Conflict―葛藤―

Tea Break Ⅱ

 レイは、ユカリ特製チョコレートブラウニーの大皿を前にしても、にわかに喉を通りそうな気はしなかった。
「ごめんね、ユカリちゃん。こんなに美味しそうなのに…」
「いいのよ、レイちゃんは何も悪くない!」
 見た目10歳のユカリが、涙目になっているレイ―一応高校生―の頭を撫でているという構図は…状況を知らなければどうひっくり返しても滑稽である。しかし、ユカリとしては至極真面目であった。
 しかも、怒っていた。
「全く、カヲルったら…あれほど『離しちゃ駄目』って言っといたのに。何一人で背負しょい込んでるのかしら。困ったもんだわね。帰ってきたら叱っとかなきゃ」
「カヲルもね、きっと悩んでるんだと思う…」
 ともすれば零れそうになる涙を拭きながら、レイが呟く。
「自分がしたことだから、自分で決着つけなきゃって…一所懸命頑張ってるの」
 ユカリは嘆息する。
「そこんとこはね、私もわかってるつもり…。私が怒ってるのはね、どうしてそれをレイちゃんと一緒に頑張ろうとしないのってコト! 大事にしてくれるのは嬉しいけど、苦しいことは苦しいってちゃんと言って貰えないって、実は周りとしてはすごくツラいのよね」
 仁王立ちで腕組みしても、然程に威圧的な絵柄にはなり得ないのだが…
 その時、リビングのテラス窓がカタリと鳴った。一瞬、風が吹いたのかという程度のささやかな音。もともと、テラスからの風を入れるために半開きにはしていたのだ。
 だが、テラス窓の外に忽然と立っていたのは風ではなかった。レイが立ち上がる。
 出て行ったのは今朝の話だ。それなのに、この数日間何処かを放浪していたかというほど面やつれしたカヲルの様子に、ユカリは思わず叱言を呑み込む。
「おかえり、カヲル」
 レイがにっこり笑って、カットされたブラウニーをひとつ口に放り込んだ。
「美味しーよ?カヲルも食べる?」
「うん、ありがとう…」
 些か弱々しくはあったが、カヲルは微笑んだ。
「おかえりなさい。…そんなところに突っ立ってないで、入ってらっしゃいな。ココア?お茶?それともエスプレッソ?」
 叱言は引っ込めても腕組み仁王立ちのままのユカリが問うた。
「ただいま。…じゃあ、お茶を貰える?」
 カヲルの「ただいま」を聞いてユカリが相好を崩す。入ってきてレイの傍らに座ったカヲルの頭をひとしきり撫でてから、くるりと身を翻した。
「ん、よく言えました。じゃ、ちょっと待っててね」
 そう言って、厨房へ引っ込む。
 カヲルは暫く、ただ、せっせとブラウニーを頬張るレイにすこし肩を寄せるようにして座っていた。
「カヲル、すこし…潮の匂いがするよ?」
「うん…」
「ちょっとは…整理ついた?」
「整理は…ついてないと思うな。でも、しなきゃいけないことは理解った…と、思う」
「よかった」
「ごめんね、レイ」
「どうして?」
「だって、レイ…泣いた痕がある」
 慌てて眼を擦り、巧い言い訳を思いつけなくて、レイはもう一つブラウニーを頬張った。
「…うん」
 カヲルがそっと水色がかった銀の髪に自らの額を寄せる。レイは暫く考えて、カヲルの髪をそっと撫でた。
「…行ってこなきゃならないところがあるんだ。レイ…ついてきてくれる?」
「え…」
「ちゃんと話してこなきゃならないんだ。…レイにも、一緒に聞いてて欲しいから」
 レイの顔がぱっと明るくなる。
「うん!」
「じゃあ、お茶これと…ブラウニー一個くらいは食べていくのよ?」
 戻ってきたユカリが、カヲルの前に淹れ立ての香気を放つティーカップを置きながら言った。

 厨房には水音と一緒に軽快なハミングが流れている。
 残ったブラウニーをケーキカバーにおさめて、ユカリが洗い物をしていると…イサナが現れた。
「…姫さんはどうした?リビングにいたと思ったが」
