雪催いの夕刻。
ビルの屋上にある小さな音楽堂の扉が開いて、観客たちがさざめきながら出てきた。
年末恒例のチャリティーコンサートは、大学や市民サークル、アマチュア楽団が合同で開いている。観客の服装もまちまちで、買い物帰りそのまま、という風体の者から、たったいま舞台から降りてきた合唱団と思しき揃いのユニフォームの子供達と、なかなか賑やかだ。
暮れ始めた街に散っていく人々の中に、彼等はいた。
「ユキノ姉、気合い入ってたね!」
「『歌の翼に』と『アヴェ・マリア』だっけ。独唱とはねー。いーのかあんなに目立っちゃって」
「気合い入りすぎて照明割れるんじゃないかってびくびくしながら聴いてたけど」
「お前じゃあるまいし、ユキノ姉がそんなことするかよ」
「あ、なにそれヒドい」
音楽堂の前は屋上庭園で、この季節にはすでにお定まりとなったイルミネーションガーデンになっていた。
周囲は大きなショッピングモールだ。いつもならこの時間は煌々と灯が点っているが、イルミネーションに配慮してか最低限の灯しか漏れてこない。青を基調としたイルミネーションが、シェードの下ろされたビルの窓に映って奥行きを増す。昼間とは別の世界がそこにあった。
「ユキノ姉が出てくるまで待っとくんでしょ?」
ユカリが庭園の中に作られた小径へ今にも飛び込みそうな勢いで、それでも一応振り返って問う。問われたイサナは手首を翻して時計に目を走らせた。
「その約束だが、こんな寒いところで30分も待つのか?」
風はないが、こんな天気の夕刻である。既に気温は0℃を割り込んでいた。『寒いのは苦手』と公言して憚らないイサナが当惑を隠しもせずに問い返す。
「動いてたら寒くないよー。それに、30分なんてあっという間だって。だってホントに綺麗だし」
年少組は光の庭園へ駆け込みたくてうずうずしている。イサナが諦めたように吐息した。その息が白く凍るのでさえ、忌々しげに見遣ると今出てきた音楽堂の隣にあるカフェを指して言った。
「判った、俺はそこの店に居るからユキノが来たら携帯で呼べ」
「「「「「はーい!」」」」」
ユカリやミスズ、タカヒロはともかくとして、ユウキやナオキまで足を向けるのをイサナはやや呆れたように見送った。
「…気が知れんな、全く…」
寒いと言いながら、その背筋はぴしりと伸びている辺りがイサナらしいといえばそうだったが、踵を返してカフェに足を向けたイサナに追従する者が一人だけいた。
カヲルだった。
「…いいのか?」
イサナが短くそう問うた。レイがユカリやミスズに手を取られて庭園へ向かうのを視界の隅で捉えたからだ。
「珈琲の一杯でも飲んで、身体を温めてから行くよ」
カヲルはそう答えた。レイを見送る口許には、穏やかな笑みがある。
「…そうか」
そのカフェは夕刻という時間帯の割に比較的空いていて、庭園の見える窓際の席を確保することができた。店の出入り口も視界に入るし、窓から庭園も見える。
「サキ、来ないんだ」
「当直勤務だと。交代してくれる同業者がみつからなかったらしい。まあ、この季節の週末なら仕方あるまい。チケットを買えばとりあえず義理は果たせるだろうと言っていた」
「それについては異論がありそうだけど…結構大変だね」
「さしあたってあまりあくせく働かなければならない理由もないんだが、臨床からあまり長く離れると勘が鈍るのが嫌だと言っていた」
「勘なの?医療職って」
「俺にはよく判らんがな。…看護師が同じようなことを言ってたから、そうなんだろう」
「ふうん…」
「そういうお前も、結局碇博士の研究室へ入る算段だと聞いたが」
「とりあえず高校へは行く。…時間の無駄だって気がしたら、大検でも何でも受ければ良いって言われた。…僕は知識に偏りがあるから、とりあえず高校ぐらいまでは普通に学校へ行けって」
