「…どうしたの…」
そう言いかけて、碇シンジは、自分の見たものが信じられなくて思わず立ち尽くした。
受験シーズン真っ最中の中学3年生である。基本的には、受験を控えて家で自習しているか、すべきことは全て終わってしまい諦観と同居しつつ首を洗って待っている頃合いだ。
碇シンジは前者に属した。
アスカやカヲルが早々に推薦で行き先を決めてしまう中、完璧に出遅れたシンジとしては…とにかく自分が出来ることに専心するしかなかった。
まだ、自分がやりたいことについて確たる方向性を見いだせないシンジとしては、さしあたってアスカやカヲルと同じ場所に立とうと力の限り頑張るしかない。
そんな土曜日の午前中である。
ふと、物音に気づいた。
物音自体にそれほどの不審があったわけではない。ただ、母が帰宅するにはかなり早い。母ユイだとしたら、何らかの非常事態さえ疑って然るべき時間である。
シンジはシャーペンを置いて、部屋から出た。そしてとりあえずリビングを覗いたとき、思わず呼吸を停めた。
中年、というより初老の印象を強めた男。すこし色の入った眼鏡は時に光をはねて目許を窺わせず、ひどく冷たい感じを与える。
ここにいて不自然な人物では決してない。むしろここ数年来、いなかったことが本来不自然だった筈の人物。母と同様に、帰ってきて欲しいとシンジが心から願っていた人物。
「父…さん」
冬のよく晴れた午前中。
数日来の寒気もすこし薄らいだ休日である。
「ふうん、じゃ、皆結構近くにいるんだね」
洗濯物を干し終わって、洗濯籠をランドリーに置いたカヲルがリビングに戻ると、客人は供された紅茶を片手にソファの上に身を落ち着けていた。
「ヴィレ側に開示してるのはここと俺の所だけだがね。一カ所に固まっていても危険だが、分散するにしても互いに支援に回れないほど離れすぎても問題だ。あの家は、結構引っ込んだ処にあったし…人目の煩い場所ではなかったからな。そこそこ居心地は良かったんだが、まあ仕方ない」
やや淡い色の頭髪と、20代から40代まで、どうと言われても納得できそうな容貌。
アーネスト・高階。社会的にはそれが現在の彼の名前であるが、身内は遠慮無く以前の名で呼び、本人もまたそれを許容していた。
カヲルが名前を変えた意味ないんじゃないの、と突っ込んでみたが、「こういうことには形式が大切で、しかも大した形式じゃない」と澄ましたものである。どうにも煙に巻かれた気がするのだが、終いには拘るのが莫迦ばかしくなって追及をやめてしまった。
その名を、高階マサキという。
「じゃあ、あのお家って今完全に空き家なの?」
時代のついた洋館のたたずまいを結構気に入っていたらしいレイが少し残念そうに言った。
「手放した訳じゃない。タカヒロが時々庭の手入れに行っているし、まめに風通しはしてるから、住もうと思えばいつでも住めるよ。…ま、住所不定組が定宿にしてる関係上、ライフラインは止めてないしな。
君たちが気に入ったんなら引っ越してもいいが…少々広すぎるか?」
そう言って笑い、茶碗を傾ける。
「住所不定組?」
奇怪な造語の出現に、カヲルが眉を顰める。
「イサナを筆頭にリエとかカツミだな。他は概ね、世間的な職や役柄背負って定住してる。見た目未成年者は単品じゃ部屋も借りられないから…もっともらしいプロフィールをでっち上げるのも一手間だ。まあ、そういう手間を楽しむ奴もいるから何も問題無いんだが」
「そういえばそうよね…このマンションだって、名義はタカミだし」
改めて、レイが考え込むように呟く。
「正直なところ、全員を親子兄弟で括るにはいろいろ問題がある年齢構成だからな。ま、昨今はルームシェアって概念も広まってきたし、言い抜ける方法はいくらでもある。
で?留年しかかってるその名義人はまだレポートの山に埋もれてるのか」
すこし意地悪い笑みをして、背後の書斎を指差す。
「聞こえてますよ、サキ」
扉が開いたままの書斎から、険のある声が飛んできた。
「自覚があるならキリキリ仕上げるんだな」
