洋館の外は、広大な森林であった。
ひと一人ようやく通れるだけの細い径が穿たれているのを除けば、手つかずの自然がひたすら広がっている。その道とて、当然舗装されてなどいない。何者かー多分、ヒトとは限らないーの足で踏み固められただけの、言ってみればケモノ道だった。
その道を、高階はよく手入れされた庭先でも歩くような自然な動きで進んでいく。実直に、ついて行くのに少々とはいわず、努力を要する道程ではあった。
「…渡英するって聞いてたが」
「そうだな、暫くは英国にいた。ほんのわずかな間だ…」
それきり、会話は途絶えてしまう。
訊きたいことは山のようにあった。だが、向こうは説明するために場所を移すといっているのだ。今ここでそれ以上を訊くことが、懐かしさを装ってただ情報を得ようとしているかのように思えて、なんとなく気が引けた。
徐々に急峻な坂道になってきて、息が上がってきた所為もある。
ふと気付いたように、高階は一度足を止めた。加持が遅れかかっているのに気付いて、何も言わずにそれからは少し歩調を緩める。
お優しいことで。加持は幾分僻みっぽい気分になって心中ひとりごちた。
高階がこんなに健脚な奴だったろうか、と思いかけ、自分の方がこの数年ですっかり鈍っている可能性の方が高いことに気付いてげんなりする。特務機関の特殊監査部といったところで、至って地味な調べ物の毎日である。実働の保安部とは訳が違う。
少しは鍛えておくべきかな、と思い始めたとき、不意に目の前がひらけた。清爽な海風の匂いを感じる。
森が切れて草原が広がった。緑の合間に、小さな色とりどりの花が咲いている。その向こうには青い海があった。
草原の先は切り立った岩場だ。登ってきた道程を考えれば想像がつくが、この景色だけでもかなりの標高があるようだった。お陰でかなり遠くまで見通せる。
広さにしてバスケットコートが三面ほどは優にとれそうな草原、そして青い海と、更にむこうの赤い海。そして碧空が境を接していた。
現実感の薄い光景に声を失って、加持はその場に立ち尽くした。
ゆっくりと草原に踏み入り、高階が彼方の海に引かれた境界線を指し示す。
「此処を中心に直径約30㎞ほどの空間は、L結界による浄化を阻止する特殊なフィールドに護られている。…加持、ATフィールドに関する知識は?」
不意に話を振られて我に返った加持は、仕入れた知識を頭の中で総動員して、該当しそうな項目を引っ張り出す。〝Absolute Terror Field〟…絶対不可侵領域。
「…通り一遍のものでしかないが」
実直に、判ったような判らない説明を鵜呑みにしているだけだから…加持は素直にそう答えた。高階はそのための空隙を意に介するでもなく説明を続ける。
「結構。規模が桁違いなんで一瞬想像しにくいとは思うが、そういうものがこの島全体と周辺の海をセカンドインパクト前の状態に維持している…と思って貰えば良い」
「だが、展開できるのは…『使徒』か『EVA』だと聞いてる」
「厳密な話をするとややこしくなるので省くが、当然、そのフィールドの中心になる者が必要だ。…そこにいる」
高階が真っ直ぐ加持の方を指し示すものだから、思わず反射的に飛び退ってその方を見た。だが、そこにあったのは『使徒』でも『EVA』でもなく、真っ白に枯死した一本の巨木であった。
――――巨木のように見えた。
「これは…?」
草原の只中にそそり立つ円柱。その下端は文字通り根を張るように叢の中へ広がり、上はあたかも木が枝を広げるように細かく分かれて碧空へ伸びていた。細い枝先から、時折光の粒子のようなものが天に向かって放たれている。
高階はゆっくりとその樹に向かって歩み寄った。そして、愛しい者の頬に対するかのような繊細な挙措で…その幹に触れる。つられるようにして近づくと、その白い巨樹の表面が磨き上げられた白珊瑚にも似た光沢を持っていることが判った。
