Section-2

 そこにはケイの頭部に銃口を擬したFIO長官…アウレリア=アルフォードの姿があった。
「…長官…!」
「悪い、シェイン…。このあねさん、オニみたいに強いや」
 腕を後方に捻じ上げられ、頭部に銃口を突きつけられては素人のケイにどうすることもできまい。殊に相手があのアウラでは。
 腕をめられて動けないだけで、傷つけられた様子はない。だが、さすがに銃口を突きつけられて平静でいられるはずもなく、蒼白になって冷汗を浮かべていた。
「…これで、五分五分フィフティ-フィフティね」
 ダグラスを抑え付ける力を緩めてしまわないために、シェインは少なからず労力を要した。
「あんたらに…そいつを撃てるならな」
 アウレリア=アルフォードFIO長官は優美な笑みを浮かべて応えた。
「撃てないと思う?」
「〝制御不能だから末梢する〟?…ありえないな」
「そうかしら?実のところ、我々も困惑しているのよ」
「…何?」
「我々はクサカベを地球へ連行・・してはいないの。ここに収監・・したのは確かだけれど」
 その意味するところを掴み損ねたシェインがケイを見ると、ケイはふっと目を伏せた。呼吸を停め、眉根を寄せる。そして、何かを言いさした――――
 だが次の瞬間、何の脈絡もなくその場に頽れる。
「…長官!」
「気を失わせただけよ。能力・・を使われたら厄介だから」
 アルフォードが手の中のスタンガンを見せる。
「人類生存圏唯一無二の能力。それは確かね。でもそれは、連邦からすると非常に都合が悪い代物だったとしたら?」
「…そうだとしても…ASL1が黙ってはいないだろう。あの知識欲の権化どもが放置するとは考えづらい」
「自分の古巣のわりに随分な口上ね」
「親父の古巣であって俺のじゃない。それに…」
 言いさして、シェインは唇を噛んだ。
「親父の死は事故死じゃない。あからさまな謀殺だ。あの事故には十中八九、何らかの形でアプスラボが関与していた。親父の持っていた研究データの行方は今以て連中に渡っていない。それが…俺が生かされた理由。
 …違うとは、言わせない!」
 ついにシェインの声が跳ね上がる。だが、そのために一瞬銃口がぶれた。その空隙にダグラスの左腕はシェインの膝下から遁れ、シェインの銃の安全装置を戻す。銃ごと引っ張られてシェインが態勢を崩した。逆にダグラスは跳ね起きてシェインの脚を払う。
 銃を諦め、後退したシェインは予想外の重みに縫い止められて再びバランスを崩す。
 シェインの上衣を掴んでいたのは、腕だった。ダグラスの義手。
 ダグラスの右肩から先は所有者の身体を離れていたが、その指先はシェインの上衣の裾に食い込み、動きを掣肘していたのだ。ダグラスが疼痛を甘受してでも義手のコントロールを切らなかった理由を、今更気づいてシェインが舌打ちする。
 動けない重みではなかった。だが、崩されたバランスが浪費した数瞬が致命的。
 しかも上着を引きちぎって義手の重みから遁れるために要した時間は、ダグラスが態勢を入れ替えてしまうのには十分だった。先刻のワイヤーが生きてでもいるようにシェインの右腕に絡みつき、その自由を奪う。ダグラスは義手を切り離したが、代わりにシェインは右腕を封じられた格好だ。
 左手でワイヤーを操ってシェインを俯せに引き倒し、ダグラスがシェインの肩甲骨の間に銃口を押し当てる。先刻とまったく攻守が入れ替わった。
「素直に戻れ、アスティン。あまりアウラを困らせるな」
 それはいつもの、低く落ち着いた声。感覚が残っている義手を打ち抜かれた時と同様に。
「…戻る?あんたらに飼い殺されるためにか」
 引き倒された衝撃で一瞬息が停まったが、反撃の機会を窺い、この訳の分からない状況の情報を引き出すために…シェインは言葉を絞り出した。だが、立ったままケイに銃口を突きつけているアルフォードは、いっそ悲痛でさえある表情をうかべていた。
「どうして…こんなことになってしまったのかしらね…」
「…俺が訊きたい」
 シェインの声は唸りに近かった。彼女の悲痛な表情に自分もまた痛みを感じることがひどく理不尽だったから。
「俺を監視するためだけにFIO、セントラルオフィスにまで入れておいて、今更…!」
「それは違う、といっても…いまのあなたは聞いてくれそうにないわね。ランディの右腕がどうして義手になったか…憶えていないの? あるいは、それすらも改竄された記憶だと…?」
 シェインが、呼吸を停める。
「アウラ、それは…」
 彼女の言葉をダグラスが遮る。だが、実際に彼女を黙らせたのは、不気味な振動。ガリガリという不快な金属音と共に、縦坑の中央にあるフレームが軋んでいた。
「…作業用の昇降機エレベータ!」
 はっとしたように、アルフォードは倒れ伏したままの筈のケイを見る。ケイは相変わらず倒れたままだったが、薄闇の中でその鳶色の両眼は開かれ、炯々たる光を放っていた。
「まさか…!」
「…すこしは役に立たないと、愛想つかされても困るからな」
 その声は、確かにケイの声であった。しかし、トーンがまったく違う。抑揚イントネーションがおかしいというより、ケイの口調とは異なっていたのだ。
「…!」
 アルフォードが再びスタンガンを手にする。だが、ケイはそれを押し当てられるまで大人しく寝てはいなかった。素早く横へ転がって跳ね起き、ブルゾンに押し込まれていた銃の一丁を引き抜いて床を滑らせた。
 銃は過たずシェインの手の中に滑り込む。シェインは即座に発砲した。寸前で身を反らせたダグラスの頬を火線が掠める。浮いたダグラスの上体を蹴り上げ、シェインがケイの傍まで飛び後退すさった。
 フレームを軋ませて降りてくる作業用の昇降機。作業用の重機を移動させるためのものだから、八角形の床に柵が巡らせてあるだけ、昇降口の手すりが開閉式になっている。そしてそれは、通常運用時よりも明らかに早いスピードで降下していた。
 シェインが踊り場の手すりを蹴ると、脆くなっていた手すりは蝶番を軋ませて階下へ転落した。シェインは停止することなく降下し続ける昇降機の床が踊り場の床とプラスマイナス1m程になった頃合いを狙い、ケイのブルゾンの襟を掴んで飛び移った。身を起こしてはいても、まだ立ち上がれていなかったケイは着ていたシャツに頸を絞められる格好になり、短く苦鳴を発する。だが、シェインにこの際頓着する余裕はなかった。
「アスティン!」
 アルフォードの声に、シェインは咄嗟に目を伏せてしまう。
 態勢を立て直したダグラスが踊り場の端から覗いた時には、数メートルを降りていた。ダグラスほどの運動能力があれば飛び降りても問題ない距離であったはずだが、ダグラスはそうしなかった。
 アルフォード長官が、制止したからだった。

