古風な洋館は、梅の季節を終えようとしていた。桃と、早咲きの桜が蕾を綻ばせている。
レイは、朝から高階邸へ来てユカリのアシスタントとして動き回っていた。今日、ユカリが定例の掃除に入ると聞いたので手伝いに来たのである。ユカリには「えー、いーのかな、受験生にこんなの手伝ってもらっちゃって?」と言われたが、今更じたばたしても仕方ないし、ちょっとは身体を動かしたいからと押し切った。
実は、カヲルがゲンドウの捜索に加わると聞いて、「気をつけてね」と送り出したはいいが…マンションで一人留守番というのがなんとなく居たたまれなかったから、渡りに船と押しかけたというのが正直なところであった。
掃除もあらかた終わって、あとはアフタヌーンティーの準備でもしましょうか、という段になって、電話が鳴った。
受話器を置いたユカリはくるりと振り返り、実に申し訳なさそうに言った。
「ごめんねレイちゃん。アフタヌーンティー1じゃなくてハイ・ティー1になりそう。しかもいきなり人数膨れちゃった。こりゃ、買い出しだわ」
加持が家に来ている、と聞けば、アスカが来ないわけはなかった。結局、勉強会の名目でシンジの家にトウジやケンスケ、ヒカリらが呼集されることになる。
「えっと、いいのかな。確か加持さん、父さんが事件に巻き込まれたって可能性があるからうちに泊まり込んだって話じゃ…」
レイではないが、確かに今更じたばたしても仕方ないし、一人で勉強していてもつい本やゲームに逃げてしまいそうなシンジとすれば、一緒に誰かが勉強してくれるという環境は決して悪いことはない。しかし、夏の件もあることだ。もし家に物騒な人達が殴り込んできたら、皆を巻き添えにしても申し訳ない。
軽食を作る為に台所に立ちつつ、隣で夕食の仕込みにかかっている加持におそるおそる聞いてみた。
「ん…ああ、それについてはさっき葛城からメールが来た。万事おさまったんで今から打ち上げして帰る、悪いけど夕食は何かデバって…てさ。悪いなシンジ君、俺が作るから夕飯は食べて帰ってもいいかな?」
苦笑いで応じる加持。
「あ、はい、それは勿論…」
言ってから、思わず付け加える。
「…大変ですね、加持さん」
夏の事件のあと、脚を負傷した加持がエレベーターのないアパートの2階で生活するのは大変だ、という理由で、半ば強引にミサトのマンションへ引っ越しさせられたのは周知の事実である。あの後暫くアスカが荒れて大変だったが、「まだ入籍したわけじゃないしっ!」と闘志を燃やしている。
「いやまぁ、俺の所よりも確実に物件としては条件はいいからな。ま、最初は人が棲める処とも思えなかったが、住めば都というか。溜めさえしなけりゃ、掃除の手間だってそう非道いもんでもないぞ。
…食事は…ま、葛城が変な気起こさないように、帰ってくるまでに俺が作っとくというのが基本になった。まあ、だから何かデバれっていっても、翻訳すると自分の分は要らないってだけのコトなんだけどな」
暢気に笑う加持を見て、シンジはコメントに困って天を仰いだ。
それを世間的にルームシェアというのか事実婚というのか。普通、圧倒的に後者と見做されるケースが多いのではないかと思うのだが、そこは敢えて突っ込まないのが世の中平穏というものだろう。シンジはそう思った。
「何を捜しているんだと思う?」
ハイペースな山中行は続いている。不意に、マサキが口を開いた。
「…捜して?」
何を今更、と言いかけて、それが今、自分達のことではなく、自分達が捜している対象の目的が何かという問いかけてあることに気付いて、カヲルは言葉に詰まった。
