第Ⅲ章 「自由」の意味は


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


 凄惨な光景を無感動に眺めながら、タカミは吐息した。
 その身体には、無数の裂創。
 赤黒い裂け目からは、ときおり微細な血塊がずるりと這い出てくる。
 全身を灼く熱感は、冷水のシャワーごときではとうてい鎮まらない。
 もはや苦しむことにも倦んだ彼は、ただ静かに時が過ぎるのを待っているのだった。


第Ⅲ章 「自由」の意味は
B Part

「大丈夫かい?」
 場違いなほど、穏やかな言葉。それはこの際、言う方と言われる方が完全に逆転していた。
「一体・・・・・!」
 血臭と花の芳香の入り混じった、凄まじいばかりの臭気に苛まれながら、カヲルはようやくのことで身を起こした。ミラーキャビネットに身体を凭せ掛ける。こうでもしないと、頭がぐらぐらしてまともに起きていられない。
曇り硝子は、血の色だけを映していた。
 その硝子越しに、タカミは穏やかに言った。
「悪いね。びっくりしただろう。何、死にはしない・・・・・・まあ、貧血を起こすのは免れんがね」
 彼はATフィールドを強く展開していた。だから、伝わってくるのは声だけ。しかし先刻、一瞬だけとは言え、彼の感覚を感じた。・・・・・あんなものに耐えながら、どうしてこんな穏やかな声が出せるのだろう。
「なあ、渚君」
「カヲル、でいい・・・・」
「ありがとう。ではカヲル君。・・・・そろそろ、鉢植えの理由には気づいたんだろう?」
「・・・・・大体は」
「本来はね、春に・・・・・そう、早春に咲く花なんだよ。前世紀末に流行った遺伝子組換え・・・・・その所産さ。きちんと管理すれば通年咲くんだよ。管理する特殊な肥料に鉄剤が混じってるから、部屋に残ってしまう鉄っぽい匂いの言い訳としては丁度よくてね。それを抜きにしたって可愛い花だし、いい匂いだろ?」
「血の匂いが混じってなければね」
「まったくだ」
 また、笑う。
「20歳のときが、最初だったかな・・・・・?2、3日前ぐらいから、体調が悪くなるんだ。で、何のきっかけもなく、皮膚が裂ける。押さえてても、止まらないのさ。傷も塞がらない。のべつ幕なしに流れるわけじゃないが、これがまる一昼夜・・・・・・流れ出すのがすべて血液だったら、とても生きちゃいないだろう。おそらく、血液はわずかなもので・・・・後は代謝物質の一種なんだと思うよ。」
「・・・・・・冷静だね」
「10年も付き合えば慣れるさ。もっとも、最近は回数が増えてるがね。そう、サキエルが第3新東京市へきたころからかな。・・・・いやぁ大変だった。あの時は前触れさえなかったからね。ここにいたのは幸いだったな。大体、来るなと思ったら、会社は休むんだ。人前で始まったら大事だし」
「原因は?」
 一瞬の、沈黙があった。
「厳しいね。話を逸らすことも出来やしない」
「あなたは・・・・・・!」
「怒ったかい?・・・・いや、悪かった」
 そのとき、硝子の向こうでタカミが咳き込んだ。腰を浮かすカヲル。
「・・・・・心配しなくていいよ。死にやしない」
「死ぬ死なないの問題じゃない・・・・・」
「そうだね、まったくだ」
 かすかな吐息が聞こえる。気道に異物をかかえた呼吸音であることを、カヲルは気づいていた。おそらくあの裂創は、体表…皮膚にとどまらないのだ。気道内壁にも及んで、血塊を吐き続けているに違いない。…下手をすると窒息する。
 しかし、傷だらけの気道で咳をすれば、焼灼するような痛みが走ることは想像に難くない。
「・・・・・私は未だに、”タカミ”に拒まれ続けているのかもしれない」
「・・・・・!」
「ひとつになったと思った・・・・・しかしそれは私の独善に過ぎなかったのかもしれない。”タカミ”の身体も記憶もすべて奪い、犯しつづけてきただけなのかもしれな・・・・」
 語尾は、呷きになる。
 委細構わず、カヲルは滑り戸を引き開けた。
 同時に彼がシャワーの栓を捻る。叩き付けるような水に赤いものが流されてゆく。だがそれよりも、湯が張られた浴槽・・・・・その水面のゆらめきに、一瞬カヲルの足は竦んだ。
 だが、引き下がることもしなかった。ランニングシャツから覗く肩に触れる。カヲルの口からも呻きが漏れた。
「よせ!」
 言い終わらないうちに、カヲルが触れていた肩の裂創が広がる。カヲルの肩もまた、裂けた。
「な・・・・・!」
「言ったろう。怪我でも病気でもないんだ。むしろ代謝が高まれば、規模が広がってしまう。痛みも熱も間欠的なもの・・・・そう長く続きはしない・・・・。気持ちだけ貰っておくよ」
「だからって、こんな・・・・・・」
「服が汚れるよ。・・・・・それより自分の治療をした方がいい。まったく、意外と人が好いんだからなぁ」
 穏やかな笑みに言葉を封じられ、カヲルは浴室を出て、滑り戸を閉めた。
 その扉に凭れて、数秒。カヲルの肩の傷は跡形もなく消えている。ただ、制服の袖に血痕が残るのみだ。
「・・・・・・・・リリンの遺伝子は、融合を拒否していると?」
「拒否されているなら、とうの昔に僕はこのかたちを保てなくなっているさ。それに、リリンの遺伝子と僕たちのそれが相容れないとしたら、君の存在はどうなる?」
「・・・・・・」
「だから言ったのさ。”タカミ”に拒まれている・・・・・・・と」

