misrepresented: 意図している意味を変えること、または誤って伝達するさま。
『剣崎』と表札のあるその瀟洒な別荘…その重厚な門扉の前に、カヲルは立っていた。その隣に、レイが寄り添う。
住所を調べるのは然程骨の折れることでもなかった。小規模ながらギャラリーと、仕事場を兼ねていたからだ。
カヲルが意を決したようにインターフォンに手を掛ける数分前にも、美術商と見える一組が出て行った。そのうちの何人かは明らかに二人の方を見、少しだけ怪訝な顔をしてそのまま通り過ぎた…。
インターフォンには女性の声が出た。まだ若い…あの老婦人ではないようだった。
「…渚カヲルといいます。剣崎さんにお会いできますか」
門扉の横にはカメラもついている。その位置はすぐに解ったが、その方へ向き直るのも憚られて…真っ直ぐに精緻なブロンズ造りの門扉と、その向こうの庭園を見ていた。
がっちりとした幾何学的構成というより、至ってイギリス的な自然風景式庭園だ。ギャラリーも兼ねているのか、緑の中に溶け込むようにしていくつかのオブジェが建っているのがここからも見える。
【どうぞ、お入りくださいとのことです】
かちり、と音がして門扉の鍵が開き、するすると門扉がスライドした。造りこそ優雅だが、その中身は相応のセキュリティが準備されていると見える。
「ありがとうございます」
二人がそこを通ると、門扉は再び閉まった。その空間の雰囲気を壊さない為か、至って動作が静かである。
両脇に原種のバラを配した小径を歩いていると、向こうから途中にある温室――おそらくはギャラリーとして使われている――から、作業用と思しきデニムのエプロンを外しながら彼女が出てきた。
「来てくれたのね、天使さん」
そう言って、穏やかに微笑む。
「こんな格好でごめんなさいね。皆に手伝って貰ってギャラリーの模様替えをしていたものだから。…またお目にかかれて嬉しいわ」
その人は間違いなく普通の現生人類なのに、時間と隔絶された世界の住人のように見えた。
「あなたは、僕が何者であるかご存じなのですか?」
覚悟は決めてきた。だから、一切の前置きもなしに直截に問う。
老婦人はすこし困ったように、しかし微笑みを残したまま言った。
「そうね、すべてではないと思うわ。でも多分、あなたがキョウヤをたすけてくれたのでしょう、天使さん?」
「…申し訳ないが、その天使というのはやめていただけると幸いです。…僕は、神様の使いなんかじゃない」
「あら、ごめんなさい。気に障ったら赦して欲しいのだけれど。あなたをなんてお呼びしたらよいかわからなくて」
老婦人の真摯な謝罪に、却ってカヲルは困惑する。そうだ、自分は何と名乗れば良いのだろうか。
始祖生命体アダム。ヨハン=シュミット。それから…。
「僕は、カヲル。渚カヲルといいます」
門扉の処できちんと名乗ったにもかかわらず、早くも決心がぐらついているのに気づいて、カヲルは繋いだ手を握りしめる。
レイが何も言わずに、その手を握り返す。
「では、カヲルさんとお呼びしてもいいかしら?
