Disturbance―動揺―

Tea Break

「全く、何無茶やってんの、この莫迦!」
 ネット上で『女教皇ハイ・プリーステス』のふたつなハンドルネームで呼ばれるリエの…容赦ない鉄拳制裁がタカミの頭上に降った。
「リエさん、痛い…」
 高階邸のテラスである。全員撤収完了するまでの待ち時間にかこつけたティータイム…の筈が、早速殺伐とした雰囲気に包まれていた。
「痛くしてんだから当たり前でしょ! 前にも釘刺されてるでしょうが。いくら元は自分の片割れだからって、お手軽に身体明け渡してんじゃないの!」
計算・・計算機・・・に任せただけでしょ。僕じゃとても対応しきれなかったんだから、しかたないじゃないじゃありませんか。それに今回はあの時みたいに意識自体を載せ替えた訳じゃなくて、切り抜ける間だけ自動オートパイロットにしただけですってば!」
「反撃できたってことは基本動作はちゃんと入ってるんだから、どうしてそれを自分・・でやらないのかって話よ。オマケに力加減まで任せっきりにするからしなくていい怪我するでしょうが。フィードバックが甘くなることぐらい、その杜撰な計算にいれとけっての。
 蹴った足の方が痣になったとか、莫迦以外の何者でもないわ。相変わらず機械との自我境界が曖昧だわね。いつか戻れなくなっても知らないわよ」
女教皇ハイ・プリーステスにおかれては、私が表面おもてに出ることはお気に召さんか】
 陽当たりのよい庭に置かれたテーブルの上で香箱1を作って座したまま、やや皮肉な口調でキジ猫が発言する。いっそインスタ映えする猫の日向ひなたぼっこだが、内蔵スピーカーからの音だから、無論のこと全く口は動かず…可愛らしさは微塵もない。
こいつタカミの他力本願なやり口に文句言ってるだけよ。あんたイロウル命令コマンドを実行しただけでしょうが。これ幸いと悪さしなかったコトだけは褒めてあげるけど」
【この場合の悪さというのがどういう行為を指すのか不明瞭だが、基本的に信用されていないということだけはよくわかるな】
「具体的…?隙あらば勝手に義体の機能強化したり、追跡プログラムにウイルス咬まして行方をくらまそうとすることよ。OK?」
「ごめんなさいリエさん、こいつの義体にドラレコ1仕込んだの僕…でも今回はそれが役に立ったでしょ…って痛いですってば!」
 まだ足台に上げて冷却中のタカミの左足首に、もはや物もいわずにパンプスの踵を捻じ込むリエ。苦笑しながら、マサキがそれを制止した。
「リエ、とりあえずそのくらいにしておいてくれ。話が前へ進まん。
 …問題は標的になったのが何故こいつタカミだったか、というところだろうな。まあ確かに、一番持ち帰り易そうではあるが」
「…サキ、何気に一番ヒドいこと言ってますよね?」
 リエに踵を捻じ込まれた辺りを擦りながら、タカミがぼやく。それにフォローをいれることもなく、レミが言った。
「それは知っていれば・・・・・・の話であって、普通に考えればユカリやレイちゃんが標的になってもおかしくはなかったわよね。百歩譲ってもタカヒロ?ちっこいし」
「ちっこい言うな!気にしてんだから!」
「そうね、こう見えてつつくと危険な核弾頭だなんて、身内・・じゃなきゃ知らないコトだし」
 ユキノが至って真剣に応ずる。この場合、負の意図は全くないので言い返すことも出来ない。俯いてぼそぼそと文句を言うしかなかった。
「核弾頭って…俺ってそんな危険物?いやいやレミ姉とかにくらべりゃ穏当なもんでしょー…」
「まあ、普通に考えて…タカミが現生人類リリンには困難ないし不可能な方法で情報を取ってたのがバレた…というのが妥当なところだと思うけど、問題なのはじゃあそいつ・・・は何故、それがわかったのかってとこね」
 リエが椅子に身を沈めながら吐息する。
「では、我々の情報がすべて向こうに漏れていたわけではないと?」
 イサナが注意深く問うた。
