紅…一面の紅。その中に・・・紅より紅い、何かが光っている。
紅より紅い、深い輝き。
その扉を開けたとき、まさかと思った光景がまさにそこに在った。
悠然とデスクについたまま、掌中の紅珠を見つめる…白衣を羽織った人物の姿。
「大尉、何してるんです!? 警報鳴ってるんですよ!」
大尉はゆっくりと振り返ると、薄く笑んだ。
「…ああ、サッシャ」
それは、ひどく哀しそうで・・・しかし、自嘲を含んでいた。
「・・・もう、時間がなくなってしまったんだ。ここで待つのも限界みたいだ。すまないね、君たちには、本当に申し訳ないと思っている。君たちにもう何もしてやれないのがひどく気がかりなんだが。
まだなにも伝えられていないのに、こんなことになってしまうなんて…
でもこれだけは信じてほしい。私は、君たちを苦しめるためにこの世界へ連れ出したわけじゃないことを・・・」
言葉というより概念が意識の中に無遠慮に傾れこんで、身体を振り回されるかのような眩暈に再び目を閉じた。
「私を赦してくれ…」
朦朧とした聴覚にすべりこむのは、慚愧に身を切り刻みながら、血を吐くがごとき…しかし決然とした声音。
「君たちを誰にも渡しはしない…絶対に。君たちは、自分で未来を択び取るんだ」
「ちょっと、大丈夫?」
熱に浮かされた額には丁度良い冷たさの掌。ふっと息を吐いて、マサキは目を開いた。
「…ミサヲ?」
ふと、見当識1が怪しいような気がして枕元の時計を掴む。表示された日時が最後の記憶、そしてスケジュールと合致して、思わず安堵の息を吐いた。
額に当てられた心地好い温度の手に触れて、緩々と目を閉ざす。既に陽は高いが、今日は当直明けでオフ。寝直しても文句は言われない筈だ…。
「…今日は休みだぞ。午後は研究室としても、まだ寝てて問題ない筈だが…ってか、なんで起こす?」
声が微妙に非難がましくなったのは、予定で行けばあともうすこし眠れた筈だからだ。しかし、触れていた手はするりと逃げたかと思うと緩い拳になって降ってきた。
「起こしたつもりはないんだけど。ひどく魘されてるから熱でもあるのかと思って手を当ててみただけよ。…起きちゃったんなら丁度いいわ。カヲル君が来てるわよ」
こつん、と額をノックされてさすがに目が覚めた。
「…は?」
「…具合、悪いのか?」
不規則な勤務というのは知っているのだから、カヲルは一応電話をした。しかしマサキの携帯にはミサヲが出て、当直明けで寝んではいるが、午後から研究室だから昼前には起きているだろう、というからこの時間にしたのだった。
出てきたマサキは身なりこそ整えてはいた。しかし、何かいつもと様子が違う。それで、先刻の台詞となったわけだった。
「気にするな、あまり夢見が良くなかっただけだ」
コーヒーを啜り、カップをゆっくりと置いてから気怠げに額に手を遣る。確かに別段顔色が悪いわけでもないのだが、微かな違和感が拭えない。
その正体は、ミサヲがマサキの前にブランチを運んできた時に判った。
「本当に大丈夫よ、カヲル君。このひと、朝は基本こんなものだから」
ミサヲが笑う。…そこでようやく理解した。これがイサナの言う、マサキが「スイッチが切れている」状態なのだ。剽げた雰囲気を纏っているくせに、いつも全てを見透しているような印象が…今はない。
有り体に言えば、ひどく緩いのだ。
「スイッチが切れる」状況の発生条件が理解った気がして、カヲルとしては一瞬でも本気で心配したことを後悔していた。何やら微妙に居心地が悪くもある。いっそ電話でも良かったかも知れない、とさえ思ったが、自分がここに来た用件を思い出してそうもいかないと思い直した。
タブレットを操作してニュースサイトの文化欄を呼び出す。
「…この記事なんだけど」
海外在住の芸術家、その来日展のPR記事だ。国籍はアメリカになっているが出身は日本で、立体造形が主な作品として挙げられていた。
作品を紹介する数枚の写真が添付されている。そのうちの一枚をタップした。
「…これか」
マサキが小さく吐息する。やはりというか、既に目にしてはいたらしい。
柔らかい色で彩色された像だ。跪くその人物はギリシア彫刻がよく纏っているようなゆったりとした服を纏い、性別が曖昧な顔立ちをしていた。小枝を集めた鳥の巣に縁に手を掛け、愛おしげに覗き込んでいる。それを揺籠でもあるかのように。
