――――――――背中のこれかい?翼だよ。天使の持ち物。
――――――――僕? 天使だよ。ひとを愛して、堕とされたけど・・・・。
Sweet Eden
Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS 「Sweet Eden」
彼は、その岩の上に座したまま軽く目を閉じていた。
外界の光と切り離された洞窟の中でも、その姿はほの白く光って見える。それは、彼の背にあるものの所為だった。
――――――――翼。
それは、白い翼。かすかな動きで光の粒子が零れおちるかのような、光の翼。
秀麗な貌には、憔悴の色が濃い。だが、表情に苦しみはなかった。・・・・むしろ安息に満ちているとさえ見えた。
遠くで、石が転がる音がした。
顔を上げる。紅い瞳が、闇を探す。
彼の口許が、僅かにほころんだ。
「来たのかい?」
その声を闇が呑み込んで、数秒。小さな頭が、覗いた。
「ええと・・・・こんにちは」
少年・・・・というよりは、まだ子供。上流階級に属す身なりがひどくぎごちなく、あわない服を無理やり着せられているような印象を受ける。
「いらっしゃい」
彼は微笑んだ。その微笑みに、少年もまた満面の笑みで応えた。その途端、足を滑らせて前のめりに転がりおちる。
長い苔が密生していなければ、擦り傷程度では済まないところだった。
少年は、頭をさすりながらではあるがすぐに起き上がった。
「いたたたた・・・・」
「大丈夫かい?」
「うん、ちょっとびっくりしただけ」
「ごめんね、助けてあげられなくて」
「ううん、ほんとうに大丈夫だよ。そんなに高さがあるわけじゃないから」
そして、また微笑む。それが唯一の、真実の言葉であるかのように。
少年はさながら絨毯のような苔の上に座りなおした。岩角にでもひっかけたか。その動作で、肩口が裂ける。
「あ・・・・・やっちゃった」
無意識の動作なのだろう。肩を・・・というより、身を竦める。彼は笑った。
「手品を見せてあげようか」
彼は跪き、破けた袖に触れた。
「・・・・!」
彼は一瞬だけ呼吸を止めた。
だが、何事もなかったように指先に力を込める。
そこが淡く光を放ち、それが消えると破けた袖は元通りになっていた。
「・・・・・・また、ぶたれたのかい?」
「仕方ないよ、僕はあんまり出来の良い子じゃないから」
彼は返事をしなかった。出来が悪ければ、いとけない子供でもみみずばれが残るほどに鞭打つのか?
「・・・そんなことより、またお話してよ。遠い国のお話」
「そうだね。どこまで話したかな・・・?」
少年は、彼の故国の話を喜んで聞いた。
今は喪われた祖国の話を。
美しい花々が咲き誇り、瑞々しい緑が溢れる地のことを。
全ての苦痛や悲しみと訣別した世界のことを。
しかし彼は、まだ少年にその後の話をしていない。
故国を追われ、この暗く湿った洞窟に唯一人、生きていくことすら放棄して座し続けている、その理由を―――――。
「・・・・で、そいつときたらとんだ粗忽者でね。命綱は用意していたのに、それを自分に括っておくのを忘れていたのさ。案の定、釣り上げるどころか引っ張られてドボン。あとでさんざお説教をくらったらしいよ」
少年が笑い転げるのを見て、彼も微笑む。決して、その表情の翳りを悟らせるようなことはしなかった。
――――――マトリエル。谷に突き落とされ、十数本の槍で突き殺されたという。
それを彼に伝えたサハクィエルは、彼の目の前で断崖から身を躍らせた。追手をその地形もろとも吹き飛ばし、消滅した。
皆、消えてしまった。
そうして彼一人が、ここにこうして生き延びている。
生き延びるつもりは、もはやなかった。彼はもう長いこと、食を断っている。この洞窟から滴る水、岩の窪みに溜る地下水だけが、彼の口に入る全てのものだった。
彼はここで、緩慢な餓死を待っているのだった。
「具合、悪いの?」
少年が心配そうに彼の顔を覗き込む。最初、少年はパンを掠めては持ってきていたが、彼が頑として拒んだため、もはや何も言わなくなった。
『僕は天使だからね。水さえあれば、いくらでも生き延びることができるんだよ』
それは、少年をなんとか納得させるための、詭弁としか言いようのないものだった。確かに、普通の人間ならとうに木乃伊になっていてもおかしくない程の月日が経っている。だが、間違いなく彼は憔悴していた。
このまま行けば、いつかは。少年にもその程度のことは十分に予想できた。
それでも、少年は時間の許す限りここへやってきた。
彼の話を顔を輝かせて聞き、そして言葉少なに自分のことを話す。ここより他では、誰も聞いてくれない心の裡を。
彼だけは、聞いてくれるから。
誰の前にも姿を現すことなく、その命を父なる存在へと返そうとしていた彼。
それなのに少年にだけ訪問を許していたのは、ただひたすらにこの繊細な心を愛したがゆえ。