「私はそう判断したから、散開して撤収してもらったのよ。あの場で、何処で何が見てるのか判らなかったんだから。まあ今回は、私がもう少し早く情報を集められてたらよかったのよね。今更っちゃ今更なんだけど、黒白はっきりしないうちに偵察なんかGoサイン出すべきじゃなかったのかも。
 …結論から言うと、黒も黒、真っ黒だから。あのばーさん」
「えー!?あんなに優しそうなのに」
 ミスズとユカリが声を高くする。
「…正確に言うと、明らかにゼーレ絡みっていう意味だけどね。あのばーさん…グレース剣崎、旧姓がスミスだったわね。…『剣崎』の家も、実家の『スミス』も、実のところ『高階』と同じで、戦前からゼーレに関与のあった家だったらしいわ」
「…そういうことか」
 マサキが大きく息を吐いた。
「そういうことって…どゆこと? 博士の家となんか繋がりあるの?」
 タカヒロが身を乗り出す。リエが説明を続けた。
「ゼーレがおっそろしく根の深い組織だったってことは知ってるでしょ。…各国の、いわゆる支配階級ハイ・ソサエティにガッツリ根を下ろしてたってのは勿論、近代から現代になってからはいわゆるプロパガンダ1的な役割を持つ人間を家系ごと抱え込む傾向もあったらしいわ。
 本人がそれを知ってたかどうかは別なのよ。高階マサユキ博士なんかその典型なのよね。平時はゼーレとは全く関わりないところで研究に携わってて…必要に応じてゼーレの情報操作に都合のいい意見を、権威ある立場で発信するってのが役割。2000年の事故・・が、その規模に比べてあんまり問題視されなかったってのも、結局そういう人たちが上手に情報操作したってのがあったようね」
「無論、本当にゼーレの研究の中核に携わってた人間もいた。碇ユイ博士はそっちの典型だ。死海文書本体を一種世襲的に研究してたクチだな。それを嗅ぎつけて自分から近づいたのが六分儀ゲンドウ、研究の方向性が似てたんで巻き込まれたのが冬月教授…まぁそんなところだ。
 高階博士は、何も知らないまま普通に医学者やってただけのようだな。高階も本家の方は実際、昔は碇博士寄りの研究に携わってた人間もいたらしいが。
 …それを考えたら、よくもDIS端末の件で直接的に関わってしまうまで、俺達のコトがバレなかったもんだな」
 マサキが喉を撫でながら嘆息する。リエは手元に並べていたタブレットの一つを取り上げてタップした。
「グレース剣崎の夫、剣崎キヨトはまさに2000年…ニア・セカンドインパクトとでも言うべき一件の関係者ね。あの時、南極にいたのよ。…死亡者リストの中にその名があるわ。享年64。極地の海洋生物に関してはちょっとした権威だったらしいの」
「何だ、もう死んでるんだ。そーいや、葛城のあねさんとこの親父さんもそうだっけ?」
「そうなんだけど…状況から言って、問題はシュミット大尉が潜水艦と一緒に沈めたつもりだった『核』の模造品フェイクに接触した可能性がゼロじゃないってことなのよね」
「でも大昔の遺跡発掘1じゃあるまいし、いくら隊のメンバーだったからって、発掘品なんて簡単に持ち出せたとは思えないなぁ…。いくらゼーレの息がかかってるっていったって、そこまで融通利くのかな?」
「カツミが言うのも尤もな話でな。常識的に考えればそうだ。しかし、カヲル?」
 マサキに水を向けられて、カヲルが顔を上げた。
「彼女は確かに〝天使の卵〟が自分の家にある、と…。レイも一緒に聞いてる」
 レイがこくこくと頷く。
「でもあのおばあさん、いやな感じはしなかったなぁ。私たちのこと、近所の知ってる子供みたいに気軽に声を掛けてきた…って感じだったの」
「〝天使の卵〟…ねえ…」
「グレース剣崎に関しては…至極シンプルにデコイ、という可能性もある。問題は、タカミを誘拐さらいにかかったほうだな」
「ハッキングがバレたとか」
「そこまで間抜けじゃないつもりだけど」
 あらぬ方を眺めながら頬を掻くタカミを『お前が言うか』という眼差しで見遣り、マサキは嘆息する。だが、顔を上げて宣するように口にしたのは、やや厳しい調子の言葉であった。