「レイちゃんなら、さっきカヲルが迎えに来たわよ。なんだか、行かなきゃならないとこがあるんですって」
「何だ、戻ったのか…と、今度は姫さんが同道か?」
「そ。大丈夫じゃないの?別に荒事になったりしないんでしょ」
「まあ、それはそうだろうが…カヲルには訊かなきゃならんこともあったんだがな。…ところでユカリ、莫迦に機嫌がいいようだが」
「ん? 別にー? 素直ないい子は大好きってコト」
 イサナは一瞬だけ怪訝な顔をしたが、詮索をさらりと放棄したようだった。
「…まあいい。こっちもそろそろ始めるぞ」
 水栓を閉め、タオルで両手を拭いながら…ユカリが少し悪戯っぽい微笑で振り返る。
「Okey…」

 人類を守る組織。
 剣崎キョウヤはそんな文言を、頭から信じていた訳ではない。
 ただ、父が何をしているのかを知ろうと思った。母はとうの昔にそれを諦め、ただ待つことにも倦んで自身の世界に専心していった。…その母を責めようとは思わない。むしろ、進路について消極的肯定をくれたことには、感謝さえしていた。
 南極で何が起きたのか。そんなことは自分が知りたい。
 死んだと思った。襤褸ぼろ布のようになって倒れ伏した父と同じように。海へ放り出された救命艇から見た、空一杯に広がってゆく光の翼は、紛れもなくこの世の終わりの光景と見えた。
 あの熾天使セラフィムの姿も、極限状態の幻でしかないといえば納得してしまったかも知れない。
 この、残された傷痕を見ることがなければ。
 悪い冗談のような時間経過を知らなければ。
 意識を回復してから――いや、おそらくは憶えていないだけでそれよりも前から――朝から晩までうんざりするような検査、テストの繰り返し。顕在意識に上るものだけでは解析困難として、催眠療法のようなものを受けさせられたりもした。
 その結果、あの熾天使は現実に存在した、という結論が出た。脳が生きて活動を続ければ不可避な記憶の置き換え、再構成を排しても、あそこには〝何か〟がいた、というのである。
 その〝何か〟との接触…あわよくば確保を期待されて、自分は泳がされたのだ。
 イメージの中の、あの現実離れした姿ではなく…もっと当たり前に、何処にでもいる何者かの姿でいる、という上層部の前提が既に理解し難いものであったが、そこは『命令』である。
 『命令』には従わねばならない。
 それがいかに理不尽なものであっても、命令には従う。そう教育された。
 しかし現実に…何の変哲もない休日、美術館の雑踏でそれに出会おうとは…思ってもみなかった。長い間悩まされた幻影が、ひどく悠暢のんびりと…身内らしい少女を連れてカフェにいる。こんな不条理はそうないだろう。
 ある意味、今回の命令より余程理不尽なものを見せつけられた気がした。
 だから、確保命令より先に動いてしまった。これは現実か。夢か。視覚など欺されやすいものだ。確保するまで判るものか。
 自分の手は確かにその幻を捉えたのだ。そしてその返礼は轟音でも閃光でもなかった。
 ――――現実だ。
 そのことに驚愕した所為とはいうまい。だが、結果として確保には失敗し、記録を取るために付けていたウエアラブルカメラも役に立たなかった。物理的に壊された訳ではない。撮影内容を送信するためのデバイスを逆用され、データを洗いざらい抹消されてしまったのだ。
 当然ながら上層部うえの機嫌は決して良くはなかったが、確かにいた、という感触については一応評価したらしかった。皮肉にも、データを消されたウエアラブルカメラがその証左となった。2年前ゼーレを無力化した〝何者か〟と同一の手腕であると判断されたのだ。
 ただ、確保命令よりも先に行動してしまったことは譴責の対象となった。よって謹慎。ようやく検査漬け、することと言えばトレーニングだけという日々から解放され、実務に戻れると思った矢先にこれである。