そういう台詞でさらりと躱す。
「はいはい、タカミはそっちに集中して」
カヲルがやれやれといったふうに書斎の扉を閉める。遮音のよい扉だから、きちんと閉めると殆ど音は通らない。
「医学生がそんなに暇な訳ないとは思ってたけど…まさか本当に留年寸前になってたなんて」
吐息混じりのカヲルの言葉に、マサキが低い笑声をたてる。
「前期が終了したあたりで、一応俺の所には学生課からご注進があったんだがな。奴自身の問題だし、まあ一年や二年焦る事はないと思ってたから放置してたんだが…まさか、あそこから物言いがつくとは思わなかった」
「…今でも不思議なんだけど、何処からバレたんだろう」
『MAGIを越えるコンピュータの開発』を目指して大学に招聘された赤木リツコ博士の研究室に、タカミが医学部の学生身分でありながら研究生のような待遇で出入りしていたのはカヲルも知っていた。…というより、途中からどちらが本分なのだかわからないような生活になっているのを、余計なお世話と思いながら多少気にはかけていたのである。
どんな形でも、傍にいられればそれでいい。そんな隠れもない幸福感を滲ませて研究の話をするタカミを見ていたら…とてもではないが本業はどうなったんだとは言えない雰囲気があった。実際、研究室内で十分な戦力として認められ、他の研究員からさえかなりアテにされていた節もあったのだ。
そうは言っても、身体はひとつだ。睡眠時間を切り詰めるほどに研究にのめり込めば、学生としての務め…出席は、どうしても疎かになる。
元来、些か反則くさいほどに知識量については何も問題が無い。だからテストが受けられる科目については難なくクリアして単位をせしめたようだが、出席が足りない分は如何ともしがたかった。
ところが、単位不足でこのまま行けば留年という事態が…どういう訳か赤木博士にばれたのである。
突然研究室に出入り差し止めを食らったタカミの凋れようといったら…言葉を掛けるのも憚られる程だったが、コトはそこで終わらなかった。赤木博士は利用可能なありとあらゆるコネクションを駆使して膨大なレポート提出と口頭試問での単位取得を大学側に認めさせてしまったのである。
「…さてな。本来は個人情報だからそうそう外部に漏れるものでもない筈なんだが、噂にだってなるだろう。
あれだけコネがあるってことは、情報源だって一つや二つじゃないんだろうし…まぁ、これであいつにも良い薬になっただろうさ。なにせ、これで落としたら赤木博士に恥をかかせることになるんだからな」
「…サキがこっそり情報漏洩したのかと思ってた」
ぼそり、とカヲルが呟いたものだから、マサキは心底気分を害したように言った。
「何で俺が」
「…だって。タカミが、赤木博士と関わりを持つのを…サキはあまり歓迎してないようだったし」
「…んな迂遠な。それ以前の問題として、こんな話が他所に流れたら後見してる俺が真っ先に恥をかくんだってことには思い至らんのか、お前は」
「留年したところでタカミ自身の問題だからって言ってたじゃないか」
「そこはそうなんだが、お前の言うとおりだったとしたら全く逆効果だろう。結局俺は俺で赤木女史に借りをつくっちまった格好だし、あいつなんぞ留年回避したら外で逢うって約束ぶら下げられて、血反吐はく勢いでレポート仕上げてるじゃないか」
「それはそうなんだけど…」
本来訊きたかった部分をはぐらかされて、カヲルが視線を泳がせる。
その時、コートハンガーに掛けたままだったマサキの上着の内ポケットで、携帯電話が鳴動した。どうやらマナー設定になっていたらしく着信音はしなかったが、バイブレーション機能が作動したため、一緒に入れていた鍵と接触して神経質な音を立てたのだ。
「今日は待機じゃない筈だがな…」
ぼやきながら立ち上がると電話を取る。発信者表示を見たマサキの顔色がわずかに変わるのを見て、カヲルが表情を硬くした。
「…はい。何か変わりが? …っ…と。…そうですか。いえ、直に状況を見てみないと何とも。ええ、今から行きます」