繰り返しになってしまうけれど…カヲルさん。私は、あなたが南極で死にかけていたキョウヤをたすけてくれたひとだと…思ったの。あなたが何者であったとしても、私にとってはそれで十分。難しいことは、私にはわからないから。
主人が追っていた世界は、私の理解の外だった」
少し寂しそうな微笑を振り払って、彼女は二人を小径の向こうにある石造りの四阿に誘った。
「時間としては少し遅くなってしまったけど、お茶にしませんか? 今、スミレさんが持ってきてくれますから。私がまちがっていなかったどうか…その答えは、お茶の後で結構ですわ」
バケツ一杯、というレベルではない。ビルの受水槽一杯分程度はゆうにあった。テラスは水浸しになったが、この一郭だけのことなので程なく水は排水溝へ流れていく。
「そこまでだ、イサナ。お前まで何を熱くなってんだ?」
テラスから2階へあがる外階段を降りてきたのは、マサキであった。
「俺は冷静なつもりだがな。先方がやたらと過熱するから多少イラつきはしたが」
キョウヤを叩き伏せた水は当然、近接していたイサナにも降り注いだ。濡れそぼつ前髪を掻き上げて、イサナが苦言を呈する。
「猫の喧嘩を仲裁するんじゃあるまいし、これはなかろう?」
「済まん、他に穏便な手段を思いつかなかっただけだ。お前にしてはえらく殺気立ってたように見えたから、下手に割って入って怪我してもつまらんと思ってな」
「サキってば、これの何処が穏便なのよー!」
寸前でナオキに止められていたユカリがキョウヤに駆け寄る。
「大丈夫?どっか傷めてない?」
頭を振りながら起き上がったキョウヤの傍に膝をついたとき、ユカリが呼吸を呑んだ。
濡れて張り付いたシャツの下…胸の辺りに、鈍く紅く光る何かがあった。
「…っ…これ…」
間違いなく『核』だ。殆どは身体の中に埋まり、表面の僅かな部分のみが胸骨辺りに露出しているのだった。表面に出ている部分の曲面から推察して、サイズ感としては拳よりもやや大きいだろう。
凍り付いてしまったユカリを見て、キョウヤは唇を噛みしめ、その部分を隠すように濡れたシャツを握った。
テラスの石畳に座り込んだままのキョウヤの前に立って、マサキが手を伸べる。
「碇ユイ博士の形而上生物学研究室で研究生をやってる、アーネスト・高階だ。剣崎キョウヤ、で間違いないな?」
キョウヤは伸べられた手を取ることもなく、はっとしたようにマサキを見た。「高階」「碇」という名前に記憶を刺激されたらしい。
「手荒くなったことについては謝ろう。非常事態でな。君の身柄は碇ユイ博士の管轄下で保護される。一緒に来て貰えるか」
「…俺は…!」
「君のこの数日の行動について、旧ネルフ米国支部は『精神汚染事例』として君の〝処置〟に動いている。下手に戻ると拘束されるぞ」
「それを信じろというのか!?」
「証拠ならとりあえずそこに転がっている。実は別に生け捕りにした奴もいるから…そいつから説明させてもいいが、電撃くらってまだ喋れる状況じゃない」
砕けた消音銃と、かつての同僚の変わり果てた姿を示されて、キョウヤは沈黙した。
「着替え、ここに置くね? サイズがちょっと微妙かもしれないけど、とりあえず洗濯できるまでだから。濡れた服はこっちの籠にいれておいて」
立ち廻りを演じていたのが、ベーカリーショップの店先であったことに気づいたのは…ユカリと呼ばれた少女がキョウヤを勝手口からベーカリーショップのバックヤード、更にその奥にある浴室に案内する途中に漂ってきた馥郁たる焼きたてパンの匂いの所為である。
一階と二階にそれぞれ店舗スペースがあるが、二階はカフェ、一階はベーカリーショップになっているようだった。一階部分のすこし引っ込んだところ…奥の方にはささやかながら居住スペースがあった。本来は店舗兼住宅、というところなのだろう。
「欺したみたいになって本当にごめんなさいね。でも、本当にあなたに怪我させたりするつもりはなかったの。ええと、ちょっと落ち着いて…ちゃんとお話聞いて貰えると嬉しいな。
私、厨房にいるから…後から迎えに来るね」
少女が懸命に言葉をえらんでいるのがわかる。
置かれた状況がまだ確とは解らない事に対する苛立ちが解消したわけではないが、かといって小学生くらいの子供に凄んでみせるのも大人気ない。
「…ああ、わかった。出たら、声をかける。それでいいんだろう」
