You are not alone.

紅い月

 まだ、生きてる?
 意識が覚醒の水面へ浮かび上がったことに気づいても、マサキは暫くは微動だにできずに薄闇を見つめていた。ややあって、無意識に自身の手を薄い上掛けから出してかざす。
 暗い部屋だった。ベッドサイドに薄ぼんやりした灯はあるものの、辛うじて自分の手が視認できるくらいのもので、周囲に何があるのか、部屋の広ささえも俄には判別し難かった。
 規則的な信号音。それで、ベッドのすぐ脇にモニターがあるのを知った。自分の身体に端子が貼り付けられているのもそれで初めて気付き、頭を動かしてそちらを見る。
 心電図…洞調律正常サイナス・リズム。直近の血圧95/50mmHg、SpO2 98% 。呼吸数16。血圧は少し低いがほぼ問題なし。
 ゆっくりと起きあがり、周囲を見る。ベッドの周囲には人の身長ほどの黒い円柱が並んでいた。それらは淡く光る迷路のような赤い模様に覆われていて、低い唸りを発している。
 封印柱。そういうことか。
 だがその直後、そう認識出来てしまった・・・・・・・・・ことに慄然として…もう一度自身の掌を見つめた。…もう子供でもない。だが大人でもない。発達途上の中途半端な身体。
「…そう上手くは…いかないか」
 苦笑し、ベッド上から腕を伸ばしてモニターのスイッチを切る。使ったことのない型式タイプだが、扱い自体にそれほど難があるわけではない。…ただ、自身のリーチが持っていた身体像ボディイメージよりも短かった為に、すぐに手が届かなかったことに理不尽な苛立ちを感じたくらい。
 マサキがベッドから降り立った時、静かにドアが開いた。
 ドアの向こうに立っていたのは、ミサヲだった。ガウン型の白衣を纏っている。起き上がっているマサキの姿を認めてふっと呼吸を停め…おもむろに口許を抑えた。
 手にしていたタブレットを傍の机に置き、無粋な円柱の間をすり抜けて、ゆっくりとマサキに歩み寄る。その間に、黒褐色ダークブラウンの双眸は涙で滲んでいた。
「よかった…サキ、おかえりなさい」
 そうしてマサキを両腕で包み込む。
「…厄介かけて済まない、アウラ…」
 そう言いさして、もう一つの名で呼ぶべきだったかと思った。だがそれも彼女にはすぐに悟られたらしい。
「どっちでもいいの。よく…帰ってきてくれたわ。ありがとう」
 古城の前で初めて会った日、軽く頭に手を置かれたあの時のような戸惑いはもうない。だから、マサキは温かなその手に素直に身を委ねることができた。まだ少し震えている白衣の肩に、そっと手を添えることも、また。
 ひどく無力な手ではあるが、いまできるのはこのくらい。
 不意にコツン、と開けたままのドアをノックする音。ドアの向こうに立っていたのは、イサナだった。ミサヲが然り気無く目許を拭ってモニター類を片付けにかかる。
 イサナはミサヲの様子を苦笑で流し見たが、敢えて声をかけることはしない。その代わり、マサキの方へ向き直った。
「…おかえり。サキ」
「済まなかった、イサナ。状況は?」
「お前が倒れてから約72時間が経過している。その間、タブハの天国門ヘヴンズ・ゲートに〝第3使徒〟が顕現したが、ベタニアベースへゲートを繋いで囲い込むのに成功した。リエとレミ、カツミで活動停止に追い込んで、実体は永久凍土の中で凍結中。ミサヲがなんとかお前を引きずり戻したところだ」
「…死んでたのか、俺は」
「普通に医者に診せたら、そう判断する状況ではあったな。ああ、あと…一時的にだが体組織が一部、塩に似た結晶に置き換わっていた。お前が戻る・・と共に回復したが」
「…一歩間違えば〝塩の柱〟か。…考えるだにゾッとするな。タカミとの連絡はついたのか」
「一応な。だが、消耗が激しい。カヲルを止められなかったことで落ち込んだのもあるだろうが、生存報告をしてきた直後から…外部からの刺激に反応しない状態に陥ってる。ユキノに飛んでもらって確認をしたが、身体の傷の方は重篤なものではなく、生命の危険がある状態ではないにしても、ユキノでは手の施しようがないと。今、こっちに移送する手続きを取っている最中だ」
「無理もないか…」
 ミサヲがモニターを部屋の隅まで移動させてから、付け加える。振り返ったその目許はすこしまだ紅かったが、声に震えはない。
「おそらく過負荷オーバーロードによる強制停止シャットダウン状態。身体も心も滅茶苦茶なんだと思う。ユキノの判断は正しい。強制的に覚醒させるのは危険でしょう。安全な場所で調律チューニングしたうえでないと、機能不全がのこる可能性がある」
「俺だって一歩間違えばそうなっていた…そういうことだろう〝アレックス教授〟?」
 ミサヲが苦い顔をする。
「サキ…そこで余計な茶々いれないで頂戴。実直に、教授なんて情報や人を集めるのに必要だから取った肩書きで…教鞭とか全く私の柄じゃないんだから。
 危険な状態であったことには違いないけど、状況が違うわ。解ってるとは思うけど、あなたは他でもない…摘み取られかけた・・・・・・・・のよ?」
「ああ、判ってる…」
 思わず、マサキは大きく吐息する。契約は新たな章に突入してしまった。やはり、最初の贄は自分か。
「…俺はいつ、封印柱の陣ここから出られる?」
「もう少し、時間を頂戴。既に、海の浄化が広がりつつある。今すぐそれを止めることは出来ないけど、ごく限られた範囲でも…浄化されてしまう前の海を隔離して残しておくのなら、まだ手の打ちようがある」
 不意にカクンという、小さな音がした。はっとして、マサキは壁際に立つイサナの方を見る。抑制の効いた表情のままだったが、微かにその目許が険しい。その立ち姿は何も変わらないが、身体の傍に垂らしたままの手…その指先は、関節が白くなるほどに握りしめられていた。
「見たのか、イサナ。〝浄化〟された海を…」
「…ああ、見た。リエが抑えた衛星の画像だが…」
 抑制の効いた表情が、かえっていたましい。掛けるべき言葉を失って降りた沈黙を、ミサヲが破った。
「こうなってしまっては、ゼーレとも距離を置かざるを得ない。より多様な生物種を隔離するのに最適な条件、それからゼーレの目と手が届きにくい場所を、今リエに検索してもらっているわ。準備が整い次第、術式を展開する。それは同時に、あなたに一定の行動の自由を保証することにもなるでしょう。それまで我慢して」
 マサキは深く嘆息して再びベッドに腰を降ろした。
「わかった。さしあたっては俺にできることは何もなさそうだな。…済まない」
 それは謙遜でも何でもない。今、自分は無力なのだ。しかし、マサキがそう言った途端にミサヲが卒然と柳眉を逆立てた。
「莫迦いわないで!
 あなたが贄として摘み取られれば、シナリオが進んで次の誰かが贄になる。逆をいえば、あなたさえ拒み続けることさえ出来れば、その間は猶予期間モラトリアムとして確保される。
 …サキ、お願いだから…うっかり死んだりしないでよ?」
 僅かに蒼ざめながら、それでも凜然とそう言い放つ。マサキは苦笑するしかなかった。
「俺が踏みとどまるコトが、皆を護ることになる…か。努力しよう。
 何とも…簡単なようで、難易度の高い任務ミッションだな」