「まあ、サキならそう言うだろうな」
イサナは薄く笑ってカフェ・コレット1に口をつけた。
「で、それを一応納得した訳だ」
「…納得した、って訳じゃないけど…」
少し居心地悪そうに、カヲルはスプーンでカフェオレを一混ぜしてから置いた。
「逃げ回るのはもう意味が無い。識らなければ対処できない。…なら、正面から向き合うべきだと思った」
「自分自身と、姫さんのためか。…まずまず健全という処だな」
「…別に、医者になりたいわけじゃないけど」
「まっとうに生きていこうと思えば、手に職をつけておくのは悪いことじゃない。あまり考えたくはないが、ヴィレと決裂ということにでもなれば碇博士の研究室といえど決して安心できないからな」
イサナさらりと言い放った物騒な仮定に、カヲルは一瞬呼吸を停めた。
彼等が常に最悪の事態に備えながら、それでもこの世界を相応に楽しんでいるのは理解していたつもりだったが、いざというときにそこまで割り切れる自身が、今のカヲルにあるわけではない。
「…あなたがたは、強いな」
「そうか?…絶対的な強さなどあり得ん。強くあるよりしなやかであれ、と教えられて、そうなるべく努力してるだけだ」
「教えられて…って、誰に?」
「高階マサユキ博士だ。あの人がいなかったら、俺達は今ここには居ない」
カヲルは夏に聞いた、マサキの話を思い出した。
「『環境に対して常に変化し続けることは、生命の在り方としては正しいことだ。それまでの在り方に固執すれば滅びるしかない。生き抜くことにある程度の強さは必要かも知れないが、強くあるよりしなやかであることのほうが大切だ』と。
…最期まであの人は俺達を行き場を失ったただの孤児として扱ったが、そんな垂訓をするくらいだ。あるいは俺達が何者であるか…薄々感づいていたのかも知れないな。今となっては誰にも判らんが」
ヨハン=シュミットの記憶の中に残る高階博士の印象は、然程強烈なものではではない。異国の、物静かな科学者。しかし、夭折した彼の裡にあったものは、今彼等に脈々と継承されている。
自分達をこの地球上では異端の生命と認めながら、それでも確たる魂の源流を持つ。彼等が、そして高階博士が、カヲルにはすこし羨ましくもあった。
「…ところで、その医学部を中退になりそうな奴はどうした」
俄に話のトーンが変わったことで、カヲルはふと思い出してポケットから携帯を引っ張り出した。コンサートホールに入る前に設定したサイレントマナーを解除して履歴を見る。
「…既に学生やってるんだか赤木先生んとこの専属SEやってるんだかわからない生活してるよ。出席足りなくて何だったか単位落としたらしいね。…今日も研究室。講義は今朝の雪で急遽休講になったって言ってたから、朝からずっとだろう。時間の目処がついたら連絡するって言ってたけど…ないね、連絡。
今朝まではコンサートのことは憶えてたみたいだけど」
「サキが、タカミを医学部へ放り込んだのは失敗だったと嘆いていた。中退になるくらいなら、いっそ最初から赤木女史のところに就職させてしまえば余計な学費を払わなくて済んだし、給与だってせびれたのにってな」
「本人の意向を無視して段取りをつけるからさ」
カヲルが人の悪い笑みをする。だが、イサナは殊の外難しい顔をして言った。
「否定はせんが…言ってるサキは結構、自棄気味だったぞ。金銭の話は冗談としても、赤木女史の件はサキにとっても全く想定外だったらしい。まさか、戻ってきてるとは思わなかったと」
「それって、タカミが赤木博士と関わりを持つことに、サキは反対だってこと?」
「…そうではない。が、『出会ってしまったものは仕方ない、なるようにしかならん』と言っていたな」