「ありがと」
少女がにっこり笑って、扉を閉めた。
軽快な足音が遠ざかるのを聞いて、濡れたシャツを脱ぐ。胸部に埋没する紅玉。それは、長く大きな傷の中央にあった。赤黒く口を開けたその傷のことは憶えている。だが、目覚めたときに傷は塞がり、この紅玉があった。
鋼玉のような硬度を備えていながら、その周りは皮膚の下で血管に似たものに取り巻かれている。血管の伝える拍動が確かに自分のそれと同期しているから、間違いなくこれは自分の一部なのだろう。
自分が一体何者になってしまったのか。これを認識したとき、追及するのも怖ろしかった。だからこそ、上の言うことに盲目的に従ってきたとも言える。
ネルフ米国支部における、〝剣崎キョウヤ〟の扱いが実はが実験体に近いことは、薄々感じていた。ニア・セカンドインパクトの生存者。その肩書きがどういうものか、理解していなかった訳ではない。それでも、与えられる仕事と思えば従ってきた。
しかし、その実態たるや…制御できるなら使う。出来なければ抹消。そういうことなのだ。
緊急時対応のための発信器、と説明された黒いチョーカーとて、今となってはどんな機能が付加されているか判ったものではない。大体、自身で着脱不可能というのがあからさまに胡散臭い。メンテナンスのための解除は大概支部の施設内で行われたから、基本的には自宅にいるときでさえつけたまま…今もそうだった。
『碇ユイ博士』『高階』の名について…上から一応の知識は与えられていたが、それは不可触領域、というラベルが付されていた。
碇博士についてはヴィレの重鎮であるから、という明確な理由があった。旧ネルフ米国支部としては手出しすれば高度に政治的な話になりかねない、ゆえに手出しはもとより、接触は避ける。
しかし、『高階』は。
碇ユイの協力者、というのが表向きの説明ではあったが…その内容についてはひどくぼやかされている。…皆がなんとなく認識している。だが、表立っては誰も言わない。言えない。そんな空気があった。
その人物が、第三新東京市危機…ネルフ本部が壊滅した一件に関わっていたのは確かだ。
使徒襲来に備えるのがネルフという組織が結成された理由の筈だった。しかし、死海文書が予言するような地球規模の危機は訪れることなく…ネルフ本部だけが至って静かに崩壊した。キョウヤが覚醒したのが実はその後のことであったから、その経過を聞かされても…言ってしまえば浦島太郎の心境になるだけであった。
上層部が掲げるお題目は騙術だった。しかし職場は存在していたし、仕事は与えられる。惰性でそこに居たと言われても何も反論出来ない状況ではあった。
自分と母を顧みない父親を振り向かせようと躍起になって人工進化研究所、後にネルフと呼ばれる機関に入った。しかし、その途端…父親は自分を護って死んでしまった。
だからそこから、何をしていいのかわからなくなった。
考えることをやめていたのだ。今ならそれが解る。
水浴をするには少々早い季節だ。水を浴びたことで冷えた身体を少し熱めのシャワーで温めながら、この数日の出来事を頭の中で必死にまとめようとする。だが、そうしようとすればするほど…何が真実で、何が偽りなのか解らなくなってしまう。
「ミスズ、ちょっと手荒なんじゃない?弱装弾っていったって、防弾衣もなしで生身にあたっちゃったら普通は怪我するわ!」
「でも当たらなかったよね?」
「それはあくまでも結果!」
「なーにユカリ、えらく庇うじゃない?」
「だって、悪い人じゃないよ?そりゃ、ネルフの構成員ってのはわかってるけど…あのひと、銃口に気づいたらまず見ず知らずの他人を庇う方へ動いてたもん!」
「ユカリだったらそー言うと思ってたんだー。だからユカリに知らせたら咄嗟に庇っちゃうかもって思って伏せといたの」
面白がるようなミスズに、ユカリがムキになる。
「それって一歩間違えたら私に当たってたってコトじゃないの!?」
「あ、ひどーい!あの程度の距離で私が撃ち損じるとでも?」
「二人ともそのあたりにしとけ…」
辟易したふうを隠しもせずに、マサキが言った。
「ユカリに話が届いてなかったのは純然たる手違いだ。そう尖るな。それと、ミスズも無闇に揶揄うんじゃない。ユカリ、悪いが客の案内を頼む」