おそらく天使なのだろう。その背には翼があった。精緻な翼は、巣を風から護るように半ば展かれている。
問題は、その巣の中。深紅の球体がまるで卵のように据えられているのだ。
ウェブ上の写真など、撮り方と加工でどうにでもなる。それが判っていてもなお、見た瞬間から妙な確信があった。これは、『核』だ。使徒と呼ばれる、星を渡る程の寿命を持った生命体がとりうる究極の防御形態。造山活動に巻き込まれようが海淵へ転がり落ちようが決して砕けることのない生命の卵。ただし、ここまでになってしまうと外部からの働きかけがなければ永久に休眠状態にいるしかない。
「考え過ぎならいい。でも…似すぎている」
「…実直に、この大きさでこの色で…コランダム2だったらとても屋外に飾っておけるシロモノじゃないだろうな」
マサキの、ひどく悠暢としてカップを傾けてからの一言に、カヲルの声が尖る。
「鋼玉がこんな真球に研磨できるものか 3」
「まあ確かに、紅ければ鋼玉ってのは早計だな。赤色を呈する鉱物なんて山ほどある。…真性の『核』に至っちゃ正直言って構成物質は全く不明だしな。意外と、ただの硝子かもしれんぞ…っていうか、公式図録の材料欄にはジェスモナイト4、ガラスって書いてあったな」
カヲルの反応を楽しんでいるかのような微笑を浮かべながら、そう言ってのけた。既にそこまで調べていたわけだ。自分が無用に熱くなっているのに気がついて、カヲルは一度呼吸を停め、そしてゆっくりと吐き出した。さっきの緩さは何処へ行った。いつの間にやらいつも通りだ。
「…やっぱり考えすぎなのか、僕の?」
「まあ、制作者本人の意見なら無碍にはできんか。確かに、南極で回収された筈の『核』の模造品の行方は…結局有耶無耶のままらしいからな…。
お蔭様で…久しぶりに嫌な夢で安眠を妨害されたってのが今朝の愚痴なんだが」
マサキが苦笑を閃かせる。
始祖生命体アダム、リリスを別にすれば、確認された『核』の数は14。いずれもその形態を解き、現生人類の子供と融合を果たした。それが『CODE:Nephilim』の名で呼ばれる者達だ。
だから、現在この地球上に『核』が存在する訳はない。
しかし、それとは別に…シュミット大尉がゼーレの追及を振り切るために作った、模造品が存在する筈なのだ。ネフィリム計画は頓挫したのだという偽のシナリオとともに大尉自身がドイツから持ち出し、潜水艦と一緒に南極海に沈めた筈だった。
しかし半世紀以上経ってその所在を掴んだ現生人類は氷の海の底から潜水艦を引き揚げ、内部を捜索した。…長い眠りから醒めてそのことを知ったシュミット大尉は、己が身とともに…秘密を守るために全てを吹き飛ばした。それが2000年の南極で起こった事件。
しかしゼーレは諦めなかった。凄惨な事故現場から1stーcellおよび、それと異なる…明らかに使徒の細胞でありながら、現生人類と同じ形質を発現させる遺伝子を持った未知の組織片…17thーcellを拾い出したのだ。
そして、渚カヲルが生まれた。17thーcellから生まれた命に、南極で砕け散った筈の何者かがサルベージされたのだ。
制御可能な使徒を生成するという目的の下に。
「そうだな…仮に、真実この紅玉がシュミット大尉が作った『核』の模造品だったとして、更に誰の思惑なのかをとりあえず措いておくとしても。
…そんなものがあんな目立つ場所に引き摺り出された意図は何だ?」
マサキの問いに、カヲルが再び呼吸を呑んだ。そこには、『罠』の一字しかあり得なかったのだ。
慄然として…カヲルが無意識に自身の肩を撫でたのを見て、マサキがふと相好を崩す。
「…まあ、たまには美術鑑賞もいいだろう。情操教育が要りそうな奴もいることだしな。公開は…今週の金曜からか
。
件の像、タイトルはなんていったっけな?」
カヲルが憮然として言った。
「…これが何かの罠なら、相手は相当にこっちのことを調べているよ。
表題は…『Angel’s Nest』だってさ」
マサキが、微かに眉を顰めた。
夕刻のカフェ『Angel’s Nest』は、既に常連となったシンジ達以外に客の姿はなかった。
ベーカリーショップはそこそこ繁盛しているが、カフェの方は半分方々に散っているネフィリム達のダイニングルームであり、途切れなく誰か居る割に収益はさっぱりだと事実上の店長であるユカリを嘆かせていた。
