旅人の島

海流の中の島々


「お、珍しー。お客さんか?」
 洋館に戻る道の途中。後方の木立から不意に声をかけられたものだから、加持は思わず足元を滑らせて慌てて傍の立木に摑まる。辛うじて転倒は免れた。
「…ああ、足元悪いから気を付けろよ?」
「今更か!」
「そんなに吃驚しなくても…いても狸か狐だ。人を襲うような獣は…とりあえずいない」
 〝とりあえず〟という留保が気になりはしたが、木立をすり抜けながら何かが落ちてくるような音に身構える方が先だった。思わず脇に吊った拳銃に手が伸びる。
 だが、降り立ったのは麦藁帽子の少年だった。帽子の下から、やっぱり麦藁のような金髪が勢いよくはみ出している。中学生、にしてはやや小柄か。ショートパンツにタンクトップという、全力で夏を謳歌する悪童のスタイル。陽に灼けた顔は人懐っこい笑みをうかべていたが、ふと怪訝そうに曇った。
「あれ?このひと…リリンじゃん?」
「イサナの客だ。…それと加持、その物騒なモノから手を離せ。猿は自分より身体が大きいものを襲ったりはせん」
「猿とちがうって! え、何、銃って…軍人さんとか?そーは見えないけどなぁ」
 少年はマサキの説明にいきり立ったが、加持の上着の下に吊った拳銃に頓着した様子は全くない。むしろ〝客〟に対して物珍しさが先に立つのか、ひたすら興味津々。
「済まない、一寸吃驚しただけなんだ」
 若干居心地悪くなった加持は、非礼を詫びて銃把グリップから手を離した。
「気にするな、加持。まあ、森の中でいきなり上から何か落ちてきたら普通は吃驚する」
「落ちてねーよ、降りただけだもん。えーとね、おれ、タカヒロ。名前は他にもあるけど、今はこれが一番気に入ってるから。で、オジサン誰?」
「こら、初対面で人をオジサン呼ばわりか。どうしてこう、距離感の壊れてる奴ばっかりなんだ。…ってか、おまえよりよっぽど若いんだぞ。オジサンはないだろオジサンは」
「おい高階…あんまりオジサンって連呼せんでくれるか。それでなくてもこっちは往路で自分の体力的限界を思い知らされて凹んでるんだ。
 …って、若い・・?」
 違和感に気付く。それにこの少年は先程、自分を指して〝リリン〟と言わなかったか?
 リリスより生まれた現生人類リリン。それは指摘として間違ってはいない。だが、それは人類を他者・・として捉えた物言いではないのか?
 加持は改めて、十年以上前と同じ姿をしている高階を凝視した。高階はふっと顔を曇らせ、そして踵を返す。
「行くぞ、説明しとかなきゃならん話が山ほどあるんだ」
 歩き出してしまった高階に慌ててついて行きながら、加持は半身振り返って少年に言った。
「…加持、加持リョウジだ。またな、タカヒロくん」
「あ。うん。またね」
 少年が朗らかに手を振った。
 高階は暫く黙ったまま小径を降りていたが、ふと口を開いた。
「タカヒロも以前は欧州にいたんだ。あいつも言ったが別の名前で暮らしていた。ここで暮らし始めて20年ほどらしいが、その前は沖縄にいたといったな。その前は九州…いや、北海道だったか。点々としてるが、日本に来てからは60~70年と聞いている。
 あいつもライゼンデさ。俺と同じ、時間から置き去りにされた者だ」

 洋館に戻ると、加持は最初通された部屋とは別の、どちらかというと居室寄りの部屋に通された。
 居室ではなく居室寄り、というのは…部屋の一隅にデスクと椅子があるものの、その上に鎮座しているのはパソコンというよりワークステーションというにふさわしいスペックを持つマシンであったし、それはフロアの上に置かれたいくつかの人外未知の筐体きょうたいに…おそらくはほぼ無理矢理に接続されていたからだ。その一方で反対側の壁には腰の高さほどのアンティーク調ガラスキャビネットが据えられていて、その天板には電気ポットと瀟洒なティーセットが置かれている。ただしカップはひとつだけ。部屋の所有者が自身の為に置いているのだ。
 ベッドはなく、ゆったりとした長椅子がひとつあるきり。その前にローテーブルがあるにはあったが、付箋を貼った紙束や時代のいった書籍が座を占めていた。
 高階は加持を部屋に通してから簡単にローテーブルの上を片付け、長椅子を勧めた。電気ポットの湯量を見た後で、客に供するためのカップがないことに気付いてキャビネットを開けたが、出したカップを見て軽く舌打ちした。
「座っててくれ。ちょっと洗ってくる」
 そう言って、カップを持ったまま部屋を出て行った。
