Section-2(Ep.2)

 精緻な文様に彩られたテラス窓の外は宵闇。中庭の噴水が、水盤の下に仕込まれた光源に照らされて淡い光を放っている。闇の中、溢れる水が干渉して踊る細い光は美しく、幻想的であったが、テラス窓越しにその光景に見入る者は今、いなかった。

 三人が注視するホロディスプレイの黒い鏡面の上に、つぶらな瞳の愛らしいブリティッシュブルーが鎮座している。その猫は、道化ジェスターの名で呼ばれるAIのアバターであった。アバターがその外見と幾分不釣り合いに荘重な仕草で髭を整えると、ゆっくりと顔を上げる。
「私を設計したアスティンには今更な話だろうが、まずはそもそもケイがなぜ支援AIわたしを必要としたかということさ」
 シェインはホロディスプレイテーブルとは少し離れた位置の椅子に身を沈め、家事ドローンが運んできた紅茶を受け取ってその香気を品定めしていたが、ジェスターが言葉を切ったことで、どうやらここは説明しろということらしいと察した。
 仕方なく一口啜ってから、シェインはゆっくりと口を開く。
「…精密検査の結果、発達期のケイは通常より感覚が鋭敏で、諸々の刺激に対する反応性が高かった。光…音…振動…測定できる身体感覚の殆どに関して、反応閾値が通常より軒並み低かったんだ。だから日常生活を営む為に必要な情報を取捨選択するためだけにすら、膨大な負荷がかかる。発達途上でそういった負荷がかかると、その反応はall-or-nothing全か無かに陥りやすい。刺激を巧く選択出来ずにいちいち反応してしまって日常生活に支障をきたすか、全く外界からの刺激をシャットダウンして身を守るかだ。どっちに転んでも社会生活には困難が発生するし、どうかすると生命維持にすら支障をきたす。ケイもおそらく、もっと低年齢の段階でそれなりに問題は発生していたんだろうが…ギリギリ適応していたらしい。
 俺が設計した【ジェスター】の基本機能は、その負荷を減らすため、周囲をモニターして注意を向けるべき情報を絞り込んでケイに伝えることだった」

