桜が咲く季節になれば Ⅲ

巣立ちの唄

 奥の部屋から続くベランダには、木製のベンチが一つ置かれている。
 デザインはこの館にあるものに似ていたが、使われている木材はそれほど古くはない。もともと置かれていたベンチを手本にして、タケルが作り直したものと見えた。
 そこに座して、カヲルは夕刻の微風を頬に受けていた。
 いくら捜しなおしてみても、「ヨハン=シュミット」の記憶の中にいる「高階博士」の姿は曖昧だ。細君に至ってはその存在すら知らなかった。所詮はごく一時期…ゼーレの研究の隠れ蓑として利用されたに過ぎなかった人物である。死海文書のことは勿論、使徒と呼ばれる者達のことも一切知らされていなかった筈だ。
 しかしゼーレも、「シュミット大尉」も預かり知らぬ処で…彼らは出会った。そして、自分たちからすればまばたきほどの短い時間で…深い絆を紡いだ。
 曖昧な記憶の中の高階博士に対して、時々妬心にも似たものすら感じてしまう自分に…カヲルは驚いていた。
 遺伝子など関係ない。深く静かな魂の源流ルーツ
 偶発的な要素はあったにしても、孤独に倦んだ自分自身の我儘で…卵の安寧から引きずり出してしまった魂達。他に方法がなかったとは言え、彼らを庇護者のないまま荒野ノドへ放たねばならなかった苦渋は、いまだに記憶の彼方からカヲルをさいなむ。マサキから関係ないと言われようが、その記憶がある以上その罪はカヲルのものだった。
 しかし、彼らネフィリムにとってこの世界はただの荒野ではなかったのだ。
 平坦な道程ではなかっただろうに、彼らは一途に世界を肯定した。ただ、彼らを受け入れてくれた者の遺志を受け継いで。
 膝の上に置いた古書…詩集をそっと撫でる。
 ”God’s in his heaven神は天にいまし, All’s right with the worldすべて世はこともなし…”
 有名な一節だ。それをかつて…現生人類リリンへの憎しみを込めて欺瞞と言い切ったカヲルである。…昨今はその認識を、少し変えられたような気がしていた。
 寝台に腰掛けて高階夫妻の写真に見入っていたレイが、時代のついた書机に写真立てを戻してベランダへ出てきた。
「きっとすごくあったかい人たちだったんだね。この部屋…っていうよりおうち全体から感じるもの。会ってみたかったな。…あ、桜! ほらカヲル、キレイだよー」
 屋敷の周囲を覆う木々の間に点在する薄紅色を目に止めたか、ベランダから身を乗り出す。そうすると、夕刻のすこしオレンジがかった光が…レイの銀色の髪と白い頬をを柔らかい色調に染めた。
「うん、綺麗だ」
 無邪気な仕草に微笑んで、カヲルはそういらえる。
 先刻斜め読みした詩集の、あるフレーズが頭を掠めた。

 ”Earth being so good,would heaven seem best?”
 ―――地上がこれほど良い世界である以上、天国が至上のものと思えようか?1