「ヴィレに対しては、俺達はその存在を認める代わりにアーネスト・高階を除いて所在を明示してはいない。ヴィレ内部のいずれかが、『コア』をネタに俺達のうちの誰かを釣り上げようとしたというなら…紛うことなき重大な協定違反だ」
「そこがややこしいんだけど…どうやらまた、ヴィレ本体ではなさそうなのよね」
 リエがひどく面倒くさそうに烏羽色のストレートロングを掻き回す。
「あの男…イロウルのレコーダーになんとか顔が映ってたから調べがついたんだけど、どうやら元々ネルフの人間だったらしいのよ。いや違うか…まだネルフに改組されるかなり前、人工進化研究所ゲヒルンだった頃の話なんだけど、高校課程修了後すぐに米国支部に配属されている。
 …剣崎キョウヤ。例の、剣崎キヨトの息子。ってことは、自動的にあのばーさんの息子よね。データによると2000年の時点で18歳。現在も米国支部所属、保安部付」
「えー?そんじゃ今は30チョイ過ぎ? ふーん、そんなもんだったかなぁ。まあそりゃ、タケルを一度とはいえはねとばすくらいだから、そこそこ鍛えちゃいるんだろうけど…鍛えんのと若造りなのとは別物だしなー。ま、戸籍データ上の年齢なんて記号以上の意味ないかぁ」
 タカヒロが暢気に納得するのへ、カツミがタブレットに表示された写真…イロウルのレコーダーから切り出した画像を見ながらツッコミを入れる。
「あのなぁ…そんなん俺達限定だっての。つくづく身内だけで行動してると感覚がいい加減になるよな…ふーん、確かに…見た目20歳前後ってとこか? 若いと言えば若い…」
 そう言うカツミとて、服装次第で中学生から大学生までどうとでも見えるのだ。
「まあしかし…顔だけを見るぶんには、三十路みそじにしては少々貫禄が足らん、で済まされるレベルではあるな」
 職業柄、多くの人間に接するマサキの言には重みがある。レミはそれを首肯して、自身の掌を見遣って言った。
「そうね、顔だけじゃ…ね。触らせて貰えば±プラマイ2歳以内で年齢当てる自信はあるけど」
「触らせてって…それって、なんかアヤしい人の台詞」
「怪しいのはアンタの頭の中よ、カツミ。皮膚は正直なものなの。水分で抵抗が変わるのよ。若造りしてようが一発でわかるんだから」
「ひょっとしてレミ姉…生体電気とか拾えんの!? 怖っ! 生きた嘘発見器バイオニックポリグラフ!」
「そーよ、あんた達がろくでもないこと考えてるとすぐバレるわよ」
 カツミが大仰に退いてみせるものだから、レミが面白がってその繊手を伸べる。ちなみに、見た目は白魚の如き繊麗な指だが、レミの握力は瞬間的に100キロ近くまで跳ね上がるので、彼女が薄笑いを浮かべて手を伸べる時に冗談でも近くに寄る者はいない。
「…レミ、脱線してるわ。…それよりどうかしたの、タカミ?」
 見かねたユキノがレミの腕に手を置いて下ろさせつつ、遅まきながら軌道修正に割って入る。だが、ふとタカミが静かに青ざめているのに気づいて声を掛ける。それに気づいたリエが、露骨に眉を顰めた。
「…何、やっぱりそう・・なの?。同じように接触したっていってもタケルに訊くのは無理そーだし、最終的にはアンタに訊くしかないとは思ってたんだけど…」
 タカミは嘔吐感をこらえるように口許を手で覆い、とりあえずゆっくりと一呼吸してから徐に口を開いた。
「正直なところ、あの時は違和感の正体がよくわからなくて…慌ててたし、数秒のことで…おまけにあんまり長いこと接触してたわけでもなかったからね。でもなんとなく繋がったよ。
 …あの人に掴まれた時、碇司令と同じ感じがしたんだ」
「つまり、それって…うわー…」
 ジオフロントで碇司令に遭遇したことのあるカツミがこれもあからさまに眉をしかめた。
 マサキは目を覆って天井を仰ぎ、レミとユキノが顔を見合わせる。
「…面倒なことになりそうだな、これは。やっぱり、碇博士に話を通さなきゃならん…」

 大学敷地内の緑地、その中で半ば木々に埋もれるようにしてひっそりと建っている建物には、「形而上生物学部 研究室」というプレートがかかっている。
 学部長の碇ユイはヴィレの重鎮であり、研究室とは言いながら…実態はヴィレの出先機関のようなものであった。
