one summer day Ⅲ

Full Moon

 月は満月。
 午後にユカリをはじめとする「Angel’s Nest」の面々が到着し、コテージは一気に賑やかになっている。その賑わいから抜け出して、イサナは月夜の桟橋に出ていた。クルーザーが一隻係留されているが、当然今は誰もいない。
 風はなく、周囲は桟橋を洗う波の音しかしない。墨を流したような水面に、月の光が反射して淡い光の道を浮かび上がらせていた。
 雲は水平線近くに山脈やまなみを成していたが、月を隠すこと能わずただその光を受けて佇む。
『――――俺は此処に居る』
 声でない呼びかけに、イサナはそう応じた。
 すると、海面…月の光散り敷く中にぽっかりと漆黒の穴が口を開け、そこから白く滑らかな影が滑り出る。
 ジャンプしたというより、水中から空中へと飛び込んだ、というのがふさわしい動きであった。清かな月光に飛沫が燦めき、その白いイルカは嬉しげにとんぼを切って着水する。
 桟橋から数メートル沖は既に十分な水深がある。身体を損なう事は無いだろうが…
はしゃぎすぎだ、まったく…」
 小さく嘆息して、イサナが呟いた。
「行ってあげないんですか?」
 ことん、という軽い音。背後に突如出現した気配にも、イサナは振り返ることをしなかった。ただ、海の広さを満喫するように周回するイルカの航跡に視線を落としたまま、静かに問うた。
「…とりあえず今回は座標を取り損ねなかったようだな?」
「有り難いことで。リエさんのリードと、イサナの声のお蔭ですよ。ちょっとまだ目が回ってますけどね」
 イサナの背後で桟橋に座り込んでいるのは、タカミだった。
「リエまで噛んでたのか。お前らこぞって…お節介にも程があるとは思わんのか?」
 タカミが悪戯っぽい笑みで応じる。
「申し訳ないですが、あなたの事情は訊いてませんね。僕らは彼女の願いを叶えてあげたかっただけで。なにせこの王子様ときた日には、人魚姫の熱意に全く応えようとしないもんですから」
「…カヲルは接触を試みたがはねられたと言っていたぞ。よく疎通したな」
「そりゃ、彼女はあなたと話がしたいんですから。いくらカヲル君だって少し難しいと思います。僕だってただ聴いた・・・だけですから」
「エンパシーか…そういえば怪我した猫にさえ巻き込まれる奴だったな、お前は」
「人聞きの悪い。今度はちゃんとコントロールしてましたって」
「それで…あれ・・を海に還すと? あのまま、あそこにいれば…もっと長生きできるかもしれんのに?」
「別に、長生きしたくてあんな処にいたわけじゃないですから。歳が歳だから弱ってたのは確かですけどね。あそこでアンティークドールみたいに大事にされてその生を終える、というのは彼女の意図に沿わない。…そんなことは、あなただって判ってたのでしょ?」
「…水族館は大騒ぎになるな」
「ま、証拠を残すようなコトはしてませんが」
「だから大騒ぎになると言ってる」
「彼女が海洋調査施設で保護されたって事実そのものが…真夏の夜の夢、ってことで流してくれるといいなぁ…と」
「そう都合良く行くか。ネットニュースにだって流れてただろう。バンドウイルカのアルビノってだけで、人目を惹くには十分なのに」
「データはいくらでも改竄できますがね。ひとの記憶まではなんとも。…まあそこは、水族館に頑張って辻褄合わせて貰いますよ。元々、彼女が余命幾許もないってとこまではネットに流れてた。だったら…ある夜、穏やかにその生を終えたってことにしておいても、それほど変な話にはなりませんって」
 からりと笑ってそう言い、タカミは下肢を桟橋に投げ出して天を仰いだ。
「いいお月様ですねえ…」
 イサナはもう一度、深く嘆息した。
「…行ってくる」
 そして…水音。