その台詞に包まれたものが何か。カヲルが口を開きかけた時、軽快なベルの音がして店の扉が開き、ミスズとナオキ、ユウキが入ってきた。
「何だ、早いな」
イサナが声を掛けると、カウンターで注文をするナオキの後でミスズが手を振り返して言った
「だって、降ってきちゃって。そりゃ綺麗で良いけど、流石に寒いよー。でも楽しかった。中はね、迷路になってたんだよ?」
カヲルが外を見遣る。もともと降りそうな天気ではあったが、たまりかねたような牡丹雪が降っていた。
「…積もるな、これは」
光の庭園に降る雪。いたく幻想的な光景であったが、イサナは心底うんざりしたように呟いた。
ミスズ達が出てきた飲み物と菓子を盆に載せて、すぐ隣の席に陣取るのと入れ替わりに、カヲルが席を立った。
「…僕も、ちょっと庭を見てくるよ」
窓外は既に真っ暗であるが、ふわりと窓に寄ってきた白い雪片を目にして、タカミが手を止めた。
今朝の雪はあっという間に融けてしまったが、今夜の雪は更に積もりそうだという予報だ。はっとして、パソコンの隅の時計表示を見る。コンサートは終わってしまった時間だった。
「…しまった」
「どうしたの? 傘忘れた?」
珈琲を片手に窓の雪を見ていたリツコがタカミの手が止まったのに気づいてそう声をかけた。
「いえ…カヲル君に連絡入れ損ねたなと…」
「そういえば、夕方何か予定って言ってなかった?時間、大丈夫なの?」
「それについては義理は果たしたのでいいんですが…」
リツコはマグを置いてタカミの机に歩み寄ると、巻貝を細工したメモクリップに挟まれたチケットに目をとめた。
「あら、これ今夜じゃない。…っていうか、もう始まってるわよ」
「チャリティーコンサートなんですよ。指定席でもないし。チケット買えば一応義理は立つでしょ」
「でも、あの子達と約束してたんじゃない?」
「まあ、それを連絡し損ねたなと。朝の時点では行けるかどうか判らなかったから、判った時点で連絡するって言って出たんですが…忘れてました」
「ごめんなさいね。土壇場で私が資料頼んだから」
「伊吹さん帰省中だし、プレゼンは明後日でしょう。今夜中に資料は作っとかないと。気にしないでください、約束してたって訳じゃないので」
伊吹マヤは今日の昼過ぎ、親が迎えに来て帰省していった。帰ってくるのは年明けだ。発作の頻度はだいぶ少なくなったとは言え、雑踏はまだキツいらしい。
夏の件以来、彼女に無闇に警戒されることはなくなったが…何だか別のことでちくちくした思念をぶつけられることが時々ある。微妙に当惑しつつ、それでも具体的な不都合が起きるわけでもないので、とりあえず流していた。
そういえば今日の昼、普通ならマヤに回る資料作成を、予定変更が効かなかったマヤに代わってタカミが申し出た時にもそんな感じだった。
「明日の朝までには揃えときますから」
「有難う。助かるわ。さてと、じゃ、私は私の仕事しなきゃね。事務棟まで行ってくるわ。ちょっと時間掛かりそうだけど、一応戻ってくるから鍵は開けといて貰えるかしら」
「了解です。まあ、リツコさんが戻ってくるまでに終わる確率のほうが低そうですけど」
「あらご謙遜」
「本当ですって」
笑いながら、それでも手は動かし続けている。
「…じゃ、今回の埋め合わせって言うと何だけど、プレゼンが無事に終わったら大学の五重奏楽団公演でも聴きに行かない?チケット2枚貰ってるの。夕食は奢るから」
「へえ、いいですね」
「予定あけておいてね。これ、チケット」
「了解です」
「じゃ、行ってくるから」
「はい、気をつけて」
ドアの閉まる音を聞いて数秒。…不意に、タカミの手が止まった。頭の中が半分以上数列に占領されていて、言葉を処理するのに決して小さくないラグが発生したことに気づく。
机に置かれた、上品な封筒に入ったチケットをまじまじと見る。…今、何て?