むしろナオキが細々と作っては売りに出している雑貨が、一部に固定客がついているとかいないとか…。
「『グレース剣崎 来日展』…?」
カウンターに立ててあるコルクボードに貼られたA4サイズほどのポスター…というよりチラシ。このカフェと市立美術館のイベントが巧く繋がらなくて、碇シンジはとりあえずタイトルを読み上げた。
「あー、学校にも張ってあったわね。今はアメリカの人だけど出身がこの近くなんだって。よく知らないケド」
これはアスカ。プラムのスムージーとチーズケーキのセットが載ったトレイをにわかウエイトレスのレイから受け取りながら言った。
「学校で割引券配ってたわよ。美術部の子がイベントにも駆り出されるようなこと言ってたわ」
ショコラシフォンに載ったクリームが落ちそうになるのをかろうじて引き留めたヒカリが、抹茶ラテを一口啜る。
「どっちでもええわぁ…彫刻じゃあ食えんしな」
「ん、興味なし」
男二人がボリュームのある海鮮お焼きにぱくつきながら手を振る。シンジはと言えば、それほど美術展に心惹かれるものがあったわけではないのだが…レイがどうやら気に掛けている様子なのをみて、手作りと思しきアクリルのスタンドからチラシを一枚抜き取った。
「興味ある?そこのチラシは商店街から回ってきたやつだけど、タカミが大学で押しつけられたって割引券一束持ってきてたから、あげるよ?」
グラスを洗っていたナオキがそれを見て声を掛ける。
「あ、ええと…どうしようかな。ね、綾波は行くの?なんだか見入ってたみたいだけど」
思わず正直なところへ話を持って行ってしまって、シンジは背に冷汗を感じた。虎の尾を踏んだ気がしたからだ。幸い、虎のほうはヒカリとケーキをひとかけらずつ交換する交渉に勤しんでいて聞いていなかったが。
「うん、一応…カヲルが気にしてるみたいで、行くって言ってたから」
エプロンドレス姿のレイがレシートで注文を確認しながら言った。さすがにミスズのような派手なヘッドドレスとエナメル靴は遠慮したらしいが、純白のエプロンドレスというのもなかなか新鮮だ。
「へー、渚のやつ、こういうのに興味あったんかい」
トウジが意外そうに言った。
それについてはシンジも似たような感慨を持ったのだが、レイが言うところの「気にしてる」の中身が、純然たる興味というより心配事の範疇に寄っている気がしたのである。だから、それをここで訊くのもすこし憚られた。
「そういえば市立美術館? 結構凝った造りね。オシャレだし」
「あそこのミュージアムカフェ、評判いいのよね。そういえばまだ行ってないなぁ…アスカ、予定どう?」
アートとはやや縁薄いところで女の子二人が盛り上がった処へ、落ち着いたドアベルの音がした。
「あ、カヲル」
レイの声が軽やかに跳ね上がった。いつもの涼やかな笑みを湛えて、カヲルがドアの向こうから姿を現す。一応制服姿ではあるが、今日はどうも学校で姿を見かけなかったような…。
「おや、丁度その話かい?前売りが何枚か手に入ったんだけど、行きたい人はいる? …あぁ、そのミュージアムカフェのコーヒーチケットが付いてるね」
コーヒーチケット、と聞いて全員の手が上がった。展開に戸惑ったシンジが出遅れたことに気づき、左右を見回して思わず両手を挙げる。
「バカシンジ、なにホールドアップしてんの」
アスカが呆れたように言い、レイがくすくすと笑った。
「ごちそうさまー。じゃ、綾波さん、またねー」
賑やかな客が帰って行った後、『Angel’s Nest』に残ったのはナオキとウエイトレス姿のレイ。そして先程の涼やかな笑みを一瞬で消し去ったカヲルだった。
「美術鑑賞にしてはずいぶんな大所帯になるけど…何、〝木を隠すには森の中〟的な?」
ナオキがグラスを磨きながら、少し面白がるような笑みをしてカヲルを覗き込む。先程の笑みは明らかに造っていたなという難しい表情がそこにあったからだ。
「巻き込むつもりはないけどね。まあ、明日は普通に美術鑑賞、さ」
「やっぱり気になるの?」
レイが微かな緊張を滲ませて、エスプレッソのカップをカヲルの前へ置く。
「すまんねー。話は聞いてるけど、実際に『現物』見たことあるのってサキだけだしさ、俺達じゃなんとも判断つかないんだよな。で、どうなの。一体何アレ、何?」
