緋の誓約

 朝課に入る前の潔斎で浴びた水が、亜麻色の髪を伝って落ちる。
「…どうしたの、ソランジュ」
 虚空を見たまま硬直しているかのように見える少女に、黒髪の女神官が声をかける。
「あ、クロエ様。いえ、何でも…」
 我に返ってあたふたと、それでもきちんと手順に則って身を拭い、衣服を纏う。クロエと呼ばれた女神官がくすりと笑った。
「…アニエスの髪…吃驚した?」
「あ、はい、本当に緋色なんだなーって…あ、失礼ですよね。私の髪なんて、生まれたときは赤かったらしいですけど…いまはすっかりこんな髪で」
「その髪も可愛いよ、ソランジュ。…ま、そうやって会う度にぽーっとしてたらさすがに困るか。あなたが今日からお世話するんだから」
「はい、がんばります!」
 ソランジュが背筋をぴしりと伸ばして宣するのを眺め遣りながら、クロエは柔らかく微笑んだ。
 血の緋色。
 大神官家とその係累に現れる、紅い髪は時としてそう呼ばれる。
 シェノレスでは紅い髪の子供は海精と交感出来る能力を生まれながらに持つと言われ、大神官家の係累でなくてもは巫女か神官となることを期待されて幼いうちから神殿に上げられることが多かった。
 ソランジュというその少女も、物心ついた頃には神殿で巫女見習いとしての生活をしていた。ひとつには紅い髪をしていたからだが、彼女の場合は父母を早くに亡くした事情もあった。
 大神官リュドヴィックの妹・アニエスが病を得てツァーリから帰ってきてから数日が経つ。輿入れというときに近侍として共にツァーリに渡った者たちもほとんどが一緒に帰ってきていたが、旅疲れからか帰着後に倒れる者が続出した。このため、さしあたり病身のアニエスの近侍として、神官府から数人が遣わされることとなったのである。そのひとりがソランジュ、という訳であった。
 昨日はそれに先立って、アニエスに目通りしてきたのだ。普段滅多と出入りしない本殿の奥に通されてガチガチに緊張してしまった少女は、何を聞かされたものやらさっぱり憶えていないていたらくであったが、病み疲れてなお呼吸いきを停めてしまうほどの美しさに圧倒され、その緋の髪が寝ても覚めても少女の脳裏にちらつくのである。
 少女は自身が神殿に預けられる所以となった筈の紅はさっぱり消えてしまった亜麻色の髪を眺めながら、まるで古謡の中から抜け出たような鮮烈な緋の心象イマージュに…まさに「ぽーっとして」いたのだった。

***

 ――――――150年前の「大侵攻」と呼ばれる戦乱の際、リーン、シルメナ、シェノレスはツァーリの軍門に降った。リーンとシルメナは辛うじて王統を保ったが、最期まで激烈な抵抗をしたシェノレスについては、王族とその係累たる貴族階級は徹底的に殺戮され、王城は草生す廃墟と化した。
 ツァーリは表面上「融和の証」…その実「人質」として、国王の係累から定期的に子供を差し出させた。男児であれば国王の猶子として王都ナステューカで飼い殺し、女児であれば妃とされるのがならいであった。王統の絶えたシェノレスにおいては大神官家が代々その責務を負い…当代においてはアニエスがその約定に従いツァーリの王太子カスファーに嫁した。
 15歳でナステューカへ送られたアニエスは、翌年王太子カスファーの長子となる男児を儲け、現在24。大神官家の「血の緋色」と呼ばれる緋の髪を持ち、少女と言われた頃には利発、現在は怜悧と評される美貌の所有者であった。
 長の病臥は、その美貌をいたましいばかりの憔悴の翳りで覆っていたが。
 神官府には神官や巫女が生活する共同の宿舎があったが、ある程度以上の立場にある神官は、規模は様々ながら独立した住居を持っていた。大神官家に至っては本殿の一隅に居を構え、ソランジュが仕えることになったアニエスもそこで療養を続けていた。
 ソランジュの役割はいわゆる侍女であったから、服の着替えを手伝い、食事を運び、訪問者を取り次ぐなど種々雑多である。巫女見習いの子供が修行として神官について身辺の用を務めるのは慣例で、その中で奉仕者としての細かなしきたりを学ぶ。ソランジュはもともとクロエにつけられていた巫女見習いであったが、そのクロエがアニエスの傍付きとして推挙したのであった。

