「「何処行ってたの!?」」
部屋に戻るなり、レイとタカミに二人がかりで詰め寄られて思わず一歩退がってしまう。
そういえば、タカミに声を掛けないまま出てしまったのだった。別に行方をくらます意図はなかったし、なんとなればこの敷地内にいるくらいならタカミに感知出来ないわけはないと思っていた所為もある。まあそれでもここは、危険を感じる状況でなければ無制限に能力を行使するわけではない、というタカミに限らずネフィリム達の基本姿勢を失念していたカヲルの咎だろう。
「ごめんごめん、ちょっと散歩。…ところで何、そのでっかい蝶々は」
レイの肩あたりに止まっている黒地に青緑色の模様のはいった蝶。片翅だけで掌大の大きさがあるから、明らかにつくりものとはわかるのだが…
「あ、ナオキの試作品。イロウルの義体だよ」
「…はあ」
現物も突飛なら説明はもっと突拍子もない。思わずカヲルが反応を択びかねていると、レイが目をキラキラさせて畳み掛ける。
「凄いよ、ちゃんと飛ぶの。ホンモノの蝶々みたい! あ、でも風があると煽られるからとりあえず当面室内だけにしといてって」
イロウルに機動力を持たせるのが趣旨なら室内のみというのはあまり意味はないし、第一外を飛べるようになったところでこんな蝶々が街中を飛んでいたら、衆目を集めるにきまっているだろう。
「…で、本人の感想は?」
その蝶がゆっくりと翅を開閉させつつ、いつもの音声で答えた。
【姿勢制御のタスクばかりがかさんで、実用的ではない。やはり地上とは違って、空中での姿勢制御は必要な情報処理も多いからな】
「ま、そうなんだけどね」
タカミがあっさりと認めた。
「でも、見てる分には面白いし」
【玩具と同様の扱いか】
「君には申し訳ないけどその通り。いや、綺麗だよ?ナオキったら機能より翅のデザインのほうに気合い入ったみたいでさ。ここまでくると一種アクセサリ?実直に、売れそう」
「あ、それいいかも!髪飾りとか」
レイが手を拍って同調する。
【戻せ。…戻してくれ】
「はいはい」
タカミが笑いを堪えながら端末を操作する。今度ばかりはタカミが完璧に遊びに走ったのは明白だったが、カヲルとしてはイロウルに気の毒で口に出す気にもなれなかったから、言ったのは別のことだった。
「…義体間の移動はがっちり制御できてるみたいだね」
「サーバに戻るのに関してはそれほど厳重なロックはしてないよ。不測の事態に緊急脱出も出来ないってのは可哀想だし」
【鳥籠から鉄格子入りの建物の中へ帰れるのが然程有り難い状況とも考えにくいが】
「…君が修辞技法を弄するとは驚きだね。ところでどうだい、データは取れた?」
カヲルはレイの肩で動きを止めてしまった蝶々をそっと手に取った。一体どういう材質を使っているのか、おそろしく軽い。
【解析中だ。時間がかかる】
「そうだろうね」
タカミはカヲルからそれを受け取ると、テーブルの上に置きっぱなしだった箱に丁寧におさめながら言った。
「言葉とか、数値で表せるものなんて、実際のところ世界の中のほんのわずかさ。ピタゴラス1に意見しようとは思わないけどね」
【その、表せない範囲の中にあるものを、私は知りたい】
「前途遼遠だね。ま、いいことじゃない?」
【例えば、幸福と呼ばれるモノの温度】
「…はい?」
さすがに、タカミが手を止めた。
「ま、確かに温度って数値化出来るけど…はあ、幸福の温度ってねえ。…想像つく?カヲル君」
カヲルも俄に返答し損ねて、正直に首を横に振った。すると、備え付けのキャビネットの上でコーヒーを淹れていたレイがニッコリと笑って言った。
「…私、わかるよ?」
「「え?」」
ふたりとも、思わずレイの方を見た。その期せずして同調した動作が可笑しかったのか、レイがまた笑う。
運んできた淹れたてのコーヒーを人数分、テーブルの上に置くと、レイは両手を一杯に伸ばして立ち尽くすふたりの頬にそっと触れた。少し…悪戯っぽい微笑。
「…私、知ってる――――ほら、これ。私の幸せの温度。何度くらいかな?」
カヲルが口許を綻ばせて、頬に触れるちいさな手に自分の掌を重ねる。イロウルが何やら無粋なことを言いかけたのを、タカミが紫電一閃、素早い動作で端末の外部出力をオフにした。
「ありがと、レイ。
外を歩き回って、冷えちゃったみたいだから…そのコーヒーを貰って、すこしこの温度、上げてもいい?」