裏付けるものもまた、ないということよ」
キリディックの名が出た瞬間、彼の冷静そのものの表情をほんの一瞬だけ感情の細波が走り抜けた。それは、アウレリアがキリディックに対したときよりもかなり振幅は小さいものの、確かに同質であった。
「どうする?放置したらしたで厄介とは思うが」
「そうね…でもどのみち、今頃彼はもう軌道エレベーターの上でしょう。今更綱をかけて地上へ引きずり下ろすわけにもいかないわ。とりあえずは静観するしかない。
レベッカからも注意喚起は来ていたというのに、いつの間にか随分と面倒な事になってしまったわね。せめて、それとなく追跡できればいいのだけれど」
アウレリアの眉目に愁いの翳りが落ちるのを見て、ダグラスが小さく吐息する。しかし、ふと悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「それとなく監視、というなら…うってつけがいるな」
***
ASLの拠点は地球上に数多あるが、レベッカのオフィスは大西洋の只中にあった。
ユーディト・レベッカ=クラナッハ…ASLの統括責任者。外見的には20代後半か30代の、黒髪長身の女性である。FIO長官アウレリア=アルフォードと似た雰囲気を持ってはいたが、こちらは昂然たる怜悧な美貌の所有者であった。
ASL(アプス・センティネル・ラボラトリー)の名は、原初の海の番人たちの研究室を意味する。その本部たる人工島 2がここだった。
人工島は筏のように波間に浮いている。そして風の干渉を避けるためにその構造物の殆どは海中に没していた。
基本的には海中でゆらゆら漂っているというのが正しい。ただ、バラストと係留索で流されないよう対策されているし、構造物は巨大であるため、少々の嵐では小揺るぎもしない。
その証拠に、今日も外は風が強かったが…彼女の傍に置かれたティーカップの水面は至って静かである。
ホロディスプレイ上を流れる報告書を斜め読みしながら、レベッカはティーカップに手を伸ばした。
連邦との直接折衝にあたる時の利便性を考えれば本部近くにオフィスを構えても良かったはずだが、敢えてここを選んだのは…その静謐を愛したからだった。…有り体に言えば、考え事ぐらいゆっくりさせてほしい、ということである。絶海の孤島に居を構えていれば、さしあたってのべつ幕なし押しかけられることはない。
統括責任者といえば聞こえは良いが、とどのつまりもめごとの仲裁を一手に引き受けなければならない立場ということだ。ASLの基本スタンスは「自らの信じるところに拠って研究を進める」。それは確かに正しいことなのだが、どうしてこう、諍いが絶えないものだろうかと思う。
FIO本部ビルに侵入者。しかも解析不能な能力を用いて早々に脱走。これだけでも頭痛の種には十分なのに、侵入者はシェイン・アストレア=リストを巻き込んで失踪している。旧友の心痛を思えばただ頭痛に唸ってもいられなかった。
コルネイユが、座視するわけがない。
そしてまた、コルネイユの独善を快く思わない者も、当然行動を起こすだろう。
小さなアラーム音が鳴り、レベッカは時計に目を走らせる。
…連絡の時間だ。
――――To be continued
- アイリッシュコーヒー… 深煎りコーヒーとウイスキーのカクテル。生クリームと砂糖を加えるパターンもあり。アイリッシュウイスキーを用いるのが正道らしい。
- 海中都市といえば、清水建設が出しているBLUE GARDEN構想はなかなか楽しい。ご興味のある方は此方