一緒に歩こう

raindropsⅠ

「届け出なくって大丈夫なのかい?」
 僕が問うと、レイが先程の悪戯っぽい笑みを閃かせた。
「多分。そのうち出会えるから」
「知り合いの子?」
「ふふふ、お楽しみ♪」
 謎かけのような返事。僕は溜息ひとついてから、あとは詮索せずにそのままついていくことにした。
 子供特有の、柔らかそうな、真っ直ぐな髪。少し茶色っぽいかも。微妙な既視感の理由を記憶の中から探ってみるが、レイと違って僕はこのあたりに知り合いはいない。それほど離れているというわけではないけれど、生活圏から外れているからだ。
 整備された歩道だが、三人が並んで歩くにはすこし狭い。だから僕は一歩遅れて、その子の手をひいて歩くレイの後ろ姿を見ながら歩いた。
 木洩れ日の微妙な陰翳の中を歩くレイ。…あの日、湖のほとりで出会ってから何年になるだろう。髪が伸びただけでなく、雰囲気も大人っぽくなった。

 当然というか…以前・・の記憶は持っていなかった。僕が何者・・であるかも、多分彼女は知らない。

 でも、それでいい。…もう一度会えたから。だからもう一度始めよう。そう思って過ごしてきた。
 僕は終わりのない円環を渡り続け、その終わりと始まりを俯瞰する者。いつからそうだったのかはわからない。そして多分、この宇宙が崩壊するまでそうなんだろう。その役割を忘れた訳ではないし、忘れることもできない。それでも今この瞬間を、レイと共有できることがただ嬉しかった。

 リリスが知恵の実を囓ることで、その子供達リリンは知恵を分け与えられ、この地に満ちた。引き換えに彼女自身はそういった記憶も喪い、只人の姿で今は此処に在る。いつか、彼女が自身についての記憶を取り戻す時が来たら…彼女の時間は止まるだろう。僕のように。
 でも彼女は、そんな記憶に縛られる必要はない。リリンは地に満ち、美しい世界を享受している。自らの不完全なることを歎きはしても、それを世界を作り変える理由にすることなく。
 だったら今度は、君が幸せにならなくちゃ。
 僕の姿が一応周囲に訝しまれない程度に年齢を重ねているのは、ひたすらに彼女にあわせるためなのだ。ATフィールドは自身の姿を規定する。変化させることも、維持することも自在だ。このまま彼女が何も思い出さなければ、このまま彼女と一緒に年齢を重ねてみるのもいいかもしれない。
 …彼女の命が尽きるまで。
 そう思って、アパートを引き払ってミサトさんから預かった家に住むことになった時…思い切って言ってみた。一緒に暮らさないか、と。
 すこしだけ朱を刷いた顔で、にっこり笑って諾を与えてくれた彼女を、僕はちからいっぱい抱き締めた。

 永劫を生きる身であっても、この一瞬一瞬がとても愛おしい。
 何も思い出さなくていい。僕がずっと傍にいて、いつまでも護るから。
 ただ一緒に歩いて行こう。……今はそれだけでいい。

