Section-5

「ジェスター。ジェスターってば!」
 ケイは腕時計型の携帯端末をタップしたが、反応はなかった。
 寝室はまだ空だった。マリクはともかく、シェインはおそらくまだ考えごとか調べ物というところだろう。ケイはいろいろイヤな汗をかいてしまったので、シャワーを使ってきたところだった。
 広いベッドに勢いよくダイブして、ごろりと仰向けになる。話さなければならないことは山ほどあったが、多分、先方シェインはその準備が整っていない。
 実直に、自分だってちゃんと説明が出来る自信などこれっぽっちもないのだが。
 ケイは吐息して、とりあえず上等な部屋のベッドの感触を愉しむことにした。
 ジェスター…その役目を終えた後も、些か強引に端末を乗り継いでケイの傍に在り続けたAIは、いまだ沈黙を保っている。 
「何なんだよー、愛想ないなぁ」
 上等なベッドで輾転反側しつつ、ケイはいつの間にか眠っていた。

***

 いい加減、見飽きないか。ケイに向けてそう言ったのはシェイン自身で、しかもつい先程のことだったのだ。だが今、シェインはそのひたすらに昏い夜の闇に対峙していた。
 リビングにはまだ小さいながらも灯りがついていたから、窓はぼんやりとシェインの姿を映している。見慣れた顔。毎朝顔を洗った後に洗面台の鏡に映る顔だ。それなのに、訳の分からない違和感に襲われて眩暈を覚える。シェイン・アストレア=リスト、連邦軍情報部少佐。27歳。生まれた場所から士官学校を卒業するまでの経歴を思い出そうとすると、眩暈は立っていられないまでの凶悪さでシェインを揺さぶった。
 たまりかねて傍のソファに身を沈めると、テーブルに組み込まれたホロ機能が低い唸りとともに起動した。
「〝ジェスター〟か…」
「Yes,My Lord Astray.」
 リビングテーブルの上に、大きな眼、大きく裂けた口の割に愛嬌のある顔をしたチェシャ猫が現れた。
「…俺が憶えている経歴の中にお前はいない。だが、俺はお前を識っている。…どういうことなのか、説明はしてくれるんだろうな?」
 AIのくせに、慎重に言葉を選ぶかのような間を置いて…ジェスターは口を開いた。
「…今のあなたの中には、2系統のナラティブ 1が存在している」
「どっちが本当なんだ」
「ナラティブに嘘も本当もない。あなたが現在を認識する方法が2系統あるということだよ。
 あなたは二つの場所フィールドを持っていた。
 キティとランディの許で、ケイと出逢い、ジェスターを組み上げたアスティン、そしてウィルの後継者として共に研究に携わっていたシェイン。いずれもあなたであることに違いはない。その立ち位置スタンスが異なるだけだ。そうだな、キティがウィルの妻であり、あなたの母親であり、ランディの姉で、アウラの無二の友人であったという事実が矛盾なく存在するのと同じだ。あなたの場合はその片方が極端に抑圧されて意識に上ってこないだけのことだ」
「…何処でねじれた…?」
「無論、あの事故だ。あなたはアスティンでいることも、シェインとして研究を続けることもできない立場に立たされた。キティとアウラはあなたを護るために、苦肉の策をとった。…結果、あなたは研究を離れ、シェイン・アストレア=リストという軍人としてアウラの管理下に置かれることになった」
「護る…?監視の間違いだろう」
「監視はしただろう。レアンドル=コルネイユあたりにこれ以上手出しさせないためには、アウラクラスの立場で監視しているという事実が必要だった。揺籃の守護者カストル・オヴ・クレイドル裁定者アストライアアウレリア=アルフォードをないがしろにするなど、王権を握る者オジマンディアスでさえ困難だ」
「じゃあ、やっぱり…あれは…ランディの右手は…」
「あの件に関してあなたの記憶は改竄などされてはいない。事故に遭ったのは3人。あなたと、アルバート・ウィリアム=リスト、そしてランドルフ=ダグラス。ウィルは亡くなり、ランディの右腕は失われた。あなたも重傷で、しかも重度のPTSDを併発。一時はそれこそ支援AIを必要とする状態だった」
 シェインが頭を抱える。ジェスターは坦々と続けた。
「そのフラッシュバックを抑制するための投薬で、記憶の混乱が起きた。私に関する記憶もその段階でかなり想起困難なレベルに落とされたと考えられる。より正確には、混乱を統合するためにかなりあなたの中で強引な辻褄合わせが行われたというべきだろう。
