第Ⅳ章 存在のかたち

ある晴れた日に


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「und der Cherub steht vor Gott!」


微睡みの中で、彼は確かにその歌を聞いた。

第Ⅳ章 存在のかたち
D Part

 優しい旋律。
 それは何の器楽に彩られることもなく、ただ少女の透き通った声によって奏でられていた。
 目を開けたときには途絶えていたが、確かにこの家の中から聞こえていた。
 懐かしい感覚に惹かれ、カヲルはベッドから降りた。
 方向を特定できるほどの音量があったはずもないのに、カヲルにはその方向がわかった。歌が聞こえた方向をさして、夜明けの青い空気の中を歩き始める。
 ―――――――夢の残滓を探すように。
 敷地と建坪に糸目をつけていない家だ。ひどく広いから、使っていない部屋も多い。・・・・というよりは、ほんの一部だけが人が住むために修復・維持されているのであり、一歩間違えば廃屋とまがう棟もある。
 東側のその古びた棟もまた、長く使われていない気配がありありと見える。廊下の窓にはカーテンもなく、ドアノブにすら埃がたまっているありさま。しかしその床には埃はなく、人の往来を匂わせていた。何よりもその廊下の向こうに、気配を感じるのだ。
 カヲルの裡に失われたエデンを夢見、弟のように慈しんだ音楽の天使を思い出した訳ではなかった。その感覚は確かに同質の暖かさをもたらすけれど、もっと違う何かを持っている。
 薄明のむこう、古びた扉のむこうから、歌は再び聞こえてきた。
 その扉の前まで辿り着いたとき、さすがにカヲルはぎょっとした。
 扉のノブにはチェーンが通してあり、チェーンは重い錠前で閉じられていた。
 カギならば内側から開く。外からチェーンがかけてある理由は一つ・・・・歌声の主は、ここに閉じ込められているのだ。
 錠前に手を触れる。今時、アンティークショップでも行かねば見つからないような、古風な代物だった。おそらくはこの家の何処かから探し出してきた物だろう。当然造作も単純だが、鍵なしに開ける技術をカヲルは持ち合わせてはいなかった。
 ATフィールドで錠前を引きちぎることは可能だっただろう。だが、彼の裡の何かがそれを押し止めていた。閉じ込められるに至った理由を恐れたのか?・・・・・いや違う。 錠前を引きちぎる音が、歌声の主を怯えさせることを憂えたのだ。
 錠前と鎖を以て封じ込められるような存在が、何を怯えることがあるだろう。しかし、そんな気がした。大きな音をさせたら、驚いて翔け去ってしまう・・・・・・そんな気がしたのだ。
 そっと手を触れ、透かし見るかのようにその重厚な扉を凝視する。しかし、歌声以上のものが伝わって来るわけもない。
 細い歌声が、静かに朝の澄んだ空気をふるわせ続ける。
 カヲルは、扉へ静かに背をもたせかけ、座った。
 そして暫く、座して歌を聞いていた。

***

 レリエルが消え、住人はすでに半数を割っている筈だった。
 筈、というのは、確かに住人の存在は感じていても、ほとんど接触することがなかったからだ。お互いについて無関心であり、夜も昼も、彼らの生活はてんでばらばらだった。
 ガギエルやイスラフェル、マトリエルやサハクィエルが居たころは、あれで接触する機会が多かったほうだった。
選ばれるものはただひとり。そのことが、馴れ合いを拒絶したといえばそれまでだが、異様なありさまであったことは否めない。・・・・・榊タカミのもとで過ごした経験が、改めてそれをカヲルに教えていた。
 食事はなるべく一緒にするものであるし、日常には挨拶という欠くべからざるものがある。それは確かに遠い昔、カヲルも知っていた筈の事であったが、それはこの家の生活において、決定的に欠けていたのである。
 イスラフェルあたりは、それをよく知っていたのだ。おそらくは・・・・・・
 カヲルは、歌声が聞こえた棟へ外から回ってみていた。

 くだんの、2階の突き当たりの部屋の窓は開け放たれている。
 腰高窓の下半分を、白いフェンスが覆っていた。その上縁に、びっしりと鳥が止まっている。思い思いの格好でフェンスにとまり、囀る色とりどりの小鳥たち。そのうちのいくつかの名前を、カヲルは知っていた。
 柔らかな風に、ふわりと白いカーテンが膨らむ。
 思わず、カヲルは呼吸を停めた。
 白い手が、その間から差し出される。鳥たちは歓びの声をあげ、その小さな掌の上のものを啄むのだ。

***

 白いというより青白い顔と、銀の髪。そして冷たい碧眼がひどく不健康な印象を与える少年。
 その彼が今、一種いたましげな表情で、白く閉ざされていく光景を見ていた。
 ゼルエルと呼ばれる大男が、椅子にかけた姿勢のまま、両眼を閉じて白く凍りついている。薄く張った氷はゼルエルを椅子に貼りつけ、さらに椅子を寄せ木の床に固定してゆく。
 さして広くもない部屋が霜で真っ白になるまで、さほど時間はかからない。
 彼が部屋を出、扉を閉めようとするとき、内部は既にどれが椅子やら机やら、あわれな同胞やらわからないほどに白に埋め尽くされていた。
 閉じた扉もまた、白く凍りついてゆく。
 霜が廊下の床や壁まで侵略を始めた段階で、彼はようやく深く息をついた。
「…行くの?」
 不意に声をかけられ、はっとしたように顔を上げる。
 声をかけたのは、20歳前後と見える女性。どこか垢抜けない、ぼうっとした印象を与える彼女は、アルミサエルの名で呼ばれる。
「…時間だからな」
ゼルエルは、中に?」
「心配しなくても、僕が存在している間は…融けることはないさ」
 その後の心配はどの道しなくたっていいだろう、とは言わなかった。この物静かな女性が、悲しげな顔をすることはわかりきっていたから。
「あの子の話は、聞いていかないの?」
「あいつを見ていると、苛々する。・・・・・それに、今までに聞いた話で十分さ。策はある」
「・・・・・・」
 彼の言葉に、何か言いたげな、悲しい表情をする。それを見て、彼もばつが悪そうに目を伏せた。
「わかってる、あいつが悪い訳じゃない・・・・・・あいつが、恐ろしいだけなんだ、多分」
「あの子は・・・・・」
「自分の存在が脅かされるようで怖い。それだけなんだ。真実・・・選ばれる可能性を持っているのはあいつだけなんだってこと、本当は皆、理解っているんだろう? それなのに何故、皆そんなに平静で居られるんだ!?
 僕たちは、何のためにここに居るっていうんだ!?」
 声を荒げてしまってからふと口を噤む。居心地の悪い沈黙が降りた。
「・・・・・全ては父なる方の御心のままに」
 俯き加減に呟いたその言葉の間だけ、彼女の声は祭文のように無機的だった。しかしすぐに顔を上げ、やや強い口調で言葉を継いだ。
「でもできることなら、ひとりでも多く生き残って欲しいのよ・・・それがたとえ・・・!」
 彼は、片手を軽く上げてアルミサエルの言葉を制した。
「・・・・・僕だって滅びたくはない」
 再び彼女と視線を合わせることなく、彼はそのまま踵を返した。

 ―――――――それがたとえ、存在のかたちを異にしての生存であろうと。

 ―――――――あるいは、それが、父なる方の意図に反するものであろうと。