***

「おまえがやったのか?この昇降機」
 軋みながらも、昇降機は順調に降下を続けていた。シェインの問いに、ケイは座り込んだままシャツの襟を寛げながら言った。
「こっそり降りるには向かない手段だったけど、まあ緊急だったし。とりあえず、動いてくれてよかったよ。ただし、実直に軟着陸できるかどうか微妙だから、最下層へ着く前に適当なところで降りちゃうのがお勧めだね。地下1階ルートはまだ生きてるけど、さっきの待ち伏せ考えたら考え直した方がいいかも…ってか、今過ぎちゃったな」
「忠告に従うことにしよう…さて、現在位置、出るか?この昇降機、どこまで降りるんだ」
「機械室ばっかだから…うん、B12が最下層、ってことになってる…あれ?」
「どうした」
「この端末に誘導ビーコン送られてる。誰だよ」
「誘導?」
 その時、ケイが持っていた端末から非通知のコール音がした。ケイは思わずシェインを見たが、反射的に受信ボタンをタップしてしまう。
【合図します、そこから降りて!】
 若い男の声だった。
【後から説明しますから、そこから降りてください。最下層は待ち伏せられています】
 やっぱりそうか。シェインとケイは顔を見合わせた。そしてそのまま、端末のマップアプリに送信されてくる誘導ビーコンが指し示す方向へ目を向ける。
「ここです!」
 その踊り場に立っていた若い男の口から、電話と同じ声が発せられた。小柄で童顔だから一瞬少年かとも見えてしまうが、それにしては表情がおとなびている。
「早…!」
 促す声は途中で途切れた。シェインと、それにひっぱられてのケイの動きが速かったからだ。
「こっちへ」
 作業通路への扉を開いて、青年が一瞬動きを止める。昇降機が最下層まで到達した音がしたのだ。銃声はないものの、複数の軍靴が鋼板を踏みならす音が縦坑を駆け上がる。
 今度は手振りで二人を作業通路へ差し招き、音を立てないように扉を閉める。そしてペンライトだけの小さな灯りで先導を始めた。
 後から説明するというのを鵜呑みにしたわけではないが、包囲を破るのが先だ。誰かはともかく、この包囲から逃がす算段をしてくれるつもりがあるようだから、二人はそれについてこの場で詮索するのを放棄していた。
 作業通路は地下共同溝へ続いており、30分ばかりの移動で別の建物の機械室へ出た。地下共同溝との扉へ錠を下ろしてしまうと、青年が大きく息を吐く。
 そして改めて、二人に向き直った。
「今更ですけど…シェイン・A=リスト少佐、と、ケイ=クサカベさん、でよかったですよね」
「違うって言ったらどうなるのかな?」
 ケイが余計な茶々を入れようとするから、シェインはすかさずその後頭部をはたいた。
「痛いな、軽い冗談じゃないか」
「時と場合だ、莫迦」
 青年がどう反応してよいものか困惑しているのを看て取り、シェインは青年に先を促した。
「助けてもらって感謝する。お見立ての通りで間違いない。あなたの名前を訊いても?」
「あぁ、はい、当然ですよね。私はマリク=シャイアといいます。こんなところで立ち話も何ですから、階上うえへどうぞ。
 大丈夫、安心してください。余程のことがない限り、ここに踏み込まれることはないはずですから。まああまりゆっくりもしていられないのですが、この後の事もありますからシャワーを浴びて服を替えましょう。何分にも地下共同溝というところは、あまりいい匂いのする場所ではありませんからね」
 そう言って笑うと、余計童顔が際立ってしまうのだが。
 マリクという人物…登場の突飛さとは裏腹に、その提案は至って常識的であった。