「えーと、どゆこと?」
 頭を掻き、おもむろに挙手して声を上げたのはケイだった。シェインが若干きまり悪げに横目で睨む。
「…お前の話なんだがな」
「や、そうなんだけども」
 こちらもやや居心地悪げに挙げた手で頭を掻く。とりあえず話が難しすぎてよくわかんない。そう言いたげなケイに助け船を出したのはアルスだった。
「要するに、子供の頃のあなたが見えるもの聞こえるものすべてにいちいち反応しちゃって日常生活に支障があるから、ジェスターがあなたに必要な情報を選んで案内することで、あなたが普通にご飯食べて学校行って、家に帰ってこれるようにしたって話ですよ」
 ケイが手をって頷く。
「ああ、そーいうことだったんだ! そういや俺、そんな感じだったかも。やだなぁ、シェインってば言い方難しいんだから」
 そう言ってからからと笑うから、シェインは憮然とするしかなかった。
「…そりゃ悪かった。
 実直に、然程珍しい疾患じゃない。疾患とさえ言えないかもしれない。一定頻度で出現する一種の発達障害、ないし発達の偏りみたいなもんだ。基本的には発達期の問題だから、本来はAIの支援をもとに適正な刺激選択を続けることでそのスキルを学習し、やがて支援なしでも日常生活が可能となる。それが治療リハビリテーション…というより適応ハビリテーションプログラム完了の基準だ。大体…言いたかないがちょっと飛び級しただけの、同年代の子供ガキが担当するケースだぞ。思い切った特殊例が当てられるなんて本来はあり得ないんだ」
 アルスが何度も頷いていたが、ふと首を傾げる。
「でもその場合、AIが治療完了を判断したら機能停止しますよね、普通」
 シェインが吐息した。
「…俺は、そう作った筈なんだ。
 たまたまフォローアップ中に俺が事故に遭ったから、ジェスターは自律更新モードに入ってケイのフォローを継続していた…というのが俺の理解なんだが…
 ゆっくり話す機会もなかったから詳しく聞いた訳じゃないが、ケイお前、エルウエストに行ったあと…FIOに収監されるまでは普通に働いてたって言ったよな?」
 問われたケイが、胸を張って宣言する。
「おう、これでもちゃんと自活してたぞ。そりゃ、あんまり高給取りって訳じゃないけど、特に生活困ってなかった。ラクな仕事じゃないけど、それなりに楽しかったし」
「…そりゃ良かったな。
 聞いての通りだ。こいつが社会生活に溶け込んで何年も経ってるっていうのに…ジェスターがまだ稼働しているということ自体が、既に開発者である俺の想定を越えてるんだよ」
「へー、そうだったんだ」
「…なんか他人事だな。実際、ジェスターの支援がなくたって…今のお前は普通に日常生活送れるだろ?」
 シェインの問いに、ケイは記憶を辿るように視線を彷徨わせた。
「うん、まあね。月の単位でアクセスなかった時期もあるし。まあ、いろいろ忙しいのかなって気にもしてなかったけど」
 そう言って軽く肩を竦めてみせるものだから、アルスが肩透かしをくったようにつんのめる。
「何だか遠方の親戚かトモダチの話でもしてるみたいですねえ」
「まあ俺、天涯孤独だから親戚とかよくわかんないけど、トモダチっちゃそうかな?。でも俺、ジェスターがいつかいなくなるとか知らなかった。いや、知らされてたのかもしれんけど、憶えてなかったなぁ」
 ケイが頭を掻いて応えた。
「はあ、然様さいで…」
 アルスはもはや、リアクションするのにもくたびれたといったていである。
「…で、それに対するあなたの見解なり意見を伺いたい処なんですが、ジェスター?」
「私はあくまで、ケイの支援AIだ。そう作られたし、そうしてきた。これからもそうするつもりだ」
「何の支援を?」
 ジェスターを直視して、シェインが言った。それに対するジェスターの答えには、微塵も迷いがない。
「無論のこと、情報・・支援だ。アストレイ…そろそろ、あなたにも見当がついているのではないかな?
 五感とはいうが、人間がもつ感覚は存外、幅広いものだ。それを認知できるかどうかは個体の性能…あるいは個性といわれるものなのだろうがね。
 ケイが通常の感覚刺激について閾値が低かったというのは…言うなれば一面でしかない。ケイは電気的なシグナルの集合体…いわゆる電脳空間サイバースペースを、ハードウェアの介在なくして知覚…認知することができるのさ。
 地球上の生物は、数種類の光受容体を持った細胞からの信号を脳内で処理することによって視覚を構成する。ケイがやっていることはそれと大きく離れていない。光とて電磁波の一種なのだからな。
 連邦は『端末を介する事なく、精神波…対人的に言うならテレパシーのようなものでもって、電子回路にアクセスする』と説明してたようだが、私に言わせれば雑な説明と言わざるを得んよ」
 信じ難い事実が坦々と語られる。アルスは声もなく蒼ざめていたが、既にしてそれを裏付ける事象を見せつけられてきたシェインはあくまでも慎重に問うた。
「ケイのインプラントターミナル 1がASLの治験モデルであった可能性は?」
 シェインの問いに、ジェスターは一旦顔を伏せて暫時の沈黙を以て応え…ややあって真っ直ぐにシェインを見つめて口を開いた。
「言っては何だが、そんなもの裁定者アストライアのお膝元で許されると思うかね?君の研究において指導者スーパーバイザーが誰だったか、今更確認するまでもないと思うが」
 シェインが一瞬その両眼を見開き、そしてゆっくりと視線をテーブルに伏せて吐息した。シェインの指導に当たっていた医官…ランドルフ=ダグラス。当時はまだFIOでなく、ASLにいた。
「愚問だった。続けてくれ、ジェスター」
「ケイのインプラントターミナルは確かにASLアプスセンティネルラボ品質の製品だが、一般にも出荷されるごく標準仕様のものだ。通常の製品以上の機能は搭載されていなかった。これは検証済みだ。
 ケイから初めての直接ダイレクトアクセスを検知して以降、私とて何らかの不具合バグを疑って何度も、様々な角度から検証したさ。私たちにしてみれば、情報端末デバイスなしにこっちへ干渉してくる人間がいるなんて、全くの想定外であったし、説明も困難な事象なのだよ。そこは理解してほしいんだが」
「理解してほしい…というのは、初期段階でそれを開発者…俺に伝えなかったことを指しているのか?」
その通りだExactly
「…今となっては、それも道理か。確かに想定外の事象だ。俺だって、目の当たりにしなかったら信じられなかった。そこは納得するさ」
「ありがとう」
 チェシャ猫が重々しく一礼する。真面目くさった動作は傍目には滑稽であったかもしれないが、今はそれを嗤う者はいなかった。