 カウンセリングによる若干の誘導はあったにしろ…結果、現在を択び取ったのはあなたなのだよ」
「…アウラは、生き残った俺が再度謀殺の危険に晒されることを回避するために、敢えて第Ⅲ級危険因子サードリスクファクターとラベリングしたのか」
揺籃の守護者カストル・オヴ・クレイドルは、人類との軋轢とその末の破滅を防ぐことを主務としている…それはあなたも知っての通り」
 シェインは細く吐息し、ソファに凭れて天を仰いだ。汗の浮いた額を拭う。
「どうすれば、よかったんだ…」
「…戻るかね、彼女の許へ」
「それはできない」
 即答だった。
「あの時は、ASLを離れるしかなかった。ちょっと小利口なだけの子供ガキには保身が精一杯だったんだ。だが今は違う」
 汗に濡れた自身の掌を眺め遣り、強く握り締める。
「せめて、あれほど強引な手段で研究を止めさせた理由が知りたい。…何故、親父は殺されなければならなかったんだ」
「…彼女は、あなたがそう・・傾くことを懼れていたのでは?」
 シェインは思わず呼吸を停めた。そして、ゆっくりと吐き出した後、改めてチェシャ猫の剽軽な顔を見遣る。リアルタイム処理を不要と判断したのか、ホログラムはいつの間にか静止していた。そうすると置物インテリアめいた印象すらある。動いていればそれなりに可愛気もあるが、こうなると不気味でさえあった。
「…お前は、誰だ?」
「私は〝ジェスター〟だよ、アストレイ。あなたも認めたのでは?」
「俺だって自分の技術にそれなりの自負はあるが、所詮プログラミングに関しては言ってみればアマチュアだ。自惚れるつもりはない。いくら自律モードに移行して独自のアップデート、情報収集を重ねたとしても、お前の機能は明らかに俺の設計を逸脱している。
 …もう一度訊くぞ、『お前は誰だ』」
「困ったね」
 ホログラムが再び動き出す。耳やヒゲを動かす、いかにも猫くさい動作をして見せた後、テーブルの上にどっかりと寝そべって顔を洗い始めた。
「そろそろ言われる頃じゃないかとは思っていたよ」
「そう思うなら、そのわざとらしい猫かぶりもやめたらどうだ?」
「これはこれで私の表現様式だ。〝言語バーバルコミュニケーションに依存すると対応が薄っぺらく感じられる、作為的アーティフィシャルと言われようが、ある程度のゼスチュアは必要だ〟と…私がグラフィックに割くリソースの削減を提案したら、あなたが言ったんだがな。
 もとより私はAIアーティフィシャル・インテリジェンスだと言ったら、違いないといって結構ツボってたじゃないか」
 確かにそのやりとりは記憶にあった。疑惑を鮮やかに切り返された格好である。だが、ジェスターはやや俯き加減に言葉を継いだ。
「…なあアストレイ、こればかりは信じて貰うしかないが、私は私なりに最善と判断して行動している。その基準はあくまでも、あなた方の安全を確保することだ。私はそうつくられた」
「ならお前は、俺があの事故の真実を暴こうとしたら、阻止するのか?」
 ジェスターは一瞬動きを止めた。だがすっくと立ち、ぴたりとシェインを見据える。
「私はより危険の少ない方法を提案する。あなた方の行動を掣肘することは、私の目的ではないのだから」
「…いいだろう」
 シェインは小さく息を吐いた。
「では、お前が今までに収集した情報の中での判断を訊こう。
 俺たちはアル・アティルの…というより、キリディック=トゥグリーフの提案を容れるべきか?」
「Yes」
 回答は端的であった。
「あなたが、マキにもういちど会いたいと思うなら…現時点で一番完遂確率の高い選択であると判断する」
 マキか。シェインの眉目に、一瞬だけ寂しさを伴った苦笑が閃く。
「…わかった…」

***


 アンドリュー=シラセ大尉は、FIO本部ビル保安主任である。だが、先日FIO本部ビルで起こったテロによって負傷したため、傷病休暇を申請した。
 だが、本当にあれがテロだったのか…シラセには判らない。
 職場は戦場と化した。だがそれも、誰が敵なのかさっぱり判らない、敵の姿が全く見えない奇怪な戦場だった。事件の後からずっと得体の知れない疲労感にのし掛かられ、困憊した挙句…休暇届とは別に、密かに除隊願をポケットにしのばせて保安部長のオフィスへ向かったのであった。