***

 FIO本部ビル保安主任であるシラセ大尉は、泥沼のような疲労感…というか徒労感に押し潰されながら報告書を作成していた。
 やれることはやったはずだった。だが、事態の進行はあまりにも早すぎた。結局、標的は作業用の縦坑から忽然と消え、行方は杳として知れない。一方で保安部は死者こそ出さなかったものの三桁に上る重軽傷者を出してしまった。
 全員が交戦で負傷したわけでなく、原因不明の出火で各所に火災が発生、その対応に追われての負傷者が大半であった。シラセ本人も消火作業中に負傷して現在右足をギプスで固められている。
 システムによる妨害を排除するために物理的電源カットに動いた隊もその火災に阻まれ動けず、建物全体に及ぶようなダメージは発生しなかった。ただ、前述のように至る所で小火ボヤが起きたものだから、内部はひどい有様である。その上、クサカベと同じように収監されていた容疑者が数人、混乱に乗じて脱走まではかったものだから、騒ぎに拍車がかかってしまった。あの二人以外はビル内で制圧できたのは僥倖だったが。
「減俸…へたすりゃ降格だよなー…。どうせしばらく休職だし、もういっそ、除隊させてもらおうか。やっぱり俺、向いてないわ軍人って」
 とことん後ろ向きな述懐でさらに自分を追い込んでしまうことに気づいて、シラセは頭を掻いて歎息し、無機的なオフィスの天井を仰ぐ。
 シラセはシェインと面識があった。だからこそシェインが突如として第Ⅰ級危険因子とされ、追捕の対象となったのかがわからない。
「シェインの奴、何がどうなったんだ…大体なー…シェインがあの女に逆らうとか裏切るとか…ありえんって」

***

 シャワーを使わせてもらった後、二人は重厚な調度に彩られた一室に通されていた。
「なーこれ、シェイン、トーブだっけカフタン2だっけ、ラクなのはいいんだけど…結構動きづらくないか?何か俺、さっきから裾踏みそうでさ」
 着替えとして供された長衣に、完全に着られてしまっているケイがぼやく。最初のうちは重厚な調度品を興味深げに見て回っていたようだが、やはり慣れない裾捌きに少々疲れたらしい。緊張感の欠片もないコメントに果てしない脱力感に襲われそうになり、シェインは軽く頭を振った。
「帯で締める仕様ならカフタンだろう3。おまえの故郷くにでいうユカタと似たようなもんじゃないのか。こけるのがイヤならうろうろせずに大人しく座ってろ」
「…へーい」
 シェインの口調がきつくなったものだから、ケイが悄気しょげてソファに填まり込む。ユカタって、浴衣ゆかた? いや、浴衣ってのはちゃんとおはしょり4っつって伝統的トラディショナルな丈の調節方法があるんだよー、などと暫くぼそぼそ反論していたが、諦めたのかマリクからせしめた新しい携帯ウエアラブル端末を弄り始めた。腕時計のように手首に装着するタイプだ。

 ――――案内された「階上うえ」がアル・アティルの大使館であったことに、シェインが驚かなかったといえば嘘になる。「マリク=シャイア」の名から薄々予想は立てていたものの、大胆としか言いようがない。アル・アティルは確かに人類が太陽系外へ広がり始めたころからの長い歴史を持つ国で、連邦に対する発言権も大きい。だが、あからさまに連邦と事を構えるような国でもなかった。それが、FIOから第Ⅰ級危険因子と指定を受けた人間を匿うなどと、露見したら大事になるのは火を見るより明らかだ。
 だからこそ、シェインは罠の存在を疑う。ほいほいとついて行ったらFIOの収容施設、ないしアル・アティルの研究機関で幽閉という線だってあり得る。ケイの利用価値、もしくは脅威を考えるなら、そのくらいのことは十分考えられる。いつでも逃げ出せる準備はしておくべきだ。
 その上、シェインの記憶違いでなければマリク=シャイアは正規の大使館員というよりある人物の近侍としてここに勤務している筈。今回のことが、その人物の差し金なのかどうか…それによっても判断は変わってくる。