「…え? …ええっ!?」
「見つけた!」
ドアベルの音と共に、鈴を転がすような声がした。ユキノだ。さすがに舞台に上がる時のようなマーメイドラインのワンピースではなく、アリスブルーのパンツスーツの上からファーコートを羽織っている。淡い色のセミロング、音楽堂のステンドグラスを彩る聖母の如き美貌と相俟って、目立つという点においてはあまり差が無いが。
「やっぱりこっちだったわね。イサナがあの寒いところで待つわけないと思ってたわ」
「当たり前だ、雪まで降ってるのに」
憮然として、イサナが読みかけの本を閉じた。
「雪は嫌いだ。寒いし、ろくなコトを思い出さん」
「それで?数が足りないわね。あとはまだ迷路探検してるの?」
「そのようだ。…雪が降り始めてからカヲルが姫さんを捜しに出たが、木乃伊取りが木乃伊になった。悪いがユキノ、カヲルに連絡を。ナオキ、タケルとタカヒロの携帯を鳴らせ。ユカリはこっちで呼び戻す。移動するぞ」
「よーっし、飯、メシ!」
ナオキが嬉々として携帯を引っ張り出す。皆が揃ったら夕食、というのが最初からのプランだったのだ。
程なくタケルとタカヒロ、そしてユカリが戻ってきたが、ユカリは半泣きだった。
「レイちゃんとはぐれちゃった。捜したんだけどまだ見つからないの!どうしようっ!」
「カヲル君の方も、まだ見つけられてないみたいね。まあ、そんなに広い場所でもないし、すこし待っててくれって。…ユカリも泣かないのよ。雪山で遭難したわけじゃないんだから」
通話を切りながら、ユキノが言った。
「こうしてみると、姫さんの携帯番号を控えてなかったのは失敗だったな」
イサナがぽつりと言った。
「…一応、持ってはいたよね?」
ミスズが確認するように問う。レイが携帯を使うところを思い出そうとして、記憶にないという事実に思い至ったのだ。
「その筈だ。当然カヲルは番号を知っているし、タカミもか。…ああ、バッグの中にしまい込んで、よく着信に気づかないようだとタカミが零してたな」
「…結構イルミネーションのオブジェに見嵌まってたし…カヲル君が一所懸命鳴らしても気づかずにうろうろしてる…ってオチは、ないよね?」
ユカリが控えめに言った推測は、沈黙で迎えられた。…一同、「かなりの確率でありそうだ」と思ったからだった。
薄青いイルミネーションが、様々なトピアリーの姿を宵闇の中に浮かび上がらせる。
降り始めた雪は、イルミネーションの上にさえうっすらと積もり始めていた。雪を透過する光は更に薄ぼんやりとして、やや光量が抑えられる分、周囲の遠近感を狂わせる。
何度かレイの携帯を鳴らしたが、着信はするものの応答がない。きっとまた、バッグの中に押しこんだままなのだ。
迷路とは言っても、完全に向こうが見えない訳ではない。オブジェの向こうに道があれば、そこを通る人の姿は見えるし、昼間で視界が良ければ抜けるのに10分と掛からない筈だ。
迷った訳ではなくて、時間を忘れて見嵌まっている、というのが正しい見解というものだろう。
今でこそ降る雪を見てはしゃぎ、積もった雪を見れば雪だるまを作りたがるレイだが…一時、レイは雪を怖がっていた。降り積もる雪が音を消してしまって、ただ一人取り残された感じがするのが嫌だと。
その意味するところが何なのか。考えるだけでカヲルは胸奥に痛みを感じる。
レイをネルフから護る為とはいえ、結果的にあのマンションに置き去りにすることになってしまった。カヲル自身がネルフの手に落ちてしまったのだから、どうしようもなかったのだが。
どれだけ心細かっただろう。