***

 その日、部屋を訪れたクロエはアニエスの寝所が空なのに気付いて外を見た。案の定、テラスへ続く扉が開いている。
 テラスからは木立を透かして海と空の蒼が見える。木々を通り抜けることで優しくなる海風の中に、彼女は立っていた。
 その背は腰あたりまで緋の髪で覆われている。一児の母とは思えない身体の線は、シェノレスに帰ってきたときには骨ばったと表現される一歩手前まで痩せ細っていた。それが相変わらず顔色が冴えないとはいえ多少改善してきたのは…この穏やかな海風の御蔭ではないかとクロエは思う。
 海から本殿に吹きつける風は決して緩くはない。本殿の外苑に立っていると時に息が出来ないほどに強く吹くこともある。しかしこの庭は本殿でも奥まった処にあり、植栽がなされているために風は届くのに然程強い風にならない。風を遮断することなく、優しい風を呼び入れることの出来るこの部屋を与えたのは誰あろう、アニエスの実兄にして大神官リュドヴィックである。政治むきのことはともかく、病人への配慮という面において実はあまり期待していなかったクロエは、この決定に内心で舌を巻いた程だ。
「アニエス」
 クロエの声に、中庭に出ていたアニエスが振り返る。そうしてクロエの手にしたものを目にして小さく笑った。
「今度は何処のお土産かしら? 何だか悪いわね」
 クロエの手には手提げ籠があった。然程大きな籠でもないが、それにこぼれんばかりの瑞々しい果実が詰まっている。
「薬なんだからちゃんと摂ってもらうわよ」
「『出される食事は薬と思って全部食べなさい』、でしょ。典薬寮頭てんやくりょうのかみ首席補佐官クロエ様」
 アニエスはそう言ってすこし悪戯っぽくさえある微笑を浮かべた。
「そうやって、他人ひとをからかう余裕が出てきただけまだよしとするか…」
 クロエはこめかみに手を遣って深く嘆息した。
「とりあえず一度屋内なかに入りなさい、アニエス。風に当たるのがいけないとは言わないけど、あまり長くなるのは感心しない」
「そうね…」
 アニエスは素直に長衣の裾を翻して部屋へ足を向けた。
 部屋の肘掛け椅子に座を占めたアニエスの熱と脈を診てから、クロエはアニエスの色の薄い、すこしかさついた唇に指先で触れた。
「…動くと息苦しい?」
「部屋の中を動く分には然程。湯をつかったりすると後が少し…ね」
 クロエは眉ひとつ動かさなかったが、アニエスの体力低下が栄養の問題だけではないのを確信してしまい、内心で大きな吐息をついた。
「栄養と、いい空気と、適度な運動。今はそれだけね…夜は眠れてる?」
「眠れない訳じゃない…ってところかしら」
「眠りが浅い、か…。考えるなって方が無理…よね」
 アニエスの緋の髪を指先に絡め、クロエは穏やかに問う。
「手紙はちゃんと届くんでしょ? …この間、嬉しそうに読んでたじゃない」
「ええ…」
 そう言って、微笑む。だが、その翳りは拭えない。
 彼女アニエスは宿下がりに際して、子供を王都ナステューカに置いてきている。王太子カスファーの長子であるからにはシェノレスに連れて戻るなど論外であったろうが…気掛かりであるには違いない。何せ、乳母一族を除いてほとんどがアニエスの宿下がりに際してシェノレスに帰されており、アニエスが居館として与えられ、今はその子ひとりが住まう邸宅の使用人は、家令以下ツァーリ宰相の息の掛かった者達で占められた。
 次代王太子ツェサレーヴィチ最有力の公子は相応の環境と教育を与えられねばならぬ。そう言われれば、何一つ言い返せない状況である。アニエスは我が子を王都に置いてくるしかなかった。
 宰相の娘レリアが国王の子を授かったという噂もあったが、どうにも脆弱で成人を迎えられるかどうかわからぬらしい。…であれば、王国の安定を第一とする宰相は、アニエスの子が恭順を示す限り危害を加えることはないだろう。
 ――――それでも。
 クロエはしまったと思った。悪いところに話を振ってしまったのに気付いたのだ。アニエスが口許を押さえたまま声もなく涙ぐんでいる。クロエは手提げ籠をアニエスの膝の上へぽんと置くと、一番上になっていた赤い果実を取り上げた。
「…とりあえずこれひとつ剥いてきてあげるから、とにかく食べなさい。ソランジュは?」
 言いかけて、卓子テーブルの上にあった呼び鈴に手を掛ける。その音がするかしないかのうちに、亜麻色の髪の少女が毬が転がるような勢いで奥から走り出てきた。
「アニエス様、そろそろお部屋にお入りにならないと…っと、クロエ様?」