 電子申請で済むところを、わざわざペーパーで除隊願を作成したのは…まだ踏ん切りがついたわけではないからだ。傷病休暇は申請済みであり、既に受理されている。しかも、軍務につけない以上変更されるものでもない。ただ、一応挨拶をしに行くだけのことだった。
 アポイントはとっている。遅れる訳にはいかないが、オフィスの前でシラセはとりあえず一呼吸置いた。そして、扉横のインターフォンに触れる。官・姓名を告げると、セキュリティが承認のサインを示し、扉が開いた。
 オフィスの主はデスクについて、無数のホロディスプレイに取り囲まれていた。
 上司…保安部長であるランドルフ=ダグラスは190㎝を越える長身痩躯、どこから見ても有能な軍人といった風体である。いつまで経っても大学生か、任官したばかりの初級士官のような雰囲気が抜けないと評されるシラセとはえらい違いだ。
 しかし、その上司が入室したシラセを視認するなり口にした言葉に…シラセは戸惑わざるを得なかった。
「大変だったな」
 この人物の本業は医者らしいが、軍務についているのはひたすらに女王陛下アウレリア=アルフォードのため。その程度の噂は、シラセも知っていた。だから、女王陛下の役に立たない駒にはトコトン厳しい。それは噂であると共に真実。それがシラセの認識だったのだ。
 だからこそ、本来は至極真っ当といえば真っ当な慰労の言葉に、ほっとするより先に警戒してしまうのは致し方ないところであった。
「いえ…力及ばず、人的物的に被害を出してしまって申し訳ありませんでした。本来なら降格もあり得たところです」
 謙遜ではなかった。実際、覚悟もしていた。
「状況が状況だ。対処は難しかった。私も結局、何も出来なかったのだからな。君が降格なら私も同じさ」
 怜悧な口許に僅かな苦さがあった。シラセは峻厳な上司の思いのほか柔らかい反応に、つい正直な述懐を零してしまう。
「あいつ…シェインに…何があったんでしょうか…」
 はっとして口を噤む。だが、後の祭りだ。
「そう言えば君は、あれ・・と面識があったな」
「…面識、というほどのものでもないかもしれませんが」
 用心しながら、シラセは言った。あなたほどじゃありませんが、と胸中で付け加えながら。だが、上司は相変わらず穏やかだが底の見えない表情で、こちらを見ている。背を氷塊が滑り落ちる感覚を味わいながら、シラセは反応を待った。
 だが、返ってきたのは至極常識的な慰労の言葉だった。
「アンドリュー=シラセ大尉。ともかく、ゆっくり養生することだ。君だけの失態というわけではない。責任を感じるのは判るが、早まるものではない」
「…痛み入ります」
 何で判るんだろう。咄嗟にポケットの中の除隊届を左手で抑えてしまい、思わず冷汗をかく。
「時に、療養のプランは決まっているのか?」
「はぁ、入院は必要ないと言われているので、官舎でおとなしくしていようかと…」
 歩行補助機能を付加された装具に固められた足を見遣って、シラセは素直に答えた。
 現代、下肢骨折に対して固定と歩行補助の機能のついた治療装具を装着するのはスタンダードな方法だ。だから骨折していてもそこそこ日常生活に苦労はしない。軍務はともかく、デスクワークだけの自営業者なら無理矢理復職するレベルである。
「それも悪くないが…君さえよければ、月で治験プログラムを受けてみる気はないか?」
「は?…月?」
 妙な風向きになったものだから、思わず間抜けな反応をしてしまう。
「月面の重力条件で、早期の荷重歩行を行うプログラムの治験例を募集しているんだ。固定を最低限にすることで、医療関連機器圧迫創傷MDRPU 2の発生を抑える研究でもあるらしい」
「えーと…無料タダですか?」
「治験だからな。当然金銭かねはとらんよ。むしろ薄謝謹呈というところか。プログラム中の宿泊費も先方の負担だ。治験プログラムと検査の合間は、月観光やレジャー施設の利用もできる」
「行きます」
 即答してしまってから、シラセはしまったと思った。
 治験・・というなら、十中八九この上司の個人的な知り合いから流れてきた話に違いない。自身が無料タダという言葉にトコトン弱い小市民である自覚はあったが、これでは休暇中、上司の監視下にあるのとは同じでは?