 それでもここまでついてきたのは、彼女アウレリア=アルフォードの悲痛でさえある声が耳に残ってシェインの思考を停止させてしまったからだ。

 俺は、あの場から逃げた。自嘲をこめて、シェインはそう認めていた。

 ――――その時、ソファにかけたまま落ち着かなげに脚をぶらぶらさせていたケイがふと口を開いた。
「なー、シェイン」
「何だ」
 この緊張感と疎遠な同行者の話をいちいちまともに聞いていると疲れる。そういう感想に落ち着いていたシェインとしては、返事はいささかぶっきらぼうだった。だが、ケイの方はそれを然程問題にしていない。
「俺…な、お前に謝っとかないといけないことが…」
 言いさした言葉は、丁寧な叩扉ノックで遮られた。
 入ってきたのは、マリク=シャイアであった。先程現れた時にはシャツとスラックスという格好だったが、今度は襟と袖口に白糸の上品な刺繍が入った白いトーブ姿である。同色のクーフィーヤ5を光沢のある黒いイガール6でとめている。
 流石にこちらのほうが着慣れているのか裾捌きも優美なものだ。アタッシェケースを小脇にかかえた立ち姿は、少々小柄で童顔でもきちんとした大使館員に見える。
「お待たせしました、お二方。動きにくい服装で申し訳ないのですが、移動するにはこの方が都合がよいので。
 FIOが本気で捜索にかかったらここもいずれ露見するでしょう。慌ただしい事で申し訳ないのですが、また移動します。そのためのまあ、変装だと思って我慢してください。はい、これも被って」
 そう言ってアタッシェケースを開いて差し出したのは、クーフィーヤである。
「…と、更に申し訳ないんですがリスト少佐、あなたはこれも。背丈から言って、あなたのほうがいいと思いますので」
 クーフィーヤの下から出てきたウィッグの絢爛たる色味に、シェインはマリクが自分になにをさせようとしているのかを悟って、思わず歎息した。
「失礼だがMr.シャイア…逃がして貰えるんなら鬘でも何でも被るが…本当に大丈夫なのか? その…」
 その名を口に出していいものか、シェインは一瞬迷った。だが、マリクはにっこり笑って言い切る。
「ご本人は今日お忙しい・・・・ので、大丈夫です。とりあえず地球を出てしまわないことには落ち着いて話もできませんので。…ええ、お察しの通り。こうやってあなた方に便宜をはかるのは、相応の下心あってのことです。でもとりあえず、あなた方を連邦に送り返すつもりはありませんから、そこだけは・・・・・安心してくださいね」
 先程までは下手をすると未成年にさえ見えそうだったが。なかなかどうして海千山千の交渉者ネゴシエーターだ。
「はあ…」
 隣のケイはといえば、モノクロチェックのクーフィーヤを捧げ持ったまま眼を瞬かせるばかりでどうコメントしていいのか見当もつかないという面持ちだ。だがそれに関して、シェインとてあまり変わりはなかった。だから、至極まっすぐに「どうする?」という視線を送られても困るのである。
「…まあこの際、他に選択肢はないようだ」
「決断が早くて助かります。
 とりあえずこれを被ってもらって、軌道エレベーターで静止軌道ステーションへ上がっていただきます。そこからはうちのシャトルで月面…カ・アタ・キルラまで。そこまで辿り着けたら、さしあたって正面切った追撃はないと思っていいでしょう。おそらく今回の件、向こうもあまり大っぴらにはしたくないはずですから」
「シャトルというのは、アル・アティルの?」
「はい。ですから…シャトルまで乗り込めたら、後のことをゆっくりとご相談ということで、如何です?」
 シェインは注意深くこの年齢不詳な大使館員を観察し…そして口を開いた。
「…異存はない」
「シェインがよければ俺はそれで♪」
 ケイが気楽にそう言ってクーフィーヤを被る。イガールを嵌めてはみたものの、どうにもおさまりが悪いらしくて何度も直していると、マリクが柔らかな微笑でそれを整えた。
「ケイ…お前な…」
「ま、後のことは後のこととしてさ。とりあえずあのおっかないあねさんの手の届かないとこまで行って、そっからの話にしよう、な?」
 割り切りが早いというのか、単に何も考えていないだけか。シェインは歎息し、ケースの中からもうひとつのクーフィーヤと金褐色のウイッグを取り出した。
「…実直に…他に選択肢はなさそうだからな」

***

 軌道エレベーターNo.1。
 地表という大気の井戸7の底から宇宙へ人や物を運ぶために地表から高度36000㎞上空まで伸びた巨大建造物である。移民時代初期には膨大だった大気圏の出入りにかかるコストを劇的に削減した技術であり、この管理もまた連邦の専権事項だった。
 昔は地表からロケットで打ち上げていたものが、エレベーターで運搬できるのだ。構造物の先端には過去に社会問題化した宇宙廃棄物の集積体が重錘として係留されており、その遠心力が構造物の安定に一役買っている。
 赤道上のアースポートから低軌道ステーションまでならリニアクライマーで約1時間半だが、宙港のある静止軌道ステーションまでは単純計算で約72時間、丸3日以上かかる8。だがリニアクライマーには無聊を慰める遊興施設もついており、宙港に着くまで豪華客船クルーズといった雰囲気でのんびり過ごせるようになっている。9
 ただし、シェインとケイは変装のままリニアクライマーに搭乗、リニアが動き出した後も…万が一にも身元がバレては困るので個室コンパートメントに逼塞していた。
 個室といっても…流石というか高級ホテルのスイート並の広さと設備があるから閉塞感はない。三日やそこら一歩も出なかったとして然程不自由を感じるような場所ではなかったし、食事その他についてはマリクが何くれとなく世話を焼いてくれるのでいっそ申し訳ないぐらいだ。
 そうなると、やはり心配になるのは先行きということになる。細かい事情についてはシャトルに乗ってから、とは言われていたが、やはりマリクの思惑については聞いておきたいところではあった。
 それを伝えると、マリクはすこし首を傾げて考えていたようだったが、柔らかく笑んで頷いた。
「そうですね、私も軌道エレベーターの道中のことをきれいに忘れていましたよ。そうですね、ここだったらシャトル程ではありませんが基本的に邪魔は入らないし、時間もたっぷりあることですからもうお話していいでしょう。
 …とりあえずお茶とお菓子を準備してきますから、リビングで待っていていただけますか」
 まるで…午後のお茶でも始めますか、といった気楽さである。いそいそと準備を始めるマリクを見送って、シェインは歎息した。
 そう言えば、ケイもなにやら言いさして…タイミング悪く話が途切れてしまったまま、結局口を噤んでいる。どうにも話しづらいことであるのは間違いないようだから、こちらとしても促しづらくはあった。
 その一方で、自分自身の事情についても…シェインは現時点で上手く説明が出来る気がしないのだ。本部ビルで倒れた際、何かの蓋が開いてしまったように膨大な情報が追記されたが、状況を整理しようとすると鈍い頭痛がして上手く思考がまとまらない。

 ――――それすらも改竄された記憶だと…?

