水辺のコテージ。周囲には緑が溢れ、細流の音だけの静謐に満ちている。
芝生の庭に、鈍色のガーデンテーブルとスツールが据えられている。繊細なレースのテーブルクロスの上にあるのがティーセットなら、何処から見ても小洒落たリゾートの一場面なのだが…そこには周囲とは隔絶された風格を持つ…重厚といっていい操作卓が鎮座し、周囲には無数のディスプレイパネルが遊弋していた。
それらを操っているのは若い女性だった。肩に流れる黒髪は、濡れたような艶を放っている。至高天の蒼を湛えた双眼は感情と疎遠で、繊細な雑作をやや無機質に見せていた。
ところが…パネルの1つがエラー表示と共に赤く明滅を始めたことで、変化が訪れる。明らかな落胆が、美しい横顔に年齢相応よりもやや幼くさえある影を落としたのだった。
操作卓を忙しく動き回っていた両手を停め、テーブルの端からフックでぶら下げていたボトルのキャップを開けて中の飲物を呷った。空いた片手でディスプレイパネルのうちの数枚を引き寄せ、熱のない視線でそれを検分する。……ややあって、大きな吐息とともに肩を落とした。
だが不意の水音に思わず顔を上げる。
それまで、水の流れる細い音はずっと続いていた。だが、穏やかな細流の音の中で急に水面を叩く音がしたので驚いたのである。
彼女は立ち上がり、水辺に近寄った。白くゆったりとした膝丈のドレスが、細流のつくりだす微風に靡く。
椅子の形に設えられた石に手をついて、水面を覗き込んだ瞬間…一頭のイルカが顔を出した。溢れた波が、彼女のサンダル履きの爪先を洗う。だが、それを意に介するでなく、出現したイルカに対して深甚な敬意を以て一礼した。
「おはようございます。ナイア様」
ナイアと呼ばれたイルカが、つぶらな両眼でひたと彼女を見つめる。
【顔色が冴えないわよ、マキ? ちゃんと休憩も取りなさいね】
イルカの身体構造で人語を発することはできない。その陽気な音声は、彼女の手首に装着された携帯端末のスピーカーから発せられていた。
「ありがとうございます…」
【焦る必要はないのよ。此処にいる限り、あなたはあなたが信じるところに拠って研究を続けることができる。誰にも手出しはさせない】
「…御礼の申し上げようもありません。匿っていただいた上に、このような機材まで準備していただいて」
【気にしないのよ。私はわたしのやりたいようにやってるだけなんだから】
イルカは軽快なホイッスル音を発して背から水面へダイブした。再び、溢れた波が彼女の爪先を洗ったあと、瞬く間に芝生の間に消える。芝生は樹脂の網の上に植栽されており、網の下は水の世界であった。
ふと、マキは宙を仰ぐ。
頭上にも茫漠たる水面。空は存在しない。この島以外、この人工空間に陸地はない。見渡す限りの水の世界。リゾート向けのコロニーなら、景観目的で水路を巡らせた造りは決して少なくないが、ここはまさに月面に海をもってくるために造られたかのようであった。
このコロニー…月面に産み付けられた蝶の卵のような…長細い巨大な球体の大部分は地下空洞にあり、地上に突き出た部分はほとんど水で占められている。それは厚い水の層で宇宙放射線を遮るためでもあったが、コロニー内部の水を安定して循環させるための巨大なリザーバータンクでもあった。
現代、月面コロニーの形態はそれこそ千差万別だが、かなり特異な造りであることには違いない。此処の気儘な主が、このイルカ……ナイア・カイ・カラエだ。
マキはこのコロニーで、彼女以外に話ができる相手に出会ったことはない。彼女……といっていいかどうか微妙ではあったし、明らかな海のイルカという名前からして本来の名前なのかどうかもわからない。しかし彼女はマキを保護し、このコロニーに匿い、身の振り方が決まるまで好きにしていてよいと言ってくれたのだった。
マキは上司であるアルバート=リストが亡くなった状況に謀殺の匂いを嗅ぎ取り、急遽ニューアークを単身脱出した。
一時は研究をやめようとすらしたが、そのうち…無為であることが耐え難い苦痛だと気づいた。そんな時、ナイアの言葉に動かされたのだ。
【あなた自身、研究そのものが嫌になってしまったならともかく、脅しに屈して放り出すなら、それこそ連中の思う壺じゃない?】
連中、というからには、おそらくナイアにはその正体がわかってはいるのだろう。ただ、敢えてそれを明言しないのは…マキに要らぬ忖度をさせない為の配慮ではないかと思われた。
そう思った時、マキはひとまず研究に専念することにしたのだ。
ナイアは小洒落たコテージに地球に置いてきた筈のデータをそっくり移植したワークステーションを準備してくれた。マキが何者であるかを知った上でこの環境を提供してくれていることは明白だったが、彼女自身のことについては何も教えてはくれない。
ただし、準備してくれたワークステーションは研究所のそれと同じく…先達者のデータベース、通称原初の海に接続可能であった。それはとりもなおさず、彼女がそれに対するかなり高度のアクセス権を持っていることに他ならない。
ワークステーション上でできるのはシミュレーションまでであり、実証実験をするとなると多くの人材・資材が必要になる。
かつて彼女が生活していたラグランジュの研究拠点がどうなってしまったか、今は知る由もない。だが、実証実験に持ち込めるほどの詳細なシミュレーションデータを積み上げておくことは、何故アルバート=リストが殺されなければならなかったかを明らかにするためには必要だと確信したのである。
そうはいっても、ニューアークの研究所ではチームを組んでやっていたことだ。ひとりでやるにはあまりにも膨大な作業量ではあったが、期限を切られているわけではないのだからこつこつと片付けていくだけのことだった。
――そうすることで、無為から解放されるなら。
――――To be continued