 ゆったりとオフィスチェアに背を預け、ダグラスが薄く笑む。…それは、鼠を爪下に抑え込んだ猫科の大型獣の舌舐めずりに酷似していた。
「それはよかった。これを機にしっかりリフレッシュすることだな。詳細はこのファイルに入っている。転送するぞ。ああ、軍病院からこのプログラムへの情報提供プロトコルもいれておいたから、承諾を入れておいてくれ」
 有無を言わせぬ速さでシラセの携帯端末の着信音が鳴った。
 着信した案内ガイダンスファイルをざっと流し見する。宿舎に当てられているのは小洒落た有名月面リゾートだ。飛び抜けて高級というわけではないが、大手の旅行サイトではお馴染みの物件である。リフレッシュしてこいというお達しを素直に受け取るなら、確かに決して悪い話ではない。
 だが、どうにも術中に嵌まったという感は拭えなかった。この、言いたくはないが決して荒事に向かないポンコツ軍人に一体何をさせようというのか。一抹の不安はあったが、この場合他に選択肢はなさそうだった。
「…はあ、ありがとうございます…」

***

「うー、なんか頭重い…」
 唸りながら、ケイは身を起こした。ベッドサイドテーブルに置いたミネラルウォーターのボトルに手を伸ばす。蓋の存外硬い感触に、ボトルが未開封だったことを思いだして封を切った。夜中に喉が渇いたときのことを考えて新しいボトルを一本置いていたのだが、結局一度も目を覚ますことなく眠り続けたのだった。
 その動きを検知したか、部屋がふわりと明るくなる。柔らかなルームライトに照らされた時計は、ケイが最後に時計を見てから7時間ばかりの経過を示していた。
 そうはいっても窓があるわけでもないから、本来明るいのか暗いのかさえわからない。
「あ、そーか…」
 冷たい水をボトルに半分ほど胃の腑に流し込むと、ようやく目が覚めた。そもそもここは軌道エレベータの中だった。
 鄭重なノックに返事をすると、扉が開いてシンプルなシャツとスラックスというラフな装いに生成りのカフェエプロンをしたマリクが立っていた。FIOの地下で初めて出会った時といい、いつでもあのトーブ姿というわけではないらしい。
「お目覚めですか、Mr.クサカベ」
 こうしていると、小洒落たコテージのシェフ兼オーナーといった風情だ。重い話を聞いてしまったあとで考え事をしながら眠った所為であろう、正直何だか寝覚めがあまり良くなかったのだが、この雰囲気はなんとなくほっとする。
「あ、マリクさん、おはよ」
「丁度日の出ですよ。ご覧になりますか?」
「へえ、観られるの」
「はい」
 マリクがにっこり笑って壁面のパネルを操作する。それまで穏やかなクリーム色だった壁が、一面紺青に切り替わった。肉視窓というわけではないが、外部のリアルタイム画像を表示するようになっているらしい。
 ケイがベッドから降り、その壁に歩み寄ったとき、紺青の空を曙光が切り裂いた。
「わー、眩し…」
 その光が人間の網膜が耐えられる域を越えそうになった瞬間、画像は減光された。おそらく自動でカットされるようになっているのだろう。その後は美しいが少し作り物めいた日の出の映像が壁一面に広がっていた。
「目が覚めるなー、やっぱり。朝は光を浴びないと身体が起きないって言うけど、ホントだよな」
 ケイが大きく伸びをした後で明らかになった部屋を振り返ると、もうひとつのベッドは使った形跡はあるものの、既に空だった。一体いつ寝てるんだ?と不思議を通り越して感心してしまう。
「お食事が準備出来てますが、如何ですか」
「何から何まで申し訳ない。ほんと、ありがとう」
「いえいえ!こちらでお招きした以上、心を込めておもてなしするのが当たり前でしょう?…まあ、少しでも色よいお返事を頂こうと躍起になってるって事情もありますけどね」
 そう言って少し悪戯っぽい微笑を浮かべる。何割かは冗談なのだとは判っているが、この人物が言うと、心からそう言っているようにしか聞こえない。これはこれで、一種の才能ではなかろうか。
「えーと、シェインは?」
「食事を済まされて、今はリビングでニュースをチェックしておられるようです」
「ホント、いつ寝てるんだろ。こないだから頭痛がしてるみたいだったのに、大丈夫かな」