マサキが通話を切った。先程までの剽げた雰囲気はきれいに姿を消している。
「お仕事?」
聞き耳を立てるつもりがあったわけではなく、仕事の電話だったらいけないと気を遣って息さえひそめていたレイが恐るおそる問うた。
「ま、仕事だな。電話は碇博士からだ。…碇ゲンドウ・元ネルフ司令が秋頃から少しずつ意識を回復してる…という話は、前にもしてるな?」
「…ああ」
カヲルの表情が更に硬くなる。レイはただ呼吸を呑んだ。
「ごく短時間で、会話もそれほど持続しないと聞いた」
やはり硬い声で、カヲルがそう答える。
「今月に入ってから、介助つきで外出できるレベルにまで到達していたが…相変わらずコミュニケーションはとれなかった。まぁあのおっさんのことだ、それについては症状なのか素なのかいまひとつ判然としなかったんだが…。つい先程、姿を消したそうだ。
現在、付近を捜索中。俺もいまから研究棟へ戻る」
「追跡できるの?」
「俺の場合、水がなければどうにもならんがね。過去視とか残留思念とかいう話なら、そこに強力な奴がいるが…今回は本分に専念してもらわにゃならん。
俺は仕事だから仕方ないが、本来この件に関して俺達が首を突っ込む義理はないんだ。タカミにも話さなくていい。…ってか、話すな」
「…了解」
マサキの意図を正確に理解して、カヲルがそう応えた。
マサキがマンションのエントランスを出たところで、はかったように白いアクセラ1が停まった。殆どマサキに足を止めさせない絶妙のタイミングである。
マサキが助手席に滑り込むとすぐに発進する。
「済まんな、イサナ。忙しいところに」
ステアリングを握っているのはイサナであった。
「何とも厄介だな。何も今でなくてもと言いたくなる」
「同感だ。正直なところ、あんな狸親爺がどこで野垂死のうと知ったことじゃないが…全く知らん振りもできんのが歯痒いね」
「…例の、取り込んだ組織1st-cellのことだな」
元ネルフ司令・碇ゲンドウが1st-cellを取り込んだ細かい経緯は今以てわかっていない。その意図も今ひとつ不分明ではあったが、ともかくも1st-cellは碇ゲンドウの左手に定着していた。
…ジオフロントで、イサナとレミに斬り落とされるまでは。
斬り落とされた左手は凍結処理され保存されている。その解析はいまだ手着かずだ。そして、その後レベルダウンを来していた碇ゲンドウが1st-cellといまだ共存しているかどうかも、解析途中である。
「カツミの言い種じゃないが、あんなのが眷属とは考えたくもない。しかし、可能性は0じゃないからな。
実際、俺がクムランで3rd-cellと融合してから「サッシャ=クライン」として活動するようになるまで、ざっと20年以上が経過している計算になる。間で何が起こってたか、俺だって憶えてないからな。死んでないのがおかしいくらいの損傷だったらしいから、修復過程のためにただ休眠してたのかも知れないし、あるいは全く別人格でフラついてたのかもしれない。
それを考えたら、あの狸親爺が去年のカヲルのような状態である日ふっと覚めて動き出したとしても、俺は驚かんよ」
「しかも、他でもない1st-cellではな。始祖生命体の細胞が持つ可能性は、そこいらにばら撒くには危険すぎるか」
自分以上に容赦無い口調に、流石にマサキが鼻白んだ。ややあって、小さく吐息してシートに身を沈める。
「ばら撒くってお前…既に野垂死に前提か。…まあ、それはそれで一つの帰結といえばそれまでなんだが…碇博士が黙っちゃいないだろうからなぁ」
「サキ、いろいろ考えすぎだ。…あんたはもうちょっと横着になっていい」
「有り難い御諚だが、そうも言ってられん。タカヒロとタケルは動けるか?」
「午後以降なら大丈夫と言ってた。ユウキはミスズとまだ例の件の方に。とりあえず方向の目星が付かなければあいつらだって探索のしようがない。
現状、リエの連絡待ちだ」
「クレジットカード、電子通貨系の動きについて、リエからの連絡は?」