ユカリが不平満々といったふくれっ面でマサキを睨んだが、やや疲れたようなマサキの表情に文句を呑み込んで階下へ降りていった。
カフェ「Angel’s Nest」には『臨時休業』の札がかかっている。ベーカリーショップの方にも同様の札が下げられていたが、ブラインドが下げられた内側は至って賑やかであった。焼成中のパンの芳香が漂い、フィリング1を調理する音が忙しない。
「あー、腹減った!何かあるー?」
勝手口のドアを開けて入ってきたのはタケルとタカヒロである。
「帰ってきたなこの壊し屋ども。リエから連絡は受けてるぞ。まさか本当にやらかしちまうとは思わなかった」
「ごっめーん、サキ、暗闇でいきなりあの不気味なデク人形と対面しちゃって、吃驚したんだってば!」
からからと笑うタカヒロの額に、傍らのミネラルウォーターのデカンタから導き出した500円硬貨大の水球をぶつけて、マサキが怒鳴る。
「だからっていきなり禁じ手をぶちかます奴があるか! リエが巧いこと転送してくれたから良かったが、さもなきゃ大惨事だ」
タカミの支援でネルフ米国支部に潜り込んだリエ、タカヒロ、タケルは、あるモノを探して米国支部の研究施設を捜索した。だが、その途上で本部にあったのと同じエヴァの試作品――稼働実験にも到達できず放置されていた――に出くわして、タカヒロが軽くパニックに陥る。…結果、「大気圏内使用禁止」と言い渡されていた禁じ手――マイクロサイズの核融合反応――を叩きつけてしまったのだが、リエが咄嗟に周囲の施設ごと高度1000㎞ほどの上空に転送して事無きを得た。
ただし、当然ながら施設の地下に突如として直径100mオーダーの大空洞が出来てしまい、米国支部は消滅こそ免れたものの建物中央に巨大な崩落を起こしてしまったのである。
事実上、米国支部の研究施設は壊滅したに等しい。
「本当にわざとじゃないって。前は結構明るいところで、来るぞ来るぞって構えて見てたからさぁ。2暗闇ン中でいきなりあのご面相に出くわしたら、やー、吃驚したのなんの」
「威張るな!」
後頭部をミュールの硬い踵で力の限り叩かれてタカヒロがつんのめる。さすがに、飛沫程度の水をぶつけられたのとは訳が違った。
「リエ姉、痛い…なんか今、微妙に刺さった気が…」
頭を抱えつつ加害者に苦言を呈しても、この際庇う方に回る者はいない。タケルがささやかにタカヒロの背を叩いて同情の意を表するのみだ。
「掛け値なしの核弾頭がなにをほざく!少しは反省なさい!」
「はーい…」
後頭部を撫でながらタカヒロが萎れる。たった今タカヒロの後頭部で快音を響かせたピンヒールのミュールを何事もなかったかのように素足に突っかけ、カウンター席の一つに座を占めたのはリエである。身体にぴったりとした黒の上下は、サイズに余裕のある白いカッターシャツとスキニージーンズに着替えていた。
「…で、あったわよ。やっぱり。でもまあ、数としては半分ね。やっぱり、もう半分は旧ネルフ本部と一緒に埋まってると見た方がいいんじゃないかしら。結構な質量があったであろう1st-cellの組織片だけじゃなく、通称17th-cellをあの死海から拾い出した連中よ? こんな目立つモノ、取りこぼしたとは考えにくいわ」
ジュラルミンケースをカウンターに置く。マサキが立ち上がり、リエが置いたケースに手をかけた。一瞬、呼吸を整えるような間を置いた後、それを開ける。
「…間違いないな」
中身を手に取ることもなく、沈痛でさえある面持ちでケースを閉めた。
「この中には誰も居ない。いくら励起状態にもっていこうとしても、反応しなくて当たり前なんだ。本部で実験を繰り返した挙げ句、何も得られなかったからそのうちいくつかをを米国支部に委ねたというのが正直なところだろう。あるいは、中身が空っぽなのに途中から気づいたのかも…。まあ、最初から手の内にあった2nd-cellと、南極で回収した1st-cell、17th-cell…そのあたりで研究が進み始めたものだから、とりあえず据え置きにして…念のため丁重に封印したってところか」
テーブル席のひとつに戻り、マサキが嘆息しながら椅子に身を沈める。
「丁重な封印ってのが、電子ロックと例のナノマシンが仕込まれた「呪詛柱」程度だとしたら…連中、とことん私らを舐めてるわね」
リエが昂然と腕組みして言い放つ。マサキが苦笑いで応じた。