 アウレリア=アルフォードの悲痛な声が甦る。何が本当で、何が嘘なのか。今のシェインには判断がつかない。
 大体、人間の記憶を意図的に、恣意的に改竄するなど本当に可能なのか?
 想起に心理的負荷がかかるような記憶に対して、暗示で内容を微妙にすり替えたり想起自体を困難にすることは可能だろう。実際に精神科の治療アプローチとしてそんな方法があるらしい。だが、メディアに情報を書き込むように都合よく記憶を追記したり削除したりなど…考えにくい。
「…何から手をつけたらいいんだか…」
 シェインがリビングルームに戻ると、リビングの一方の壁全てを占めている透過窓の前でそこから見える景色を食い入るように見ているケイの姿があった。
 部屋から出ないのであれば普通の服を着ていても構わない、というマリクの言葉に…ケイはいそいそとボートネックのコットンシャツとカーゴパンツに着替えていた。どこから見ても暢気な旅行者というていである。
 低軌道ステーション辺りまでは、地表が遠くなって視点がどんどん変わっていく様子はそれなりに見応えはあるだろう。だが、それ以降はひたすらに昏い夜の中を昇っていくのだ。その上シェインにとっては見慣れた景色だから今更何の感慨も湧かない。
 遙か下に広がる白と紺碧のコントラストは美しいが、それとて一瞬も目を離さずに見ていられるほど変化に富んだものとは思えない。窓の景色は既成の環境映像を映し出すことで要望に応じて任意の景色に変えることも出来る。だが、ケイはしばらく環境映像のチャンネルで遊んでいたものの…透過窓の景色のままにしていた。
「…いい加減、見飽きないか?」
 暢気な同行者が時折こうして景色に魅せられたように窓に張り付いている姿は、シェインにとってはやや奇異なものとさえ映る。だから、そんな言葉が口をついて出てしまった。
「いやまぁ、見てたというか…」
 そう言って振り返ったケイの顔が、窓に映っていた…振り返る前の表情とはまったく違うものであるかのように思えたのは、シェインの錯覚か。
「ぼーっとしてたってのが正解かなぁ。何せもう、いろいろありすぎちゃってさ、頭んなかが一杯いっぱいで」
「…違いない」
 満腔の共感を以て、シェインは頷いた。
 ケイは気楽な服装に着替えていたが、マリクはシェインを本来の主人に仕立て上げて地球を脱出させようとしているのだ。クーフィーヤと金褐色のウイッグくらいは外したが、マリクと同じように襟と袖口に白糸の上品な刺繍が入った白いトーブはそのまま着ていた。場合によっては一芝居打たなければならない可能性もあるからだ。
「シェインってさ、仕事で星系間の移動もしてたってんならこんな景色見慣れてるのかもしれないけど…実は俺、軌道エレベーターからの景色なんてゆっくり見るの初めてなんだ」
「まあ、来るときはそれどころじゃなかっただろうから…。何せお前はFIOに確保されて強制的に…」
 しかし、ケイは雑作に似合わぬ苦い笑みをして頸を横に振った。
「えーと、な…あのおっかない姐さんの言ったことって…ある部分については本当なんだよね。俺は少なくともエルウエストから地球へ来るのに、軌道エレベーターどころかゲートさえ使ってないんだ」
「…は?」
「俺はエルウエストから、地球へ…一瞬ですっ飛んで来ちゃったらしい。出た処が何だか連邦にとってあんまり人を入れたくない場所だったらしくて、そんなとこにひょこっと俺が出てきちゃったもんで…」
「…大騒ぎになった、と…」
「誓って言うけど、俺、別に何かやらかす意図があったわけじゃないんだ。まあ、なりゆきというか不可抗力というか…。それなのにまぁ、エライ目に遭った」
 訥々と、とんでもない告白を始めるケイをまじまじとみつめて、シェインは暫く言葉を失っていた。
「…ま、それを額面通りとるなら、騒ぐなと言う方が無理だろうな」
「それと、お前を巻き込んだの…ホントに申し訳ないと思ってる。何か他にやりようがあったのかもしれないんだけど、なんせ俺、あんまアタマよくないから…あ痛!」
「何を今更」
 懸命に言葉を択ぶケイの側頭部を軽く指で弾き、シェインは吐息して数歩さがると、ソファに身を沈めた。
「そこに関してはもう気にするな。どういうわけかはわからんが、俺はどうやらあそこで能力に見合った職についてた訳じゃなくて、ポストを与えられて監視されてたんだ。あんな場所に未練なんぞないさ」
「いやまぁ、そう言って貰えると俺も少しは気が楽なんだけど…」
 頭を擦りさすり、ケイもソファに凭れかかった。ただ、座るわけではなく立ったままソファの背に軽く凭れてまだ外を見ている。そうして、考えている…と言うより、懸命に言葉を択んでいるようだった。
「あの、さ…シェイン。俺、回り諄いの苦手だからストレートに訊くけどさ…お前、一体いつからいつまでの記憶が、ないんだ? 俺のこと、憶えちゃ…いるんだよな?」
 シェインは、またも襲ってきた鈍い頭痛に思わずこめかみに手を遣った。
「…いつから…いつまで? どういう…ことだ?」
「俺がエルウエストに移住したのは十年とちょっと前。十四の時だ。その時、俺たち同じ学校にいたよな。クラス…違ったけど」
「別だった…?」
 妙だ。小さな学校ではない。クラスが別だったというなら、何故自分はこいつと面識があった?
「事故が、あったんだ。それでお前、大怪我したんだって聞かされた。俺も同じ時に、エルウエストの親戚…に預けられた。まあ実際にゃ、親戚なんてもんは存在しなかったんだけどさ、俺はとりあえず地球から脱出はできたんだ」
「…何を、言ってる…?」
「でもシェインは大怪我してて動かせなかったから、結局逃がせなかった・・・・・・・って」
「…ケイ!」
 シェインが声を荒らげた所為か。ケイが口を噤んだ。
「…ごめん、やっぱそこは落ちてるんだ?えーと、なんて言ったらいいんだろう…」
「そんなこと…お前に吹き込んだのは誰だ?」
「え…」
 ケイが明らかにたじろいだ。
「俺が意識を失ったとき、お前誰と話してた…?」
 暢気を絵に描いたような造りの顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。数歩退がって俯き、唇を噛み締めて立ち尽くしていたケイが、たまりかねたように言った。裏返る寸前の声であった。
「…ジェスター、もう限界だってば!」
「〝ジェスター〟…?」
 聞き覚えのある言葉。だがそれが思い出せない。
 その時、ウエアラブル端末がケイの手首で声に反応するように小さな鋭い音を発した。
 その音に呼応して部屋の中央に置かれたホロテーブルが起動する。テーブルの上に2.5等身の猫が出現した。くりくりとした大きな眼、愛嬌のある顔。大きな口。かなりデフォルメされているのだが、一応猫らしく香箱座りをしている。
道化師ジェスターというよりチェシャ猫だな…どう見ても」
 反応を択びかねたシェインは、素直な感想を口にした。
【デザインとネーミングセンスについての苦情は、そっくりそのまま制作者クリエイターにお返しするよ…シェイン・アストレア=フォルケンベルグ?】
 耳慣れない姓で呼ばれたことに当惑しつつ…シェインはそれがあながち不自然でないことを認めている自分に驚く。
「アスティンと呼ばれるのはお気に召さないようだ。ハンドルも駄目かな? そうであれば、呼びかけについて適切な略称を設定して貰えると助かるな。何せあなたのフルネームは長い」
 香箱座りからすっくと立ち、独特の笑みをうかべてから 猫がそう言った。
「コミュニケーションエイドAIだな。それも、ある種の発達障害に対する支援機能に特化した」
 シェインは注意深く言った。猫が再び笑う。そして、大仰な動作で同意を示す。
「そこまで判っているなら…私に関わることはもう洗いざらいぶちまけても問題なかろう。
 ケイ、むしろここで話しておかないと…信用して貰えそうにないと思うよ」
 ホロテーブル上の猫がジャンプして、ケイの肩に乗る。いかにも肩に乗ってぶら下がるテイで、ケイの肩に両前足をひっかけ、ケイと同じ角度からシェインを眺めた。
 ――――表象としてはかなりデフォルメされているとはいえ、ホログラムの癖にかなり芸が細かい。対象者クライアントに配慮したというより制作者クリエイターの傾向だろう。