「今朝は頭痛もとれたと仰ってましたよ」
「そっか、よかった…。じゃ、着替えて行くから」
「はい、お飲み物は?」
「うーん、カフェオレできる?」
「ええ勿論」
「よかった、昨日の流れで行くと紅茶党なのかなって」
 そう言った途端、マリクの微笑が微妙に引き攣るのが判った。あれ、地雷だった?とケイは冷汗を感じたが、一瞬の後にマリクは変わらず人好きのする微笑で横手を振ってみせる。
「いえいえ、誰とは言いませんが朝からアイリッシュコーヒーを所望されるとんでもない御仁にお仕えしているもので、大概のものはご準備できますよ。カフェオレなんて至って健康的なものです。いっそほっとしますよ。クリームは多めで?」
 地雷はどうやら上司キリディックらしい。コレは普段、相当手を焼かされてるな、とは思ったが…今はとりあえずスルーだ。
「いいねぇ、ありがと!砂糖は少なめでいいよ?」
「承りました」
 マリクが退出した後、ケイはパジャマにしていたTシャツとショートパンツをコットンニットのポロシャツとスラックスに着替えてリビングへ出た。すると、リビングのソファでカップ片手に複数のウィンドウに表示されたニュースサイトをチェックしているシェインの姿が目に入る。ケイがおはよ、と声をかけたら、シェインは苦笑に似たものを閃かせた。
「ようやく起きたな」
「いつ寝てんの、お前…」
「一応人並みには寝てるよ」
 お前の人並みってどういう基準、というツッコミを呑み込んで、ケイは芳醇な香気に溢れたダイニングテーブルについた。卵、野菜、ソーセージとパン。完璧かつ健全、常識的な朝食テーブルに思わず合掌してからフォークをとった時、マリクがカフェオレのマグをトレイに乗せて出てきた。
「どうぞ、Mr.クサカベ」
「いただきまーす。あ、それと、ホントにケイでいいよ?Mr.つきで呼ばれると…なんかそのたんびに背筋伸ばさなきゃいけない気になっちゃうからさ」
 マリクは一瞬目を丸くして動作を止めてしまったが、すぐに微笑とともに言った。
「ではケイ、足りないものはありませんか?」
「大丈夫だよ、ありがとう」
 ケイはサラダをパンに載せ、その上から薄切りハムを被せて齧りついた。今度はそれを見たシェインが目を丸くする。
「お前、朝っぱらからよく食うな」
「え、これくらい普通だろ。一日の計は朝食にあり!ちゃんと食べないと動けないからな。
 あ、判った!お前家にいても軍用レーションとミネラルウォーターでご飯済ましちゃうクチだろう」
 ケイとしては冗談のつもりだったのだが、シェインがまともにたじろいだ。
「…え、図星?」
 ホントにいるのかそんな人種。そんな心の声が伝わってしまったか、シェインはすこしきまり悪げに紅茶を啜るふうにカップで顔の下半分を隠す。
「…軍用レーションはないぞ。ミールブロックとコーヒーくらいは準備するさ」
 軍人という職業がそうなのか、それともシェインが特異例なのか。コメントに窮して、ケイはとりあえずクロックムッシュにかぶりついた。咀嚼する間に次の言葉を探そうと思ったのだ。それでも半熟卵とホワイトソース、焦がしバターの香りを十分に楽しむことは忘れない。
 他にもりんごの甘煮コンポート入りのヨーグルトを平らげ、最後にマリクの持ってきてくれたカフェオレに手を伸ばして、ケイはようやく口火を切った。
「…で、どうすんの?これから」
 シェインがカップを置いて、ケイに向き直る。
「…俺は、キリディック卿の提案を受け容れる」
 熟慮の上の結論であるのはありありと判る。だがそれには触れず、ケイは笑って頷いた。
「よし、決まり!」
「…躊躇がないな、お前」
「今更ためらったところで、なんかいいことある?ここまで来たら、行けるとこまで行くだけさ」
 シェインが頭痛を堪えるように眉間に手を遣る。
「羨望に値するな」
「ちなみに聞いてみるけど、それ褒めてんの、貶してんの?」
「両方だ」
「あっそ…」
 ケイは丁度いい温度になったカフェオレを飲み干して、トレイを持ったまま立っていたマリクに向き直った。
「…ってことで方針固まったんだけど、どうしたらいいかな?」
「感謝します。では早速…」
 マリクが微笑んだとき、不意に揺れが襲ってきた。