「表向き…というか、隠れもない国家級の重犯罪者だからな。本人名義なんて真っ正直なものは疾うの昔に差し押さえられてる。まずは、資金操作のために使っていた虚偽名義の検索あたりから始めなければならないと言っていたから、少し時間が掛かると」
「そりゃそうだ。いくらリエだって、さすがにこういう事態までは予測できなかっただろうからな」
「周辺カメラの画像検索も始めちゃいるが、今のところ何もヒットしてないと言っていた。拉致ないし誘拐の可能性は?」
「碇博士からの連絡では、争った形跡もなければ、外部からの侵入者の痕跡もないそうだ。とりあえず行って何か残ってないか視てくるが…自分で出て行った、というのが一番妥当のような気がする。
実際、あんな可愛気の無いもの誘拐ったって普通は誰も喜ばんだろ。誰かが連れて行ったってんなら、俺としてはそのまま熨斗つけて進呈したいくらいだ。
…1st-cellのことさえなければな」
マサキがもう一度小さく吐息してヘッドレストに頭を凭せかけた。
「先輩、どうかされました?」
伊吹マヤは、敬愛する先輩が窓の方を見遣ったまま手を止めているのに気づいて、そう声をかけた。
よく晴れた冬の日。葉を落とした木々の姿は寒々としていたが、その向こうから差し込む陽の光は研究室の、主不在の机の一隅を照らし、穏やかな暖かさをもたらしている。
その特等席で、黒猫のカスパーが長々と寝そべってゆったりと尻尾を動かしていた。
「大きくなったわね、カスパーも」
「もうすっかり成猫ですから」
あれからそろそろ一年が経つ。
掌に載りそうなサイズの仔猫だった頃、カスパーは迷子になったことがある。実は細く開いた窓から枝伝いに外へ出てしまい、怪我をして動けなくなっていたのだったが、それを見つけて助けたのが榊タカミだった。
まあ、助けた本人も樹から落ちて肋骨を折ったのだが。
ネフィリム…死海文書が警告する「使徒」と呼ばれる地球外生命体の核と現生人類が融合し共存する生命…そのひとり。そんな彼のプロフィールが、リツコの中では今以て全く繋がらない。
始祖生命体アダムの現身たる渚カヲルや、自身も3rd-cellとの融合体であり、ネフィリム達をまとめて半世紀以上ゼーレから護ってきた高階マサキの持つ雰囲気とは一線を画している。
…有り体に言えば、まあ普通なのだ。
カヲルをネルフから取り戻す為、ジオフロント攻略の武器として彼が組んだというウィルスの構成を見る限り、技術者としての彼は非凡という言葉で括るには空恐ろしい程だった。…そこについてはこの1年ほどの実績がリツコの目が確かであったことを証明している。
だが世間的には、これといって変哲のない医学生だ。落ち着いて見えるという言い方が出来なくもないのだろうが、プログラム技術以外のところでは…むしろおっとりしすぎて少々危なっかしい。
今は後見人・高階マサキの勧告に従って就学中の身の上。そうと知っていて研究室に誘ったのはリツコだから、彼が研究のためにその本分を半ば放り出していたと知ったときのばつの悪さといったらなかった。
『そんなに気に掛けていただかなくても大丈夫ですよ。あいつが好きでやってることなんだから、あいつ自身でどうにでもします。どうぞお気遣いなく』
慌てて連絡を取った高階は事も無げにそう言い切ったが、引っ張り込んだ責任というものがある。後見人が気遣い無用と言ったからといって、はいそうですかと納得するほどリツコも鷹揚にはなれなかった。
落としてしまった単位履修について、リツコに打てる手段はすべて打った。あとは彼自身の努力に期待するだけだが、そこについてはリツコは然程不安も疑問も持っていなかった。彼がここに至るまでに何処で何をしていたかは詮索したこともないが、あの出鱈目ともいえる知識量で今更何も焦ることは無い筈だ。医院で事務を執っていたというだけにしては、基礎医学の知識も一通り以上に備えている。
問題は、それを言い渡したときの彼の反応だった。
ひょっとして、自分は余計な…というか、酷いコトをしたのだろうか?
