「…ごめんなさい、もしかして当直?あ、よかった。少し、気になることがあって…」
深夜、なんとなく寝付けなくてキッチンへ水を飲みに出てきていたカヲルは、扉が開けっぱなしの書斎から漏れ聞こえてくるタカミの声に…内心で吐息した。
カヲルやレイにあまり聞かせたくない話なのは明白なのだが…そのつもりなら、いくらこちらの寝室の灯りが消えているからといって、せめてドアは閉めてから電話すべきだろう。相変わらず抜けているというか、莫迦莫迦しくなるほど無警戒というか。
大体、電話の相手の想像はつく。
カヲルはよく冷えた水を喉へ流し込みながら、誰に話を聞くべきなのかを考えていた。
「あー、アンフィね。そう、今は水族館なんかにいたんだ」
ユカリはボウルの中身を懸命に掻き回すレイの手元をチェックしつつ笑った。
「名前までついてたんだ」
「私たちで勝手につけただけなんだけどね」
アンフィ…アンフィトリテ、イルカを聖獣とする海神の妃の名だ。
今日はユカリの料理教室…実質、マンツーマン指導である。今日の課題はチーズケーキ。牛乳からカッテージチーズを作り、できたチーズでケーキを作る。カヲルにしてみればおやつ程度にたいした手間ひまだが、やっている方は至って楽しいらしいのでそこは突っ込まない。
「私よく知らないんだけど、イルカの寿命ってどのくらいなんだろう…アンフィだっていい歳の筈だけどなぁ。ええと、あれいつだったっけ…」
考え込んで年数の勘定を始めてしまったユカリにカヲルは慌ててぱたぱたと手を振った。
「ああ、気にしないで。たいしたことじゃない…」
「あら、たいしたことよ?」
ユカリがカヲルへ向き直って言った。
「アンフィはね、人間以外の生き物でもATフィールドを恣意的に行使できるっていう貴重な証人なんだもの。…まあ、元々そうなのか、私たちとの接触でそうなったのか、そこんところは判らないけど。ふいっといなくなっちゃって、私たちも気にはしてたのよ?
…なーんてのはタテマエで。ぶっちゃけ、イサナをネタに恋バナ咲かせられるチャンスなんてそうないもんねー♪」
くふふ、と小悪魔全開の忍び笑いをするユカリ。だが、はたと手を拍った。
「思い出した。あれ、日本に来るときの船が機雷にひっかかって沈んじゃったときだ」
「…機雷って、ええと…」
思いも寄らない単語が出てきて、カヲルが静かにたじろぐ。レイはと言えば、意味が巧く繋がらなかったのかきょとんとしていた。ユカリが事もなげに話を続ける。
「うん、戦時中に日本近海にばらまかれてたアレ。官民を問わず機雷にひっかかって難破する事故って多かったんだよ、当時。あの時は幸いなことに天気も悪くなくてすぐに船が通りかかったし、わりと島から近かったんでなんとか助かったけど…条件悪いと結構ひどい事故になったりしたんだ」
「…皆、大丈夫だったのかい?まあ、大丈夫だったから今此処に居るんだろうけど…」
「そーなのよ。まあ、比較的ちゃんとした船だったから救命艇の数もそこそこ足りてて、私たちはちゃんとボートに乗せて貰ったクチなんだけど…サキとかイサナは高階博士と一緒に避難誘導手伝ってたらしいわ。そうしてる間に火がまわっちゃってね、何度か爆発があったの。その時に船体が揺れて、イサナってば海に落ちちゃったのよね。今でこそ、落ちたんじゃなくて飛び込んだのまちがいじゃないって笑ってられるけど…そのときは私たちだって生きた心地がしなかったわよ。
その時に近くにいて、イサナを近くの島まで連れてったのがアンフィだったの」
「すごーい、まんま人魚姫!」
はねてしまったボウルの中身…チーズケーキの生地を頬につけたまま、レイが目を丸くする。
「でしょー♪ 結局、その島で何日か替わりの船を待つことになったんだけど、その間にアンフィトリテが何回か会いに来てたみたいなのよ。イサナは今も昔もああだから、自分からは何も言わずにふいっといなくなるだけなんだけどね。イサナを気づかれないように尾行るゲームが大流行したわ」
「そ、そーなんだ…」
彼らネフィリムが緊張感と疎遠なのは今に始まったことじゃないんだ、とカヲルが再確認させられている間に、オーブンは温まっていた。レイがユカリの指示通りに生地を型に流し込み、オーブンに入れて始動させる。
「はい、160℃40分の後、200℃まであげて10分から15分。カッテージチーズの水抜き度合いで仕上げの時間が変わってくるから、温度上げたあとはあんまり離れないほうがいいかもね」
「ふうん、意外とシンプル…」
「乳清1は冷やしといてドリンク作るのに使ったりするから間違って捨てちゃわないでねー」
「あ、ついでにそのドリンクのレシピも教えてっ!」
「いーよ?さーて何かフルーツの在庫あったかなー無かったら缶ジュース使うけど…」
教える方も教えられる方も実に楽しげな、微笑ましい情景を目に映しながら…カヲルはふと気づいた。
日本近海の機雷は戦後数年で除去されたというのが公式見解だが、内海あたりは実のところ新世紀に入っても機雷の介在が疑われる海難事故が起こっている。ただユカリの話だと、彼らが日本に来た時期のことらしいから、やはり50年近い年月が経っていることになる。
――――イルカの寿命ってどのくらいだっけ?