「今の時点ではなんとも」
ナオキの問いに、カヲルはエスプレッソのきめ細かな泡をスプーンで軽く崩しながら応えた。
「考えられるのは3つ。一つは真っ赤な偽物、二つ目はシュミット大尉が70年前に造った偽物。最後に…十七番目の、真性の『核』という場合」
さすがにナオキの手が停まった。
17thーAngel…「死海文書」に本来そんな記述は存在しない。
南極で起きた爆発の後、ゼーレは恐るべき執念で始祖生命体アダムの体組織を構成していた細胞(Angelー01)を拾い出した。しかしそれと異なり、現生人類と同様の形質を発現させる使徒の細胞組織も回収されている。
『制御可能な使徒』の研究を目的としてそこから生成された無数の実験体…そのうちたった一つに、魂が宿った。それが現在「渚カヲル」の名で呼ばれる少年。人工進化研究所は、その少年に『17thーAngel』のコードを便宜的に割り振ったのだった。
ただ、彼が真実何者であるのか。それを正しく理解する者は、今以て現生人類の中においてそう多くない…。
「…まさかぁ…」
質の悪い冗談だろう、とでも言いたげに、ナオキが語尾を吊り上げる。
「可能性としてはゼロじゃないんだ。『核』の状態でいる限り、たとえ始祖生命体だろうとその存在を遠隔感知することは難しい。だからこそ、シュミット大尉は君たちを捜し出すのに途方もない時間をかけたんだ。…ま、組織力の差は如何ともしがたくて、悉くゼーレに先を越されてたんだけどね。それから百年も経ってない。ゼーレもシュミット大尉も捜し当てられなかった17番目だったとしても、おかしくはないさ。ただ…」
「ただ?」
「サキの言うとおりさ。3つのケースいずれであったとしても…そんなものをああいった人の目につく状態にすることの意味…というより意図が何処にあって、しかもそれが誰のものかってことが一番問題なんだ」
レイがトレイを握りしめたまま立ち尽くしているのに気づいて、カヲルが表情を和らげた。
「…あぁ、ごめんねレイ。大丈夫、にわかに荒事になったりはしないさ。明日は本当に様子見なんだから。さっきも言ったとおり、シンジ君達を危険なことに巻き込んだり出来ないしね」
自身の表情に気づいたレイが、頭を振って言った。
「ごめん私、不安そうな顔してたかな?違うの、私…確かにちょっと緊張したけど、本当は嬉しいんだ。カヲルが、最初からちゃんと話してくれるのって…初めてかなって。いつもカヲル、私に心配させないようにって…あんまり話してくれなかったし」
そう言って、微笑む。
「レイ…」
何と言って良いかわからなくて、カヲルは思わずレイの微笑を見上げたまま固まってしまった。
その絶妙なタイミングで、内線が鳴る。ナオキがスピーカーモードで応対すると、飛び出したのはユカリの声だった。
【ごめーん、誰かレジ応援お願いできるー? さっきからちょっとお客増えてきちゃって…】
「応援って…こっちも臨時いれてようやく回してるんだけど…」
ナオキがぼやき気味に言いかけたが、レイがすかさず飛びついた。
「了解、行きますー」
インターフォンを切ってから、ナオキを振り返ってレイが笑う。
「大丈夫だよね?カヲルも居るし!」
「あっうん、たぶん…」
レイの勢いに押されるようにして、ナオキが言った。
「それじゃ行ってくるね!」
枝の上を走り抜ける栗鼠のような素早さで、レイが階下へ降りていく。それをナオキが頭を掻きながら見送った。
「あー。すっかり馴染んでるねぇ」
「…そうだね」
他にコメントのしようがなくて、カヲルはエスプレッソの残りを呷った。何か取り残されてしまったような風を吹かせているのが、傍観者には面白くてたまらない。
「カヲルお前…何気に後を任された感じだけど、エプロン要るか? 予備あるぞ」
ナオキが指し示した、バックヤードの壁に掛かっているものを見て、カヲルは注意深く訊いた。
「予備って…あれ、ミスズちゃんのだろう?」
「大丈夫、ユキノ姉が使うトールサイズが上の棚にあるから」
「…あなたかユウキのを貸してくれるって選択肢はない訳?」
ナオキはへらっと笑って言った。
「や、ないこたないけど。そこはそれ…客ウケの問題」
カヲルが露骨に眉を顰める。
「…此処の客層って…」