Last Scene 楽園に寧日なし

All’s right with the world.


「加持さん、元気そうで良かったね」
 見舞いの帰り道。何処かでお昼ランチをしてから帰ろうか、というカヲルの言葉に、レイは一も二もなく頷いた。…結局、アスカの機嫌をとるという大変な『後始末』は鄭重にシンジに依頼するおしつけることにして。
 夏休み最後の土曜日。まだまだ暑いが、ショーウィンドウの中は秋色だ。レイの宿題はカヲルの協力の下で概ね済んでいるし、研究課題も漂着物を用いたアート、という題目で小さなオブジェが完成している。
 ラジオペンチやグルーガン程度ならともかく、ナオキがビーズやスパンコールの入った道具箱を一山持ってきたのには、カヲルも心底吃驚した。こんなもの何に使うの、と訊いてみたら、大真面目に「ビーズアクセサリ」という答が返ってきたのには更に驚いた。
「とっても面白かったよ。今度、アクセサリの作り方も教えてくれるって。惣流さんも誘ってみようかな…」
 楽しそうなレイを見ていると、カヲルは自身がとても落ち着いた気分になっているのを感じる。
 レイがするりと腕をほどいて、秋物のワンピースをディスプレイしたショーウィンドウに駆け寄った。…そうかと思えば、隣のスイーツショップのポップに引きつけられる。せわしないといえばそうなのだが、あまりにも楽しそうで、見ている方が自然と笑顔になる。

 ―――――どうすべきなのか、まだわからない。

 それでも今、何かを択ばなければならないなら…自分を受容れてくれるひとたちと、ひととき道を共にするのもいいだろう。
「ねえ、こんなのも作れるかな」
 いつの間にか、今度は雑貨屋の店先でガラスビーズのネックレスを注視していた。かなり手の込んだ代物なのか、結構な値がついている。
「面白そうだね。僕もやってみようかな」
 カヲルは、レイの肩にそっと腕を回した。

