第拾話 希望の空へ


Senryu-tei Syunsyo’s Novel Room(Novel-Ⅲ)
Evangelion SS「All’s right with the world」

 三時間ばかり遡る。
 派手なブレーキ音が閑静な住宅街の道路に響き渡った。 各々おのおの出撃準備中だっただけに、高階邸の面々に緊張が走る。だが、車は自宅側ではなく、医院側へ滑り込んで医院の呼び出しベルが鳴った。
「急患よっ!高階医師センセイ呼んで頂戴っ!」
 ユキノが休日夜間用の出入り口を開けると、鄭重に送り出したはずの人物がまた服に血糊を付けて転がり込んだ。
「…えーと、葛城、さんだっけ?」
「私じゃないわ。車の中。止血はしてるけど、多分まだ止まってない…!」
 一瞬面くらいはしたものの、場慣れしているからか、顔色ひとつ変えない。
「判りました。…ユウキかレミ、ストレッチャー出して。救急外来側。それと、補液準備。サキに声かけて」
 後半はすぐ脇のインターフォンに向かっての言葉である。
【了解、ストレッチャーを救急外来側に】
【了解、私が補液準備する】
【こっちも聞こえた。救急側へ回る】
「Sure! …葛城さん、案内を」
 インターフォンから離した手で、そのままAEDを掴んだ。おそろしく挙動に無駄がない。
「ええ、こっち」
 駐車場と言っても二台分ほどしかないが、その車は助手席を入口側にピタリと停めてあった。
「出たときと車が違うようだけど?」
「加持の車はタイヤを撃ち抜かれて走行不能。あいつは残って修理と情報収集中。…リツコ、もう大丈夫よっ!」
 そう言ったミサトが開けた助手席のドアにも弾痕が残っている。
 開けたドアの中はひどい有様だった。ユキノがシートベルトを解除して脈と呼吸を確認する。その間にユウキがストレッチャーを持ってきた。
「移すわ。ストレッチャー、下げて!」
 ユウキが助手席の高さから大きな挙動なく移乗出来るよう、寄せたストレッチャーの高さを変える。
「頭側、お願い」
「了解。…いきます、1、2、3!」
 流れるような、というのはこんな動作を言うのだろうか。移乗させてサイドレールを上げる間に、吊った右腕の上から白衣を羽織ったマサキが到着した。
「GCS…E1-V1-M3 合計5点、銃弾による腹部損傷、脈拍35、不整。呼吸は10だけどやっぱり不整。血圧は今ユウキが」
「出た、52/33mmHg」
  一目ひとめて、高階が表情を険しくする。
「処置室へ搬送、補液開始。ユウキ、ミサヲを呼んでくれ」
「了解」
 ユウキはすぐに動いたが、ユキノは一瞬呼吸を呑んだ。
「ミサヲ姉に頼むの?本気?」
「ユキノ、とりあえず搬送」
 ストレッチャーを動かそうと右腕を使いかけて、マサキが顔を顰める。それに気づいてユキノは疑問を後回しにした。
「…あたりまえの手段を採っていたら、 間に合わない・・・・・・
「それにしたって…!」
「どういうこと?」
 間に合わない、というフレーズに不吉な匂いを感じ取ったミサトが食い下がる。
「葛城さん、今から起こること…他言しないって約束できるかな?」
「それでリツコが助かるなら!」
 即答だった。マサキが完爾として笑う。
「そういうさっぱりしたとこがいいねぇ。加持の奴が入れあげる訳だ。OK…では、できるだけのことをしてみよう」
 あいつは関係無いでしょ、と怒鳴りかけて声を呑み込む。処置室の扉が目の前だった。
「サキ、モニタと補液スタンバイOK。酸素はリザーバーで準備してるけど…」
 開かれた扉の向こうにはレミが待機していた。
「酸素は6リットル、補液もすぐ開始。モニタは待て」
「酸素6リットル、補液開始。モニタは装着せず待ちます…え?」
「Sure!」
 レミが復唱してから違和感に気づいたが、マサキからそのまま 返事チェックバックがあったので即座に取りかかる。その間にミサヲが到着した。
「サキ、ユウキが呼びに来たけど…!」
 入ってきて、声を呑み込む。事態を了解したのだ。
「悪いコトには俺は今片腕だ。やっぱりまだまともに力が入らないし、入ったとしても、普通に処置してたんじゃ間に合わない。手を貸してくれ」
