第拾弐話 すべて世は事もなし


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 春先の穏やかな朝日。
 ああ、晴れたな、とぼんやりカヲルは身を起こした。隣のベッドは既にカラで、キッチンの方からコーヒーメーカーの音と焼き上がる寸前のトーストの香りがしていた。
 フローリングの床はやや冷たいが、いまひとつはっきりしない意識を覚醒域まで引き上げるには丁度いいかもしれない。そんなことを考えながらキッチンまでの数歩を行くうちに、朝食のメニューにチーズオムレツが加わっているのを香りで知った。あれ、レイじゃないな、そういえば今朝は…。
 キッチンから聞き慣れた声がする。
「…じゃあ、こっちに来るのは昼前ですね。わかりました。つい昨日、無敵のハウスキーパーが徹底的に掃除して行きましたから、準備というほどの準備はないですね。…いえ、それほど構えるつもりはありませんけど。なんとなく」
 以前背中で緩く結んでいた栗色の髪は、短く切っている。そういえば、来る度に三つ編みをしたがる「無敵のハウスキーパー」の襲撃を躱すために切ってしまったのだった。…そうすると、重みで落ち着いていたらしい髪に緩いウェーブがかかってしまって、一歩間違うと高校生、どう贔屓目に見ても大学生以上には見えなくなってしまったが。
 片手でフライパンを時々揺すりながら、トースターの中を覗い、カウンターのコーヒーメーカーのランプが消えるタイミングを見計らっている。しかも通話をしながら。相変わらずせわしないことだ。
 ヒッコリーのエプロンをしてはいるが、色の淡いボダンダウンのシャツとジーンズという、既に一度外出してきたような格好である。…あるいは、今帰ってきたばかりなのかもしれない。
「ええ、お茶請けぐらいは準備しときますよ。その前にまだ起きてないひともいますから、今は朝食の準備中なんですが…おや、おはよう」
 そこでようやくキッチンの入口に立っているカヲルに気づいたらしい。
「じゃ、また」
 タカミがあっさりと通話を終了させる。
「…起きてないひとって僕のこと?」
 質問のやや意地悪い調子に、全く頓着しない風に笑う。
「起きてなかったのはカヲルくんだけだけど、レイちゃんも朝食は今からだよ.今、洗濯物干しにベランダに出てる」
 成程、カウンターに並んだ皿やカトラリは二人分だった。
「じゃ、タカミはもう済んでるんだ」
「まあ一応ね。一瞬慌てたよ、もう日も高いのに物音一つしないんだから。…っていうか、そろそろ気づいて欲しいんだけど」
「…ああ、そっか、おかえり」
 帰りが遅くなるから先に寝んでて、と昨日言われたのを思い出す。
「はい、ただいま」
 ただそれだけの台詞を、ひどく嬉しそうに口にする。
「はーい、洗濯完了ーっ! あ、カヲルおはよっ」
 ベランダからレイが駆け込んでくる。
「いいタイミングだね。こっちもできあがりだよ」
 トースターが軽い音をたてた。
「わ、おいしそう。このままカウンターで食べていい?カゴだけ置いてくるから」
「今焼き上がったばかりだから慌てなくていいよ」
 風のように走り抜けていったレイに、カヲルはうっかりおはようも言い損ねた。まだなんとなくはっきりしない気がして、軽く頭を振る。
「カヲルくんもカウンターでいいかな?」
 そう言いながら、既にトーストとオムレツ、サラダとコーヒーにリンゴのコンポートが載ったヨーグルトというかなりしっかりした朝食メニューがカウンターに並んでいく。
「あ、うん」
 自分とレイの分のカウンターチェアを引き寄せて、とりあえず座る。
 タカミは二人分の朝食を並べ終えてしまうと、こちらは自分の分なのかマキネッタをヒーターに掛けた。どうやらレンジの中ではもうミルクが温まりつつあるらしい。
 レイがランドリールームから駆け戻って椅子に納まる。