 感覚刺激に過敏だったり、逆に鈍感だったりして、対人関係に困難を生じる子供がいつの時代も一定数いるのだが、まずはAIというクッションをおくことで日々の生活を支援し、またそのAIがその子供に常時付き添って治療的アプローチを行うことで社会性やコミュニケーション能力を向上させる治療プログラムがある。
 そういった支援エイドAIは…開発当初はロボットが用いられていた。だが、ほどなく携帯性、メンテナンスの容易さからホログラムが主流となっていく。対象者一人一人の傾向にあわせて調整されるので、組み上げるには結構な手間と時間がかかる。先ず面接があり、仮組みしたAIを実際に稼働させた上で反応をチェックし、また修正する。適合良好と判断されれば、以降はAIが自律的に修正を入れていくのである。その後は本人がいつまでAIの支援を必要とするかによるが、AIが役目を終えたと判断すればそこで治療が終了となる。

 だが、シェインとしては目の前のケイと、かつてそういった支援を必要とした子供の姿が咄嗟に上手く繋がらなかった。
「待てよ、おい…」
 また頭痛に襲われ、シェインは頭を抱えてソファに座り込んだ。だが、ふと気づく。自分は何故こんなことを知っているのだ。発達障害の療育支援に関する資料など、シェインに必要だったはずがない。意図的にライブラリを参照するまでもなく、なぜこんなことがすらすらと意識に上がってくるのだ?
「頭痛を遷延させても申し訳ないから、私から説明する。シェイン・アストレア=フォルケンベルグ、私の基本プログラムを構築したのはあなただよ。あなたが12歳8ヶ月の時から約1年間をかけて、友人であったケイ=クサカベの療育支援のために組んだAI【ジェスター】。それが私。
 正確には私が完全自律稼働に移行する前にあなたが事故・・に遭ったため、自動的に自律フェーズへ移ったのだがね。必要な情報を収集しプログラムの自律更新を続けて今に至る。クライアントの保護は支援AIの最優先事項だからね。あなたの事故の後、私はケイの身辺にも危険が及ぶ確率が高まったと判断した。そのため、私はケイをエルウェストに逃がした。これで納得して貰えるだろうか?
 証拠になるかどうか私では判断出来ないが、私の設定コンフィギュレーションファイルをご覧に入れよう。コメントアウトされたあなたの署名ハンドルネームが残っているよ」
 チェシャ猫がケイの肩の上に座り直し、前脚で空中を引っ掻く。文字を並べた青い書板タブレットが浮かび上がり、チェシャ猫はそれをシェインの方へ押し遣った。
 書板は空中をするりと滑ってシェインの前で止まる。
「….〝Last updated by Astray〟」(最終更新者・アストレイ)
 声は少し震えていた。それはヘッダーの一文を読み上げた訳ではなく、シェインが頭を抱えたまま、呟くように口にしたものだった。顔を上げたシェインが、自身が口にした文章センテンスがそのまま書板のなかに浮かび上がっているのを確認し、深く吐息する。
 ジェスターを名乗るチェシャ猫がにやっと笑う。そうはいってもチェシャ猫の笑いだ。口角がぎゅっと切れ上がり、一歩間違えれば化猫の舌舐めずり。
Yes. I’m back now,Astray.ええ、ただいま帰りました。アストレイ
「シェイン、思いだした?」
 ケイがぱっと顔を明るくして覗き込むが、今度はシェインの顔が蒼白になっていた。
「待てよ…なんだこれは。何だってこんなことになってるんだ…!」
「だからえーと、俺がいたのは学校の支援学級で、シェインは中学課程ジュニア・ハイなんかとっくの昔に飛び級してホントはもう修士課程だったんだ。学校には、体育とか音楽とか実技科目んときだけ来てたんだよ。それが、課題レポートで俺の支援AI組んでくれるって話が出たんだ。
 AIが自律的バージョンアップを始めたら目標達成で、それが終わったらお袋さんのいるところに就職して手伝いをする…って、他じゃないけど、お前が俺に教えてくれたんだってば!」
 ケイが一気にぶちまけるように並べ立てる。そして、大きく息を吐き…ソファに座り込む。
「ジェスターは…シェインが俺のこと憶えてない可能性もあるって言ってたけど、一応憶えてくれてたんだよな。これで一応、嬉しかったんだぞ…」
 頭を掻きながら、少し顔を逸らしてぽつぽつと話す。その仕草に、シェインは既視感があった。それは間違いなく…自分の記憶だった。
「…お前があんまり流暢に、しかも真っ直ぐ人の眼を見て話すから、頭の中で繋がらなかったんだよ。初めて会った時には、自分の名前言うのだってギリギリだったからな」
 頭痛は続いていたが、シェインは幽かに笑っている自分に気づいた。
「だから、〝ケイ〟って言ってるのに〝イニシャルじゃなくて名前!〟って2度も訊きなおされた」
「だから謝っただろ。日本人ジャパニーズとは聞いてたけど、日本人の名前って耳慣れないからわかりにくいんだ」
「俺に言わせりゃシェインの言ってることなんて殆ど耳慣れなかったぞ」
「そうだったか…?」
「どう考えても仕事以外のことだって、無茶苦茶ニッチな情報ばっかりだった。紅茶の産地と淹れ方のコツとか、普通あんまり気にしない」
「そうは言うが、天然茶葉の紅茶なんて今どき一応貴重品だぞ。丁寧に淹れなきゃ勿体ないだろ」
「…あ、やっぱかわってないんだ、そこ」
 ケイが笑う。だが、シェインはふと気づいた。茶葉で淹れた紅茶なんて、一体どのくらい口にしてないだろう。
「学校でも施設でもお前の話についてける奴って殆どいなくてさ、唯一反応できてたのは時々一緒に来てたあののっぽの兄さんくらいだった」
「…のっぽの…兄さん?」
「俺も名前まで知らない…ってか憶えてないけど、実習指導担当者クリニカル・エデュケーターかなんかじゃなかったのかな? 俺の名前訊き返した時だって、自分で得た情報だけじゃなくて、カルテを丁寧に読め、流し読みするから大切な情報を読み飛ばすんだって…あとから怒られてたじゃん?」