「言葉ってものがあるからヒトは概念を操ることができるわけだし、それはヒトという種を成長させてきたはずだ。ただ、それが余計な苦労を生んでると言えばそれまでなんだがな。畢竟、言葉ってのはプロメテウスの火さ。
 あの不覚悟なプロメテウスは、あのイルカに言葉を与えてしまったのが自分で…そのことがあのイルカにとっての不幸に繋がってしまったんじゃないかと思ってるんだよ」
「言葉を得たことが不幸…?」
 迂遠な物言いにカヲルが焦れているのを看て取ったか、マサキがグラスを揺らしながら低い笑声を立てた。
「イサナは元々感応系の能力者だ。だが、どっちかっていうと思惟よりも現象を捉えて自分の中で再構成するタイプのな。言ってみれば、自然交感能力に近い。だから、言葉を持たない者とも疎通したりするんだが…」
「タカミの能力に似てる?」
「多分違うな。タカミの場合は放っとくと際限の無い同調なんで、よく引き摺られるが…イサナの場合はあくまで客観的に対象を捉える。そうだな、感情の関与、という点において決定的に違うというべきだろう。まあ、だからややこしいことになるんだが」
 D’ou venons-nous? Que sommes-nous? Ou allons-nous?
 ここに来る間の車中でイサナが呟いた言葉。カヲルが聴いた断片を、マサキはそうおぎなった。自分がどこから来て、何者で、これから何処へ行くのか。古来、様々な時代と場所で呟かれてきた言葉。時には韻文の、時には絵の主題となり、しかも明確な答えを出した者はいない。
「久しぶりに逢ったイルカから禅問答みたいな問いかけを受けて、イサナはそれが自分自身の中にあった問いであることに気づいたんだろう。イルカは元々自分という概念をちゃんと持っていて、それを示すための記号としての音さえ持ってるというが…まあ、イサナは自分が接触したことで、本来野生の生物には無用な悩み事を刷り込んだと思ってるんだな。
 要はどっかの誰かさんと似たようなコトでぐだぐだやってるわけだ。どっちにしたって、当人の意向を汲んでないから、話が拗れるんだよ」
 カヲルが微妙に眉を顰める。誰のことを言われたかに気づいたのだ。
「確かにあのイルカはイサナからいろいろ読み取ったんだろう。結果として多少普通のイルカとは違う世界の捉え方をしてたかもしれんが、それで何か生存上の不利益になったとは思わんね。そうじゃなきゃ、アルビノなんて野生生物としては一歩間違えば致命的なハンデ背負って五十年以上生きちゃいないだろ。存外、面白おかしく人生満喫してたのかもしれんじゃないか」
「じゃあ、水族館なんかにいたのは…」
「細かい経緯まではわからんが…弱っててうっかり方向を誤ったんだろう。時々海棲哺乳類の集団座礁事件があるが、あのイルカが保護されたときは一頭だったらしいから。…でも、イサナの奴…記事を読んだかニュースを聞いたか知らんが…わざわざ逢いに行くあたり、あいつもそれなりに気に掛けていたってことだろうな。言うと嫌がるだろうが」
 そう言って、マサキがまるきり悪童のような表情で笑う。
「邪魔しちゃ悪いかなぁ…」
 その夜、リエのサポートでタカミがアンフィトリテをこの海に転移させると聞いて…また逢えるのを楽しみにしていたレイが、少し考えるように言った。
「そうだな…まあ、明日にしておくのが賢明だろう。今夜一晩王子様と積もる話が出来たら、人魚姫の態度も少しは柔らかくなるかもしれんよ」
「うん、そうだね。私も馬に蹴られたくないし」
 マサキの笑いながらの忠告に、レイが至極真面目にそう応えたものだから…カヲルは思わず飲みかけていたレモネードを噴きそうになった。