彼らがひとを愛したことは間違っていなかったと、確信させてくれる純粋な輝きを慈しんだがゆえ。
発達の途上にある人々よ。いかに堕ちようとも、汝らの心の裡にその輝きのある限り、我ら決して悔いることはなし・・・・。
彼らはかつて楽園にいた。そして、この子はすでに憶えてはいまいが、人々の祖先となったふたりもそこにいたのだ。父なる存在の庇護のもとに。
だが、ふたりは墜とされた。たった一つの罪によって。
寛恕を乞うた彼らもまた、地上へと堕とされた。
不従順なるものの末路。身を養う食物を得るための、労働の苦しみ。塵へと還る死の苦しみ。産みの苦しみ。
不従順なるものの末路。帰る場所の消滅。人と似た器に、天使のままの力。しかしそれゆえに、かつて愛したものたちに忌まれ、恐れられ、そして殺される運命。
従わねばならぬ。それが父なる存在の定めたもうたことならば。しかし、最後に一人残された彼の心は揺らいでいた。
だから、隠れた。
これ以上、自身を揺るがさぬために。
――――――――――同胞達よ、僕はあなたがたのように強くはない。
――――――――――最後の最後に、人を呪わぬ自信がない。
殺されることは恐ろしくはない。だが、人を憎んでしまうことが恐ろしい・・・。
実のところ、食を断つぐらいのことで本当に目的が達せられるのか否か、彼には自信がない。また、それはある意味、父の定めに再び逆らう所業であるのかも知れなかった。
おのれの愛したものたちに殺されよ、と父なる方は仰った。
ここのことは誰にも内緒だよ、と言った彼の言葉を、少年は忠実に守った。
だからこそこの平穏が保たれていた。
「僕のことは心配しなくていいよ。だから今日はもうお帰り。あまり遅くなると、皆が心配するよ?」
少年は素直に頷いた。
立ち上がったとき、擦りむいた掌に気がつく。
「先刻転んだときだろう?かしてごらん」
おずおずと差し出された手に、瞳と同じ、澄んだ紅の唇が触れる。光の粒子が散り、傷が消える。
「また、おいで」
彼が微笑む。少年は嬉しそうに頷いた。
―――――――――駄目!はいっちゃ駄目ぇぇ!!
その日、高価な布を引き裂くような叫びに、彼は浅い眠りを妨げられた。
―――――かくも愚かで、哀れな者達よ。
呪わしい二股の槍が、彼の胸を貫き、翼を貫き、岩壁へ突き刺さる。
槍が、自ら意志をもって最後のとどめを刺さんとするかのように捩れ、2重の螺旋を形成る。
口許から零れたのは、血泡混じりの吐息と、微笑。
もはや動かぬ、と見て包囲を緩めた人々の間から、少年が走り出て彼の前に跪く。声を上げて泣きながら・・・。
泣かないで。それは声にならず、彼はそっと手を差しのべた。
君が悪いんじゃない。君は、行動を怪しまれたおとなたちに後をつけられただけ。
これは定められたこと。
あるいは、初めて会ったときに、君の心の中から僕の存在を消し去ってしまわなかった、僕のミス。
君の所為ではないんだよ――――――――
血に濡れた細い手が頬に触れ、少年は一瞬だけ呼吸を呑んだ。そして再び火がついたように泣く。
たった一つの事を除いては、どこにでもいる10代半ばの少年。それが奇怪な槍で崖に縫い止められている光景に、さすがに人々がたじろぎ始めた・・・その時。彼の姿はまるで背景の中に溶け込むかのようにかき消えた。
澄んだ音とともに、紅の珠が転がり落ちる。
少年は珠を抱き、泣き叫んだ。
――――――何故、殺した。
おのれの愛したものたちに殺されよ、と父なる方は仰った。
――――――ありがとう。
もう少しで、人を憎むところだったよ。
もう少しで、あの日々をすべて否定するところだったよ―――――――――。
ありがとう。君に逢えてうれしかったよ。
―――了―――
後書き、らしいもの
これのどぉこが「Sweet Eden」なんだよっ!!とゆーお叱りが聞こえてきそうな・・・・
それというのも、久しぶりに池田聡さんの「BLACK COLLECTION」を聞いていて、どーでもこーでも「Sweet Eden」というタイトルで話が書きたくなったという、おそろしく脈絡のない動機で書いた代物なもので・・・それでもいちおう、このタイトルにも意味があります。お暇な方は勘繰ってみてください。
「そして御使は神の前に立つ」の設定に添わせるつもりでしたが、どうやら別物になりました。また、勘繰りの余地をごっそり開けた書き方に徹しました。ご意見ご感想をお待ちしております。
ちなみに。池田聡さんの「Sweet Eden」の雰囲気とこれは、全然符合しません。あれのままで書くと、どうひっくり返してもカヲル君とシンちゃんのラヴストーリーにしかなりません。それも、ちからいっぱい甘いやつ。(それはそれで面白いかもしれないけど、そこまで書く勇気と元気が・・・)
我と思わん方はCD屋さんへ行って「BLACK COLLECTION」を聞き、ラヴストーリーversionの「Sweet Eden」を書いてみてください。