 居室兼研究室、といったところなのだろうか。床の上に置かれた人外未知の筐体は、資料画像で見せてもらったことのあるものと似ていた。
 〝使徒〟を迎撃するための技術情報は、人類とは別の何か・・がもたらしたものが含まれている。そんな眉唾な話が俄に現実味を帯びた資料のひとつだ。まさか実物にお目にかかれるとは。
「ライゼンデ…〝旅人ライゼンデ〟か」
 真希波マリはここを〝旅人の島インゼル・デス・ライゼンデン〟だといった。そのことの意味が朧気にわかってきたが、それを鵜呑みにするにはまだ抵抗があった。
 ――――不意に、〝何か〟を感じて顔を上げる。
 高階はまだ戻ってこない。だが、いつの間にか加持の隣にその気配はあった。
 それは本当に忽然と…だが、最初からそこにいたように長椅子に座していた。
 少年だった。少年のように見えた。その容貌には見覚えがある。だが、加持の記憶にある人物は青年といっていい年代だった筈だ。そう、今の加持と同年くらいの。
 白銀の、決しておさまりが良いとは言えない髪。端正な顔立ちと印象的な紅瞳はそのままだが、あの人好きのする微笑は陰をひそめ、濃い愁色だけがその白皙の頬に陰翳かげを落としていた。
『縁があるなら、君ともきっとまた会えるよ』
 そう…渚カヲルといった。カヲルと呼んで欲しい、とも。
 高階が〝他者との距離感が壊れている〟と評した人懐っこさは微塵もない。…それどころか、その存在自体がひどく儚い。声どころか物音ひとつ立てなかった所為かもしれない。あるいは幻ではないかと思える程に。
「…君は…」
 その時、ふと少年が顔を上げた。加持の声に反応したというわけではなさそうだった。やはり声も、音もなく立ち上がり、扉の方へ手を伸べる。
 ああ、高階が帰ってきたのか。だが、加持が一瞬扉の方へ視線を動かした瞬間に、その姿はかき消えていた。それもまた忽然と。
「――――ッ!」
 思わず、背筋が凍り付く。余程物凄い表情をしていたのだろう、扉を開けた高階が怪訝そうに眉を顰めた。
「どうした?」
「いや、あの…今…」
 どう伝えたものか整理がつかず、加持は思わず口籠もる。だが、その様子で高階は察したようだった。そして洗ってきたカップと自分のカップに、いい頃合いに茶葉の広がったティーポットから紅茶を注ぐ。
「…会ったか、〝カヲル〟に。多少、姿は変わっていただろう」
「多少…なのか? …ああ、でも、消えた」
「…消えた、というのは…おそらく正確ではないな。あいつは…何処にでもいるし、何処にもいない」
 高階が加持の前に程良い色合いになった紅茶を置き、自身はカップを持ったままキャビネット横の壁際に立ち、軽く身を凭せかけた。
「あの日…お前が出逢った〝カヲル〟は…セカンドインパクトで砕け散った。だが、永劫の俯瞰者は決して消滅することはない。次に受肉インカーネイトするまでこの世界を漂い続けるだけだ」
 高階が紅茶に口をつけて、小さく吐息する。加持にはそれが、嘆息したようにも見えた。
「お前の記憶にある姿とは違っただろう?
 その時代で、場所で…実際には姿なんてどうにでもなるんだと思う。それでも、俺たちが認識するカヲルは、大抵あの少年の姿だ。むしろ、大人の姿でいるのは珍しいな。だから実のところ俺も…最初、結構違和感があったんだ」
 あの海辺の街で別れてからセカンドインパクトまで、それほど長い月日があったわけではない筈だ。それが、高階にとって何倍にも相当する時間であったことは加持にも想像がついた。
「途方もない時間をたったひとりで生きてきたくせに、いや、だから・・・なのかな…ひどくさみしがり屋で…そのくせ総てを自分一人で背負い込もうとする」
 そう言って、少し寂しげでさえある苦笑を浮かべてカップを傾ける。
「俺たちの心配ばっかりしてないで、少しは自分のことを…自分の本来の望みがなんだったのかを思い出せばいいのに…」
 そのすぐ傍に、また忽然とあの少年の姿が現れた。目を伏せた高階を、その両腕で抱き締めるように腕を伸べている。…丁度あの日のように。
 高階は壁に身を凭せかけたままだから、カヲルの姿は半分壁に溶け込んで見えた。
「…あぁ、いるな?」
 再び苦笑する。
「いるのは感じるんだ。だが…俺たちの声も、想いも…届いているのかいないのか…」
 次の瞬間、その姿がふわりと淡くなって消える。高階は一度瞑目し、そして呼吸を整えるような間を置いてから、顔を上げた。
「少々、話が逸れたな。…まあ、無関係じゃないが。