 『謹慎』であるからには本来は自宅内に居なければならなかったのだろうが、部屋に閉じこもっているとまたあの幻に悩まされそうな気がして、家を出た。
 昔はこの辺りに住んでいた筈だが、今や完全な異邦である。見知った者がいるわけでもない。いたとしても、自分が「剣崎キョウヤ」だとはわからないのではないか。
 ただそれでも、サングラスはかけたままだ。変装めいた意図はない。怪我から回復したあと、強烈な太陽光線にやや耐性が低くなったものか…戸外をひどく眩しく感じるようになってしまい、ほぼ常用していた所為でもある。
 夕刻の街をそぞろ歩いていて、ふと大学の通用門近くにさしかかったことに気づく。父親は一時ここに在籍していたと聞くが、自分自身は足を踏み入れたことはなかった。
 そこにまた、〝幻〟がいた。
 やはり学生然とした格好で、僅かに足を引きずっている。
 自分の感覚が信じられなくて、少し近づいた。
 向こうが気づいているのかいないのか…その時、〝幻〟は通りかかった女性に声を掛けられて立ち止まり、話し始めた。あの時の、人外じみたふうは欠片もない。ただ穏やかなキャンパスの風景の中に溶け込んでいる。自分がとんだ人違いをしているのではないかと思うほどに。その時になってふと、今接触するわけにはいかないということに思い至って…可能な限り自然を装ってその場を離れた。
 どうかしている。
 今は任務外だ。接触するわけに行かない。そんなことさえひととき意識から外れてしまうほど、あの幻は強烈だったということか。
 自分自身を律しきれないことに悔しさを感じながら、その場から遠ざかる。何か逃げているような気がして業腹ではあったが、このうえ、悶着をおこすことは出来ない。
 それほど急ぎ足で歩いていた自覚はなかった。むしろ、そんなことをすれば人目を惹いてしまう。それなのに…不意に目の前に現れた少女を避け損ね、派手にぶつかった。
 小さな悲鳴を上げて、少女は転んでしまう。持っていたショッピングバッグから、いくつかの食材が転がり出た。
「ああ、すまない。大丈夫か?」
 尻餅をついてしまった少女に手を伸べる。ストレートの黒髪を肩の辺りで切り揃えた、どんぐりまなこの少女。小学校の高学年くらいか。ひどく吃驚したらしく、座り込んだまま呆然とキョウヤを見ていたが、おずおずと差し出された手を取った。
「怪我はないか?少し、考え事をしていてね。悪かった」
「うん、ありがとう…大丈夫だよ。こっちこそごめんね?」
 少女を立たせて、膝の土を払ってやる。少女はそれを実に不思議そうに見ていたが、はっと気がついたようにバッグから零れ落ちた食材を拾い始めた。林檎がすこし離れたところまで転がっていたのに気づいて、キョウヤはそれを取りに立ち上がろうとした。
「…え、ちょっとまって!?」
 少女の声に顔を上げたとき、視界の隅に光るものを認めた。…訓練で何度も見た。あれは、狙撃銃のスコープの反射光だ。
 何故、とも、誰が、とも、考えられなかった。誰かが狙撃銃で狙っている。そのことだけが明らかだ。だとしたら、自分が取るべき行動はただ一つだった。
「…伏せろ!」
 キョウヤが棒立ちの少女に覆い被さる。その時、澄んだ音とともに視界の隅で橙赤色の光がはね、銃弾が砕け散るのが見えた。
 遅れて、乾いた音。街の喧騒に紛れてしまったが、それは紛うことなき銃声であった。着弾より銃声が後ということは、かなり遠くから狙っている。
「こっちへ!」
 狙撃手の姿を視認することは出来なかったが、スコープの反射光が見えた方角、着弾から銃声までの時間から、狙撃ポイントは概ね予測できる。座り込んだ少女を半ば引き摺るようにして死角へ引き込み、自身も姿を隠して様子を窺った。
 しかし第2射はなく、物陰から窺った狙撃ポイントと思われる場所に人影を見つけることはできなかった。第1射を外した段階で早々に撤退したのか? それとも、誰でも良かったのか?