 ヴィレはゼーレの軛を離れて暴走したネルフを鎮圧するために組織されたが、目的達成後はゼーレが秘匿してきた資料を検証しつつ、人類のルーツについて調査・研究する機関に改組されている。
 それはとりもなおさず、2000年…南極におけるニア・セカンドインパクトと2015年の第3新東京危機Tokyo-3 Crisisの検証を含んでいた。
 後者については、実直に公にしにくいデータをいかに秘するかという重苦しい課題を抱えてはいたが、前者については生存者が少なくデータも散逸しているという事実がある。
 いずれにしても始祖生命体の辿ってきた途方もない道程みちのりからすればまさに直近の出来事であるにもかかわらず、検証は進んでいないというのが実情であった。
 その原因のひとつに、内紛が絶えないということがある。
 もともと、悪く言えばゼーレの反主流派とネルフ離反組の寄り合い所帯である。それにネルフ鎮圧のために取り込んだ外部勢力―例えば、現在は除名されているが日本重化学工業共同体のような―まで混ざって統制ガバナンスが確立しているとは言い難い状況ではあった。互いの腹の探り合い、足の引っ張り合いはもとより、表立ってはいないが潰し合いまで起こる始末である。
「まあそこにつけいる隙があるから…存在を明かす気にもなったんだ。正直なところ、逃げ回ってばかりというのも業腹だしな」
 高階マサキは形而上生物学部…その年季のいった建物の一室で紅茶の供応を受けていた。会議が長引いている、という自分の所為でもないのにひどく申し訳なさそうな真希波マリの説明を受けて、カヲルとともにユイを待つことにしたのだった。
 戦前から戦中にかけて、ドイツの研究所でゼーレによって行われていた…始祖生命体あるいは使徒といわれるものの研究は、空襲とも事故とも言われる謎の爆発によって頓挫を余儀なくされたことになっている。ゼーレは十四もの使徒の『コア』を長い時間と途方もない組織力で捜し出し、その解析を行っていたが、その進捗は芳しくなかったという。
 研究所はそこにいた研究者諸共、空襲で跡形もなく消え去る。『核』はその直前に潜水艦で欧州から運び出され…南極海で事故・・を起こしてそのまま氷の海に沈んだ。それが世紀末になってようやく発見されたため、サルベージに踏み切ったのだが、事故でまたも大量の死傷者を出した。
 この2000年の事件…表向きは重機の事故ということになっているが、真実は「ニア・セカンドインパクト」とでもいうべきもの。他でもない、南極海に沈めた『秘密』を守るために…眠りから覚めたヨハン=シュミット…始祖生命体アダムの現身うつせみがおこしたものだった。
 南極大陸の形を変え、莫大な死傷者を出し…我と我が身を粉々に吹き飛ばしてまで、ヨハン=シュミットが秘匿しようとした存在…それが、使徒と現生人類の融合体、ネフィリムと呼ばれる者達であった。
 ドイツでの研究において、使徒と呼ばれる生命は…実際には防御形態である『核』の状態を解除し、現生人類の子供との融合することによって活動状態に入っていた。ヨハン=シュミットはその事実を知る者のほぼ全員を空襲にこと寄せて基地ごと吹き飛ばし、証拠を隠滅した上で確保されていたのと同数の『核』の模造品フェイクを手にドイツを離れたのである。
 ヨハン=シュミットの工作により研究所からの逃亡を果たしたネフィリム達は、長い年月を経て極東の小国に逢着し、正体を隠しながらささやかに根をおろしていた。
 カヲルの目の前に居るのは、そのネフィリム達を半世紀以上に渡って護ってきた人物である。
 20代から40代まで、どうといわれても納得できそうな容貌。意識してのことかどうか…最近は白衣以外、割合と学生然とした服装でいる事が多いものだから、大学院生という触れ込みにまず違和感はない。
 今はアーネスト・ユーリィ・サーキス=高階の名で研究生としてこの学部に籍を置いているが、2年ほど前まで「高階マサキ」として第3新東京市の郊外で医院を開いていた。