「いただきまーす!」
「おはよう。レイ」
 カヲルが言い損ねた挨拶を口にすると、着座するが早いかフォークを握っていたレイが一瞬だけ目を見開いて動きを停める。だが、次の瞬間には満面の笑みでカヲルに抱き付いた。
「おはよ、カヲル!」
 レイがカヲルにじゃれつくのはいつものこととしても、まるで何ヶ月も会えなかったかのようなリアクションには、一瞬呼吸が停まるかと思うほどの力が入っていた。思わずカウンターチェアから滑り落ちそうになる。…おまけに。
「ちょっ…レイ、フォーク持ったまま?刺さる、刺さってるよ!」
「あ、ごめんなさい」
 慌てて握っていたフォークを放り出し、レイが身体を離す。だが、そのレイの目の縁がかすかに紅くなっていたのに、カヲルは気づいた。
「…どうしたの?」
 レイの頬に触れて、問う。零す寸前で引き留めた涙痕。日常の中にふと入り込む非日常の陰翳。それがカヲルの胸中をざわつかせる。
 レイが放り出したフォークが、カウンターで跳ねてフロアに当たる音すら鋭角的に聞こえる程に。
「レイちゃんってば、いくらおなか空いてもカヲルくんまで食べちゃ駄目だよ」
 タカミが笑いながら新しいフォークをさらりと取り出してレイに渡し、カウンターを回り込んでカヲルの足下に落ちたほうを拾い、シンクへ滑らせた。
「レイちゃんは心配なんだよ。大きな怪我のあとだからね。君が起きるのが遅いと、 呼吸いきが停まってるんじゃないかって何回も見に行くんだから」
 そう言って、カヲルとレイの頭を撫でる。またか、とカヲルは内心で吐息する。触れられるのを忌避するような間柄でもないが、これはいただけない。いつまでも小さな子供みたいに…。
「…いただきます」
 とりあえずそのあたりに異議を申し立てても躱されるのが常だから、カヲルは諦めて朝食にとりかかった。
「お茶請けの心配してたようだけど、お客? サキのことじゃないよね」
 レイのリクエストで追加のトーストをくべるタカミの背中へ問うてみる。
「えーと、それってサキが客の内に入らないってコトかなー…」
 タカミが苦笑いしながら、レンジから温まったミルクを取り出した。ミルクの泡立てが終わった頃、丁度マキネッタがカタコトと抽出音を立て始めて、キッチンに芳香が広がる。
「サキも来るんだけど…4月からの学校のことでね。後見のことやら何やらで、手続きが要るだろう? 事情が事情だから学校の先生にも話を聞いといてもらわないといけないし。まあ、学校の先生ってのは…知り合いがたまたまそうだったってだけで、つけたりといえばつけたりなんだけど」
 綺麗に クレマの立ったエスプレッソを、マグカップの中のミルクに注ぐ。
「後見って…サキがしてたんじゃなかったっけ?」
「そのサキが、欧州へ行っちゃうだろ?僕じゃ年齢的に認めてもらえないしね…残念ながら」
 タカミが目を伏せ、香りを愉しむふうをしてマグカップから立ち上る湯気で表情を隠した。
「そうか…いつからだっけ?4月?」
「準備が出来次第。いまも欧州と日本を行ったり来たりしてるけどね。大方はミサヲさんがむこうで準備をしてる」
「ふうん…」
 チーズオムレツにフォークをいれ、一欠片を口に運ぶ。
「どうしたの。何か変?」
 不安そうな表情で覗き込まれ、カヲルは初めて自分の動作が止まっていたことに気づいた。
「…いや、おいしいなって」
「…そりゃありがとう」
 言ってしまってから、あまりにも間抜けなタイミングと感想であることを再認識してカヲルが憮然とする。タカミが少し悪戯っぽい、だが何処かほっとしたような笑みで応えてマグカップに口をつけた。
「食べ物の味がしない、っていわれたらどうしようかと思ったよ」
「何を大仰な。…ただ、なんだかひさしぶりに食べた気がしただけ」
「おいしく食べられるってのは良いことさ」