 月は傾き、コテージの灯もあらかた消えてしまった頃。カヲルは月明かりを頼りに桟橋をゆっくりと歩いていた。
 桟橋をゆったりと洗う波とは全く別物の水音に、ふと足を止める。直後、突如として桟橋の鼻先で海水が噴き上がり、大量の水飛沫が桟橋を叩いた。何か、足元で間の抜けた小さな悲鳴のようなものが聞こえた気もしたが、とりあえず濡れたくなくてカヲルは思わず数歩ばかり後退する。
 ひれの無い身でどうして水中からこの高さまで飛び上がれるのか、今以て不思議でしょうがない。水飛沫の中から現れたのは、やはりというか…。
「カヲル、どうした?こんな時間に」
 イサナが水をしたたらせながら桟橋の上に姿を現す。状況がわかっているとはいえ、普通なら言うのと言われるのが逆ではあるまいか。カヲルが何と言って返答したものか考えていると、イサナがふと視線を桟橋に落として言った。
「…何だ、まだそこに転がっていたのか」
 カヲルはようやく先程の小さな悲鳴の正体に気づいた。タカミが桟橋の上に寝転がっていたのだ。
「あ、お帰りなさい。…おや、カヲル君も散歩?」
 タカミが咳込みながら緩慢に起き上がる。今の水飛沫を盛大に被ってしまったらしい。
「タカミ! 何やってんの、こんな処で!?」
「いや、頭くらくらするもんだから暫く横になってたら、つい眠っちゃったらしくて。あー、お蔭で目が覚めた」
 タカミがびしょ濡れのままのんびりと欠伸する。
「暢気だなぁ。風邪ひくよ?」
「やぁ、転移ってやっぱり相当疲れますねえ。高々たかだか体長5mの姫様でこれですから。いくら座標計算のサポートがあったからって月と同じくらいの質量をひっくり返したリエさんには本当に脱帽です。
 …で、イサナ。公案1の答えは聞けましたか?」
 イサナは桟橋に腰を下ろすと水面みなもへ視線を投げ、静かに言った。
「…〝あるがままを生きる〟と。大した覚者1だ。俺なぞ及びもつかんよ」
 白いイルカの、水槽にいたときのようにひたすら同方向ではない…気儘な軌道をイサナが微かな笑みさえ浮かべて眺め遣る。
「俺はもう、随分前にそれを考えることをやめていたからな。預けてしまって、それきりだ」
 誰に、とは言わなかった。イサナは言わなくても解っていると思うことはよく省略する。それが往々にして齟齬の原因になるのだが、二人とも今それに茶々をいれるようなことはしなかった。
「だがあの頃は、まだ迷っていた。自分が何者なのか。何処へ行くのか。埒もないことを蜿々と考えていた。そんな時にあの機雷事故だ。考えるまでもなく、俺はここまでなのかと思ったな。…今にしてみれば、あの程度でどうこうなる筈もなかったんだが」
「今では海底で午睡ひるねできちゃいますからね」
 タカミが笑った。
「笑っても構わんが、俺はあの時まで自分が泳げるということさえ知らなかった。内陸の生まれで、自分の背丈より深い水なんか縁が無かったからな。それが、あの時初めて…そこに居るのが当たり前のような気がしたんだ。
 ――――あるいは、俺が融合したという〝コア〟は、〝核〟になる前は海の中で生きてたのかもしれんな」
 思わず、タカミが笑いを引っ込める。笑っていいところなのかどうかをはかりかねたのだ。その狼狽を全く意に介すことなく、イサナはいつになく饒舌だ。カヲルはただ静かに聴いていた。
「あの事故の時…状況を把握するまで、あれが接触してきても…俺はてっきり、皆のうちだれかが呼んでいるんだと思っていた。だから驚きはしたな、一応。
 だが冷静に考えれば…既に人間リリンではない俺がヒトのかたちをしたもの以外と意思疎通したところで、何もおかしくはないんだ。ただ、いくら何でもあれは特殊だったのだと気づいたのは…別離わかれた後というのがまた笑える話だがな」
 おそらくは、この数日を整理するための…彼なりの手続きなのだろう。イサナが、彼自身の行動を不可解に思っていたことは間違いない。
「どうして、逢いに行こうだなどと思い立ったのか…」
 それは問いとも、独白ともつかない言葉。毫ほどのてらいもなく明快すぎる回答をしたのは、タカミだった。
「おや、誰かに逢いたいって思うのに…理由なんて要ります?」
 先刻コテージで交わされた会話を思い出して、カヲルは内心で嘆息した。
『イサナは昔から感覚よりも理詰めで考える傾向があったのは確かだが、理性至上主義で感情で行動することを是としないというより…つまるところ感情に従うことに不慣れなんだろう。タカミみたいに、すぐに感情で突っ走るのも困るが、抑制が効きすぎるのも考えもんだ』
 マサキの評は正鵠を射ている。イサナは正しく在ろうとするあまり、自分がどうするべきか、でなくどうしたいのかがわからないのではないか。
 カヲルは、この酔狂な計画をマサキがあっさりと諾した理由が解った気がした。
「そうか。…そういうものか」
 イサナはタカミの答えに呆気にとられたようだったが…否定とも、肯定ともつかないいらえをして…視線を海へ戻す。
 その時、月のかけらをまき散らしたような水面から白いイルカが顔を出し、ホイッスル音を立てた。
「…ほら、ばれてますよ」
「わかるのか」
「いえ、全然。でも、僕にはんでるようにしか聞こえませんけど」
「いい加減な奴だ…」
 そう言いながら、それでもイサナが再び水面に散らばる月のかけらの中へ身を投じたのは…タカミの翻訳が決して的外れでなかったことを証明していただろう。
「…嬉しそうだね、タカミ」
「そりゃ、自分にとって大切な人たちに喜んで貰えるって嬉しいことだよね? 僕は正直なところ、くだんの機雷事故の頃にはもう半分おかしくなってたから…アンフィトリテのことをそれほどはっきりと憶えてた訳じゃないんだ。でも後から皆に話を聞いたり、実際に行ってみたりして…やっぱりわかったんだよね。逢いたがってるって」
「やっぱり、行ったんだ…」
「イサナだって満更じゃない癖に、いろいろ考え過ぎちゃってちゃんと向き合えないみたいだし…ここはもう、邪魔くさいアクリルガラスの中から彼女を連れ出してあげた方がいいかなって。直接触れることができたら、きっと細かい行き違いは解消すると思ったんだ。後はもう、手段を考えるだけだよね。
 ま、皆乗り気だったから、苦労はなかったじゃない。見てよ、姫様アンフィトリテの楽しそうなこと。イサナ、朝まで帰ってこれないかもね」
 タカミはそう言って月光に燦めく海を眺めていたが…不意に小さくクシャミをした。
「…ほら、言わないことじゃない…」
 カヲルが羽織っていたパーカーを脱ぎかけるのを、タカミは謝絶して踵をかえした。
「ありがとう、ごめんね。僕ももうコテージに入るよ。嬉しそうな姫様を見てるのも楽しいけど、いい加減邪魔者は消えろって言われてる気がするし」
「やっぱりわかるんだ。すごいな」
 諸刃の剣とはいえ、同調能力に関してはタカミに一日の長があるようだ。カヲルが素直な賞賛を口にすると、タカミがすこし困ったような顔をした。
「…あのね、カヲル君。今のに関しては…僕は別に、姫様アンフィトリテがそう言ったなんて言ってないよ?」
「…は?」
「ホント、素直じゃないよね。すこしはアンフィを見習って欲しいよ。そのくせ、気を抜いてると思惟がだだ漏れなんだもの。居たたまれないったら」
 そう言って、タカミはすこし拗ねたようにコテージの方へ足を向けてしまう。思わずカヲルは振り返って桟橋の先を二度見しそうになり、寸前で踏みとどまる。
「…まったくだね」
 カヲルは笑い、タカミの後を追ってコテージへ歩き始めた。