 今あるものをあるがままに認める。すべてはそこからだ。

 暖炉のあるその大きな部屋は、居間兼食堂リビングダイニングとしての機能を持たされているようだった。日中は少し動けば軽く汗ばむほどの気温であったが、陽が落ちると急激に寒くなるから、暖炉には火が入れられていた。イミテーションではない本物の暖炉にもレイはいたく執心していたが、食欲をそそる香りが厨房から流れてくると、いそいそと手伝いに行ってしまった。あとはとりあえず今すぐ用のない面々が暖かい部屋に集まっているという状況である。その中にカヲルもいた。
「じゃ、ミサヲさんはしばらくこちらに?」
「ずっとじゃないけどね。さすがに城に逼塞してるのにも飽きたわ。そろそろ『高階ミサヲ』として動くのも限界あるし…今、リエがその辺は調整中・・・よ」
 この場合の調整・・とは、戸籍の偽造や経歴の捏造を指しているに違いない。マサキがアーネストとして第3新東京を闊歩出来るのも、この調整・・の賜物なのだ。
「その髪は、だからですか。お似合いですよ」
「ありがとう。若いカヲル君にだってこのくらいのことは言えるってのに、うちの男共ときた日には…」
 ゆったりと豪奢な肘掛椅子にかけているミサヲは、カヲルの素直な賛辞に優美な笑みを浮かべて言った。特に人目を惹くような美人というわけではないが、いっそミステリアスな貫禄とでもいうべきものを纏っていて、ある意味マサキ以上に年齢の見当をつけさせない。それが悪戯っぽいと言うよりやや意地悪さのスパイスを利かせながら…ある方向を睨んだ。
「悪かったな気が利かなくて。俺は思ったままを言っただけだ」
 マサキがすこし拗ねたように言った。少し離れた場所で小さなテーブルを出して、イサナを相手にカードに興じていたが、なにやら背中に刺さったらしい。
「んじゃあっちはどうするの?」
 タカヒロとタケルのチェス勝負を傍で観戦していたカツミがふと顔を上げていった。
「ああ、今まで通り私が見るの。私がずっと張り付いていなくても、留守番はいるから問題ないわ」
「留守番?」
 誰だっけ?というふうにカツミが視線を天井に放り上げる。
「イロウルだよ」
 タカミが笑う。
「最近ペットロボットに興味を持ったらしくってね、お手軽な義体代わりに使うことを覚えたみたいなんだ。容量の大きい回路に載せ替えてやったら勝手に機能を追加してる。ま、ありていに言えば違法改造なんだけど…そんなの今更だしねえ。ユニットはいくつか準備してるから、適当に乗り換えてるみたい。移動能力が付加されると情報収集の幅が広がるとかいって城じゅう歩き回ってるよ。単に散歩してるようにしか見えないけどね。
 此処にも一つ置いてるよ?猫型のやつ。回路載せ替えるときに毛皮取り外したまんまだから、あまり可愛くないけど」
「相変わらずよく飼い慣らしてるな…ってか、危なくないの?あのイロウル・・・・なんだよ?」
 かつて同調シンクロしていたとはいえ、一度はタカミに派手な喧嘩をふっかけてきた相手である。夏の騒動を思い出して、カツミが眉をひそめた。
「まあ、知らないところで悪戯わるさされるよりはある程度挙動を確認できるほうがいいんだよ。義体はそのためのトラップでもあるんだ。半強制的にログを引っこ抜くのさ。…ただしそれは向こう・・・も承知の上のことでね。隙あらばログを残さずに動く方法を探してるみたいだけど、そこはいたちごっこで…油断した方が負けさ」
「つくづくタカミって、イロウル絡みだと人格変わるよな…なんか微妙に黒い…」
「そうかなぁ…?」
 一見、至って人畜無害な微笑をうかべるタカミを…やや退き気味に見遣ってカツミが呟く。だが、言われた方は真剣に悩み始めるのだから始末に悪い。
 その時、ミスズのよく通る声が厨房から突き抜けてきた。
「はーい! カードしまってテーブル拭いて! 夕食ディナー始めるよー!」
 厨房に続く扉が大きく開け放たれる。敗色の濃い手札ををカードテーブルに投げ出して、マサキがさっさと立ち上がった。
「そういうわけで引き分けドローだ。悪いな、イサナ」
「…顔が笑ってるぞサキ」
 テーブルや椅子を動かす音で俄に慌ただしくなった中で、カヲルも立ち上がる。その時、レイがはずしたエプロンを片手に持ったままするりとカヲルの傍へ戻ってきた。
「ただいま♪」
「おかえり、レイ」
「デザートの仕上げ、させてもらっちゃった。結構巧く出来たと思うよ。期待してて」
「そっか…楽しみだね」
 カヲルは笑って銀色の髪に手を載せた。
 
 ――――”Earth being so good,would heaven seem best?”

  1. 「最後の遠乗り」…岩波文庫「対訳ブラウニング詩集」より