「怪我はないか?」
 腰を抜かしてしまったかのように座り込んでいる少女に訊ねる。
「あ、うん、ありがとう…」
 銃声はこの少女にも聞こえた筈だ。しかし、叫ぶことも泣くこともせずただじっとハシバミ色の大きな目をさらに見開いて、キョウヤをじっと凝視みつめていた。
 年齢にしてはひどく落ち着いた感じはあるが、この少女が狙撃の対象となったとは考えにくい。では、誰か。そう考えたとき、キョウヤは即座に立ち上がっていた。誰の仕業で、何の意図を持っての狙撃かもわからないし、銃弾をはじいたあの橙赤色の光がなんであるのかもわからない。ただ、狙われたのが自分なら、この子を巻き込むことはできない。
「あ、待って!」
 少女が思いのほか強い力でキョウヤの袖を掴む。
「今出てったらあぶないよ。こっちに来て?」

「あ、なに、ユカリってば何考えてんの! そんなに慌てなくたって本気で当てるわけないでしょー!」
 照準器から眼をはなして、ミスズが声を高くする。
「ふーん、やっぱり物理防御できるんだ。こりゃ真物ホンモノかなぁ」
 殆ど同時に望遠つきのカメラを下ろしたナオキが呟いた。
「ユカリが弾いた可能性は? ユカリは知らなかったんじゃないのか、あれが弱装弾って」
 ユカリがキョウヤをつれたまま移動を始めたので、ユウキは再度観測を開始しながら言った。
「ユカリの盾が発動したんならもうチョイ綺麗に弾くんじゃない? ま、弾くってゆーよりあの程度の弾丸、一瞬で蒸発するだろ」
「この距離でこんな弾当たったって死にゃしないのにー。そんなにこっち警戒しまくって動いたら射線通りにくいじゃない。本番・・って時にどーするのよぅ…
 えーとナオキ、移動?」
 レミントンM700を抱えながらミスズが問う。ナオキがいましがた望遠で撮った動画を確認してから、カメラをケースに戻した。
「とりあえず第1段階終了っと…あぁミスズ、多分移動になるからとりあえずその物騒なモノレミントンはしまっといて。ユウキ、第2段階…どーやらありそうだろ?」
 ビルの壁に背を凭せかけたままの半眼で、ユウキが応えた。
「そのようだ。つられて動き始めている。複数いるな。この街中で、しかも移動する標的では…射線が通らなかったときのことを考えたら、応援を頼んだ方がいいかもしれない」
「ま、そうなるわな。サキに連絡いれてみるわ。ユウキ、トレース継続な」
「了解だ」

「あー。やっぱりリエ姉の転移って目が回る…」
「文句言わずに慣れなさい。さもなきゃ自分でやるのね」
 額をなで回すタカヒロに、リエがピシャリと言い放つ。
「…無理」
 リエは動きやすく暗めの色の上下に身をかため、漆黒の髪を結い上げて布に包んでいた。タカヒロの方も同じような格好で、こちらはチャコールグレーのキャップを鍔を後ろにして被っている。
 二人がいるのはトレーラーの中である。広大な砂漠の中の一本道をひた走るトレーラーの運転席でハンドルを握っているのは何処にでも居る運送業者、といった風体のタケルであった。…こちらは実直に、造る必要がないが。
 背中に伝わった微かな振動に、タカヒロがバックパックからタブレットを取り出す。
「あ、画像きた。…へー、ちゃんと物理防御してんじゃん。こりゃほぼキマリじゃね? …てか、タカミより余程上手だな。結構鍛えてるみたいだし、ウチでスカウトしよっか」
【聞こえてるよ、タカヒロ?】
 ヘッドセットから聞こえる、微妙に気分をそこねたふうなタカミの声に、タカヒロがケラケラと笑う。