ともかくも、順調にレポートは提出されているようだし、口頭試問のほうも既にいくつかパスしたと聞く。
約束通り、あれ以来彼は此処に顔を出してはいない。
整頓された彼のデスクの辺りをやけに広く感じる。今はそれをカスパー達が代わるがわる占領してしまっているが…リツコは、時々それを意味も無く眺めている自分に気づいていた。
彼が抜けたことでいくつかの課題がストップしているのは事実だが、二進も三進もいかないという状況ではないし…話相手に不自由しているわけでもない。
…それでも。
「何か、心配事ですか?」
動作を停めてしまったリツコを、マヤが気遣わしげに覗き込む。
「…何でも無いわ。カスパーが、気持ちよさそうだなって思っただけ」
そう微笑って、リツコは視線をディスプレイに戻した。
その視線が見ていたものに気づいて、マヤは僅かに俯いた。
「…綺麗な女性よね」
毛足の長いラグの上で胡座をかいていたミスズが、ふうっと吐息して眼からライフルスコープを離した。スコープ単品である。今日は狙撃が目的ではないから、本体ライフルは入口近くにケースで置いたままだ。そのケースも一応、人目を慮ってフルートのケースに偽装している。
ミスズならスコープなしでも見えるのだが、相応に疲れる。狙撃のような集中力を要求される場面以外は、普通にスコープだって使うのだ。
スコープを傍らに置くと、勢いよく大の字に後方へひっくり返った。半畳分ほどはあろうかという巨大な半月型のクッションに飛び込んだ格好だ。
跳ね上げた脚をパタンと下ろす。夏に切ってしまった髪は、もう肩を越えるほどに伸びていた。
学生寮としては、バス・トイレ別にして10畳というスペースは結構恵まれているだろう。しかしミニキッチンには食器の一枚も置いてあるわけでなく、作り付けのロフトベッドもマットレスさえなく畳まれたままの毛布が一枚突っ込んであるだけという光景は、やや異様ではあった。
がらんとした室内には、ラグとクッションの周辺だけ飲み物や食べかけの袋菓子が雑然と置かれている。
入居者がここを住まいとすることを前提にしていないのは明らかだった。
「なんだよ、藪から棒に」
ミニキッチンに凭れてやはり窓の外を見ていたナオキが、ミスズの感慨深げな言葉に真意を汲み損ねて問い返す。ただし、こちらはミスズのような視力があるわけではないから、手許のタブレットで資料を捲りながら、漫然と外を眺めていただけだ。
「だって私達、去年の一件では直接に会ってないじゃない?」
「ま、そりゃずーっと屋上待機だったし」
「一応興味あったのよねー。どんな女性かなって。だってさー…」
「…あのなミスズ。他人様の恋バナするなら相手が違うぞ」
ナオキがげんなりしたように言って、タブレットを置くとペットボトルのスポーツドリンクを呷った。ミスズが露骨に頬を膨らませる。
「えー、だって。どのみちユウキがナオキ以上にこーゆー話でノッてくれるとは思えないしぃ」
「当たり前だ。俺だってノれんわ。どっちかってーと、そういうのはユカリとかレミとかが担当だろ」
「レミ姉勤務だし、ユカリ連れてこれなかったし。ああっこんなに萌えるシチュエーションなのにノッてくれる相手もないなんてストレスよっ!」
「お前ねえ…」
ナオキは肴にされている本人に心から同情した。他人事と言い切ってはいるが、当事者の真剣さは周囲まわりで見ていても少々痛々しいのだ。
「だってぇ、退屈なんだもん! いつから私達、こんな何でも屋ってより便利屋みたいなことまで請け負うようになったワケ? さっさと怪しい奴、出て来ないかなぁ。さっくり撃ち倒してやるのに!」
ラグの上でじたばたしながらミスズが焦れる。
「あーあ、本音が出たな。まあ、世の中平和ならそれで結構なことだとは思うんだが…」
「平和じゃないから公権力なんかには頼れない事象が発生するわけでしょ。大体、フツーは公安警察の仕事でしょうが! おまけに対象にも知られるなって何それ。どんだけ無理難題?」