 きょとんとして立ち竦む少女ソランジュにクロエは苦笑で応えた。
「頑張っているようで何よりなんだけど、もう少し挙措は端正にね。…ああ丁度いい。これ、切ってきてもらえる?」
 そう言って少女に手の中の果実を渡す。
「は、はい、畏まりました」
「手を切らないようにね?」
「はい、大丈夫ですっ!」
 アニエスが添えた言葉に少女がはじけんばかりの笑みで応えて退がる。それを見送ったアニエスが微笑んだ。端正な目許に滲みかけていた涙は消え、わずかに紅さが残るのみ。
「…いい子ね。元気を分けて貰ってる気がするわ」
「それは何より」
 あの年頃の子供に落ち着きを求める方が間違っているが、ソランジュという亜麻色の髪の少女は確かに少々そそっかしくはあった。ただ、アニエスに今必要なのは静養と心の安寧だ。クロエがソランジュをアニエスにつけたのは、半分以上は塞ぎがちなアニエスの気を紛らわせる為なのだから、そこは織り込み済みだが。
 籠の中には、いくつかの果実とともに芳香を放つ白い花が枝ごと添えられていた。アニエスがそれを手に取り、花の持つ芳香を愉しむように顔へ近づける。
 クロエは笑った。
「それは本来、葉を干して刻んでお茶にするのよ。いつも、飲ませてるでしょ。あの莫迦、そんな気障きざったらしいおまけを付けるくらいなら、一度くらい会いに来いって言ってるんだけどね」
「…あぁ、だから香りに憶えがあったんだ…。ジュストは相変わらず…忙しそうね」
 アニエスとクロエ、共通の幼馴染みだが、アニエスからは従兄弟だか再従兄弟はとこだかにあたるらしい。その名を口にするときの、彼女のかすかに切なげな表情を…クロエは見て見ない振りをした。
「どうだか! 衛視寮なんて神官府で一番ひまな部署でしょう。…あちこち、渡り歩いてるみた いよ。割合まめに報告だけは入れてくるから、こっちとしても薬草採集頼んだりしてるけどね。
 まったく何考えてんだか。初志貫徹で天文寮へ入っていれば今頃間違いなく天文寮頭てんもんりょうのかみだってのに。ま、噂ではなにやら密命を受けてるらしいんだけど」
 笑みを取り戻しかけていたアニエスのおもてが、俄に色を失った。
「密命…リュディスの?」
「そのようね。噂だけど」
 アニエスは暫く視線を落としていたが、不意に顔をあげた。
「…クロエ…兄は、リュディスははおそらく、アリエルを見殺しにする」
 抑えに抑えた、だが切羽詰まった声音。クロエは思わず呼吸を停めた。内容が内容だけに、クロエも声を抑えて問い返す。
「ちょっと待ってアニエス、落ち着きなさい。どうしていきなりそんな話になるの。見殺しって…」
 言いかけて、クロエは気付いてしまう。アリエル。ツァーリに置いてきたアニエスの息子。それが「見殺しにされる」事態とは、つまり。
「…大神官リュドヴィックは…ツァーリと事を構えるつもり…!?」
 クロエの言葉に、アニエスは自分が口走ってしまったことの重大さに気付いたようだった。だが、発した言葉は戻らない。アニエスはゆっくりと息を吐き、クロエの神官衣の袖を握りしめて囁くように言った。
「…ごめんなさい、私…こんなこと言うつもりじゃ…」
「何を聞いたの、アニエス?大丈夫、誰にも何も言わない。私ひとりの胸におさめる。だから話して。ここのところ調子良くないのもその所為なんでしょ」
 袖を握りしめるアニエスの手の上に掌を重ね、クロエはアニエスの紅がかった褐色の眸を覗き込む。
「…アニエス!」
 アニエスは暫く伏せた睫を震わせていたが、諦めたように肩を落とした。そうして、袖を握りしめる手にもう一度力を込めてクロエを引き寄せ、更に声を低めた。
「今日や明日の話ではないでしょう。おそらくはまだ準備段階。それも相当に遠大な。…ねえクロエ、このことは本当に絶対に口外しないで。ジュストにもよ。そうでないと、あなたが危険に晒される。兄はおそろしい人よ。ツァーリに漏れたら全てが水泡に帰する…その秘密を守るためなら、おそらく血を流すことも厭わない」
 それだけ言ってしまうと、ふいと手を緩めて椅子の背もたれに身体を戻した。ソランジュが先程の果物を皿へ盛ったものを盆に載せてきたのだ。
「ありがとう、ソランジュ」
 やや粗くはあるが飾り切りにした上で小綺麗に盛られた果実を見て、クロエは軽い驚きを覚えた。
「あらあら、ちょっと見ないうちに随分と器用になったね」
「ありがとうございます。色々と、教えて頂けるので」
 ソランジュがすこしはにかみながら、それでも嬉しそうに微笑んだ。