「や、聞こえるように言ったけど?」
【僕だって物理防御ぐらいはできるんだけどね】
「タカミの場合、できるっつったって無茶苦茶状況限られてんじゃん。あの姐さん護る時くらいしか発動しないんだろ。偶発的要素が多すぎて使えねえってイサナがぼやいてたぞ」
【…容赦ないですね、イサナ】
【客観的事実だから仕方あるまい。それに今回、実直にその足でうろうろできんだろう。全く、力加減の大雑把な奴だ】
 すぐ傍にいるらしく、いつもの冷然としたイサナの声がやや遠いがはっきりとヘッドセットにも入ってきて、タカヒロは苦笑いする。俺だってそこまで言ってねェけどな。
「はいそこ、追い討ちかけてんじゃないの。大体そんなの、今に始まったことじゃないでしょ。タカミはタカミの仕事して頂戴。あんたがバックアップに回るっていうから、私も動けるんだから」
 リエが割って入る。
【…怒られてるんだか貶されてるんだか、当てにされてるんだかわかんないんですけど】
「あら、貶してるように聞こえた? そりゃ悪かったわね。これでも今回、アンタには一応期待してるのよ。さすがに腐っても旧ネルフの支部だしね。砂漠のど真ん中、他に何もないって立地は目的考えりゃ当然だけど、ただこっそり潜り込ませてもらえるようなトコじゃないわ。お蔭で下準備が手間だったらありゃしない。バックアップが居ると居ないとで随分違うんだから」
【そりゃ…鍵あけて、リエさん達が仕事する間攪乱するぐらいのことはできますけど…】
「しかも遠隔リモートでね。そんなん頼めるの、アンタぐらいしかいないんだから。しゃっきりなさい。今回、アンタがサキに真っ正面から意見したってんで一応見直したのよ?これでも」
【えーと、意見したというか…まあそうなるんでしょうか】
「皆が同じコト出来る必要なんかないのよ。タカミはタカミに出来ることやってくれればいいじゃない。別に首から下がからっきし使えなくたって、アンタは他の誰にも出来ないことができるんだから!」
 ごん、という鈍い音がヘッドセットを打って、リエが不思議そうな、タカヒロがいっそいたましげな顔をする。イサナがぼそりと呟いたのがヘッドセット越しに伝わる。
【俺はさすがにそこまで言ってないがな…】

 第3新東京市中心部、オフィスビルの立ち並ぶ一郭。マンションの一室に、「女教皇ハイ・プリーステス」の玉座がある。十数台のワークステーションに傅かれたハイバックチェア…そこには今、彼女の代わりにタカミがいた。
 ただしヘッドセットを付けたまま、ワークステーションの前で突っ伏していたが。
「俺はさすがにそこまで言ってないがな…」
 壁に身を預けたままイサナがそう呟いた時、イサナのポケットの中で携帯が鳴動した。メールの着信だったようだ。
「…さて、後は任せる。どうやら網にかかったようだからな」
 メールを確認すると、イサナがあっさりと部屋を後にする。ドアの閉まる音がした頃、突っ伏していたタカミがなかば唸りながら、拳を固めた。
「あーもう、いいですよ。僕だってある程度自覚はしてますってば!」
 やおら身を起こすと、背筋を伸ばして次々と複数のキーボードを手前に引き寄せる。
「エンジン全開でいきますからね。米国支部のセキュリティなんか60秒で沈黙させてやる」
【よく言った! でも、建物破壊するんじゃないわよ?大事な捜し物が、壊れはしないにしても瓦礫に埋まっちゃったら探すのが面倒だわ】
 平然と、リエが言い放った。
了解Sure!」