「そこは信用されてると思えば腹も立たんだろ」
「あー、やっぱり皆でのんびり住んでたときがよかったよねー。しっかりおやつ作っても捌けてたし…」
「問題はそこかよ。今更だけど夏の…カツミの心労が偲ばれるな。ま、今回の対象については物凄ーく扱いが微妙な問題になりそうなんだ。下手すると結構荒事になるかも知れんから、場合によっては撃ち放題っていうシナリオもアリらしいぞ」
「撃っていいの? いいの?」
わくわく、という擬態語を背負って両の瞳を輝かせるミスズに、言っておいて半歩退くナオキ。
「場合によっては、って言っただろ。護らなきゃならないものを護る、ってのが最優先なのは何も変わらないってコトさ」
「うー、何か最近ナオキも言うことが回り諄くなった」
眉間に軽く縦皺を寄せたミスズに睨まれ、ナオキが天を仰ぐ。
「そーだよ、なんで俺がこんな分別くさいことぶちぶちと説教しなきゃならないんだろう。…ホント、とっとと出てきてくんねェかな、怪しい奴」
その時、部屋のドアが前触れもなく開いた。
「…声が大きいぞ。世間的には俺達のほうが、怪しい奴扱いされかねないんだがな」
「あ、ユウキおかえりー。ってか、いらっしゃーい」
「ノックぐらいしろよ。吃驚するだろ」
ナオキの文句に、ユウキは慎重に扉を閉めてから言った。
「本来一人が住んでる筈の部屋に入るのにノックしてたらおかしいだろう?」
「…ごもっとも」
ナオキが今更ではあるが手で口を覆う。
監視のための拠点だから、ついその感覚が希薄になるが…本来は男子学生寮である。出入りを見られるわけに行かないミスズは先行したナオキをマーカーにリエの能力で転送されているのだ。ナオキとユウキは外見的な特徴が似ているから入れかえても不審を買うことは無かろう、という判断であった。
「退勤直後なのに大変だな、ユウキ」
「全くだ。そのうえまた別件だろう?同時進行なんて勘弁して欲しいとサキが嘆いてた」
「…えー。やっぱりあのおじさんも探すの?私、どーでもいいなぁ…」
「積極的に探したいと思ってるやつなんざ、正直誰も居ないさ。でも、あのおっさんが1st-cellと融合しかかってた可能性を考慮すると、たとえ死体になってようが野晒しにするわけにはいかないだろうってさ」
ユウキが通勤用に使っている黒いキャンバス地のメッセンジャーバッグを肩からおろしてミニキッチンの足下に置くと、無造作にフローリングへ腰を下ろした。
「リエが手掛かりを検索しているらしいが、とりあえず…一度翔んでみる。基本はあの…エヴァの気配を捜すつもりでやってみろと言われたから」
「あれ、面識あったっけか?」
「ない。一応資料はあるが。イサナが『感じとしてはエヴァが一番近い』と言っていたから」
「ふうん…例の細胞を埋めこんだ腕を斬り落とした本人がいうんならまぁ間違いないだろうな」
「どのみち、あまり気持ちのいい捜し物じゃないな…。翔べるのはいいが、どうにも気が滅入る」
そう言って視線を落としたが、ややあって少し息を深く吸い込むと、細く静かに吐き始める。ミスズが慌てて跳ね起きると、自分が敷いていたクッションをユウキの背後に滑らせた。殆ど間を置かずにユウキの上体が後ろに傾ぐ。…間に合った。
「相変わらずなんだから。頭打ったらどうしようとか思わないの?」
「多分、翔べるとなったら身体を地上に置いてるってコトがキレイさっぱり抜け落ちるんじゃないかな。コイツ見てるとそう思うぞ」
「いつもは物凄く慎重なのにねー。ねえ、それはそうと実の所…どんなもんなんだろう」
「何が」
「あのおじさんがエヴァと同じ気配って話」
「似てる、ってコトと、イコールは違うからな。
俺達の
「1st-cellとか2nd-cellから作ったエヴァには人工的な魂の容れ物…エントリープラグを実装する仕組みがあって、だから動いたって話だったよね」
