その鄙びた駅のホームにも、微風があえかな春の気配を運んでいた。
駅の周囲にはその昔は商店であったらしい建物が数戸点在していたが、今は皆シャッターが降りている。駅も閑散としたものだが、時代のついたベンチに老人と子供が座っていた。退屈している子供を老人が連れ出したのか、老人の散歩に子供が付き合ったのかはわからない。老人は杖をおいて無人の改札の向こうに見えるホームを漫然と眺め、子供は自販機で買ってもらったジュースを飲んでいた。
昔は別荘地として由緒も格式もある土地だったが、昨今は廃れて住む人も少なくなっている。点在する別荘も管理する者がいなくなって荒れ放題というところも珍しくはない。そういった土地のお定まりとして、地元住民は空家対策に苦慮しさえしていた。
列車の到着を知らせるオルゴール調の音楽が流れる。
快速列車にはまず飛ばされる駅だ。普通列車も朝夕の時間帯を除けば殆ど乗降がない。だが、たった今停まった列車からは久しぶりに賑やかな客の気配があった。
「ねー、駅員さん、いないよ?」
「あーここ、無人駅になったらしいよ。ほらそこにボックスあんだろ。切符そこだって」
「うわー、おおらかだねえ」
「おおい、みんな忘れ物ないなー?」
「忘れ物確認は列車降りる前でないと意味なくね?」
「そういうお前は降りた瞬間に袋ひとつホームに置いてたろが!」
「あ、そーだっけ。いや、ホームでひなたぼっこしてた猫が可愛くってさぁ」
「はーい、きりきり進んで!後が支えてるんだから」
十人もいただろうか。家族、友人、サークル仲間?どれもいまひとつしっくりこない年齢分布ではあった。国際色が豊かなのは今のこの国でそれほど珍しいというわけでもないが、楽しげというところでは共通していた。俄に人口密度が上がったホームは賑やかさと騒がしさの境界線上にあったが、乗客達は駅舎の中の客の存在に気づいてか、嫌味のない程度に会話のボリュームを下げた。
「こんにちわ」
リュックを背負った、金褐色の髪をした少年が日に焼けた顔をほころばせ軽く手を振って挨拶する。それを皮切りに、賑やかな客は口々に老人と子供に挨拶をして改札を通り過ぎていった。
滅多にない人数に圧倒されつつ、子供がそれでも律儀に「こんにちは」と連発する。老人はさすがにそこまでの余力がなく、微笑みながら手を振り返していたが、最後の一人が通り過ぎるタイミングでようやく口を開いた。
「…こんにちは。いらっしゃい」
最後を歩いていた、長い髪にキャスケットを載せた上品な女性が老人のつぶやきほどの挨拶に気づいたらしく…もう一度軽く会釈して微笑みながら言った。
「お騒がせしました」
賑やかな一行を見送りながら、子供が訊いた。
「おじいちゃん、あの人達知ってるの? 何処へ行くのかな?」
「知っているといえるかどうか…多分な、高階のお屋敷の縁者だろう。あそこの旦那さんは若くて亡くなったんだが、此処に帰ってくる前には長く欧州におられたんだそうだ。そこで結婚もして、奥さんと子供をつれて帰ってきたんだよ」
「ああ、あの山の中のお屋敷? 一番古そうだけど、一番キレイにしてあるよね」
「…あそこで身寄りのない子供を沢山引き取って世話をしてたな。いつの間にか姿が見えなくなったが…あの子達の子供か孫、というところではないかな。時節柄、お彼岸参りじゃないかね」
「外国の人もいたみたい」
「奥さんが外国の人だったし、引き取って育てていた子供たちもここいらの子ではなかったからな。…昔、少しだけ遊んだこともあるが」
「そうなんだ」
「昔は今と違って、人の目が喧しかったからな。目や髪の色がちがうというと、いろいろ嫌な思いもしたのじゃないかね…」
「…結構、歩くね…」
レイが額に浮かんだ汗を拭って言った。早春の山道は、トレッキングには決して悪くない。だが、ここまで来ればちょっとした山登りだ。
「大丈夫?レイちゃん、キツい?ペース落とそっか?」
「あ、大丈夫大丈夫。すごい道だからちょっと吃驚しただけで…」