***


 アルスが感慨深げに頷いて言った。
「はあ…確かに、蛇がサーモグラフィーで獲物を認識したり、鳥類が地磁気を感知して渡りをするように、人間が持つ感覚も五感だけじゃないかも知れない、なんて話は結構昔からありますけどね。人間が直接に電脳空間サイバースペースを認識、ですか…確かににわかには信じ難いですね」
「…だって、わかるもんはわかるし…」
「いえいえ、そこ疑ってるわけじゃありませんてば」
 悄気しょげるケイをアルスが慌てて宥めにかかる。
「でも、問題はそこだけじゃないですよ。Mrクサカベが電脳空間にアクセスできるとして、それで…空間転移なんて大技を説明出来るんですか? その…」
 そこで言い淀む。その一瞬、愛らしいブリティッシュブルーの口が耳まで裂け…その口をにやりとひん曲げて笑う。可愛らしい猫が妖怪チェシャ猫に変ずる一瞬であった。
「〝メールじゃあるまいし、人間を素粒子レベルに分解して再構築してるとか言わないでくださいよ〟…と?」
「…ご明察」
 アルスがまいった、というように両手を挙げてみせる。ジェスターは笑みを保持したまま、説明を続けた。
「ここからが、連邦がいきり立つ理由なんだが…
 いくら何でも、電脳空間に生身の人間を存在させるのは不可能ではないかな。私としてもまだ仮説の段階だが、ケイは電脳空間を媒介として異なる宇宙にアクセスし、そこを経由することで距離をゼロにしていると考えている」
 シェインが蒼ざめた。
「…〝ゲート〟の技術だ…」
「そう、まさに〝門〟をジェネレーターなしで発生させているのではないかというのが現時点での私の推測だ。確度の数字は提示が必要かな?」
「確度もなにも、厳然たる事実としてそこに在るんだ。その数字に然程意味があるとは思えないな」
 シェインが吐息する。ケイが首を傾げて問うた。
「…よくわかんないけど、結構スゴイ?」
「少なくとも、連邦が血眼になってお前を殺すか確保しようとする理由は十二分に理解できるな」
「あー…あんまり嬉しくないかも…」
 心底うんざりしたように、ケイが手近なクッションに沈み込んだ。ジェスターはそれを見遣り、そして改めて顔を上げて言った。
「ケイは、宇宙に存在する、全ての電脳空間への直接アクセスが可能な能力を持っている。調整次第では、エアギャップに関係なく…な。これは連邦にとっては脅威だろう。なんせ、どんな防壁も無益だ。しかし、キシャルの姫を探すなら、これ以上の武器はない。
 どこに潜伏していたとしても、人間が生きていくためには全く電脳空間と接触をもたないというわけにはいかない。仮にキシャルの姫がダミアンあたりに軟禁されていたとして、尚更研究と無縁でいられるわけがない。必ず何処かのネットに彼女の痕跡が見いだせるはずだ。
 本来なら接続がなければ別世界と同じだ。今の今までキシャルの姫が潜伏できたということは、連邦が掌握できないネットの何処かだろうが」
「連邦が掌握していないネット…あるんですか、そんなもの」
 アルスが訊くと、ジェスターは鼻で笑った。
「ないわけがない」
「ほう…?」
「アル・アティルの電脳空間は、門の向こうだから当然ラグはあるが…連邦と接続がある。だが、アル・アティルが莫迦正直にすべてのネットワークに連邦との接続を許しているなんて、信じる方がどうかしているさ」
「凄い言われようですねえ」
 アルスがにやにやしながら頭を掻いてみせる。おそらくこの人物は、連邦の掌握しないネットの存在について、十二分に心当たりがあるに違いない。
「エルウエストのような半分植民地のような惑星でさえ、規模は小さいが接続のないネットは存在する。ただ、生活圏を構築できないほどに小さいか、ないしは脅威と見做されないから放置されてるだけだ。況してアル・アティルなら相応の非接続イリーガルネットがあるのは常識だろう。公的リーガルネットとほぼ同一の広がりを持つ、暗渠のごとき巨大な非接続電脳空間イリーガルサイバースペースが存在するだろうな。だが、そういう場所にも、ケイなら難なく接触できる。そもそもエアギャップが関係ないんだからな。
 つまり、ケイがキシャルの姫についての正しい情報を得れば、そういったイリーガルネットであっても関わりなく、その位置情報を掴むことができるだろう」
「理屈ではそうかもしれないが、途方もない話だな」
 シェインが注意深く言った。ジェスターは頷く。
「そう、途方もない話だ。だが実際に、そうしてケイはエルウエストに居ながらにして地球の、しかもLー委員会の独自エクスクルーシブシステムに接触し…アストレイ、あなたの近況に関する情報を掬いあげた」
「…は?」
「今となっては、シェイン、地球でのあなたの立場が、アウレリア=アルフォードFIO長官の監視というより庇護下であったことは認識しているだろう。アルフォードの下にいるあなたに、ダミアンは敢えて干渉しようとしてはこなかった。…これまでは」
「…何か、状況が変わったとでも?」
「サイ・ラル=ヴァルマが活動を再開している。それこそまだ極秘扱いだが」
「サイ…!?」
「キシャルの姫が、データをほぼそっくりそのまま置いて失踪してしまったことで、ダミアンは…ウィルの研究を引き継ぐのがあなただと考えているようだ。サイ・ラル=ヴァルマが身を退いたことであなたに対する監視も弛んでいたが、サイが動くなら話は別だ。ダミアンはあなたがウィルに代わってサイの協力者となることを警戒しているのさ」
「俺は…何も!」
「そうだろう。だが、ダミアンはともかくとしてレアンドル=コルネイユはひどく警戒感を募らせている」
「莫迦莫迦しい!思い込みで殺されてたまるか。第一、俺には研究に戻る義理はないぞ。サイは親父の件に沈黙を決め込んで自分ひとり安全圏に引っ込んだんだ。そんなヤツと今更手が組めるとでも?」
「コルネイユはそう思ってはいない。彼はサイ・ラル=ヴァルマがあなたに接触する前に、あなたを抹消しようと画策している。それがたとえ、ダミアンの意図を越えた行動であってもな。
 コルネイユの思考は控えめに言ってもやや偏向バイアスが強い。あなたにとっては想像の域を越えるだろう。だから、こちらとしてはコルネイユが動き出す前に、何らかの形で警告を発したかった……んだが」