「…判ったわ」
 視野の端でミサトの姿を認めてはいたが、マサキが了解済みとみて何も言わなかった。
 ストレッチャーに横たわるリツコの傍に歩み寄り、ミサヲが傷に手を当てる。その手の上に、マサキが健在な左手を重ねた。瞬間、橙赤色の光が迸って視界を眩ませる。次にミサトが目を開けたときには、リツコの体幹部分は橙赤色の水の塊に覆われていた。
 水の塊、などとこれ以上理不尽な現象もそうそうないだろう。だが現実に、橙赤色の水は見えない容器に押し包まれているように零れもせず、リツコの身体を覆って 揺蕩たゆたうのだ。これだけの水が一体どこから出現し、どんな力で支えられているのか。ミサトには全く見当がつかなかった。
 他言無用も何も、自分が今目にしているものが何かさえ、理解はおろか言葉にすることさえできないのだから、喋りようがない。
「終わるまで出番なしだわね。任せといて問題ないわよ?」
 不意に声を掛けられて、情けなくも思わずびくっとしてしまう。
「あ…ええ」
「あら、あなたも怪我してるんじゃない。いらっしゃいよ、処置したげる。あなたは、普通に洗浄すれば問題なさそう」
 ユキノに言われて、そういえば左腕を銃弾がかすったのを思い出す。
「あ、ありがとう」

***

 ミサトの傷の方は、ユキノの診たて通り洗浄して大きめの絆創膏を貼るだけで済むものであった。病室のひとつに通されて待っていたが、ノックの音に返事をするとユキノが顔を覗かせた。
「今終わって、病室の方へ移したところよ。意識はまだ戻ってないけど、顔を見てみる?」
 否やはない。ユキノについて部屋を出た。
 病室のリツコの横には、ものものしいモニターが鎮座していたが、酸素はマスクでなく経鼻カニュラに切り替えられている。
 その傍らに、高階が立っていた。
「とりあえず傷は塞いだし、呼吸・心拍共に安定。あとは本人の体力次第なんだが…。ひとつ、確認させてもらっていいかな」
「ええ」
「彼女、赤木リツコ博士だな?MAGIの開発者で、例の計画の研究主任だった」
「夏の一件で更迭されてるわ。それと、本人は…MAGIに関しては開発者はお母さんで、彼女自身はシステムアップしただけって言ってる。私は、細かいことは知らないけどね」
「…その赤木博士が、何だってこんなことになってしまったんだ?全てを取り上げられた代わりに、事件からも遠ざかった人物だと…こちらは理解してたんだけどな」
「多分、私の所為…私がネルフを脱出したって聞いて、こっちに来ようとしてたみたいなの。本当に消されかかったのは私で、リツコがとばっちりってのが妥当なセンじゃない?ネルフも余裕無くなってるみたいだし、いちいち監視つけるより始末する方に傾くかも知れないなんて言ってたけど…まさか本当にこんなことになるなんて」
「…やはりまだ危険視されていたと?」
「まるきり濡衣でもないんだけどね。彼女、A-17文書っていわれるものを内緒で解析してたらしいの。あるいはそれがバレたか…」
「A-17文書?」
「…死海文書の無謬性ってやつに、疑問を呈する論拠となりかねない…多分、死海文書を奉じてる人たちにはものすごく目障りな文書ね。…要は、あなたたちのことよ。『 CODEコードKaspar Hauserカスパール=ハウザー』?」
 高階が片手で目を覆って天井を仰ぐ。
「…そーいうことか」
 呻くような声音に、ミサトとしてもそこから継ぐ言葉を見いだせずにいた。そこに、新たなノックの音がした。
「ごめんなさい、終わったって聞いたけど…」
 碇ユイ博士だった。
「どうぞ。まだ意識が戻ってませんが」
 高階が応えた。ユイは部屋に入ると、リツコの枕元に立つ。
「ごめんねリッちゃん…わたしたち、皆に迷惑振りまいてるわね。こんな事になってしまって…」
 まだ蒼白い頬をそっと撫でて、ユイは声を震わせた。
「おばさま、リツコと面識あったんですか?」
 頭の中でうまく繋がらなくて、ミサトは思わずそう訊いていた。