「これを何と呼んでいいのか、実のところまだよくわからん。…今のところ、当代最高の術者の方術によって編まれたものであることだけが確かだ」
「…方術?当代最高の術者?」
俄に話がオカルティックになったことに、加持が狼狽しなかったと言えば嘘になる。
だが、そもそも…「使徒」なる未知の怪物が、人類を滅ぼすためにやってくる。セカンドインパクトはそれを最小限に留めた戦果であったのだという…言っては何だが荒唐無稽な話に立脚した組織がNERVなのだ。いまさら方術だの術者だのという話で驚いてはいられない。
だが、その巨木の表面…磨き上げられた白珊瑚のような乳白色がふと揺れ動いた。
丁度、鏡の如き水面が微風に揺れ…水面下の光景が垣間見えたときのような。その瞬間、その巨木の内部が見えた。
呼吸を呑む。
――――女。色の淡い髪は腰まである。特に人目を惹くような美女というわけではないが、凜とした…端正な顔立ち。ゆったりとした長衣を身に纏い、その不思議な巨木の中に佇立していた。
「…アウレリア・ミサヲ=アレックス。現在生存する最年長のライゼンデ。あの日、何が起こったかを悟った彼女は、その持てる力と知識の総てを投じてこの島をL結界から隔離し…いまだに護り続けている」
「あの日…」
「2000年9月13日。あんたがたが〝セカンドインパクト〟と呼んでいる現象が起きた日さ」
セカンドインパクト。その言葉に地獄のような光景が去来し、加持は思わず口を噤んだ。
「俺達はそれからずっと…彼女の術式を解析し、彼女をこの柱から解放する方法を探している。それが…俺が此処に居る理由」
高階は巨木の幹に額を寄せ、瞑目した。
「荒唐無稽に聞こえるかもしれんが…〝十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない〟らしいからな。その現象が夢幻ならともかく、今ここに厳然として存在する以上、解析は可能で、代替手段は必ず存在する」
ゆっくりを目を開け、何処か惜しむように幹から離れて加持の方を向き直った高階の顔は、静かだが強固な確信に満ちていた。
「薄々気付いちゃいるんだろう。今の世界の惨状は、自然災害じゃない。意図して生み出されたものだ。だから俺達の研究は、妨害を受ける可能性がある」
「その妨害をしてくるのが、NERVだっていうのか?」
「正確には違うな…」
高階は人の悪い笑みをした。肯定はしなかったが、明確に否定もしない。覚悟していたとはいえ、石でも呑まされたような重みに加持は思わず低く呻いた。
「今はただ、真実を見極めようとしてNERVに入ったのなら、おまえさんの読みは外れてない、とだけ言っておこう。
だから俺達としては、おまえさんにあくまで個人的に協力して欲しいわけだ。NERVの監察官殿?だから、今更だがここで見聞きしたことすべて…職場には内緒ってことになる。要はお前に二足の草鞋を履かせようっていうんだ。言っちゃ何だが…足を突っ込んだが最後、命の保証はできない。何せ、人の命なんて毛筋ほども気にしないお歴々が相手だからな。…それでもよければ、手を組まないか。
もう一度…世界に、青い海を取り戻そう」
高階がその手を差し出す。姿だけは、10年以上前のまま。だが…
真実に近づきたいなら、すべてのものを抛つ覚悟が必要だ。それを是とするなら来るがいい。高階の微笑はそう告げていた。
――――メフィストフェレスの微笑だ。
不意に、加持の脳裏を青みさえ帯びる豊かな黒髪が過る。過日、束の間…ずっと時間を共にしたいと感じさせてくれた面影。あるいは彼女に迷惑がかかる可能性だって十分にある。
それでも。
進むか進まないか、二者択一。彼女なら間違いなく進む方を採るだろう。あるいはこっぴどく罵倒されるかも知れないが、最後には笑って受け容れてくれそうな気がした。
『済まんな、葛城…』
そして加持は、差し出された手を取った。