***

 タカミが昼前になってようやくバスルームから出てきたとき、カヲルはソファで膝を抱えたままだった。足音に振り向く。
「もういいのか」
 『10年もあれば慣れる』その言葉通り、着替えを用意していたものらしい。タカミは既に汚れたランニングを淡いブルーのTシャツに着替えていた。動かなければ死体と見紛うに違いない、先刻までの凄惨な姿とは無縁の活気が、そこにあった。
「ああ、何とかね。今度はどうも早かったようだ。普通なら明日の朝まで冷たいタイルに座り込んでなきゃいけないところなんだ・・・・・が」
 タカミはリビングの床を見て、軽い驚きを感じたようだった。
「始末してくれたのかい?」
「・・・・・血の匂いは、嫌いだ」
「済まなかったね。・・・いやなものを見せてしまった」
 今度は何も答えず、俯くだけだった。
「・・・・さて、何か食べるかい? いや、無理にとは言わないが、お茶ぐらいつき合っても良いだろう?」
「・・・・・・・お茶だけなら」
「余計なお世話かもしれないが、子供のうちにしっかり食べといたほうがいいよ。ほら、そんな細っこい手足して。転んだはずみで折れそうじゃないか」
 まさに余計なお世話な言いぐさに、さすがにむっとして視線を上げる。
 しかしタカミは、それを笑みで躱してキッチンへ引っ込んでしまった。身を翻した時、Tシャツの袖から覗く腕に、無数の傷痕が見える。
 しかしそれは、うっすらとした赤い線としてしか残ってはいなかった。
 カヲルは、自分の肩に手を触れた。肩の傷は、痕跡すら既に消えている。
 「家」にいる者たちは、ある程度の外傷なら簡単に修復することが出来る。カヲルもまた、例外ではなく。本来ある自己修復能を、意志の力で加速するのである。
 それはリリンの言葉に言い換えるなら、代謝を加速するということにでもなろうか。
 カヲルはそれを、試みたのだ。そしてそれは、失敗だった。
 あれは、外傷ではないのだから。
 拒絶反応?まさか。リリンではあるまいし。
 しかし現実に、彼の裡ではふたつのものがせめぎあい、そのどちらかが彼に流血を強いている。
 カヲルたちと同じものになってしまえば、こんな事はない筈なのに。
 何を以て、彼は脆くて愚かしいリリンたることに執着するのだろう。
「・・・こんなに痛いのに」