「そうよ、だってリッちゃん赤木博士の娘だもの。ああ、今となってはリッちゃんだって博士なのよね。最後に会ったのもう十年以上前かな。…赤木ナオコ博士。私たちの研究の大事なパートナーだったの。とっても優秀な方で、彼女が早世してしまったことがどれだけ痛手だったことか。
 私が研究所を出てしまってから、リッちゃんが入ったとは聞いてたけど…実験失敗の責任を負わされて放逐されたんでしょ?全くあのひとときたら、ロクなことしないんだから。これはもう、本気でとっちめてやんないと私の気が済まないわ」
 さっきまでの震えた声とは別人のような剣幕に、ミサトの方がたじたじになってしまう。
「そうしたいのはやまやまなんですけど…」
「そうね、亀みたいにジオフロントに引き籠もってちゃ、どうにもならないわよね」
 高階が、苦笑いしながらそれに補足した。
「…ついでに言うなら、とっちめられたぐらいで翻意するような御仁ではなさそうですがね。しぶとさと頑迷なことにかけてはどうやらゼーレ以上らしいですが」
「それについては…後ほど、高階さんにご相談が」
「…は?」
「あと、行動開始にあわせてヴィレの実働部隊にも派遣要請をしています。…ネルフを武装解除させるにしても、司令官の身柄を抑えてしまうのが一番早いし、損失も少ない」
「ちょっ…ジオフロントに実働部隊を投入されるんですか!? 失礼だが安全は保証出来かねますよ。何が起こるかわかったもんじゃないんだから」
「そのあたりはこちら側の責任ですからお気遣い無く。あなた方のお邪魔はしません。あなた方はあなた方の目的を果たしてください」
「…研究の『中身』がきれいさっぱり消失してしまったとしても、異存はないと?」
「そう、そこなんです。惜しむ人はいるかもしれませんけれど。消滅してしまったものは仕方ありませんわ。なにせどこの組織の仕業かは判らないけど、第3新東京市はテロ警戒中だっていうじゃありませんか。不測の事態だって起こるでしょう、ね?」
 おばさま、最強。ミサトはつくづくそう思った。高階ほどの人物が、一瞬開いた口が塞がらない様子だったのが少しだけ可笑しかったが、笑っていられる状況下ではないので辛うじて呑み込んだ。
「… 貴女あなたとだけは、絶対に喧嘩したくありませんね。勝てる気がしない」
「褒められたと思っておきますわ」
 ユイがころころと笑う。
「じゃあ、私もその部隊に参加させてください。どのみち第3新東京市を脱出しようとしても狙われるみたいだし、市内で息潜めてなきゃならないくらいなら、討って出る方がましです。それに、ジオフロント内部を分かっている私が同行するのは、損にはならないでしょう?」
 実はそのジオフロントと本部施設でさんざっぱら迷っていた、という事実はこの際棚上げなのだが。
「…またこのひとは…」
 高階も、もはや迷惑そうな顔を隠しもしなかった。
「そうね、実際に襲撃された事実があるわけだし…いっそ、実働部隊にいてもらった方が安全かも知れないわ」
「ありがとうございます!」
「もう好きにしてください。…ただし、こっちが突入してから1時間ほどは空けてくださいよ。それと、警告したら結果の如何を問わずとっとと即時撤収してください」
「了解しました。では、タイミングについては連絡が取れるようにしておきましょう」
「では、場所を変えましょう。…怪我人の頭元でする話じゃありませんよ」
 医者の顔で高階が言うと、さすがのユイが粛然として声を低めた。
「ごめんなさい、私ったら…」
「ここは別の者に頼んでおきます。うちのほうへ移動を」
 ナースコールを押しかけた指を戻す。ドアの方へ歩み寄り、すっとドアを引いた。
「あと、頼めるな?」
 ドアの傍に、誰かいたのか。ミサトの位置からは見えない。高階について部屋を出る時、気になってふとそちらを見た。
 廊下の壁に上体を預けるようにして、どこか所在無げに立ち尽くす青年―――――彼、だった。
「あ、あの…」
 何を言うつもりだったのか自分でも分からないまま、ミサトは声を掛けていた。
「こっちですよ、葛城さん」
 立ち止まったミサトに、高階が声を掛ける。
「え、ええ…」