 とりあえず、俺たちの立場を明確にしておく。俺たちはライゼンデ。一応、ゼーレに連なる者…と理解してもらっていいと思う」
 これまでの展開で十分に予想できたとは言え、加持は思わず身構えた。
「…ゼーレってのは一応、NERVの上部組織ということになっているんだがな? 上司にタメ口利いてた訳か、俺は」
「そこは心配するな。ライゼンデってのは、組織の名前じゃない。ゼーレ・クランの中に時々現れる特異体質者・・・・・につけられた名称だ。…どう特異・・なのかは…まあ見ての通りというところさ」
 中学生だった十年以上前から全く変わらない姿。ただ、確かに時を経ているのは、その言動を見ていてもわかる。ハインラインの小説のように、冷凍睡眠していたという一見〝合理的説明〟で片付く話ではないとは思っていたが…。
「俺なんかはまだ新参・・のほうでな。先刻会ったタカヒロみたいな奴もいる。まあまず、ここで会う奴が見かけ通りの年齢と思わない方がいい。
 こういう身体だから、ライゼンデがリリンに混じって生活するってのは少々骨が折れるんだ。それでも巧いこと立ち回って普通にリリンの社会で生活してる奴もいれば、ここのように周囲と隔絶された場所で悠々自適な生活をしてる…タカヒロみたいな奴もいる。
 ――――その中で俺たちは、リリン達とは一線を引いて、だがそれなりに交渉を持ちながら、ある目的のために活動をしている。
 俺たちの目的は…ゼーレに仕組まれたセカンドインパクトの…今なお広がり続ける災禍を食い止め、サードインパクトを未然に防ぎ、人類補完計画を阻止することだ」
「セカンドインパクトは、ゼーレによって仕組まれた、と…?」
 息を呑んだ加持を、高階は凄味すらある微笑を湛えて見遣る。
「笑える話だろう?マッチポンプ1もいいところさ。元々ゼーレは世界の裏側で結構な権勢を誇っていたらしいが、セカンドインパクト後はほぼ独壇場だ。そりゃそうだろうよ、何が起こるか知ってて事を起こし、それによって激減した人類に救済者よろしく支援する。当然神仏の如く有難がってもらえるから、現在の各国首脳部はほぼゼーレの言いなりだ。
 吐き気がしそうなほど巧妙な世界征服シナリオだと思わないか?」
 坦々と紡がれる言葉には、強い毒が含まれていた。山上の花園で白い巨木にそっと額を寄せていた高階と本当に同一人物なのか、自信が持てなくなるほどに。
「…まあ、あの老人達が古色蒼然たる世界征服がしたいってんなら勝手にしろ、っていうのが俺達のスタンスではあるんだが…問題はその先だ。
 加持…形而上生物学における、人類の人工進化理論については?」
「…聞いたことはある。だが、言っちゃ何だが正気の沙汰じゃない」
「同感だ。意見が同じで嬉しいよ」
 カップを置いて、高階は窓際へ歩み寄ると、シングルハングの窓を引き上げて外の風を呼び込んだ。微かに懐かしい匂い…潮の匂いのする風。
「では、人類補完計画については?」
「名前だけは。知ってる奴は知ってる…ってネタだが、いわば都市伝説みたいなもんだな。曰く〝セカンドインパクトで大打撃を受けた人類を救済することができる秘策〟とか? 
 こんな時代…誰だって手近な希望に縋りたくなるもんだが、その実態は誰も知らない…そんな危ない話、信じる奴の気が知れんよ」
「そうだろうな。お前さんはいたって健全だよ。少々、冒険心に溢れすぎてて危なっかしいがね」
 見た目、中学生より上には見えない子供・・に、苦笑雑じりにそんなことを言われたら…普通は怒る。だが、加持の感覚はもう殆どその状況に順応してしまっていた。
「ゼーレの最終目的・人類補完計画は、不完全な群体である人類を完全な生命体へと人工進化させること…だそうだ。それにはどんな犠牲も厭わんと。海と大地を生命なき世界へ変え、莫大な資材を投じ、数え切れない程の人命を供犠に差し出すのも…〝尊い犠牲〟だと。
 …差し出される方の身にもなってほしいものさ」
 窓枠に身を凭せかけた高階の色の淡いストレートを、潮の匂いのする風が揺らす。
爺さん方ゼーレには崇高な理念や目的があるのかもしれんよ。だがな、加持。俺はただ…まだ死にたくない。生きていたい。
 だからできるだけ…足掻いてみようと思った。それだけなんだ」

  1. マッチポンプ…意図的にトラブルを発生させておいて、そのトラブルに巻き込まれた人に、トラブルを解決するかわりに見返りを要求する行為のことである。ぶっちゃけ、見返り目当てにわざと揉め事を起こすこと。放火しといて消防ポンプをひっさげてくるの意味だが、和製英語だそうな。