しかし、そこからレイを助け出せたのはカヲルではなかった。そのことが、今でも悔しい。
長い間探して、ようやく見つけた。
ずっと一緒に居て、ずっと護っていきたいと思う。
その為に必要なものが何なのか、今、懸命に探している。
ふと、立ち止まる。
すこし道から引っ込んだところにある、壁龕を模したトピアリー。その中には小さな雪花石膏のマリア像があって、やはり薄青い光に照らされていた。
至高天の青の衣はマリアの持物。まさに、相応しい演出ではあった。
その前に立ち尽くす、ダッフルコートの小さな人影。フードの端から、青銀色の髪が零れている。
雪がその髪に降りかかるのも構わず、その像に見入っている。
足下を埋め始めた雪を踏んで、そっと近づく。雪が軋む音を立てたが、レイは気づかないらしい。
「レイのほうが、マリア様になっちゃってるよ?ほら、こんなに積もっちゃって」
ベールのように降り積もった雪を払い除けて、カヲルがそう声をかけた。
「わ、びっくりした」
勢いで足下が滑り、カヲルに支えられる。
「時間だよ。戻ろう。皆、待ってるよ」
「え、そうなの!? わ、こんな時間」
腕時計を見ようとしたことで、さらにもう一度滑りそうになる。カヲルに支えられてようやく態勢を整えた。
「今日のユキノさん、綺麗だったよねー。なんていうか、オトナって感じで。そーだ、丁度マリア様みたい?」
カヲルに肩を抱かれて出口に向かいながら、いまだ興奮冷めやらぬといった態ていのレイであった。
今日のコンサートの、ユキノの独唱。それまでの出演者たちが揃って前座に思えてしまうほど、美事ではあった。
「そうだね、本当に凄かった」
「私ももう何年かしたら、あんなふうになれるといいなぁ…」
「…レイはそのままでも、十分綺麗だよ?」
「うわ、カヲルってば何!? 歯が浮きそう」
「え、ひどいなぁ。本心なんだけど」
そう言って…カヲルはレイの肩をもう一度抱き寄せて歩き出す。
「そのままでも、どんな姿でも…僕のマリア様?」
―――――雪が静かに、二人の肩に降り積もる。
「出てこないねー。もいっぺん、カヲル君の携帯鳴らす?」
ミスズが窓の外を眺めながら言った。ミルクレープは食べ尽くしてしまったし、キャラメル・ラテの残りもあと少しだ。
「…やだ。馬に蹴られて死にたくない。私も何か食べる」
そろそろ状況を察したユカリが、憮然としてスイーツメニューの頁を開いた。
当直室。マサキはローテーブルの上に置いていた院内用PHSの着信音よりも、バイブレーション機能でPHSが跳ねる音に目を覚ました。…しまった、眠ったか。
「はい、総合診療科 2当直・高階…」
まだ半分目は閉じていたが、指先は間違いなく応答のボタンを探り当てていた。救急外来の看護師からだ。
「…雪の上での転倒…歩行不能…レベルはクリア? 頭部擦過傷あり…あと何分?15分くらい? 了解、降ります。放射線の待機は誰…あ、別件で出て来てるのがいる?そりゃ助かる。声掛けといてもらえますか」
電話を切った後、メモの上にペンを走らせながら、テーブルの上のコップに手を伸ばす。
「雪の上で転倒って…雪なんか朝のうちに融けちまっただろうに…」
呟いて、中身を一口含む。それが存外温かいことを不審がるところまで、まだ覚めてはいなかった。
「夕方からまた降り出したのよ。結構積もってるわ」
「へぇ…って、おい!」
飲み込んだ後だったのは幸いだった。そうでなければ噴いていたに違いない。
当直室のソファ。ぼんやりしていたとはいえ、気づけなかったことに心底慌てる。マサキが転寝していたそれと、ローテーブルを挟んで反対側に、いつの間にかミサヲが座っていた。