「こんな山ん中をうろうろと…しかも、軌跡を追ってみると皆目方向性が見えない。敢えて言えば、人が居ない場所を一生懸命捜してる…そんな感じだ。まさか死期の迫った猫みたいにただ静かな場所を捜してるとか?全く以て意味不明だ」
時折、水脈を見つけては情報を拾うことで追跡しているらしいが、芦ノ湖のほうへ降りたかと思えばまた引き返すといったことを繰り返していて、先回りができないのだという。
「死期の迫った猫…?」
「ま、飼い猫が寿命近くなると姿を消すってのは俗信で、あれは体調が悪くなった時に本能に従って外敵に襲われにくい場所を捜して出るらしいがな。そうしてみると、飼われてる猫ってのは飼い主の家を絶対安全領域と認識してないんだろう…」
「いや、猫の話はいいんだけど…」
早速話が脱線していくのと、ユイがあの男をして「かわいいひと」と評したときの居心地悪さを思い出してしまったので、カヲルは渋い顔をして話を遮った。
「実際のところ、あの男に何が起こっていたんだ? 動機が解れば、行動も予測がつくんじゃないのか。1st-cellの何割かが既に定着していたという話は?」
「…まあそれが、なかなか一筋縄じゃいかない。
移植部分である前腕はジオフロントでレミが切り落としてるが、おそらくそれまでに細胞が血行性に播種されたと考えてる。移植片の解析はほとんど手つかずなんだが、あれからイサナにざっと視てもらったら1、一応循環が形成されていたそうだ。
じゃあ、あのおっさんのどこに定着してたのかというと…結論が出てない。ただ、CT上ではあの年齢にしては胸腺1が発達していた。免疫機構がやや過活動気味だったことも分かってる。その所為か断続的に発熱してたらしい。
まあ普通に考えて、免疫系を騙せなければ移植なんて成立しない。本来防御に働くべき胸腺や骨髄1が真っ先に騙されて、異なった遺伝子の細胞を量産してるって仮説も上がってたな。
機能的に何か変化があったわけじゃないが、おそらく体組織の何割かが、既に遺伝子的には現生人類とは別物なんだろう。言ってしまえばエヴァと同じだ」
「アダムの細胞から複製した人造人間…」
「直接対峙したイサナはそう言ってたし、ユウキも同意見だった。ただ、100%じゃない。言ってしまえばキメラ1だ。不安定極まる。不老不死、完全なる生命、何を望んだのかはこれも全くわからんがね。しかし、現生人類の細胞ではその変化におそらく適応できない。
その無茶を可能にするのがATフィールドだ。『斯く在るべき』と思う心の力が働かなければ、生存さえ怪しくなる筈だ。現生人類の魂にそこまでのATフィールドが行使できるのかというと…まぁ疑問だな。
欧州、あの研究所でも似たようなことはやった形跡があるんだが、あまりいい結果にはなってなかったようだし」
「…1st-cellとの共存に限界がきていた可能性が?」
「わからん。現生人類の体組織にアダムの遺伝子、という部分に関して言えば、俺達も状況的には同じだが、俺達に関しては、『核』が関与している。ゼーレの連中が世界中からせっせと集めて実験に供した14個の…アダムの眷属の魂を納めた『核』がな」
「取り込まれたのはアダムの遺伝子?『核』に含まれるアダム系個体の遺伝子ではなくて?」
「俺は別に、『核』自体に遺伝子に類するモノが含まれていなかったとは考えていないよ。だが、『核』は究極的な防御形態だ。過酷な環境に侵蝕されない反面、それを活動状態にもっていくには何らかのトリガーが必要だったと考えるのが妥当じゃないのか?