 灯火といえば、身長ほどの直方体をわずかに水平に捻ったような輪郭フォルムのフロストガラスに包まれたフロアライトがひとつ。あとは暖炉のおきが時々思い出したように炎を揺らめかせるばかり。
 フロアライトが投げる光は編物をする手元を照らしておくだけなら十分であったが、部屋全体を照らすにはほど遠い。小さなテーブルと、それを鈎型に囲む長椅子。その長椅子でさえ、端のほうは半ば薄闇に沈んでいる。
 この土地は日本ほど気温の上下が激しくない。夏は日本で言えば春くらいで、9月ともなれば20℃を越えることも稀になる。夜とてどうしても暖炉が要る気温ではなかったが、夕刻降った雨で少し肌寒かったので火をいれた。
 テーブルの上にあるバスケットには、掌ほどの大きさで統一された様々な色の毛糸のモチーフが入っている。彼女の膝の上にも数枚があった。
 暖炉には新たな薪を加えていない。この火がおきているあいだだけ、もう二、三枚編むつもりでいた。燠が立てる僅かな音と、毛糸が滑る音だけが長くその部屋を支配していた。
「…よく、飽きないな」
 フロアライトの恩恵からすこし距離をとった長椅子の上。マサキが片肘で身を起こしてテーブルの上のグラスに手を伸ばした。
「おかげさまで手仕事する暇だけは十分にあるからよ」
 マサキの手が届く前に、ミサヲがグラスを攫う。溶けた氷で薄くなっていた琥珀色は、ミサヲの口許で消えた。
「…ひょっとして機嫌悪いのか?」
「悪くないように見えるの?」
「悪くないといいな、とは思ってるが」
「希望的観測が悪いとは言わないけど、少しは原因について考えてみようとは思わない?」
「一応考えてる。…帰ってきても、寝てばっかりだから?」
「…あと呑んでばっかり」
「うちの蒸溜所の原酒モルト、外に出すには勿体ないくらいの出来だぞ。味見ぐらい、良いだろう。イサナが惚れ込んでたくらいだ」
「お褒めにあずかりどうもありがとう」
「うわ、棒読み」
「しばらく悠々自適な開業医やってたんだから、にわか勤務医生活が疲れるのは無理ないと思うけど」
「こわぁい事務長さんに叱られながら、ってのが『悠々自適』に該当するかどうかは…微妙だと思わんか?」
「思わない」
「即答かよ」
「会いに来たとか言いながら、ひたすら傍で寝こけてるってのはどういう了見?あなたわざわざこんなとこまで寝に来たわけ?」
「だっておまえ、忙しそうだし」
「こっちが話してる傍から寝込んだの誰よ?」
「…俺かな」
「自覚はあるわけね」
年齢トシかなー。夜勤がツラくて」
取り上げられたグラスを諦めて長椅子に身を沈める。
「百近くサバ読んどいて今更何?…ついでに言うと、今の戸籍上は27の筈よね、アーネスト・ユーリィ・サーキス!?」
「…綴るのが面倒だ。もう少し短くすれば良かった」
「横着なこと言ってんじゃないわ。どーして私、子供も産んでないのにいきなりお祖母ばあちゃんなのよ。あんまりじゃない?」
 その台詞に、マサキは大切なことに気づいたというように眼を開け、半身を起こす。
「…ひょっとして、産みたかったのか。子供」
 瞬間、ミサヲが物も言わずに編み針を振り下ろしたので、マサキは長椅子から落ちるようにしてようやくそれを躱した。
「危ないな、殺す気か?」
「いっぺん死んでみる?」
「無茶言うな!一度で十分だ!」
 1914年のクムラン。マサキというよりサッシャの一番古い記憶。すべては、あそこに始まった。
「…ま、いいわ…。あなたにデリカシーってモノを期待した私が莫迦だったわよ」
「何だかひどい言われようをしてる気がするぞ」
「そのまんまよ、何か問題ある?」
「…とりあえず謝る」
「とりあえずって何」
 マサキは長椅子の上に戻って、クッションの上に頭を落ち着け、些か情けなさそうに言った。
「お前が何に怒ってるかよく判らんから」
「…もーいいわ、寝てて」
「有難う」
 その額に、ミサヲがそっと手を添える。その手が温かくて、マサキは瞼の重さにあっさりと降参した。
「…俺は必ず此処に帰ってくる。それじゃ駄目か」
「別に何も問題無いわよ。ただ待ってるのは性に合わないけど、此処を護るのが今の私の責務しごとだから。言っとくけど、あなたを待ってるわけじゃないのよ? 皆、気紛れに出入りするから留守居も結構大変なの」
「…それはお世話さまで」
「おまけに最近は例のAIも時々居着いてるみたいだし。ええと、いつまでも『例のAI』じゃあんまりだからって、名前つけたんだっけ? ええと、Yroul? 恐怖の天使イロウルだっけ…名付けのセンスには恵まれてないわね、あの子。
 …まあ、食べさせる手間がある訳じゃなし、経理雑事をまとめて片付けて行ってくれるから重宝するけど。…ああ、来たときに玄関のベルを鳴らせとは言わないから、せめて挨拶ぐらいはさせなさいって、タカミに伝えてくれる?」
「了解、よく言っとく…」
 実際には、「恐怖の天使イロウル」はタカミが考えたわけではなく死海文書上に予言された第11番目の使徒と呼ばれる者に与えられたコードネームだ。しかし今ここで言わなければならないことでもなかったから、マサキは軽く流した。
 おそらく、かつて自分が抜け出そうと足掻いた悪夢の中で自身に付されていた名前をそのまま進呈してしまったのだろうが、それはそれであまり褒められた名前のつけ方とは言い難い。まあ、先方がそういったことに頓着しなかったのは幸いと言うべきだろう。

「…で、また寝るわけね」

 今度こそ、返事がなかった。
 マサキが置き直したクッションは半分以上ミサヲの膝に掛かっている。手仕事が一段落付いたら起こせということか、それとも起きるまでここに居ろという意味か。
 長椅子の背に引っ掛けていたブランケットをマサキの背にかけて、ミサヲが小さく吐息する。
「本当に、何しに来たんだか」
 そして、先刻放り出したモチーフの続きに編み針を通した。