 その時、ジェスターの台詞を唸るような声が遮った。ケイだった。

「いやだから…まさか…いきなり、FIO本部へ飛んじゃうなんて思わないだろ!」
 ケイが前髪をくしゃくしゃにしながら地団駄を踏む。
 シェインはその様子に暫時唖然として、そしてゆっくりと喉奥から押し出すように問いを投げた。
「…どういうことだ」
 ケイは何かを諦めるように髪を掻き回していた手を下ろし、一旦深呼吸した。
「だから…10年前にお前の親父さんを殺してお前に大怪我させたヤツが…コルネイユ、っていったっけ?またお前の周囲を嗅ぎ回ってたんだよ。あのおっかない姐さんに遠慮してまだ手を出せてなかったみたいだけど、お前が地球を出るタイミングで事故に見せかけて殺すつもりで準備してたんだ…あの時みたいに!」
「お前…」
 両膝に置いた手を握りしめて、ケイが唸るように言葉を続けた。
「伝えられたらいいと思ったんだ。それだけだったんだ。なのに、俺自身がいきなりあのビルの立入禁止区域にすっとんじゃって…」
「転移を止められなかったことに関して、支援機能を期待されるAIとしては忸怩たるものはある。言い訳をしたいわけではないのだが、こればかりは本当に想定外だった」
 ジェスターがややきまり悪げに姿勢を崩して後脚で耳を掻く。心持ち耳が垂れ気味だ。
「なにがなんだかわかんないうちに捕まるし、閉じ込められるし、パニックになっちゃってさ……もう他に方法思いつかなかったんだよ!」