***

 クロエは本殿から典薬寮へ戻る道の途上、ふと立ち止まって眼下に広がる海の蒼を眺めた。
 エルセーニュの南に広がる海。かつてシェノレスはその制海権を握り、大陸南方の海運を掌握することで栄えた。大陸東岸の海運を握るリーン、西方への玄関口として陸路の要衝であったシルメナ。いずれも百数十年も前にツァーリの侵攻を受け、その利益のほとんどを吸い上げられる有様だ。
 この南の海は今、ツァーリ総督府の監督下にあった。交易船は往来するものの、入港・出港・そして一定規模以上の取引は総督府発行の勅許状を必要とする。勅許をもらうには金銭が必要であり、有り体に言えば許可を金銭で買わねばならぬ仕組みであった。
 理不尽だ。それはわかっている。
 クロエは吐息する。…ツァーリは南方航路…大陸の南沿岸を回る航路を管理してはいるが支配出来ているわけではない。国土に比較的海岸線が少ないツァーリは、航海術についてはリーンやシェノレスに一歩も二歩も譲る状態である。それ故、ツァーリが自らの船を繰り出して海運を掌握したりせず、海運技術について蓄積を持つ国の上前をはねることに終始しているのだ。
 そんな虫のいいやり方が通用するのは、その航路がほとんど陸沿いであるためだ。要は、拠点はすべて大陸の沿岸都市にあるから流通の状態を把握しやすく、裏を返せば摘発しやすい。
 もし、ツァーリの目の届かない場所に流通拠点を作ることが出来れば、ツァーリの搾取を受けることなく交易が可能となる…!
 だが、それが絵空事であることもまた、クロエは知っている。
 リーンの東方貿易とて、大陸の東を岸に沿って北上しそこにある都市と交易している。つまり、現在において大陸を離れて外洋へ出るような航路を持つ国は存在しない。
 だから外洋の彼方は常世国ニライカナイ、という話がまかり通るのである。
 ただ、天文寮に属する神官であれば外洋の彼方にはまた別の島々があることを知っている。しかしそこに至るためには海流や岩礁の綿密な調査が必要であった。それなしに外洋へ漕ぎ出せば、すなわち死出の旅路となる。そういう意味においては、常世国という話もまるきり嘘ではない。厳然たる事実なのだ。
 ジュスト…二人の共通の幼馴染みは、かつて新航路を開拓する夢を語った。クロエは一笑に付し、アニエスは反応に困った後、そうなると素敵ねと微笑んだ。
 彼の天文・航法知識を以てすれば、ツァーリの監視を免れる外洋の新航路の開拓は可能かも知れない。アニエスの言うように今日明日にどうなるものでもないが、ある程度の年数と有能な協力者がいれば…あるいは。
 しかし、天文寮の懇請を蹴って衛視寮に身を置きながら、衛視寮の訓練を蔑ろにして行方をくらましてばかりのジュストに協力者を得られそうな背景はない。むしろ、よくいままで神官府を放逐されなかったものである。
 それが大神官リュドヴィックの密命で動いているからだ、というまことしやかな噂が立ち始めたのは、そう最近のことではない。許可なく所属寮の役務を免れたかどで処罰の対象になったことは一再ではない筈だが、本人はまったく頓着していない。その無軌道というより飄然たる態度が、かつて逸材と言われながら神官府本殿の長老達から忌み嫌われる原因でもある。
 クロエは漠然とそう思っていた。
 しかし、その原因がリュドヴィックの密命にあるというなら。
 不吉な予感に囚われて、クロエは頭を振った。
 あの後、風で乱れたアニエスの髪をソランジュが嬉々としてくしけずりながら、気になることを話していた。
 リュドヴィックが、息子を見舞いに伴ってきたらしい。リシャールではない、下の子のほうだ。クロエも見たことはある。確かアンリーといった。アニエスに優るとも劣らぬ緋色の髪をした、ソランジュと幾らも違わない子供。だが、神童と謳われる逸材と聞く。
 ただ然程才走ったふうもなく、クロエの見たところ年齢を思えば少々大人びた子供という印象があっただけである。
 当然、長老方からは期待され、同年代の神官見習いからはそねまれる。だが、当人は頓着することなくきちんと課題をこなす傍ら、下の街の子供と遊んだりもする…。ルイともよく遊んでいるようだ。
「アニエス様によく似ておいででしたね」
 ソランジュの感想は、アニエスと同じ緋色の髪と端正な造作を素直に称賛したものであったが、クロエはふと違和感を覚える。
 何のために連れてきた?