 抑え気味な照明の下で、常は穏やかな緑瞳が炯々たる光を放つ。燐光ルミネセンス1めいたそれを、ワークステーションの躯体が載った棚の上から興味深そうに見ているのは、キジ猫のふりをしたイロウルである。相変わらず香箱座りだ。猫の所作と言えば実はこれしか知らないのかもしれない。
【熱くなるのはいいが、確実に攻性防壁が仕込まれてるぞ。そっちの準備は出来てるのか。下手に同期すると、痛い目にあうのは目に見えているが】
「君が僕の心配をするのかい? お気遣いどうも有り難う。食いつかれそうになったら遠慮なくA.I.を身代わりに使わせて貰うよ。
 ま、大丈夫さ。君と喧嘩するコトを思えば米国支部の防壁なんか暖簾のれんとおんなじだから。そもそも、あそこのシステムってMAGI-TYPEのさらにそのまたマイナーチェンジじゃないか。いくら鍵付け替えたって今更どうにもなるもんか」
【うわぁ、タカミってばまた完全にモード切り替わってるよ。怖ぇ…】
【立ち直ってくれたようで結構なことだわ。…じゃ、そろそろね。作戦開始Operation start!】

 時々立ち止まって、大きなハシバミ色の両眼で暮色を深めていく空を見上げながら、ふと道を変える。もはや、キョウヤはこの少女が先刻の狙撃者を識っていることについて疑っていなかった。
「…やっぱりお店に戻るしかなさそーね…そーなると…うーん…」
 肩の辺りで切り揃えた、ストレートの黒髪がきびきびとした歩調に合わせて揺れている。小学校高学年くらいと見えたが、実は身体が小柄なだけでもう少し年齢がいっているのかもしれない。そんな落ち着き方だった。大体、小学生の女児が銃声に驚かないというのが既にして十分奇異ではある。
 その時になって、ようやく気づく。この少女だ。美術館で見た〝幻〟と一緒に居た…!
「待て、君は…」
「え、えーと…ごめん、もうちょっとだけ、このままついてきてくれる? 私、あなたのことあんまり悪い人に思えないんだ。ちゃんと話せば皆わかってくれると思うから。ね、剣崎…キョウヤさん?」
 真剣な眼差しでひたとみつめられ、先方がこちらをフルネームで識っていることを訝しむことすら一瞬忘れていた。
「こっちだよ」
 それほど交通量の多くない交差点の向こう。背後に高層マンションが建っているために、やけにこぢんまりして見える2階建ての建物がある。赤レンガ調のタイルで覆われた外壁に、蔦が青々とした色彩を添えており、あまり広くはないがテラスもついている。アンティーク調のガーデンライトでささやかにライティングされているのが、落ち着いた雰囲気を醸していた。だが、テラスに立っている男に気づいて、少女は一瞬立ち止まった。
 長身痩躯、濡れたような光沢を放つ黒髪は肩を少し越える程の長さがあるが、髪質の所為か然程煩げにも見えない。自分より少し年嵩と見えた。
「あ、あのねイサナ、この人…」
 イサナというのがこの男の名前なのだろう。少女が必死に説明を試みるのだが、先方はあまり聞く耳を持たないふうではあった。
「ユカリ、ここまでだ。お前も退け」
「ねえ待って、この人、そんな悪い人じゃないよ。ちゃんと訊いたら答えてくれると思う…」
「その男が何か憶えていれば、の話だろう」
「そっ…それはそうなんだけど…」
 男の冷然とした物言いに少女がたじたじとなって俯く。状況はわからないが無性に腹が立って、キョウヤは一歩前に出た。
「お前も俺を識っているらしいな。何が目的だ」
 少女の制止を振り切り、交差点を渡ってそのテラスへ近づこうとしたとき、すぐ傍にあった街灯のポールで銃弾が跳ねる。銃声はなかった。