先刻のユカリの疑問が、カヲルの中でリフレインする。その時、ポケットの中で携帯が鳴動した。
「バンドウイルカは通常群れで生活していて…弱った個体を呼吸出来るように下から押し上げて運ぶかのような行動も観測されている。人間の遭難者を同じようにして運んだ事例もあるらしい。…まあ、そう考えるとあのイルカが俺を助けようとしていたことに関して、青筋立てて否定するような材料は、今のところ無い」
ハンドルを握るイサナの、常になく屈折した物言いに助手席のカヲルは低く苦笑した。それを聴き取ったイサナが、疲れたような嘆息を漏らす。
「何だカヲル、お前も俺があのイルカに懐かれてるのを面白がってるクチか」
「いや、面白がってる訳じゃないけど…」
車は昨夏、日本重化学工業共同体の傭兵部隊と一戦交えたコテージへ向かう海沿いの道を走っていた。よく晴れた空の下で、波が燦めいている。
「もうあれから一年経っちゃうんだねー」
後部座席の窓を全開にして潮の香りを嗅いでいたレイがふと言った。
レイが口にしたのは、一連の騒動のことなのだろう。しかし、カヲルの脳裏を過ったのはレイの発熱のことであった。
あれから、あの時のような熱を出したことはない。だが、高階マサキの見解を聞いてから…カヲルとしてはレイの体調が少し気にかかってはいた。
『ネフィリムとしての能力の発現や身体的な変化が起こる前後で、俺達にも似たようなことがあったからな。だが、俺達は…始祖生命体アダムが自ら作り上げた17th-cellから成るお前とも違うし、それを模す形で2nd-cellから、碇ユイ博士の卵細胞をベースに組み上げられたMixed-2nd-cellとも違う。…が、それを踏まえた上で、今回の嬢ちゃんの発熱を考えるなら…個体の成熟に伴って、嬢ちゃんの身体が現生人類の段階を越えて、始祖生命体としての変化を始めていると解釈するのが妥当だろう』
カヲルはそれを「時間に置き去りにされる」と表現した。だが、マサキの見解は異なる。
『それはあくまでも現生人類の時間が基準の場合だろう。お前がこれからずっと一緒に居たいと思う者の時間にあわせてやれば、それでいいとは思わんか?』
要は、停まるにしても進むにしても、カヲルがレイの時間にあわせてやれば何も問題は無いだろうというのだ。
理屈としてはその通り。非の打ち所のない正論というべきだった。だがそれは、周囲からの隔絶を意味する。
たとえば、第3新東京市で得た友人達。
二人があの街にいられる時間は、そう長いものではないのかもしれない…そんなことを考えていて、ふとイサナの口から漏れた短い言葉を、カヲルは聞き落とした。
「D’ou venons-nous…」
それが、あのイルカに接触を試みたときに拾った思惟のかけらと合致していたことに気づいて訊き返そうとしたとき、レイがコテージの前の桟橋を見つけて声を上げたので、結局訊きそこねる。
「あ、あれ。あの桟橋だよね。あの時は吃驚したなぁ…」
車がコテージの前へ停車すると、レイが車を降りるなり桟橋に駆けていく。
「あーレイ、足元気をつけて…」
カヲルの声は多分届いていない。晴れ渡った空、それを映す海。それに夢中になって駆けていくレイを、カヲルはただ微笑で見送った。
「車を置いてくる。とりあえず荷物を下ろしておけ。運ぶのは手伝う」
素っ気ないほど事務的だが気遣いを忘れないイサナの言葉に、カヲルは苦笑を噛み潰して応えた。
「了解…」
「とりあえず今は各部屋に風が通ればいい。きちんとした掃除は午後、ユカリが来てからになるからな」
「はーい!」
レイが勢いよく挙手して最上階へ上がっていく。あそこのベランダの眺めを気に入っていたようだから、一番に開けるつもりなのだろう。
各地に点在する拠点の整備が目下のイサナの仕事とは聞いていた。家というものは人が住まないままに放置すると傷みが早いから、まめに風通しと点検をしているのだという。
点検には、周辺に侵入者の痕跡がないかの確認も含まれる。
しかし今回は、数日後には皆が此処に集まるのでその準備も兼ねていた。大掃除の前に風通し、というのが今日のカヲル達の仕事だった。
「このコテージ、手放すのかと思ってたよ。あんなコトもあったし」
高窓を開けるためのワイヤを操作しながら、カヲルは訊いてみた。
「まあ、あれだけ脅しつけておいてなお、此処に手出ししてくるとすれば…本気で喧嘩を売られたと思っていいだろう、というのがサキの見解だからな」
「…相変わらず慎重なのか大胆なのかわかんない人だな」
「安心しろ、俺もわからん」
ひょっとして今のは冗談だったのだろうか、とカヲルが思わずイサナのいた方を見返すと、イサナはもう階段の方へ足を向けていたから…その表情は判らなかった。
タカミはイサナにはまだ知らせていないと言っていたが、先程の加減では薄々感づいているのだろう。まあ大体、タカミに隠し事は向いてない。
『言ったところで余計なことをするって眉を顰められるだけだろうしね、そもそもイサナの為ってわけでもないし。とどのつまり、僕がそうしたいだけなんだから』
事情を聞いたレイは即座に賛同したし、カヲルも出来ることならそうしたいとは思う。ただ、それが正しいことなのかどうか…自信は持てない。
しかしどう説明したものかマサキの許可を取り付けた上、意外なところから協力者が出たところを見ると…タカミの独断どころか殆どイサナを除いた彼らの総意と言ってよいのではないかという感触さえあった。ここ数日でほぼ全員がこのコテージを訪れるつもりでいるということは、そういうことなのではないだろうか。
…となれば、唯一人、どういうわけかあまり積極的な賛同をしそうにないイサナに…カヲルとレイを此処へ送り届けるという役目を割り振ったマサキに訊いてみるべきなのだろう。
――――イサナが拘り泥むものの正体を。