 勘繰りすぎかもしれない。だが妹の見舞いとはいえ、あのリュドヴィックが何の理由もなしに子供を伴ったとは俄に信じ難かった。
『アニエス、アンリーだ。緋の髪の子。…海神の御心に適う子だ』
 兄の言葉を聞いたアニエスが急に顔色を失ったことを、ソランジュは案じていた。
 ソランジュはそれをごく素朴に、アニエスがツァーリにいる間に生まれた、優秀な神官候補であるわが子を…ひとりの父が息子を叔母に引き合わせた場面と受け取っていたようだが、正直言ってそれはあり得ない。
 ――――――まさか。
 アニエスに確認したいところではあったが、ソランジュの前でそれは憚られた。だから今日の処は訊かず辞去してきたのだが。
「――――――クロエ!」
 名を呼ばれ、我に返る。クロエは街の方角から歩いてくるその人物を視認した。その瞬間、思わず眉を顰める。
「ジュスト!また怠業サボリじゃないでしょうね」
 もとは搾ったばかりの蜂蜜のごとき黄金きん色であった髪は、陽と風に晒されて白っぽくなっており、ほぼ白髪に近い。その髪を清爽な潮風に遊ばせながら、ジュストと呼ばれた青年はクロエの棘のある挨拶によく灼けた顔を苦笑で歪めた。
 幼馴染みの悠暢のんびりした微苦笑に、クロエは咄嗟に遣る方ない憤懣を抑え損ねた。
 やおら下げていた空の籠をその場に落とすと、大きく踏み込んでその顔面に医神の杖アスクレピオス1を持ったままの手刀を叩き込む。
「クロエ…っ…!」
 ジュストはひどく慌てたように、そのくせ十分な余裕をもってその手刀を躱す。しかし間髪いれない蹴りは腕で防御した。そのままクロエの踵を捉えて態勢を崩しにかかったが、クロエは片手を軸に倒立してもう片方の脚でジュストの肩に一撃を入れる。今度はまともに入った。
 そのままとんぼを切って着地したクロエを見遣り、ジュストが大袈裟に嘆息する。
「キツいなぁ…出会い頭の挨拶がこれか。大 体、医神の杖アスクレピオスを打撃武器に使うなよ、罰当たりめ」
「…悪いな。無性に腹が立ったから」
 籠を拾いながらの言葉は、謝罪とはほど遠かった。
「顔を見る度にダニエルから怨言うらみごとを言われる身にもなれ。幼馴染みってだけでえらいとばっちりだ。私はあんたの母親じゃないぞ」
「天文寮のダニエル?…あいつまだ諦めてないのか。はっきり言ったんだがな、観測と机仕事の天文寮なんて御免だって」
「横着抜かすな。暦は生活の指針1。海に生きる者にもおかに生きる者にも大切なものだってことはわかってるだろう。〝神官は神に仕えるとともに国の基を支える奉仕者であれ〟。…神官府に入る時の宣誓を何だと思ってる、この不良神官」
「そこは否定せんが…俺がやりたいのは別のことなんでな」
 からりと笑うジュスト。もはや嘆息しか出て来なくて、クロエはもう何も言わずにするりとジュストの傍らを通り抜けた。
 だがすれ違う一瞬、囁きに近い一言にクロエは足を止めた。
「…今日は暇乞いだ」
「相変わらず、見果てぬ夢を追ってるって訳?」
「見果てぬとは限らんよ」
 思わず向き直る。ジュストはいつの間にかその笑みを消していた。
海神宮わだつみのみやの召命だ。風神アレンが再臨する。俺はそのための道を備える」
 踏み込むとジュストの胸ぐらを掴み上げ、クロエは低く唸るように言った。
「…意味解って言ってる…!?」
「…だから来た」
「来るところが違うよ、莫迦っ!」
 クロエの掌が勢いよく翻る。ジュストの頬が音高く鳴った。
 ジュストは避けなかった。胸ぐらを掴まれていた所為ではないのは明らかであった。
「…彼女アニエスを頼む」
 そう言って、襟もとを締め上げていたクロエの手に指先を重ねる。その緩々とした動きに苛ついて、クロエはジュストの襟ごとその手を振り払った。
 噛みしめた奥歯が軋む。
「どうしてあんたは、いつもそうなの…」
「…俺じゃ何も出来ない」
「私にも…どうしようもない…!」
 クロエの台詞に、ジュストの表情が確かに揺れた。
「アニエスは肺をやられてる。…もう時間の問題よ。いい空気と、栄養と、休養…でも、その休養がとれてない。当たり前だ。子供を人質に取られた母親が、一晩だって芯から眠れるもんか。
 気鬱と心労は遠くない先にアニエスの命を食い潰す…!」
 声にしてしまったら、それがもう揺るがない事実であると確信してしまう。だから今まで、クロエは思っても絶対に声に出せなかった。