 そこまで言って、ふとケイが何かに思い当たったように口を噤んだ。
「…シェイン、間違ってたらごめん。あの、のっぽの兄さんって…ひょっとして」
「ああ、そうだ」
 事故に遭うより以前の光景には、常に家族然としたあの男の姿がある。その右手は戦闘用義手などではなく、強靱だが繊細で温かい生身の手だった。シェインは思わず唇を噛む。
「…ランディ…!」
「…ランドルフ=ダグラスFIO監察部長。そうだな、君はよく識っている筈だよ。公人としてではなく…ね」
 降って湧いたような気配に、ケイが文字通り跳び上がるように驚く。ジェスターはさらりと姿を消す。
 シェインは一瞬だけ武器になるものを探して…諦めた。ここは逃げ場がない。
 いかにも当然のように、その人物はリビングの入り口に立っていた。瀟洒なスーツ姿だが、頭部は白いクーフィーヤを銀のイガールでおさえている。動きに合わせて揺れる繊細な布の下から、豪奢な金褐色が覗いていた。先程までシェインが被らされていたウイッグの色とは比べものにならないほどの深みと輝きを持ったその色彩を見るまでもなく、誰であるのか見当は付いた。
「…トゥグリーフ連邦駐在副使…」
 闖入者は優美な微笑をうかべて言った。
「知っててもらって光栄だね。シェイン・アストレア=リスト。それとも、フォルケンベルグと呼ぶべきなのかな?
 …もしくは【アストレイ】とか」
「…ご謙遜」
 シェインが口許を歪める。ケイは突然の来訪者と、表面は至って冷静に、それでも静電気を帯びたようピリピリとした空気を纏うシェインを見比べ、居たたまれなくなったようにとりあえず問うた。
「…えーと、ごめん、誰? シェインの…知り合い?」
「君がケイ=クサカベだな。それと【ジェスター】? 別に取って喰いやしないから、姿くらい見せてくれないか。私はキリディック=トゥグリーフ、まあ、君らを今日、セントラルオフィスから引っ張り出した…マリクの上司ってところさ」
 ジェスターは姿を消したまま沈黙していたが、ケイはあっさりと警戒を解いて会釈する。
「あ、そーなんだ。どうもこりゃ、この度はお世話になりましたぁ」
 ケイの言葉にキリディックは若草色の双眸を軽く見開いたあと、おさえた笑みを零す。
「その至って素直なリアクション…気持ちがいいねえ。魑魅魍魎の世界でハラの読み合いばっかりやってると、どうにも心が濁っていけない」
 褒められたのか貶されたのか今ひとつ判断が付かなくて、ケイは一瞬返答を保留したが…あくまでも一瞬だった。
「…よくわかんないけど、気苦労の多い職場なんだね」
 あっけらかんとそう割り切るケイに、シェインがこめかみを押さえて眉根を寄せる。
「そういう問題じゃない。ちっとは察しろよ。コレがどれだけ面倒臭い状況か…」
「ごめん、よくわからんから任せた。とりあえず悪い人じゃなさそうだし」
 勢いよくすとんとソファに身を預け、ケイは頭の後ろで手を組んでしまう。キリディックはその様子を完爾として眺めていたが、ふとその微笑に悪戯っぽさを滲ませて後方をかえりみた。
「…ほらマリク、そこで息詰めてないで出てくる。折角準備したお茶が冷めるだろう」
 優美なティーセットを載せたワゴンを押して、マリクが姿を現す。隠れもない渋面のこめかみは僅かに痙攣し、白いトーブの肩は震えていた。
「キリディック!あなたという人は…!」
 頭から湯気が出そうな勢いのマリクに、キリディックはいっそ典雅なほどの微笑を向けた。
「そう眼を吊り上げるな。お前が悪いんだぞ。こんな面白いことになってるのに、俺に何も相談してくれんから…」
「あなたに言ったが最後、コトが大きくなるのが目に見えてるでしょう!」
 容赦のない反論に、キリディックが大袈裟に吐息して見せる。
「あのなぁ…客人の前でそういう人聞きの悪いことを、しかも大きな声で言うかね」
 それを聞いたシェインが、低く呟いた。
「〝面白いこと〟ね…。〝アプスラボさえまたいで通る、アル・アティルの不可触領域アンタッチャブル〟…か」
 キリディックが苦笑する。
「…また、容赦のない」
「気を悪くされたなら謝る。あくまでも伝聞だからな。俺が言った訳じゃない。だが、あなたの部下のリアクションから察するに、然程かけ離れてはいないようだ」
「酷い言われようだな」
 そういいながら、口許はまだ笑っていた。
「まあ、莫迦話はさておくとして…」
 キリディックがゆったりと歩を進める。泰然とソファに身を沈め、悪戯っぽい微笑をうかべて二人を見遣った。
「とりあえず…これまでのことはマリクの独断だから、上司としては連邦とのトラブルを回避するために即刻君らをFIOへ突ッ返す、とか…血も涙もないコトを言うつもりはないから安心してくれ。その代わりと言っては何だが、少々手伝ってほしいことがあってね」
 シェインが用心深く口を開く。
「…無償タダで助けてもらおうとは思ってなかったし、身ひとつで逃げてきたんだから持ち合わせもない。働いて返すしかないだろうな」
「あー、でも俺、あんまり特技ないよ?農業用機械はそこそこ使えるけど。あ、草刈りとか得意! 庭の手入れとかなら出来るかも」
 銀河で一人の特殊能力者が、全く自覚のないところを露呈した発言は…その場全員にスルーされた。お陰でマリクが諦めきったように人数分の紅茶を注ぎ分ける間、奇妙な静寂が降りることになる。
 その紅茶を一口啜って、キリディックが言った。
「そう言っていただけると助かるな。
 いやなに、ちょっと囚われのお姫様を救出したいんで、手伝って欲しいのさ」
 先刻からと打って変わって、キリディックの表情は至って真面目だった。そこから紡がれたとんでもない台詞との落差に当惑したシェインは、暫し沈黙したあと…ようやくのことで声を押し出した。