俺がクムランで死にかけて、あの研究所で記憶を失った状態で覚醒するまで…ざっと20年近い時間が経っている。他の連中は少なくとも実験から数ヶ月で活動状態に至ったのに、だ。条件の違いは…ひとつしか思い当たらないな」
マサキが足を止めて振り返る。
「『核』に収められた魂が現生人類のそれと共鳴なり同調なりの現象を起こしたとき、俺達が生まれた。それは確かだ。だが、造山運動に巻き込まれようが海溝へ転がり落ちようが壊れない筈の『核』が、その程度で形態を解いて現生人類との融合を許すとは考えにくい。…何か、強力な触媒が存在したと考えるのが自然だろう。
たとえば、既に現生人類の形質を取り込んでいたアダムの遺伝子、今で言う17th-cell…とか?」
マサキが言わんとするところに気付いて、カヲルは思わず呟いた。
「ヨハン=シュミット大尉…」
「おそらく俺が死にかけて3rd-cellと融合したといっても、それはひどく不完全だった筈なんだ。死んでない、という程度のものだったろうさ。切除という選択肢だってあり得た筈だ。それでもあの時点で、ゼーレとしても下手に干渉して死海文書の記述にあるような大惨事を起こしてしまうことを危惧し扱いかねてた…というのが真相じゃないか
な。
それを、ゼーレが『核』を確保したことを知って敢えてゼーレに接近した誰かさんが見つけた。それならある程度の辻褄は合う。そこからわずか数年で、保管されていた『核』全てが活動状態に移行したことにもな」
カヲルが蒼白になるのを見て、マサキは晦ますように笑って踵を返すとまた歩き始めた。
「…そんな顔しなさんな。こんな話をするつもりで連れてきたわけじゃない。大尉が何を考えていたにしても、お前さんにゃ関係無いことだからな。ただ、状況を総合するとそうなるというだけのことだ」
だが、数歩進んだところでカヲルが立ち止まったままなのに気付いて足を止める。
「どうした?」
「…私は、孤独に倦んでいた」
少年の声の、年齢不相応なほどの錆を含んだ声音。
「…聞かんよ」
さらりとマサキが言い放ち、再び前を向いて歩き始めた。
「何度も言わすな。お前はヨハン=シュミットじゃない、渚カヲルだ。膨大な過去を独り背負うなんて阿呆な真似はよせ。お前が始祖生命体アダムの現身であるという事実からは逃れられんにしても、ヨハン=シュミットのしたことにまで責任を負う必要はない」
「…サッシャ…」
「その名で俺を呼ぶな。その名で呼ばれる者は、もうこの地上にはいない」
その言葉だけ、ひどく峻厳であった。カヲルが思わず一瞬呼吸を停めた程に。…しかし、続いた言葉は至って穏やかで、剽げた雰囲気を纏ういつものマサキだ。
「…確かに、俺はシュミット大尉を憎んでいると思う。勝手に卵の安寧から引きずり出し、勝手に荒野に放り出して、勝手に逐電したんだからな。
だが、感謝してるよ。俺に…護るべきものを遺していった事だけはな」
その時、前触れなくマサキの姿がかき消えた。俯き加減だったカヲルは、弾かれたように地を蹴る。
「…サキ!?」
だが、すぐに聞こえた声に急制動をかけた。
「待て、落ちるぞ」
道は突如として途切れ、3メートル程のオーバーハング気味な崖の下に岩場が広がっていた。僅かな傾斜のあるそこは、天鵞絨のような苔に覆われ、流れ落ちる水の侵蝕を受けて樹状の文様が刻まれている。岩に当たった水飛沫がそのまま空中を漂っているかのように、その辺りだけ靄に覆われていた。
そんな冷涼な光景の中に、何事もなかったように佇立して…マサキは切り立った岩壁を滑り落ちる水に手を浸していた。
「…道が切れてるならそう言ってくれる?」
「いや、見りゃわかると思ったし。何を慌ててるのかとこっちが焦ったぞ」
「誰がノーモーションでこの高低差を降りるって思うんだよ」
「そうだったか? ま、とりあえず気をつけて降りろ。ここ、結構滑るぞ」
そういうマサキは殆ど無意識に能力を発動させており、その靴先は岩場から僅かに浮いているのだから詐欺である。
極力使うな、使うところを見られるなとか言って、自分は結構遠慮なく使ってるじゃないか。そんなことをぶちぶちと零しながらカヲルも岩場へ降りる。
「こんな山ん中、見られてもキツネかタヌキぐらいのもんだ。細かいことを気にするな。
…それより、ようやく捉まえたぞ。だが…様子がおかしいな」