「わっ!?」
 ケイは無防備に床へ転がり落ち、マリクはよろめいて傍らのキャビネットに手をついた。自発的にソファから滑り降りて床の上で姿勢を低くしたのはシェインだった。
「無事か?」
「なんとか!」
「大丈夫です」
 シェインの呼びかけにケイが完全に裏返った声で返答し、マリクはキャビネットに縋ったまま応えた。振動は数十秒でおさまったが、重力制御機構が異状を来したようで室内のものが浮きかけては戻り、神経質な音をたてる。
「なんだよこれ?」
「軌道エレベータ制御機構の異常です。こんなこと、あり得ない。初めてですよ」
 そう応えたのはマリクだった。這うようにして扉の所まで行くと、操作盤に手を伸べる。
「安全機構が働いたのでしょう。扉がロックされています。ゴンドラの回転 3は維持されていますが、安全確認の間は開きませんね」
 部屋中央のホロディスプレイに着信のサインが踊り、マリクが応答した。映像は乱れてしまって出ない。
『皆、無事か?』
 こんな事態でも至って優雅な声が伝わる。誰あろう、キリディック=トゥグリーフだった。
「此方は大丈夫です。あなたもご無事なんですね?」
『ああ、大丈夫だ。ただ、扉がロックされて出られない。おそらくゴンドラ全体がそうだ。たぶん、コレが目的なんだろう』
「キリディック卿!」
『いやはや、どうしても素直に地球を出しては貰えないらしいね。さて、どうしたものか』
「落ち着き払ってるばあいじゃありませんよ!折角、亡命に同意頂いたっていうのに…」
『判ってる。かくなる上は、とれる手段としてはひとつしかないね』
「…と、いうと…」
『ジェスター? 勿体付けずにそろそろ出てきてくれたらどうだ。ここはどうにも、君のナビゲーションが必要だと思うんだがね』
 キリディックの呼びかけに、いかにも不承不承といったていでチェシャ猫がその姿をダイニングテーブルの上に現した。
「…私に何をしろと?私はただの支援エイドAIだが」
 キリディックの映像は落ちたままだが、明らかに笑ったような間があった。
『韜晦も度を過ぎると厭味になるよ、ジェスター?
 さてと、先方もさすがに軌道エレベータをぶった切るような度胸はないだろうから、これ以上の荒事になることは考えにくい。だが、これだけのコトが起きてしまうと、おそらく安全確認と称してこの便に搭乗したとされる人間の本人確認が始まる。搭乗時みたいなザル検査じゃなくて、IDカードとの厳密な突きあわせがね』
 マリクが顔色を変えた。
『そこでだ。二人には、先にカ・アタ・キルラへ飛んでもらう。何、エルウエストから地球までが大丈夫だったんだ、衛星軌道上から月面なんて雑作もないだろう』
 今度はケイが青くなった。
「あ、えーと、それって…俺にシェイン連れて飛べってこと? 無理無理、全く位置情報のないとこへなんて飛べないって! そんなんできたら、FIOの本部ビルだろうが一瞬で脱出できるとか思わない?…ってか、なんでそーなるの!」
『能力の行使について調整はこっちで持つ、って約束だったし、まずは軽く演習ということさ。今回、座標のナビゲーションはジェスターにお願いしたい。行き先の座標は…私の手許にあるから適当に拾ってもらえば良い』
「嘘だろーいきなり実践?」
 ケイはその場にへたりこんだ。チェシャ猫は耳まで裂けた口をひん曲げる。
「…畢竟つまるところ、隠れ家は提供するから移動手段は丸投げ、ということのように聞こえるんだが」
『そうとも言うかな』
 いけしゃあしゃあと、美貌の連邦駐在副使は言い切った。
『君は断らないよ、ジェスター。ここで二人に何かあったら、君の計画が台無しだからね』
「計画?」
 シェインはもとより、ケイも声を撥ね上げた。ぎょろり、と猫の目が動く。
「まるで私がすべてを企んでいたような口ぶりだ」
『さてね、すべてかどうかは知らないよ。でも、すくなくともこの一件に私を巻き込もうと画策したのは、君だからな。アル・アティルまるごと巻き込むつもりだったかどうかはまた別だがね』
 キリディックの台詞に、マリクが頭を抱える。慌てたのはケイだ。
「ちょっと待って、何、何の話!?」