 欧州で出会った高階夫妻によってこの国の生活を得た後、自身を含めて時間を止めてしまったネフィリム達を、ゼーレの追跡を警戒しながらこの国に馴染ませるべく地道に努力してきた。
 ところが第3新東京危機Tokyo-Ⅲ Crisis以降、状況は大きく変わる。
 ゼーレは崩壊し、その下部組織の筈だったネルフは碇ゲンドウの独走によって瓦解。ゼーレが危惧した破局は起きなかったが、最終的にヨハン=シュミットが隠匿し続けた『秘密』を晒さざるを得なくなったのだ。
 自分たちネフィリムはリリスを根源とする現生人類リリンとは違う。アダムと呼ばれる別の始祖生命体の系統に属する生命であることを認めたうえで、碇ユイ博士を通じて共存を申し入れたのである。
 今のところ、共存は受容されていた。情報はごく限られた範囲でしか公開されておらず、絶対的なマイノリティであるネフィリム達は、それなりに平穏な生活を享受していた。しかし、使徒と呼ばれる生命が持つ強靱な生命力や現代のテクノロジーでさえ解析不能な能力が現生人類の畏怖と欲望の対象になることは避け得ない。
 完全に拒絶すれば破局があるだけだ。しかし、大人しく実験される身の上になることを許容する理由もまた存在しない。
 そのために、ヴィレという枠組みを利用しようというのが高階マサキの結論だった。
 たとえ薄氷の上の安寧であろうと、ないよりはまし。
 世界全部を敵に回してもつまらない。だから共存するための努力はするが、なんとなれば戦うことも辞さない。
『そうなったら今度はヴィレからも姿をくらまして、またどこかで静かに暮らす。それでいい。何処であろうと、生きていこうと思えばそこが俺達の楽園エデンだ。この惑星ほしは広い。俺達を容れる場所なんて捜せばいくらでもあるさ。違うか?』
 マサキはそううそぶく。穏やかそうに見えて、α―EVA2白手すでで喧嘩することも辞さない人物だ。やるときにはやるだろう。
「さて、これだけ長引いてるところを見ると…どうやら件の襲撃はヴィレの中でも揉め事のタネにはちがいないらしいな…」
 マサキが嘆息して紅茶を一口啜った。多少濃すぎたようで、一瞬だけまなじりが険しくなる。しかし、出されたものに難癖を付けるのを憚ったか、半分ほどを飲んだ後でカップを置いた。
「旧ネルフ米国支部…だったっけ。現在の扱いはどうなってるの」
 カヲルが問うと、マサキは少し難しげな顔をして言った。
「ドイツ支部と大差ないな。ただし、ドイツ支部のようにゼーレが動かなくなったら即…というわけでもなかったと。資金に関して、さすが資本主義大国とでもいうのか…別口の資金流入があったらしくてな。懐具合がさして悪くない所為か、ヴィレに参加はしたものの資料提示にもなかなか応じないってんで碇博士がぶつくさ言ってたのは前に聞いた」
「別口の資金流入…?」
「想像つくだろう。いわゆる、軍需産業系からさ」
 またそっちか。カヲルがため息をつく。
「剣崎キョウヤのメンが割れた以上、籍を置いてたとされる支部が頬被りするわけにはいかないだろう。実際、グレース剣崎の来日展に関しても場内警備が米国支部の息がかかった警備会社に委託されてたってのは調べがついてるしな…」
 その時、車の音がした。
「ごめんなさいね、お待たせしちゃって」
 息せききって、碇ユイ博士が扉を開ける。会議で相当イライラしたのか、微妙に音が高い。
「大変ですね、碇博士。…こちらは急いでいませんので、お気遣いなく」
 マサキが苦笑しながら応じる。カヲルも軽く会釈した。
「あら、カヲル君も一緒なのね!レイちゃんは…さすがに今日はそんな場合でもないか。カヲル君、たまにはウチにも遊びにいらっしゃいよ?最近シンちゃんがお菓子に凝りはじめて、結構おやつには事欠かないから。この間のジンジャークッキーなんてなかなかよかったのよー?」
 カヲルの顔を見た途端にモードが切り替わってしまったように、ユイが上機嫌で喋りだした。