 それほど空腹を感じていた訳ではなかったが、気づくとカウンターに並んでいたものがきれいになくなっていた。
 カヲルよりも早く、なおかつトーストを一枚余計に片付けたレイが、片頬杖でその様子をひどく嬉しそうに眺めているのに気づいて思わず微笑う。
「本当に、どうしたんだい? レイ」
「ううん。カヲルがちゃんとごはん食べられて良かったなって」
 涙痕にも見えた まなじりの紅さはもうない。はちきれそうな笑みだけがそこにあった。何かを口に出して訊ねるのも無粋に思えて…ただ、その銀色の髪を撫でる。
「…ありがとう」
「さーて、カヲルくんは顔洗って歯を磨いたら着替えておいてくれよ。来るのはサキだけじゃないからね、さすがにその格好は不味いよ」
 てきぱきと片付けを始めたタカミに言われて、ふと気づく。
「…ああ、そうだね」
 パジャマ代わりにしていた、サイズの大きすぎるネルのシャツ一枚という格好は確かに客を迎えるスタイルではない。温かい食事のおかげで気づかなかったが、本来ならまだ家の中をうろうろするにも薄ら寒いくらいだろう。

 カヲルが程良い色に焼き上がった最後のマフィンを型から外したとき、玄関からチャイムの音が聞こえた。
「すごい、はかったみたいなタイミング」
 レイが感心しつつ玄関へ駆けていく。
「あー、型はそのままシンクに置いといてくれるかな。後で洗うから。とりあえず、焼き上がった分をケーキスタンドに並べちゃって」
 リビングで来客のための皿を揃えていたタカミが指示を飛ばす。ケーキスタンド?いつの間にそんなものまで買い込んだんだろう。待て、レイが唆されたという線もあるな。だとしたら、唆したのは間違いなく…。
 まだ湯気をたてているマフィンをリビングに運ぶと、レイの案内でその「お客」がリビングに通されたところだった。
「いい匂いねー。まさに焼きたてってカンジ?」
 艶やかな黒髪を肩を覆うほどに伸ばしたその女性ひとは、快活という言葉がそのまま具象化したような印象があった。
「いらっしゃい。早かったですね。もうちょっと余裕あるかと思ってたのに」
 タカミが笑って応える。
「…葛城…先生?」
 カヲルがその名前を口に出すまでに、僅かな間があった。だが、彼女はそれに全く頓着しない様子で気楽に手を振ってみせる。
「そーよぉ、渚君。お久しぶり。何だ、意外と顔色よさそーじゃない」
 その時、彼女の後ろからもうひとりの客が姿を現す。幾分くたびれたシャツとスラックス、これもややくたびれてはいるが一応ネクタイをしている。しかしぼさぼさの髪を後ろで括り、顎に無精髭まで蓄えていては…いわゆる勤め人のようには見えなかった。
「や、こんにちは」
 記憶にあるはずなのに、ふとその名前が出てこなかったことにカヲルのほうが愕然とする。だが、その硬直は半秒で破られた。
「ほら加持、そこで突っ立つな。後がつかえてる」
 後ろから遠慮会釈なく小突かれ、加持がたたらを踏む。加害者はといえば、悠然と自分のジャケットを壁のハンガーにかけ終えて、襟元のループタイを緩めたところだった。…他でもない、高階マサキである。
「サキ、お客さん相手にそれはないでしょ」
「開口一番がそれか。…やっぱり俺は客としてカウントされてないな」
「当たり前です。普通、呼びもしないのに頻々と上がり込むひとを客とは言わないでしょう」
「まったく、日に日に可愛気がなくなるな。お前は」
「サキ、カヲルくんも! 二人して、出入り口で何やってるんですか」
 見かねたタカミが割って入るまで、緩やかではあるが確実に会話のボルテージが上がっていく。そんなやりとりに慣れてでもいるのか、全く動じずに座布団を勧めてくれたレイへ、ミサトがそっと訊ねた。
「…ね、あのふたり、いつもああなの?」
「えーと、別に仲が悪い訳じゃ無いと思うんですけど…」
 レイが苦笑いで応じる。
 平穏な騒擾のなかで、加持はひとり、表情を凍らせていた。