「お前、いつ来た!? …っていうか、どうやって入った?一応ここ、スタッフエリアだぞ」
「どうやっても何も、普通に歩いて。スタッフに出会ったら、『お疲れ様です』って言いながら」
「IDカードは?」
「作って貰っちゃった。ここに来る前イロウルに作れるかって訊いたら、二つ返事だったから」
ひらり、と指先でケースに入ったIDカードを弄ぶ。
「あのな…」
あまりにも堂々としているとこういうことはばれにくいものだ。況して、この貫禄で廊下を颯爽と歩いていたら…誰だって退勤途中の師長クラスと思うだろう。
「すっかり飼い慣らしたな、あのAI。タカミが聞いたら泣くぞ」
「泣かせときなさい。授業にも出ずに単位落としちゃった誰かさんよりは余程いい子よ。そりゃ、タカミほど揶揄い甲斐はないけど?」
一刀両断されてマサキが苦笑する。これは、言わないでおいてやるべきだろう。
「さて、と。急患みたいだから私もこれでお暇するわ。私、飛行機が明日の朝イチだから午前零時までの自由なのよ。これ、陣中見舞。ああ、ここで開けちゃ駄目よ?」
差し出された紙袋の中にはフリースの裏地がついたニットのブランケットが見えた。その割に受け取るとずしりと重い。見れば、ブランケットに包まれた瓶のキャップ部分が頭を覗かせている。
「…えらく気前がいいな」
「たまにはね。クリスマス近いし。いつもちゃんと食べて寝てる?当直医がこの時間からへばってたら明け方には医療事故起こすわよ」
「…厳しいご指摘どうも」
何しに来たんだ、と言いかけ、そんな問答をしているほどの時間も無いことに気づいてマサキは口を噤む。手早く顔を洗って白衣の襟を整え、先刻のメモやペンをポケットに突っ込んでいると、つい、とミサヲの手が襟元に伸びた。
「ボタン。2番目。外れたまんま」
「…ああ、悪い」
「行ってらっしゃい」
あっさりとそう言って手を振られては、訊きたいことも訊けない。しかし逡巡するほどの暇もない。
「次はもうちょっと、余裕のあるときに来いよ」
「はいはい、とっとと行きなさい」
そう言って、マサキを見送った。
その姿が見えなくなってから、ミサヲは小さく小さく吐息した。
「時間ならあったわよ、莫迦。へばってる当直医を無駄に起こすのがしのびなかっただけ。そりゃ、スケジュール知ってて押しかけた私が悪いんだけどね」
救急外来までの階段を速歩で下りていたマサキは、ふと窓から見える玄関前の光景に足を止めた。街灯の薄青い光の中で、景色は白く塗りつぶされてゆく。昨夜降った雪の比ではないだろう。風はないから、降り積もる雪が音を吸収して、ひたすらに静かだ。
雪が魔法のように世界を描き換えるさまは、美しい。
だが、以前はこんな光景が…空恐ろしかった。
1943年。あの朝、全てが吹き飛んだ跡の更地に静かに降り積もった灰色の雪。寂寞たる光景は、更に降った白い雪に覆い隠された。突然開かれた道が何処に続いているのかわからなくて、それでも歩き出すしかなくて。
――――――歩き出せ。魂が導く方へ。
言うは易い。歩こうにも道がなくて、行き泥んだこともしばしば。
変わらない営みと、変わりゆく時の流れの中で、大切なものを護っていく。少しずつ、在り方を変えながら。
今はそれでいい。
足を止めたのは、数秒に満たなかっただろう。ポケットの中で鳴動するPHSに急き立てられて、マサキは再び歩き出した。
―――――― Fin
It’s a wonderful snow world!