 ユイにとってレイとカヲルは実子同様であり、状況が許すなら手元に引き取りたいとさえ考えているらしい。カヲルとしてもその気持ちは嬉しいが、自分達の置かれた環境を思えば俄に首肯はしかねた。
 今の平穏が薄氷の上に成り立っている事を思えば、いつこの地を離れなければならない事態になるかもわからない。それに、場合によってはシンジやその友人達に危険が及ぶという可能性もあった。
 この街で生きていく。その決心はした。そのための心地好い距離を探しているというのがカヲル達の現在である…。
 事務仕事に戻っていたマリが、気づいて顔を覗かせる。
「あ、お疲れ様です、ユイさん」
「ただいまマリちゃん。とりあえずお茶頂戴。麦茶冷えてるー?」
「はいはい、今出しますから。その間に3件ほど決裁お願いしまーす」
 てきぱきとレターボックスの中身を点検して決裁印を捺し、決裁済ボックスへ放り込んだユイが応接テーブルへ着いたとき、丁度冷えた麦茶がコースターの上に載ったところであった。
「まったく、書類仕事ばっかり増えちゃっていやになるわね。あ、マリちゃんありがと…まあそれはこっちの話として…例の、米国支部の動きなんだけど」
 グラスの麦茶半分ほどを一気に飲み干して、ユイは表情を改めた。
「とりあえず、剣崎キョウヤの事については…連中、保護観察中の手落ちってことで言い抜けるつもりらしいわ」
「…自分のところの構成員であることについては否定しない?」
「一応ね。例の、ニア・セカンドの一件のとき現場・・で負傷して療養中だったことになってるらしいわ」
「…現場・・?」
「向こうの言い分だと、この2年程でようやく動けるようになったって話になってるわ。十年以上眠りっぱなしだったと」
 そもそも調査隊の『生存者』という話自体、実のところ本当の『現場』での生存者など今まで聞いたことがない。これまで公式発表では南極近縁の支援基地や、そこから往復途中の船舶に居た者達が辛うじて生存者とされるのみだった。
 事件後長らく封鎖区域となった『現場』での生存者など、事実上いなかった。その筈だ。
 マサキの目許が険しくなる。
「…眠りっぱなしというより…眠らせてたというのが正解では?」
 カヲルが問うた。『侵蝕』を疑われる所見があれば、当然の処置だろう。
 だが、ユイはその問いに静かに首を振った。
「そこの処はなんとも。ただ、事件は剣崎キョウヤが休職してリハビリ中、母親の来日展について行った時のあくまでも私的な行動で、米国支部は関知してはいないってのが公式おもてむきの言い分ね」
「『公式』…ね。で、剣崎キョウヤのデータは?」
 マサキが胡散臭げな表情を隠しもせずに言った。
「例によって個人情報を盾に開示を渋ってる。まあ、そこの処はこっちもあまりごり押しはしにくいんだけど、実際に誘拐未遂事件は起きたわけだし、保護観察中の手落ちで済ます気かってだいぶ噛みついてみたんだけど…あくまでもまだ療養中だって」
「…臭うなんてもんじゃありませんね」
 マサキは深く息をついた。
「うちの者が言うには、多少詰めの甘さがないでもないが、相当…SP並に鍛えていると。間違いなく、保安部とかそっち寄りの人間です。学者じゃないのは確かだ」
 ユイが頷く。
「成功すれば儲けもの、失敗すれば休職中の男が勝手に起こした事件ってことでいずれにしても口を拭うつもりでいたのは見え透いてるわね。全くイヤらしいったらありゃしないわ。
 おまけに向こうがあなたたちの情報をどれだけ掴んでいるのか、結局わからず終いときてる。でも、下手に突っつくとこっちが情報開示を迫られそうだったから、あまり突っ込めなかったのよ。今更だけど、気をつけて。
 それと、榊君、大丈夫?本当に怪我とかしなかった?」
「そこはご心配なく。あれも一応、ネフィリムですから」
 マサキは苦笑で曖昧に応じた。実際には剣崎キョウヤに腕を掴まれた際、蹴りを叩き込んで撃退したところまではよかったが、衝撃を緩衝し損ねて自分の足首を傷めたという間抜けな話が付随している。それで先程リエの雷を喰らう次第と相成った訳だが、碇博士の耳に入れなければいけないレベルのものではないし、ここは一応、タカミの名誉を尊重してやるべきだろう…という判断である。