「…まー、百発百中動いた訳じゃないらしいけどね」
「魂って…現生人類の魂でもいいのかな」
「さーな。ネルフはそれでもなんとかなるんじゃないかって仮定の下にエヴァの操縦システムを作ったんだ。それが結局いいことになってないってことは、やっぱ駄目だったんじゃないの。…理由まで訊くなよ。俺に判るわけないんだから」
いい加減、煩わしくなってきたナオキが予防線を張る。
「うーん…私もこんがらかってきた」
ミスズが頭を抱える。その時、ラグの端に置いていた携帯電話が鳴る。
「あ、リエ姉だ」
ミスズが携帯に飛びつく。
【ユウキは帰ってる?】
「うん、今帰ってきた。とりあえず、エヴァに似た気配を捜してみるってもう翔んでるけど」
【マメねえ。私が目星つけるまで待っとけばいいのに。実は翔びたいだけだったりして?】
「そこはツッコまないであげてよ。んで、何か新情報?どっちの件?」
【ああ、それなんだけど…前の依頼のほう。だいぶ絞れてきたの。しかも、この数日でコトを起こしそうな奴の目星がついたわ。資料送るから目を通しておいて。それっぽいのがいたら知らせて頂戴。一歩間違って荒事になるようならタケルとタカヒロを投入するだけよ。
最悪、発見したときにもう距離を詰められ過ぎてたら撃ってよし。ただし、絶対に外しちゃ駄目よ。一撃で倒してすぐに撤収】
「ふふーん、誰に言ってんだか?」
【ま、あんたたちは基本的にそこからの護衛に徹して。ま、制約多くて動きにくいのは判るけど、だからこそあんた達以外適任者いないんだから】
「えー、いるじゃない。対象の目の前にいても怪しまれなくて、しかも我が身楯にしてでも守りそうなのが。適任だよやっぱり。…ってか本来は他に譲りたがらないでしょ、きっと」
【ミスズ…アンタ本気で言ってる?楯って話が冗談にならないからこういう人選なんでしょうが。…こうしてみると、誰だか知らないけど情報漏洩の犯人さんには感謝だわね】
「あはは、そりゃそーか。それにしても、スケジュール見せてもらったけど…可哀相なくらいがんじがらめよね。私だったら取っ組む前から音を上げそう」
【仕方ないわねー、自分が溜めたツケなんだから】
「おーいリエ姉、これ…冗談?」
タブレットでリエが送ってきた資料にざっと目を通していたナオキがうんざりしたように言った。
「…一歩間違わなくても、十分荒事になるだろこれ。てか、ホントに俺達の仕事かよ?」
【いや、ある程度予想はしてたけどね】
「『高度に政治的なオハナシ』ってやつで矛おさめらんないのかよ。もう二歩間違えたら市街戦になるぞ。…そこにタケルとかタカヒロ投入してみろ、今度こそ第3新東京最後の日ってことにもなりかねんぜ」
【そうならないようにユイ博士が頑張ってくれてるんでしょ。まー、そのユイ博士も面倒な旦那の所為で目下てんてこ舞いみたいだけどね。そこはサキがなんとかするでしょ。
ま、近くにイサナに伏せてもらってるから、先ずはそっちに連絡入れて。向こうさんが投入してくる人数によってはイサナだけでも十分カタつくでしょ。
大丈夫、タケルとタカヒロ投入は最終手段だから】
「何を以て大丈夫って言ってるんだか…」
ナオキが苦り切って零したとき、ユウキの頭がかすかに動いた。
「あ、おかえりー」
ミスズがユウキの枕元にぺたんと座って覗き込む。
「何か見えた?」
「…」
眼を開けたはいいが、暫し、沈思黙考。
「おーい、ユウキ?」
ミスズが眼前で手を振る。
「大丈夫だ、ちゃんと覚めている」
律儀にそう言ってから、ユウキが身体を起こす。
【収穫は?】
「あると言っていいのか、無いと言っていいのか…感じるんだが、所在が掴めない」
「例の、エヴァと同じ気配ってやつ?」
ユウキは頷いた。
「似た感じの気配はまだこの街にあるのに…所在が掴めない。何だか変だ」
「ふーん…何だろな?」
ナオキも首を傾げる。