 ふと、レイの足がとまった。
「どうしたの?」
「うーん、疲れちゃったのかな。あんよ、とまっちゃった」
 レイがかがみ込んで男の子の頭を撫でる。小さな口はへの字に曲がって、心なし涙目。それにしてもレイ、あんよって…すっかりお母さん気分?
「んー…そうだ、抱っこしてあげる!」
 レイの方がむしろ嬉しそうに両手を伸べる。でもね、子供っていっても人間ひとりの重さって結構あるんだけどなぁ。
 このくらいの年齢だと、言葉の理解ってまだ微妙なんだろうけど、両手を拡げる仕草の意味するところは明瞭だ。男の子も嬉しげに飛びついた。だが、抱っこしたはいいけどレイは巧く立ち上がれない。それはそうだろう、三歳児くらいとしても、標準で15㎏前後ある筈。15㎏って言っても、米袋と違ってじっとしてないからね。それに君…トートバック肩に掛けたままだろう?色布を織り込んだ麻のバッグ、丈夫で容量あって便利だからってお気に入りみたいだけど、それ持ったまま抱っことか……少々つらいと思うな。
「レイ、ちょっと無理じゃない? …おいで?」
 僕はよろよろしているレイからその子を抱き取って、肩に座らせた。いわゆる肩車。予想はしてたけど結構ズッシリくる。
「僕は手ぶらだからね。ほら、これで解決」
 男の子は急激な視点の変化にちょっと吃驚したみたいだけど、すぐに機嫌を直してくれた。……それはいいんだけど、お願いだから髪引っ張らないで……。
「行こう、レイ」
「うん、ありがと。カヲル」
 雨上がり、木洩れ日の歩道を…レイと二人、いや三人か……並んでゆっくり歩く。やっぱり、さっさと歩くって訳にはいかないけれど。
 そうするうちに、ふと気づいたように……レイが、男の子の頭のてっぺんから僕の足下までじっと眺めて、ぷっと吹いた。
「何だい、いきなり」
「よく見たら服、お揃いね」
「……そうみたいだ」
「なんだか親子みたい」
「僕らが?」
「うん、私たち」
 そう言って笑ったレイは、眩暈がしそうなほど綺麗で……落っことすわけには行かない15㎏を肩に載せてなかったら、その場で抱き締めてキスしたいくらいだった。

 …だから、髪引っ張るなって。

「あーーーっ!」 
 その時、往来であげるにはあまりにも素頓狂なハイトーンが耳をつんざいた。僕は思わずバランスを崩しそうになって慌てる。声のした方を振り仰いだレイが嬉しそうに手を振った。
「あ、おかえりー&ただいま、兄さん♪」
 一瞬遅れてそちらを視界にいれた僕は、思わず硬直した。三十前くらいの男の人。歩道に立って、肩で息をしながらこっちを指さしている。ぴしりとしたダークスーツに白いシャツ。これでビジネスバッグでも持っていたら、これから出勤ですか?と問いたくなるような服装スタイルなのに、残念なことにタイが緩んだ上に曲がっている。

 既視感があるはずだ。僕の肩に乗っている男の子に、年齢を25ばかり加算した顔がそこにあった。
 多分、捜し回ったんだろうなぁ……

 兄さんと呼ばれたその人は、猛ダッシュで駆けつけてきた。男の子もそれに気づいて、嬉しそうに両手を伸ばす。…頼むから暴れないでくれるかな。
 レイが僕の肩に乗っている男の子を指して笑いながら続けた。
「兄さん、落とし物、拾っといたよー♪ 駄目じゃない、駅前なんかに放り出しちゃ。誘拐されちゃうよぉ?」
「え、駅前?そんなとこまで行ってたの!? 違うよ、うちから歩いて行っちゃったんだ」
「へえ、凄いんだ、僕」
 レイが男の子の小さな鼻をつんつんとつつくと…男の子は早速レイの指をはしっと握って玩具おもちゃにし始める。
「冗談じゃないよっ!心臓潰れるかと思ったっ!」
「あ、カヲル、紹介するね。この間までフランス行ってたシンジ兄さん。そんでもって、この子のお父さん。よね? そっか、君が噂の隆之介リュウノスケ君かぁ……リュウくん?改めて、よろしくねっ♪ あ、おばちゃんなんて呼んじゃイヤよ?お姉ちゃんと呼びなさいね?」
「レイってば…そんなの、今言っても解るわけないだろー……」
「いやいや、幼児教育って大事らしいから」
 レイが手を伸べるから、僕は男の子……リュウ君を肩からおろした。リュウ君はレイの腕を経由して、父親の許に帰る。
「最近、どんどん手先が器用になって…ベビーフェンスの鍵あけてでてっちゃうんだよ。ご丁寧に靴まで履いて外へ出るんだ。あー……肝が冷えた……」
 荒れた息を宥めていたシンジ君が、ようやく顔を上げてくれた。あ、僕の方がすこし高くなった?
「初めまして、じゃないね? 渚……カヲル君。5年ぶりくらいかな?」
「その節は……どうも」
 自然公園の東屋で叱られてからもう、そんなに経ってるんだ。
「え、何!二人とも知り合い!?」
 レイの声が跳ね上がる。
「そういうわけじゃないんだけど…前に遭ったことがあるんだよね。ほら、僕が渡欧する前に派遣されてた自然公園。彼、よく遊びに来てたんだよ。話をしたのは一度だけだけどね」
「話したというか……叱られたんだけど」
「レイから写真を見せられたときには吃驚したよ。……背、高くなったね。
 改めまして…碇 シンジです。あの時は名乗る間もなかったなぁ。……レイを、よろしくね」
 そう言って、シンジ君がよっこいしょ、とリュウ君を左腕で支えて右手を差し出す。やっぱり、低く落ちついた大人の声。でも、握手で触れた手はあの時ほど大きい気がしない。……あぁ、僕が大きくなったのか。
「あの時はすみませんでした。怪我とか、しませんでした?」
 あの時。ようやく見つけたレイを見失うまいとして……折角出会えたシンジ君に自分の名前を告げることもなく去ってしまった。第一、シンジ君だって僕のことを覚えていない確率が高いのだ。告げても仕方ないと思っていた。結局あの後、一度も会えなかったから…配置換えになったのかなとは思っていたけれど。まさか欧州に行ってたなんて。