「電子ロックが全く役に立たないという状況…あるいは俺達がナノマシン解析・分解能力を有するという事態が,連中にとって想定外だったということさ。ところでその電子ロックの不法マスターキーは何してる?」
「タカミなら熱噴いて昏倒したから私のオフィスにそのまんま寝かせてきたわよ。自分でもエンジン全開みたいなこと言ってたけど、多分また米国支部のMAGI-TYPEに同調かまして無理矢理言うこと聞かせてたんじゃないかしら。…その状態で米国支部の構造が一部とはいえいきなり消滅したら…まぁ、予告なしに内臓一部抉られたようなもんよね。気の毒だけど。まあ、一時キツいだろうけど死にゃしないわ。言っちゃえばVR空間でのダメージだし」
供されたエスプレッソを一息に飲み干して、リエが事もなげに言った。
「…ま、とりあえず寝かせとこう」
確かに死にはしないだろうが、リエが転送をかける直前に施設内でタカヒロの爆雷が炸裂したことを思えば、胃の腑にいきなり熾を突っ込まれたようなものだろう。マサキはそこに敢えてツッコミを入れることを避け…話を変える。
「やはり呪詛柱の技術は、ネルフ…旧人工進化研究所も各支部で共有されていたと見るべきか?」
「おそらくね。あの坊や、例のDSSチョーカー3も付けられてるみたいだし。ある時期までは研究内容も共通だったんでしょう」
「DSSチョーカー…あのえげつない仕掛けか…。作動はしないのか?」
「ATフィールドで物理防御した程度じゃ作動しなかったところを見ると、とりあえずは大丈夫なんじゃない?念のため信号は複製して別の処からランダムに発信させてるから俄に此処がバレることもないと思うわ。逆に外部から信号送信して発動させようとしたとしても、ここは今、一応シールドしてるから4問題ない。まあ、タカミが目を覚ましたら外させるわよ。レミにやらせるよりは穏当でしょ」
「わかった。さすがだな」
一部の隙もない布陣にマサキが率直な賞賛を述べると、リエがにやりと笑う。
「そういうサキだって、いつの間にあの玉藻前にナシつけたわけ?
米国支部が、相応の人数繰り出してたのに剣崎キョウヤの身柄を抑え損ねたって地団駄踏んでるわよ。制御不能なもんで取り押さえにかかるところだったのは間違いないけど、見事鳶に油揚攫われた格好よね」
その「鳶」が黒褐色の双眸に少し悪戯っぽい光を閃かせて笑う。
「…あぁ、ついさっき、事後で承認をとりつけた。…まあ、有り体に言えば確保した時点では完璧にハッタリだったんだが。とりあえず米国支部の動きについては嘘はないからな」
リエの頬が微妙に引き攣った。
「…さすがだわね」
いつか高階邸でも饗応をうけたような、由緒正しい午後のお茶の光景。それが、何もなかった四阿のテーブルに魔法のように現出する様を目の当たりにしながら、カヲルはタカミ言うところの『無敵のハウスキーパー』ユカリの手腕を思い出していた。ただし、剣崎邸の魔法使いは先程彼女が「スミレ」と呼んでいた、少し色の浅黒い…ウェーブのかかった黒髪の女性だった。インターフォンに出た人物だろう。
「米国の方、とお伺いしていましたが」
「国籍はそうね。私も生まれてからずっと合衆国にいて、結婚して暫くは日本にいたかしら。でも父母ともイギリスの出身なのよ」
スミレがテーブルセッティングを終わって去り、剣崎夫人は慣れた手つきでポットのお茶をカップに注ぎ分けた。
「結婚するのも家の都合、なんて、お若い方には想像もつかないでしょう?でも、私にとってはそれが世界のすべてだった。…歳をとって、ある程度ものがわかるようになってからその窮屈さに気づいたのだけれど…まあ、今はやりたいことをさせて貰っているのだから文句を言う筋合いではないわね。
あのひとをわかってあげることは私にはできなかった。でも私は、あのひとを愛してはおりましたのよ。だから、キョウヤを授かった時にはとても嬉しかった」
彼女の実家が、そして剣崎の家が、死海文書を守り解読を進める一種のセクトの構成員であったことは間違いない。キール・ローレンツ然り、碇ユイ博士然り。その中で一番尖鋭な部分がゼーレであった。
高階マサユキ博士もそれに連なる人物であったがゆえにネフィリム達と縁があったが、本来は彼女のように死海文書も人類の存亡も関係のないところで、ごく普通に生きてゆく筈だった…
――――否。違うだろう。