 ――――それなのに。遂に、口にしてしまった。こいつジュストの所為だ!

 悔恨に胸を咬まれながらクロエが聞いたのは、絞り出すような声音であった。
「…どうすればよかったっていうんだ…!」
 ジュストの陽に灼けた手がクロエの肩を掴む。それは既にしてクロエが息を詰める程の力がこもっていた。
「十年前…彼女がツァーリへ行く前に、引っさらってしまえばよかったのか?」
「そんなの、できたら私がやってたさ!」
 クロエとて、できるものならそうしたかった。だが、できなかった。…彼女アニエスはもう決めてしまっていたから。
 リュドヴィックが大神官として登極する時、リュドヴィックを牽制するために求められた人質だと解ってはいても…シェノレスにそれを拒むことはできなかったのだ。
 だから彼女は決めた。彼女は彼女のやり方で、シェノレスを守ろうと。

 ツァーリに渡ったアニエスは、ツァーリの内情を注意深く調べ、整理し、己と己に与えられた館を拠点とした情報網を構築した。そして秘密裏にリュドヴィックへ伝えたのだ。
 積極的にツァーリの宮廷と関わりを持つことは、内実はどうあれ〝王太子妃〟の称号を持つ以上咎め立てされる謂われはない。むしろ、まだ十代半ばであったアニエスのそうした姿勢は、当時まだ王太子であったカスファーだけでなく、国王ニコラのよみするところであった。早々に男児を儲けたこともあり、アニエスはツァーリで確実に地歩を固めつつあった。つい去年になって宰相の娘レリアもまた男児を儲けたとはいえ、俄にアニエスの地位が揺らぐことはなかったのである。
 そんな矢先の病であった。…宰相がこれ幸いとアニエスを駆逐にかかったのは明白だ。
 一日も早く本復してツァーリに戻り、情報網を誰かの手に引き継げなければ、アニエスの築いたものは霧消してしまう。それだけでなく、残された子は彼の地で孤立するだろう。
 アニエスの焦慮を思えば、クロエとて臓腑をねじられるようであった。
「…どうにもならない…どうにもできない…!」
 クロエもまた絞り出すようにそう言ってジュストの手を振り払った時、自身が涙を流しているのに気が付いた。奥歯を噛みしめ、医神の杖アスクレピオスを折れんばかりに握りしめて。
「…あんたが大神官と何をたくらんでるかなんて…私の知ったことじゃない。でも、お願いだから…今は下手な動きをしないで頂戴。シェノレスに叛意ありと見られれば、アニエスの子は殺される。大神官リュドヴィックは犠牲もやむなしと思ってるかも知れないけど、そんなことになったら…アニエスは…!」
「そんなことはさせない!」
「言い切れる!?」
 目的のためには身内を犠牲にすることも厭わない。あれリュドヴィックはそういう者だ。クロエは大神官リュドヴィックという人物をそう認識していた。緋の髪の子を伴ってアニエスを訪れたリュドヴィック。そして先程のジュストの言葉。それらはゆっくりと、クロエの中でひとつの推測を形成する。
 ――――――兄はおそろしい人よ。
「…もうこれ以上、アニエスを苦しめないで。…最後の時間ぐらい穏やかに過ごさせてやって。何も出来ないっていうなら、せめて傍にいなさい!」
 ついには声が掠れてしまったことが口惜しくて、クロエは唇を噛んだ。ジュストの目が見開かれる。言わんとするところが理解ったのだろう。
「…っ…」
 何かを、言おうとしたようだった。だが、突然吹き付けた一陣の風に紛れてそれは声にならず、ジュストはただ深く嘆息する。そして帯に挟んでいた布で風に煽られる陽に灼けた髪を包み、彼方の本殿を振り仰いで低く呟くように言った。
「シェノレスにかけられたくびきは…俺が必ず斬って落とす。何年かかろうとも、だ」
 低いが、決然たる声音であった。まるで誓約するように。今度は風に遮られることなく。
「ジュスト、その布の色って…」
「ああ、例の薬草だ。結構な量が余ってたが、残念ながらアニエスの病には効かないって言ってたろう?染料とも聞いてたから、試しに染めてみたんだ。よく染まるもんだな。あの緋色には及びもつかんが…」
 そして、垂らした布端を指先でまさぐる。その、あたかも愛しい者の髪に触れるがごとき繊細な所作。
「アニエスの咳を抑えることは出来ないけど…染めた布で身体を包むと保温に効があるそうよ。まあ、効能としては護符おまもり程度だけどね。
 …いいの?渡さなくて」
 ジュストはまた苦笑した。
「やめておこう。これはこれでいい色だが…アニエスにこんな粗末な布を纏わせることはない。これは俺が持って行く」
 布端に絡めた指に力がこもったのを、クロエは見た。
「こんなこと頼めるのはおまえぐらいだよ、クロエ=レ・アスィエ。彼女アニエスを…護ってくれ」