「…あのビルって、FIOの本部ビルのことか。それで、俺をまきこんでFIOから脱出を?」

 頭の中でいくつかの事象が繋がって、シェインは思わず息を呑む。
「それじゃ、お前…」
「摑まっちゃったのはホント事故なんだけど、そこから後はまあ、言ったら計画的だったんだ。計画っつっても、お前と合流できればなんとかなるかな、って程度で。白々しい台詞並べたのは謝るよ。正直、俺のこと全く憶えてなかったらどうしようかと思ってたけど、何とか憶えてくれてたみたいで…嬉しかった」
 今度は少し照れくさそうに頭を掻くケイをまじまじと見つめ、シェインは深く吐息した。
「俺は、お前に礼を言うべきなんだろうな…」
 だが、そう言ったシェインに、ケイはふとトーンを落として応えた。
「…でもな…ごめん。
 お前の日常をぶっ壊しちゃったの、間違いなく俺なんだよ。あのおっかない姐さんは結局、シェインのこと守ろうとしてたんだし、コルネイユとかいうおっさんだって、シェインが地球を出るタイミングがなければ手出しは出来なかっただろう。今日の明日ので何かが起こるわけじゃなかったかも知れないんだから…」
「いや、そうじゃない」
 シェインは苦笑を浮かべた。
「お前が俺のオフィスに転がり込んだ日、本当はあの日から俺は休暇を貰う筈だった。そして、休暇は月で過ごすつもりで手配もしていた。…まさに、コルネイユが狙うなら絶好のチャンスが転がっていたんだ」
「うーん、だとすると此処に長居するのは少し危険かもしれませんね。一旦は振り切ったかも知れませんが…軌道エレベータが狙われた処をみると、アル・アティル関連の施設が疑われるのは時間の問題ですし」
 アルスの言葉をジェスターが首肯した。
「そこでだ。あの事故の直後から10年以上、きれいに消息を消していたキシャルの姫の居場所がわかれば、そこはさすがにコルネイユでも捜し出すのには時間が掛かるだろうな」
 シェインは再び苦笑する。
「…あるいは彼女には迷惑な話かも知れないな」
「それは否定しないよ」
 ジェスターが口角をつりあげた。
「それにはまず、ケイに捜索対象…キシャルの姫についてより正確なインプットをしてもらう必要がある。10年前……事故時点までの識別情報については私で準備するが、そこから現在の状況を推測するにはアイデンティティ情報も必要だ」
 シェインが、ゆっくりと口を開いた。
「それについては…ある程度、俺からも提供できると思う」
「待って待って、何の話?」
 ケイが挙手して解説を求める。応えたのはアルスだった。
「この場合、戸籍登録とか就業履歴とか、きっちりと記載が残る情報を識別情報、本人との直接コミュニケーションで得られる性格、嗜好・志向といったものをアイデンティティ情報って考えて貰うと良いですね。その違いは……一意のユニークデータに変換できるかどうかってとこでしょうか」
「えーと…ユニーク??」
「ある人物がいつ生まれた、どこに住んでた、って情報は明確に数字と文字で表せますよね?その意味するところは誰が読んでも同じ、変わりようがない。でも、同じその人がどんなものが好きで、どういう人とつきあってて、その行動にどんな癖があったかってのは、観測者によって結果がバラつく。しかも、確認される事実とそれが示すであろう性格傾向は、あくまでもニアリーイコールであってイコールではないってところが厄介なんですよ」
「ごめん、オーバーフロー気味…」
 シェインが幽かに笑う。
「要は、正規のネットから拾える彼女の基本情報についてはジェスターが準備する、一方で彼女の現在を推測する材料にできそうな過去のエピソードについては、俺がケイに伝えるってことさ。
 子供の頃の話だが、一緒に住んでた時期もあるからな、俺は」

 そして、目を伏せた。

――――To be continued

  1. インプラントターミナル……情報支援AIとの接触を維持するために対象者が体内に埋め込む装置。基本的には単なるGPS受信機。音声シグナルで注意喚起を行う程度の機能はあり。情報のやりとりには別途情報端末が必要。