***

 タカミの「病気」は既に上司も(内容はともかく)周知のことと見え、電話一本でタカミは向こう数日の休みを確保してしまった。
「ま、家にいても仕事は出来るからね」
 受話器を置き、リビングの一郭を占拠しているパソコンのスイッチを入れる。HDが忙しく稼働してOSが立ち上がる間に、タカミは紅茶のお代わりを注いでデスクに置いた。
「家」にあったパソコンとは比較にならない代物スペックであることは、カヲルにもわかる。
「ここから、MAGIに接触を?」
「まあね。直にやるとまずバレるから、かなり迂遠な方法は採ってるんだが。会社のホストとか、えらく悪用してるよ。捕まったら、まあ、15年はカタイね」
 気楽に、言う。
「・・・・そこまでして、何を捜してる? ・・・・・リリンに固執する癖に、なぜ僕たちに接触してきた?」
 カヲルの問いに、口元まで持ってきていたティーカップが、ふと止まる。
 暫時沈黙したまま、その目は起動画面を見つめていた。
「・・・・”見て”みたらどうだい」
 そう言って一口含み、カップを置いてキーボードに手を伸ばす。
 カヲルの返事は、なかった。
「怒ったのかい?」
「・・・別に」
 タカミが苦笑する。
「悪かったよ・・・そうだね、僕も答えを捜しているのさ。君の捜し物と同じかは知らないけどね」
「・・・・・・・・?」
「・・・例えばね・・・自分が何者なのか、とか、自分が何故ここにいるのか・・・・とか」
「・・・・・・・・・」
「可笑しいかい?」
「・・・・・よく、わからない・・・・・・」
 運命という、規定のレールに載せられた存在であるカヲルには、縁のない疑問だった。好むと好まざるとに関わらず、行先は決められている。選択肢というものは、はなから与えられてはいなかった。
「・・・・・いつか君が、気づいてくれるといいと思うよ・・・・・・」
 カヲルはその眼差しを、サキエルに似ていると思った。

***

 ―――――――よく晴れた日だった。
 その日、再び「R警報」が発せられた
 カヲルは無論、シェルターなぞへは行かなかった。
 ベランダのフェンスに掛けて、見えはしない海の方角を見ていた。

Ombra mai fu di vegetabile,
caraed amabile, soave piu; ombra mai fu・・・・・・
di vegetabile,caraed amabile, soave piu?

ボーイソプラノで歌うには、重い歌ではあった。
歌劇の一節・・・・・庭園の大樹を褒め称える詠唱アリア
彼女が懐かしんだ庭園エデンは、もう存在しない。
ここで生きていくしかないのだ。
しかしもはや、ここにかつての共生の時間は存在し得ない。

お互いを拒絶しあうしかない、寂しい者たち。

 ――――寂しい?
 ――――サビシイって、何?
 ――――これは僕のこころの中にあった言葉なのか?

 わからない 理解らない ワカラナイ・・・・・・。
 知らず、自分の肩を抱いていた。
 その肩が、ビクリと震える。
 震えを止めようとする指さえ、震えている。
 ――――来る・・・。
 時間にして60秒あまり・・・呼吸さえできなかった。俯いたまま、歯を食いしばる。
 ――――何故、あのひとまでもが。
 何も見ない。何も聞かない。カヲルは敢て、ただそのこころだけを、痛みだけを感じていた。
 何度か、心を重ねた。だから、かのひとの望みはわかる。だが結局、敷かれたレールは曲げられなかった。・・・彼女は、消えてしまう・・・・。

『僕に何ができるっていうんだ!!』

 彼方の山頂から、火柱が立つ。同時にカヲルの身体が揺らいだ。
「莫迦、落ちるぞ!!」
 タカミが半ば強引にカヲルを抱き降ろす。一瞬遅れて、突風が来た。
 爆心地から離れていたため、家屋に影響の出るようなものではなかった。だがさすがに、カヲルを抱えていたタカミがよろける。辛うじて、背を窓に凭せて踏みとどまった。
「・・・・ったく、軽いな。もの食べてるか?」
 よろめいた癖に、そうぼやいてカヲルを降ろす。
「・・・・・・だ・・・」
 降ろされたものの、カヲルは立とうとはせずそのまま崩れ落ちる。タカミは慌ててそれを支えねばならなかった。
「・・・・何だって?」
 俯いた白い頬を、水滴が伝って落ちる。
「・・・・・・・・どうして、僕を起こしたんだ・・・・・・・」
 絞り出すような、声。
「・・・リリンは、生き延びるためには手段を択ばないのさ・・・・」
 タカミの言葉は、苦い・・・・・。