『FIO本部ビルの一件が起こる直前に、私は君が収監されたという情報を得ていたんだよ。
 これで一応、外交屋なんでね。そりゃ情報収集に関して人後に落ちない自信はあるよ? それでも、こんな連邦の極秘事項トップ・シークレットがそう簡単にアンテナにかかる訳はないんだ。誰かが故意に、食いつけとばかりに私の前に放り出した。そんな感じだった』
「じゃあ何ですか。僕が見つけたのは、あなたが更にそれを僕に見つかりやすいようにエラーを装って放り出したデータだったってことですか!」
 頭を抱えたままのマリクが唸る。キリディックはさらりとそれを肯定した。
『まあ、ひらたくいうとそうなるな。マリクならきっと動いてくれるって信じてたよ』
「丸く言っても同じです。一体、何処まで悪辣なんですか!」
叱言こごとは後で聞くよ。とりあえず、臨検が始まる前に脱出してしまわないと。…ジェスター?』
「…カ・アタ・キルラの領事館か。タイトな調整はまだ難しいと思うが」
『コピー完了だね。ありがとう。まあ、それなりに余裕のある場所を指定はしてあるから、大丈夫だろう』
「おーい、ちょっと待ってー。俺、置き去りなんだけどー」
 憮然としてぼやいたのはケイである。だが、ジェスターはすっくと立ってケイに向き直った。
「ケイ、非常事態だ。私がサポートするからやってみよう」
「ああもう、わかったよ。でも後でちゃんと説明してくれよ?俺に判るように」
「了解した。可能な限り平易に」
 ジェスターの姿が一瞬かき消え、ケイの左肩に乗ったかたちで現れる。
「シェイン…ちょっとクラッとするかもしれないけど、大丈夫だから」
「こうなりゃ一蓮托生だ。お前に任せる」
 ケイは頷いて、マリクに向き直った。
「マリクさん、いろいろありがと。元気でね。ごはん、美味しかった!」
 その言葉が終わるが早いか、ケイはシェインの腕をとって身を翻した。直後、ケイとシェインの姿は部屋から消える。
「あ、あのっ、わ、私も後から行きますから!」
 まるで絨毯敷きの床に突如として孔が開き、そこへ身を投じたかのようだった。呆気にとられて見ていたマリクが慌てて言った言葉は…おそらく届かなかっただろう。
 上質な絨毯には当然ながら孔どころか毛羽の乱れさえないのだが、マリクは思わずしげしげと二人が消えた地点を眺めてしった。
 その時ホロディスプレイに軽くノイズが入り、きらびやかな金褐色が揺れた。一瞬の後にはソファで寛ぐ連邦駐在副使の映像が現れる。
『とりあえずはこれで一安心か。…ああ、回復したな。そろそろ警備部がお出ましになる頃か』
「安心、じゃないでしょう。あなたが此処に居ない事実はどう説明するんですか」
『いるよ、ちゃんと。最初から搭乗してたさ。私は共有スペースで偶然友人に出くわして、たまたまこちらのコンパートメントにお邪魔している最中だったのさ』
「…ってことにしておいて、言い抜けろってことですね」
『さすが、よく判ってるね』
「人数が微妙にあわないのはどうするんです」
『ああ、それね。が搭乗時に、アシスタントドローンを間違って1名分で登録しちゃったらしいんだな。時々いるじゃないか、ドローンに感情移入しすぎて家族にカウントしちゃう人。わかるなぁ、とっても可愛いから。アレンっていうんだ。実に素直ないい子でね。今、こっちに持ってきてるけど』
「…悪魔ですか、あなたは」
 深く吐息してからマリクが言うと、キリディックは万人を籠絡する微笑で明るく応えた。

『さぁ? 〝終わらせる者〟とは呼ばれるらしいがね』

――――To be continued

  1. ナラティブ…直訳すると物語、語りの意。ストーリーとの違いは、ストーリーが客観的な内容を語るのに対し、ナラティブは誰が、どのように語るかを重視する言い方。
  2. Medical Device Related Pressure Ulcer 、ギプスその他治療のために使用する道具が原因となる褥瘡。昔からあった問題だが、昨今そのスジではホットワードでもある。
  3. 現在考えられている人工重力は、遠心力ベース。巨大なゴンドラをぶん回すことでゴンドラ内に重力を発生させる。当然ゴンドラの回転が止まったら固定されていないモノは浮かび上がる。