 今度という今度は、少女が小さな悲鳴を上げたのが聞こえた。
 先程よりもかなり近いが、目の前の男ではない。銃どころか寸鉄も身に帯びている様子はなかった。だが、顔色一つかえるでなく、キョウヤを見据えたまま言い放つ。
「命が惜しければそこから動くな。すぐに終わる」
「…っ!」
 この状況でけるか。かっとなって目の前に立っている男に掴みかかる。
「動くなと言うのに」
 拳も蹴りも簡単にいなされた。ほとんどフットワークのみで、片手すら使わずに躱されていることにさえ気づけずにいたのは、おそらく頭に血が上っていた所為だろう。訳のわからない状況に苛立っていたことも手伝っていただろうが。
 その時、濁った短い悲鳴がした。少女のものではない。遅れて、銃声。続いて何かが上から降ってきた。歩道の石畳に当たってはね、縁石にぶつかってバラバラになる。それは、間違いなく拳銃だった。消音器らしい残骸を付けている。
 はっとして上を見ると、その交差点を見下ろせるビルの屋上から、ダークスーツの俯せた上半身が覗いていた。腰高のフェンスに俯せたまま動かないように見えたが、ずるずると前のめりになり…落ちてきた。
 鈍い音を立てて石畳に叩きつけられたダークスーツが、同僚のひとりであることに気づいてキョウヤは愕然とする。
「何だ…一体…何が…?」
 自分が同僚から見張られていた。そのことは疑いようもなかった。薄々気づいてはいたが、まさか消音器つきの銃を携行しているとは。用途は明白であった。
「終わりか?」
 画の前の黒髪の男の声に、弾かれたように顔を上げる。男は真っ直ぐキョウヤを見据えていたが、キョウヤに向かって話したのではなかった。耳に掛けるタイプの小型のヘッドセットを装着していたのだ。
Well doneよくやった…」
 そう言って通話を切る。
「一体何なんだ。何が起こってる! お前ら、何を知ってる…!?」
 声が掠れるのを止めることはできなかった。再び男に掴みかかろうとして、今度は腕を取られる。一瞬で身体が宙へ飛ばされ、テラスのレンガ調タイルに叩きつけられた。
 受け身が取れなければ、一瞬呼吸が停まっていただろう。跳ね起きて構えを取ったとき、男は無形2のままではあったが、呟いた言葉には微かに苛立ちに似たものが含まれていた。
「…人の話を聞かん奴だ」
「やだ、イサナってばやめよーよ、キョウヤさんもちょっとおちついて!」
 ユカリと呼ばれた少女が割って入ろうとして…誰かに止められたようだった。だが、キョウヤも状況にいらついて冷静さを失っている。
 丸腰で勝てる相手ではない。その程度の判断はできた。逮捕ないし制圧。そういう相手でもないのはわかっている。ただ抑圧してきた感情の捌け口が欲しいだけなのだ。頭のどこかでそれを解っていながら抑制を放棄している自分がいた。
「俺にどうしろって言うんだ!」
 キョウヤが地を蹴る。ついに目の前の男に拳が届くと思えた瞬間、直上から凄まじい圧力でテラスに叩きつけられた。
 突如として頭上に凄まじい量の水が降ってきて、キョウヤを叩き伏せたのである。

「――そこまで!」

  1. 燐光…物質が外部から光・熱・紫外線・X線などのエネルギーを吸収して励起され、基底状態に戻るときに、熱を伴わずに発光する現象。また、その光。光の減衰時間が短い蛍光と長い燐光に分けられる。冷光。
  2. 無形(むぎょう)の位(くらい)…両手を下げたままの構え。