高階博士自身はごく普通に生きて、血の繋がりなど関係ない、紛うことなき魂の後裔たちに出会った。そして彼らを慈しみ、長いとは言えなかったにしろ、この世界を十二分に享受して去って逝ったのだ。ただ無為に長い時間を生きてきた自身にひきくらべた時、カヲルはいっそ妬ましさすら感じる。
「逃げ続けていた私に比べて、キョウヤのほうが余程…あのひとを理解しようと前向きだった。なんとかしてあのひとの傍に居ようとして頑張っていたわ。そして、高校過程を終了してすぐに南極へ行って…それから…」
そこでふと、剣崎夫人は言葉を切った。無理もない。
「あのひとは骨も帰ってはきませんでした。本国の研究室に置いていた身の回り品だけが、遺品として戻されてきました。無論、資料の類いは閲覧さえ赦される訳もなかった。
――あのひとが何を探していたのか、結局わからずじまいでした」
そこまで聞いて、カヲルはある可能性に思い至った。そしてそれを、率直に問うた。
「ひょっとして…ご子息が存命であることは、つい最近まで…あなたにすら伏せられていた?」
「ええ」
薄い笑みさえ浮かべて、剣崎夫人は肯った。
「私たちがいた世界は、そういうところでした。異議を唱えることはもとより、不服従は罪、というのが物心つく頃からの教えでしたから。しかし、キョウヤに関しては…あるいは彼らも、生きているとは思っていなかったのかもしれません。生存者というより、特殊な保存状態にある標本と考えていたのかも」
それは間違っても母親が息子の消息について語る口調ではなかった。芸術家の独白でさえなく、冷徹な科学者が見解を開陳する様子に近かった。決然として揺るぎなく、そこには怒りも悲しみも窺えない。ただ、目の前の現実を受け容れていた。
それが彼女の言うように、生まれ育った環境によるものなのか…あるいは彼女自身が長い時間を掛けて到達した境地なのか…カヲルにはわからない。
根拠はない。だがカヲルは、それが後者であるような気がした。
「生存を知らされたのは、2年ほど前です。知らせを受けて、厳重に管理された研究施設の中にいるあの子に会いに行きました」
2年前、という数字に、カヲルはティーカップを持つ手が震えたのを自覚した。カップの中に神経質な細波が立つのを見て、思わずカップをソーサーへ戻す。
世に言う第3新東京危機。カヲルがネルフの檻から自由になるために『仮面』を持つタカミを媒体として利用したことから、はからずもごく短時間ながらヨハン=シュミットとしての意識が回復した。それが2年前。無関係とは思えない。
「十年以上も経っているのに…あの子の様子はあまり変わってはいませんでした。ただ、その胸に…あの不思議な紅珠を宿しておりましたわ。
あの紅珠が何であるのか、私に説明はありませんでした。あの子も知りませんでした。おそらく…人工進化研究所にさえ、正確なところは解っていなかったのだと思います。
『核』というのは、ただ彼らが記号としての名前を与えただけなのではないかしら。
あの子が話が出来るようになるまで、ある程度の時間が必要で…その間、思い出したように画を描いておりました。何枚も、何枚も…現在のあなたよりも少しおとなびていましたけれど、間違いなく、あなたでした。だから美術館で初めてお会いした時も、すぐにわかりましたのよ」
慧眼というべきだろう。カヲルは目の前の上品な老婦人に、軽い畏怖さえ覚えた。キョウヤ本人でさえ今のカヲルには気づかず、年齢的に近いタカミをシュミット大尉だと誤認していたというのに。
何も知らない、解らないといいながら、ものの本質を捉える眼を持っている。
少し俯き加減になっていた彼女が、ふと顔をあげてカヲルを見、そして穏やかに微笑んだ。
「記憶を整理するようにあの子が描き続ける画を見て、私にはわかりました。
あの子はあの南極で天使…あぁ、この呼び方はいけなかったのでしたわね…誰かに逢った。そしてその誰かが、あの子の命を助けてくださったのだと。
如何? 私は、間違っておりますかしら」
カヲルは思わず眼を伏せる。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「彼を助けたのは、間違いなくあなたのご夫君ですよ。僕は、救命艇のハッチを閉めただけです。むしろ、僕は余計なことをして…あなたの大切な息子を奪ってしまったのかも」