 カフェ「Angel’s Nest」は、今日も高校生の一団の勉強部屋と化していた。
「ええっ…じゃあやっぱり…」
 シンジは、思わず声が大きくなりそうになって、自分で自分の口を押さえた。慌てて皆のいるテーブルの方を見遣り、声が届いていなかったらしいことを確認して胸を撫で下ろす。
「例のイルカって、死んじゃったわけじゃないんだ?」
「シンジ君だから話したんだよ?皆には一応内緒でね。…っていうか、普通、信じては貰えないと思うけど…」
 カヲルは、事の顛末をシンジにだけは話すことにした。ことの始まりがシンジからの目撃情報であったし、保護されたばかりのアルビノのバンドウイルカが急逝したことがそれなりにニュースにもなったからだ。
 まあ、実際には失踪なのだが、やはりそんなことはとても公表できるものではなかったようだ。
「年齢が年齢だから、あまりもう長く生きられるわけじゃないみたいだけどね…」
「それでも、よかったよ。綾波はあのイルカのこと、とても気に掛けてたみたいだったし。また海で自由になれたんなら、それが一番いいんじゃないかな…」
 その言葉に、カヲルはふと気づく。
「シンジ君、何か気づいてた? そういえばさっき、『やっぱり』って言ったよね?」
「あ、ええと、気づいてたとかそんなにはっきりしたことじゃなくて。綾波が気に掛けてた割に、イルカのニュースが流れた後も、結構平静だったなぁと思っててさ。ひょっとして何か、僕たちの知らないところで何かがあって、あのイルカは実はどこかで元気にしてるのかなって。いやほんと、根拠とか全くなかったんだけど」
「…凄いな、シンジ君って…」
 カヲルは思わずそう言った。誰かのことを気に掛けているだけで、人はこんなにもいろんなことに気づくことができる。きっとそこには、特別な能力など必要ない。
「えっ…あの、ええと…そんなたいしたこと?」
 またもゆでだこのようになったシンジに、カヲルは微笑みかけた。

「うん、それって凄いことだと思うよ」

  1. 公案…禅宗で、修行者が悟りを開くため、研究課題として与えられる問題。この場合はややこしすぎて俄には回答不能な問題、くらいの意味。