ミスズが心配げに覗き込むから、レイは慌てて両手を振った。
「ひょっとして…車の通れる道ってないの?」
カヲルは少し先を歩いていたナオキに問うてみた。
「ないこたないよ? まあ、初めてだったらちょっと躊躇するだろうな。俺も正直、脱輪すんの怖いし…自分でハンドル持たなくて済むもんならそうする。イサナとかタケルは恐れ気もなくハイルーフのボンゴ1でも突っ込むぞ。車幅はアクセラと変わんねェっつって。まあ、あっちは少し遠回りにはなるから、徒歩で上がるならこっちのほうが早いさ。…どーしたカヲル、そろそろへばったか?」
ナオキがすこし意地悪く笑う。体力的な話はさておき、本当にこの先人家らしいものがあるのかというような道にレイと同様な感想を持ったカヲルとしては…せんだっての山中行にマサキが全く動じてなかったことの裏付けを見た気がしていた。
「ここらはもう高階の土地に入ってるから…人家なんてウチ以外ないけど。麓の方は昔それなりに人が住んでたのよ。やっぱり人が住まなくなると道が荒れてしまうわね」
いつもコンサバティブ2な装いのユキノだが、今日ばかりはジーンズにカットソー、上着代わりにテンセルのロングシャツを引っかけた格好だ。
「そーそー、一夏置いといたら、舗装された道だって草だらけになっちゃうんだぞ。土道だったらあっという間に通れなくなるんだ」
そう言ってタカヒロが昂然と胸を反らした。道を保全しているのは他でもない、彼という話はカヲルも聞いている。だが、そんな威厳も後頭部をレミに小突かれて霧消した。
「草刈一回ごとにボーナス要求するような図々しい奴に必要以上の賛辞は不要よ、カヲル。すぐに図に乗るんだから」
レミはユキノと同じようないでたちではあったが、ユキノがキャスケットなのに対してかなりブリムの広い帽子を被っている。長時間、陽に当たるのが嫌なのだそうだ。
「やっぱりしばらく来てないと、さすがにこたえるわね。あーリエってば、後で合流するとか言いながらこの山道を回避したに違いない…」
「あら珍しい。レミが音をあげてる。大丈夫?」
言ったのがタカヒロかナオキあたりなら問答無用で電撃が疾ったに違いない。だが、本当に心配そうなユキノ相手に悔し紛れの実力行使に及ぶほど、レミも無分別ではなかった。
「運動不足は認めるわよ。…でもま、上には上が居ることだしね」
一息ついて、レミは後方を指さした。約一名、既に足元が危ないメンバーがいたのだ。
「ごめん、後から追いつくから遠慮せず置いてって」
そう言って最後尾で道の脇にある木陰に座り込んだのは他でもない、タカミである。
「…タカミが体力ないのは知ってたけど」
カヲルがその傍まで戻ると、タカミは既に首筋を伝うほどの汗をかいていたが、笑って言った。
「いや全く以て面目ない。大丈夫、道は知ってるから…」
「いーさ、慌てるこたない。少し休んで行こう」
そう言ったのは先頭を歩いていたナオキだった。
「さんせーい!おやつタイム!」
実はまだ余裕がありそうなミスズが最初に諸手を上げて賛成した。
「あー…おやつまでは出さなくていいけど、とりあえず水分補給?」
…ナオキの台詞の後半は、誰も聞いていなかった。ミスズが嬉々として下ろしたリュックサックからクッキーを詰めたチャックシール袋を引っ張り出したからだ。
「サキが…医者は体力要る仕事だって言ってたよ?」
配給のアイスボックスクッキーをタカミに渡して、カヲルは笑った。タカミは曲がりなりにも医学生なのだ。今までの経緯があるから無理もないとは言え、この体力のなさは多少問題があるのではないか。
「体力仕事だっていうことに関してはちゃんと理解してるつもりだけど、比較対象をサキにもってくるのは勘弁してくれないかなぁ。あのひとと比べられたら大概の人間は虚弱になっちゃうよ」
明るく笑いながら何気に非道いことを言う。
「…サキの意見が聞いてみたいとこだね」
「全くだ、居ないと思って無茶苦茶言いやがって。タカミお前、最近口の悪さに拍車かかってないか?」
これにはカヲルも一瞬声がなかった。