【了解よ。とりあえずその件については保留しましょう。差し迫ってる方から片付けるわよ。送った資料でその周囲を再検索よろしく】
「了解」
ユウキはナオキからタブレットを受け取り、その資料を流し見して目を閉じる。
ミスズがまた慌ててクッションを滑らせた。
よく晴れているが余寒厳しい校庭。土曜日だから中学校の校内にいるのは部活に来ている1、2年の生徒か溜めたデスクワークに追われる教員だが、その一隅の花壇でせっせと土を掘り返している作業着姿があった。
「…精が出るね」
用務員詰所に戻りかけてその光景を目にした加持がそう声をかけた。
世間的にはまだ少年と目されて不思議のない年代である。冬というのに薄手の長袖シャツという格好は、帽子から陽に当たりすぎて白っぽくなった金髪がはみだしていなければ、職員というより園芸部員学生かと思われる風体ではあった。
「いやぁ、こんだけ広いと手の掛け甲斐はあるよ?」
帽子のつばを押し上げてタカヒロが笑う。
「この時期に何を植えるんだい?」
「いやいや、まだ植えないよ。天地返しだけ。卒業とか新入学時期ってちょっと花があったほうがいいんでしょ?今のうちに寒晒しやっとくんだよ。タケルは?」
「西棟の棚の修理に行って貰ってる。仕事が丁寧だから助かるよ。君も凄いな。花壇だけでも結構な広さがあるのに、植栽を含めて俺がやってた時よりよっぽど管理が行き届いてる」
「こっちこそ好きにやらせてもらって給金貰えるんだから有り難い話さ。俺ずっとここで働いてもいいなぁ」
「そりゃ困った。俺のほうがお払い箱になりそうだ」
加持が苦笑する。夏の事件で脚を骨折した加持は休職扱いになり、その間の臨時職員として入り込んだのがタカヒロとタケルである。疾うに杖も要らなくなって職場には出ている加持だが、働き者の「臨時職員」が日々、嬉々として動き回ってくれるので今も事務的なことだけこなしていれば良いという身分であった。
「碇博士のとりはからい」よろしきを得て実に楽な生活をさせて貰っている格好だが、実の所は高階がカヲルやレイの周辺の危険因子を監視あるいは排除させるために手を回したのに違いなかった。
その為だろう。この3月末で一応契約が切れることになっている。
夏以降、至って平穏な日々が続いている。既に3年生が学校に来る日はそう多くないが、レイはやカヲルが出席する姿を少し遠目に見ながら…加持は、「平凡だけれど幸福な日々」が損なわれないことを祈っていた。
その時、携帯電話が鳴った。タカヒロのほうだ。屋外作業用のカバーが掛けられた携帯をポケットから引っ張り出して、タカヒロが露骨に眉を顰めた。
「…ごめん加持さん、俺とタケル、ちょっと早めにあがらせてもらっていい?」
加持の方へ顔を上げたときにはその表情はからりと放り捨てられ、いつもの陽気な造園師の顔がそこにあった。
「何か、トラブルかい?」
「うーん、トラブルっちゃトラブルなのかも知れないけど。別口でお仕事? ほら、俺達用務員って言っちゃえば学校内でのよろず困りごと引受業じゃん?あんまりレベル変わんない話」
手早く道具を片付けに掛かるタカヒロ。何でもない、という顔ではないなとは思ったが、タカヒロが基本的にストレートで隠しごとには向かない性格なのはこの半年ばかりのつきあいでわかっている。だから、敢えて突っ込んで訊いてみることはしなかった。
この時点で何も言わないということは、加持が首を突っ込む領域ではないということだろう。
あてにされていると思うほど、思い上がっているつもりもない。だが、少しがっかりしている自分に気がついて、内心で苦笑しながら身を翻す。
「タケル君に声を掛けておこうか?」
「棚直したら一旦帰ってくるんだろ?そこまで切羽詰まっちゃいないから、詰所で待っとくよ。ありがと」
そこまで言って…ふと、タカヒロが手を止めて言った。
「あ、そーだ。ま、カヲル達がアンタに助力を求めるようなら、聞いてやって?」