「あの美しい紅珠は、あなたがキョウヤに与えたものなのでしょう?あれが何なのか、私には皆目わかりませんけれど…キョウヤの命を繋いでくれたことは確かです。あの子の傷は心臓を含む胸腹部臓器殆どに及んでいたと聞いています。本来なら、救命艇が回収される頃には絶命していて当然のレベルだったと。
あの紅珠は…言わば命の方舟なのでしょう?」
カヲルは思わず呼吸を停めた。この女性は、そこまで看破していたのか。
命の方舟。言い得て妙というべきだろう。『核』などという呼び名よりも余程本質を突いている。
生命の実を我が物と成せば、いかなる環境にも耐えうる――星の海さえ渡れる――身体が手に入る。しかしその命の方舟に乗るには、鍵が必要だ。鍵、手形、切符…呼び方は何でもよい。
必要なのはただ一つ、魂。
『最終結論。生きようとする意志。それこそが〝魂〟』
イロウルの見解は、一面の真実を含んでいるとカヲルは思う。
紅珠…『命の方舟』…『核』には絶対的な発動条件がある。それが、生きようとする意志。かつて1st-cellとの融合・共存を果たしながら、それを持ち得なかった男がいた。男はすべてから逃げ続け、最後には芦ノ湖畔に消えた。
1940年代前半のドイツでは、集められた『核』に対してシュミット大尉が媒介となり、『核』の中で眠りについていた魂が、生きたいと願った子供に扉を開いた。
シュミット大尉が造りあげた『核』の模造品は、中に誰も居ないというだけで本質的には『核』と同じモノだ。命の…生きようとする意志に反応してその扉を開く。励起状態に置かれた〝命の方舟〟が、剣崎キョウヤの生きようとする意志に反応し…そして奇跡は起きた。しかしそこにはやはり媒介が必要で、この場合もシュミット大尉がごく簡単な初期調整を行っている。
ただ一つの例外は、1914年のクムランで起きている。『核』発掘現場で戦闘に巻き込まれた一人の少年が、不完全ながら独力で〝命の方舟〟の扉をこじ開けた。
「死んでいないことが不思議」な状態のままゼーレに収容され、シュミット大尉がその存在を感知したどり着くまでの概ね20年ほどを、丁度剣崎キョウヤが救命艇内で発見されたときの様子…原形を留める『核』となかば融合しかかった状態のまま生存していた。
その存在を感知し接近したシュミット大尉がゼーレにそれと悟られぬよう調整することにより、その少年の時間は再び動き出す。
カスパール=ハウザーの記号で呼ばれていたその少年は記憶を無くしていたが、名を与えられそのまま研究施設で軍属として働いていた。その名を、サッシャ=クラインという。
そして更に数年の後、高階マサユキ博士との出会いによって高階マサキの名を得ることになる。
――――最初のネフィリムである。
- フィリング…菓子パンやサンドイッチ、ケーキなどの具材。もともと詰め物を意味し、菓子パンなどでは中に詰めたものを、サンドイッチなどでは間に挟んだものを指す。
- 前は結構明るいところで…第一次ジオフロント会戦。「すべて世はこともなし」…第八話 「使徒、襲来」における話で、マサキがα-エヴァとほぼ素手で喧嘩するハメになった。量産型エヴァも投入されたが、タカミが直前で機能停止させたため、タケルにあっさりと破壊されている。しかし倒壊したその残骸にミサトが巻き込まれて負傷したという経緯があった。
- DSSチョーカー…Deification Shutdown System、Deificationとは神格化、という意味だそうな。神化を阻止するシステム、という理解でよいかと。Qのネタですね。シンジ君が装着され、最終的にカヲル君の首を切り落としたアレです。「すべて世は-」でもカヲル君やダミー’sに装着されてました。幸い発動はしませんでしたが。
- 通信機能抑止装置というのがあって、通信装置(携帯電話とか)と同周波数の電波を近傍で発生させることで一時的に通信不能にすることができるそうな。この場合、DSSチョーカーが使用している帯域が特定出来ているコトが前提になる…なんてことは突っ込まないでくださいまし。姐さんのことだからすぐに特定したんですよ。ちなみに、そういった装置の運用には本来電波法に基づいた免許が要るようです。姐さんがちゃんと免許もってるかとゆーと…ええと。