「「「「「「わ、サキー!」」」」」」
一応、昨日から来ているという連絡は貰っていたのだが。
ベルトに吊られた鞘は山刀と鉈か。山歩きというより山仕事といったふうな作業仕様のマサキは、さすがにカヲルは今まで見たことがなかった。
「…凄い格好だね、サキ。どこから出てきたの。全く気配が感じられなかったんだけど」
「そりゃ今来たからな。このすぐ下が淵なんだよ。いい水脈なんで、時々来るんだが…暫くほったらかしにしてたらさすがに樹へ葛が巻いて、可哀想なことになってたから伐りに来たのさ。
…それでお前ら、ここまで来て道草か?」
「あー、道草ってより小休止?」
遊んでたわけじゃないよ、といいたげにナオキが註釈をつける。
「似たようなもんだ。どうせタカミあたりがへばったんだろう」
「はは…ご明察」
些かも悪びれず、足を投げ出したままタカミが手を振った。
「威張るな。…まあ、丁度いい。タカヒロ、そのままついてこい。おまえがいると山刀や鉈を使わずに済む」
「俺は高枝切り鋏かよ!?」
「言い得て妙だ。座布団一枚」
「嬉しくねェよ!」
ぶつくさ言いながらタカヒロが腰を上げる。
「お前らも動ける奴から行って手伝ってやれ。ユカリとタケルが屋内と屋外で走り回ってるから」
「了解ー!」
へばっていたタカミも含めて、全員が立ち上がった。
「第3新東京の洋館もそうだけど…なんだか丸ごと文化財?」
レイが満腔の賛美を込めて吐息する。
休憩した地点からそれほど歩くことはなかった。林が途切れ、目の前が開けたと思うと、その館は目の前にあった。
玄関扉はもとより、既に窓という窓が開け放たれている。もう一件くらい小さな家が建ちそうな庭には加工途中の木材と工具が置かれたままで、その向こうには資材を運んできたのだろう、本来業務仕様と見えるバンが駐まっていた。先程ナオキの話に出てきたのはこれだろう。
建物の周りにベランダを巡らせたいわゆるコロニアル様式3の建物だ。第3新東京のそれと違って木造で、壁も板張りである。
「一応…大正時代の建物らしいな。今でもちゃんと住めるよ? タケルがそりゃぁ気合入れてメンテナンスしてるから」
ナオキがそう解説したが、ひっきりなしに聞こえるインパクトドライバー4の音が今まさにメンテナンス中であることを高らかに宣言していた。
ミスズが補足する。
「本来は高階の家の別邸なんだって。私たち…日本に来て、あの箱根のおうちに移るまでずっと此処に居たんだよ。昔はやっぱり、私たちこんな格好だし、目立っちゃうとまずいんでここに引っ込んでたんだよね。でも、博士たちもずっといてくれたし…私たちとしてはそれほど不自由を感じる生活じゃなかったなぁ。
箱根のおうちよりは少し手狭だけど、お部屋は十分あるから大丈夫だよ!」
「じゃ、荷物置いて掃除にかかりましょうか」
ユキノの声で皆が散開する。
「そうそう、タカミはカヲル君達の案内、よろしくね」
「深慮いたみ入りますよ、ユキノさん」
まだ少し息が上がっているタカミが、苦笑で応じた。
「さてと。とりあえず僕も荷物だけ先に置いてくるから…カヲル君達は玄関上がったところでちょっと待ってて?」
- BongoVan…マツダの業務用バン。
- コンサバティブ…「控えめな、保守的な」の意。略してコンサバ。ファッショナブル、トレンディとは対義語として使用される。流行に左右されないベーシックな装いの総称。おとなレディ、お姉さんスタイル的な意味合い。
- コロニアル様式…17世紀から18世紀にイギリスをはじめオランダ、スペインなどの植民地で用いられた建築様式。建物の周りにベランダをめぐらし、高温多湿な土地でも快適な生活ができるようにした空間造りとか。
- インパクトドライバー…電動工具の一種。ネジを締めたり緩めたりするあのドライバーが電動になったと思って貰えば良い。回転+打撃も加える仕組みがあり、DIYでは昨今必須。先端のビットと呼ばれる部品を換えることで、材料を削ったり穴を開けたりすることもできる。