***

 数日後、ジュストは結局アニエスを訪うことなく姿を消した。
 観測所となっているエルセーニュ南方の小島に天文神官の護衛として随行し、夜の海に落ちたとされる。遺骸が確認されたわけではないが、公式には死亡扱いとなった。
 そのことが、エルセーニュで然程話題に上ることはなかった。ジュストの素行のこともあったが、ちょうどその頃…風の岬に流れ着いた難破船から見つかった子供のことでもちきりであったのだ。
 どこから来たともわからぬ、いっそ天降あまくだったかと思えるほど特異な造りをした異国の船は…まるでその子供を運ぶために命を存えていたかのように、その子供が保護されるや木っ端微塵に砕け散ってしまったという。
 レオンと名付けられた子供は、〝海神の加護を受けし者〟とされ、神官府預かりとなった。当初は記憶も言葉もなくしていたが、少しずつ言葉を覚え、土地に馴染んでいった。

 この子供は後年「海神の御子」として神官府に推戴され…国土回復戦争、ツァーリ言うところのシェノレス叛乱の旗印となる。

***

 『海神の御心に適う子』。
 リュドヴィックがそう言ったという、アニエスからすると甥にあたる少年。クロエとて会う機会がないわけではなかったが、職務に直接関係がないので然程気に留めたことはなかった。
 確かにソランジュのいうように父親リュドヴィックよりは叔母アニエスに似ていた。
 だが、ジュストが姿を消して以降、遠目にも鮮烈な緋の髪にクロエは我知らず目を留めていた。
 ルイと同年かひとつ上くらいの筈だが、アニエス似の端正な顔立ちと落ち着いた挙措はひどく大人びた印象がある。しかし、ひと頃は年齢相応に悪童共に混じって悪さもしていたらしい。ただ今は、件の異国の子供レオンにシェノレスの言葉を教えるのに傾注していると聞いた。
「何でもよくご存じなんですよ。アニエス様がお読みになるような難しい本も、皆まで聞かなくてもすぐおわかりで。この間書庫へおつかいに行った時も、随分助けていただきました」
 昨今アニエスの容態が一進一退を繰り返しているために意気消沈気味だったソランジュが、その少年のことを語る間は仄かに頬を朱に染める。それを微笑ましく見守りながらも、クロエは少年の横顔に落ちる翳が見る度に濃くなっていくのを見て胸中に暗雲の広がりを感じずにいられなかった。