「そう、よかったわ。…それとね、高階さん。前からちょっと気になってたんだけど」
 そこでユイが俄に声を低めるものだから、マサキが僅かに緊張する。
「彼、リッちゃんとのことは…少しぐらい進んでるのかしら?」
 マサキがまともに噎せ込み、カヲルは笑い出した。

「レイ、図録なんか買ってたの」
 夜になってからのことである。夕食後にレイがリビングで広げている本を見て、カヲルは軽く驚きを覚えていた。
「あ、うん。あんなことがあった後だったんだけど、『なるべく自然に撤収』って猫さんにも言われたし、ミュージアムショップで少し時間潰したでしょ?…その時になんとなく。そんなものすごい値段でもなかったし…その、作品自体はとっても綺麗だったから」
「うん、そうだね…」
 この場合の猫さんとはまぎれもなくイロウルの義体のことである。実際に走り出すまでぬいぐるみと信じて疑っていなかったレイは、腰を抜かすほど吃驚したらしい。
 カヲルとしては中身・・を知っているだけにレイほど無邪気に可愛さを感じることは出来なかったが、よく出来た玩具おもちゃには違いないだろう。躯体そのものは市販のコンパニオンロボットだが、タカミがイロウルの活動を可能にするマシンスペックを付与するためにいろいろと改造をしているらしい。ドライブレコーダーもそのうちの一つだ。今やうっかり公安警察あたりの手に落ちると間違いなくスパイ容疑で後ろに手が回るシロモノ…とは、改造者本人の弁である。
 それほど頁数の多いものでもないので、カヲルはそのまま何の気なしに一緒になって眺めていたが…件の天使像の頁を開いた時、不意にレイがはたと手をった。
「やっぱりそうだ」
「どうしたの、レイちゃん?」
 レイが大きな声をあげたものだから、丁度洗い物を済ませたタカミまでが覗き込む。
「この天使像、やっぱりカヲルに似てる。だからあのおばあさん、カヲルに『天使さん』って言ったんだ。似た人を知ってるのかな?」
「似てる…かな?」
 言われたものの、全面肯定もしかねてカヲルは首を傾げ…改めて図録に掲載された写真を眺めた。似ている、という材料もないが、否定するほどの材料もない。強いて言えば、自分はこんなに穏やかに笑えないなと思ったくらいだ。それにこの天使、今の自分よりもすこし年嵩なのではないか。
 自分渚カヲルに似ていて、年齢が上で、穏やかな微笑が板についている…。
「…むしろ、タカミだよね、この顔」
「あ、そういえばそうかな。うん」
「いや、ちょっと待って。これ、どう見ても女性だよね!?」
「服がふわふわしてるからそこんとこはよくわかんないし…大体、宗教画とかの天使って性別ないって聞いたような」
「…百歩譲ってそこは眼を瞑るとしても…似てるかなぁ?」
 真剣に考え込むタカミを見て思わず笑いかけたカヲルの表情が、不意に凍る。だが、それを一瞬でかき消した。
「さて、なんだかいろいろ疲れちゃったね。今日は早くやすもう、レイ?」
「うん、そうだね」
 レイが図録を閉じて立ち上がり、歯磨きをしに洗面所へ立つ。
「タカミも早く休みなよ? 足、冷やしといた方がいいんじゃない? まだ少し、歩き方が変だよ」
「ありがと、カヲル君。一応、準備はしてるよ。…それより、どうかした?」
「何でもないよ。おやすみ」
 タカミはなにやらものいいたげではあったが、レイの手前を慮ったかそれ以上詮索することなく…苦笑だけ残して自室へ引き取った。
 リビングの灯りを落とし、カヲルは薄闇の中でキャビネットのガラスに映る自分の姿を見た。
 似ているというなら、可能性はもうひとつ残っている。2000年の南極で砕け散ったアダムの現身うつせみ。『渚カヲル』が生まれる前に、アダムであった存在。

 ――――ヨハン=シュミット大尉。

  1. 香箱…猫が前足を折りたたんで座る様子の形容。
  2. α―EVA…17th-cellから生成したダミーに装甲を着せてダミーシステムで制御する兵器。