「…は?」

――――To be continued

  1.  ASL(Apse Sentinel  Laboratory)L-委員会直下の研究機関。通称アプスラボ。 
  2. カフタン…長袖・袷仕立ての長い前開きのガウン。
  3. 一般にトーブは帯を使わないとのこと。エッジのコ・パイを信じれば、だけど。カフタンは基本前開きなので帯を使ったり、留め具を使うこともあるらしい。
  4. おはしょり…着物を着付ける際に腰回りで丈を調整し、あまりを外に折るアレ。正確にはおはしょりというのは女性のやりかたで、男性の場合はおはしょりをしないんだそう。たくし上げて帯でごまかしてるらしい。
  5. クーフィーヤ…中東の男性の衣装で頭部に被る布。色は白だったり、赤白のチェック柄だったり、黒白のチェックだったりするらしい。
  6. イガール…アガールとも。クーフィーヤを止める輪状の装身具。
  7. 大気圏…地球表面から約1000㎞をいう。軌道エレベーターの静止軌道ステーションは高度36000㎞。つまり大気圏外。低軌道ステーションと呼ばれる中間駅は400㎞、大気圏のうちいわゆる熱圏といわれる高度。現在のISS(International Space Station、国際宇宙ステーション)なんかもこの高度にあるらしい。熱圏と呼ばれるのは高度90㎞から600㎞あたりで、太陽からの短波長の電磁波や磁気圏で加速された電子のエネルギーを吸収するため温度が高いのが特徴であり、2,000℃相当まで達することがあるそうな。だから熱圏なのかな。
  8. リニアモーターカー仕様でのクライマーの移動を想定すると時速500㎞程度は出る筈。いきなり初速500㎞/hは出ないし減速だってしなきゃならないから低軌道ステーション(約400㎞)でも一時間半は見ておくとして、36000㎞の静止軌道は36000÷500として約72時間という計算。実際にはやっぱり加速減速分考えて、もう2~3時間みておくべきでしょうな。ま、フィクションですのでそこは大目に見て♪
  9. リアルに「一般社団法人 宇宙エレベーター協会」というのがあるそうで…そこのサイトを読むと、クライマーには豪華客船並の設備が用意されるだろうというお話が載ってます。ご興味のある向きはどうぞ。https://www.jsea.jp/