 風神アレンの再臨という言葉と、緋の髪をした利発な子供の存在が重なる。
 リュドヴィックは、我が子さえも贄にしようとしているのではないか?
 ジュストが反ツァーリに動くのはジュストの意志。リュドヴィックは言わずもがな。だが、直系とは言えそれを押しつけられる方はたまるまい。
 だが、クロエは思う。大人の理屈を子供に押しつけているのは、自分クロエも同様ではないか。
 気鬱を慰撫するためとはいえ、ソランジュのような子供を敢えて余命僅かなのが見えつつあるアニエスの側仕えに当てているクロエに…大神官やジュストをあげつらう資格があろう筈はなかった。
つらかったら、言っていいんだよ」
 アニエスがついに起き上がることも難しくなったとき、一度クロエはそう訊いた。しかしソランジュは少し困ったように首を傾げ、すこし心細げに口を開いた。
「いちばんおつらいのはアニエス様です。私はまだいろいろ至りませんけど、私で出来ることがあるなら…何なりとさせていただきたいと思っています。
 …ええと、もしか、不、不調法がありましたら…」
 終いには泣きそうになっているソランジュに、クロエは自身の思い違いに気付いた。
 そして、いとけないといえど毅然たる治療者を謝意を込めて抱き締める。
「済まない、私の了見が間違っていた。一緒に支えよう、ソランジュ」
 ソランジュの看護を命じたのはクロエだが、典薬寮という所属を決めたのは間違いなくソランジュ自身だということを…クロエは失念していた。危うく、ソランジュの治療者としての矜恃を傷つけるところだったのだ。
「ありがとう…ありがとうございます、クロエ様」
 鼻水をすすりあげながら不器用に微笑む少女の顔を拭ってやりながら、クロエは笑った。
 人はあやまつ。それは仕方ない。だが、気付いたところからやり直すことはできる。
 何が正しく、何が間違っているのかはわからない。リュドヴィックやジュストの大義を、今のクロエは肯定できない。だが、それを止める力もない。

 …だから今、出来ることからしよう。

***

 アニエスが歿したのは、ジュストが姿を消して半年ほど後のことだった。
 ソランジュはもういちど親を亡くしたような悲嘆ぶりであったが、やがてクロエの下で医術神官としての道を歩み始める。
 大神官リュドヴィックの次男、アンリーが海神に〝奉献〟されたのは、それよりさらに半年後。レオンと呼ばれることになったその少年がエルセーニュに漂着してほぼ一年が経った頃のことだった。
 その話を聞いたソランジュは卒倒せんばかりであったが、見かねたクロエは絶対に口を緘することを条件に…その真実を教えた。
 『海神宮わだつみのみやに仕える』とは、シェノレスにおいては鬼籍に入ることを暗喩する言葉である。『奉献』も往古、水害や悪疫などの天災に際して実際に人間が供犠とされたのをこう呼んだ。だが、この場合はジュストのように大神官直属の細作組織に身を置き俗世との縁を切ることなのである。
 ジュストは事故死扱いで姿を消している。
 しかし大神官の直系であるアンリーが消えたことについては、ツァーリの総督府に相応の説明が必要だった筈である。アニエスが歿したことから新たな人質の話が持ちあがり、アンリーに白羽の矢が立っていたという噂まであったくらいだから、神隠しだの遺体の残らない事故死だので総督府が納得したとは思えない。
 あるいは派手に一芝居打ったという可能性もあるが、真相はわからない。ただ、総督府が何も文句を付けなかった以上、総督府としては一応の納得があったとみるべきだった。
 そして十年後…総督府襲撃、開戦直後に姿を現し、「海神の御子」レオンの傍らに立つアンリーの姿を見た時…クロエは「風神アレンの再臨」という言葉の意味を再確認させられた。
 波の下の者ネレイアの統領。そして前線における大神官の代理者となったアンリーに、奉献される前の、穏やかな微笑はなかった。全ての感情を摩滅させてしまったかのような無機的な表情は、レオンの表情が多彩なだけに余計際立って見えた。
 『おそろしい人』。アニエスの言葉が甦る。…シェノレス大神官リュドヴィックは、やはり我が子を供犠としてでも、ツァーリと戦うことを択んだのだ。

 再臨する風神アレンのために道を備える。そう言ったジュストがいつ、何処で歿したのか…クロエは知らない。

END AND BEGINNING
  1. 医神の杖…医術神官の身分証となる杖。