 ……で、レイのお兄さん、と。十分有り得たのに、やっぱり想像だにしてなかった。

 それにしても、レイったら今までサプライズとか言って、顔も名前も教えてくれなかったのに……僕の写真はシンジ君にちゃっかり見せてたのか。
 その時、騒ぎを聞きつけてか……長身の女性が路地から出てきた。膝丈、チェック柄のボックスプリーツスカートにこれも白いシャツ。ちょっと茶髪で特徴的なフレームの眼鏡。此方こちらを認めて大きく両手を振る。
「おー、レイちゃん、回収ご苦労♪ 隆之介! お客様の出迎えあんがとねッ」
「マリ姐さん、元気してたー?」
「元気も元気。毎日フルパワーよ。ちびに付き合おうと思ったら体力半端なく要るからね。レイちゃんも覚悟しときな?」
 ……さばさばしてるな、女性陣。一歩間違ったら捜索願そうさくねがいモノだと思うんだけど。
「マリさん!笑い事じゃないだろ。駅前まで行ってたらしいんだよ」
「駅前?そりゃまた随分高歩きしたもんだねえ。逞しくなったな隆之介。母さんは嬉しいぞっ!うんうん。佳きかな佳きかな♪」
「兄さんってばまだマリ姐さんのこと…さん・・付けなんだ?」
 レイがクスクス笑うから、シンジ君が居心地悪げに目を逸らす。だがふと、思い出したように向き直った。
「それよりレイ、父さんが家にいるよ。どういう風の吹き回し?」
「そりゃ、母さんに『今度逃げたら本当に離婚!』って恫喝おどされたからでしょ? 今日こそはちゃんと挨拶してもらうからねって……母さん息巻いてたし」
「うへぇ…天下無敵の最終兵器リーサル・ウェポン…母さんったら相変わらず容赦ないなぁ……」
 ああ、なにもそこまでしなくても。此処まで来れば、予想がついてしまう。シンジ君とレイのお父さん。偏屈で有名、仕事で家に居着かないくせに恐妻家。
 ……待ち受けるモノを思えば、ますます足が重たくなる。
「どうしたの、カヲル?」
 僕は余程ひどい顔色をしていたのだと思う。気が付くと、レイが心配そうに覗き込んでいた。
 その紅瞳を見ていると、「やっぱり、行かなきゃ駄目かな?」…などという科白は口が裂けても言えない。ええい、コトここに至って今更逃げられるもんか。

「大丈夫だよ。行こうか、レイ……」