 青年の、昼間会ったときとは別人かと思うほどの顔色に…結局、なにも話せずにそこを立ち去ることになった。

***

「…お前の方が酸素要りそうな顔じゃないか。大丈夫か?」
 行動開始時間が迫ったため、病室まで声を掛けにきたのだが…タカミの様子を目にしたイサナが口に出してしまったのはそんな台詞だった。
「…ああ、イサナ」
「サキがようやく残留に同意したぞ。片腕ってことを痛感したらしい。それと、術後の患者を手薄な病棟に置いとくのはやはり心配なんだと。…まあ、結果オーライか」
「ミサヲさんが手を貸してくれたと聞きました」
「通常の処置では間に合わないと判断した…そうだ。正直、 現生人類リリンに適用できるものかどうか賭の域とは思ったが…サキの判断が正しかったということだな。まあ、俺達も半分その形質を持っているわけだし、その俺達に有効ってことは、彼等にもある程度の効果を期待してもいい訳だが…」
「何にしても、良かったですよ」
 タカミが小さく吐息した。
「これで彼女にもしものことがあったら、僕はMAGIに自律自爆をそそのかすところでした」
「冗談に聞こえないところが怖いんだが」
「実はもう、ウィルスは組み上がってるんです」
「…落ち着け。とりあえず落ち着け」
「落ち着いたから、ネットワークから隔離したんですよ」
「どうしてこう、うちの面々はおとなしそうな奴に限って…」
「ごめんなさいイサナ、冗談です…と、…」
 ベッドの上の彼女が、僅かに動いた。ゆっくりと、目を開ける。
 不意に、タカミの表情が硬くなる。…硬い、というのが妥当でないとすれば、怯えにも似たものを感じ取って、イサナは眉を顰めた。だが、さしあたってしなければならないことは。
「…大丈夫ですか?」
 そう、声を掛けた。
「ここは病院です。赤木…リツコさん? あなたは怪我をして、ここに搬送されたんです。手術は終わっていて、経過は良好です。何処か痛みはありますか?」
「…ありません」
「それは良かった。何か気に掛かることはありますか?」
「いえ…ああ、誰がここに搬送を?」
「葛城さんという方です。後でもういちど、こちらにお見えになると思いますよ」
「…ありがとう…ございます」
 一度、遠いところを見た。そして、何かを思い出したようにこちらを見る。注意の対象はタカミであることは、すぐに判った。イサナはまだ白衣を引っ掛けたままだったが、全く私服のタカミは病院の人間ではないと判断したのだろう。
「…あなた、まさか…」
 彼女が何かを言いかけた途端、タカミが俄に椅子から腰を浮かせたので、椅子の背に手を掛けていたイサナは僅かに 均衡バランスを崩した。
「…タカ…!」
「サキを呼んできます」
「待って…!」
 先刻まで昏睡していたとは思えないほどの動きで、リツコは立ち上がりかけたタカミの手首を掴んでいた。
「…帰って…きたの?」
 一瞬ではあるが、タカミが硬直したのがイサナにも判った。
 だが、次の瞬間にはもう、何処で覚えてきたかというような外向きな微笑を浮かべてやんわりとリツコの手をシーツの上へ戻す。
「すみません、僕はさかきといいます。… 医院ここの事務にいる者ですが、人手が足りないと院長に言われまして。院長を呼んで参りますので、暫くお待ちください」
「…え…ああ、ごめんなさい」
 踵を返したタカミがドアに手を掛けようとした時、ドアは勝手に開いた。マサキだった。
 三者の顔色を見て、大体の様子を察したらしいマサキは、表情を変えずに言った。
「あとは引き継ぐ。詳細はイサナに」
「は、はい」
「了解」
 イサナが立ち尽くしてしまったタカミの傍をすっと通り抜ける。それにはっとして、タカミも続いた。だが、扉を閉める一瞬…俯いた彼女の姿を目にしてしまい、唇を噛むのが見て取れた。
 掛ける言葉に刹那迷ったイサナだったが、敢て大仰に肩を竦めて言った。
「…よくもまあ、ああいう場面でさらっと偽名が出てくるものだな」
「…偽名じゃないんですよ、『榊タカミ』は。それに、嘘は言ってません」
「偽名じゃないって…あ…」
 思い当たる。タカミは、サキと同じ能力を持っている。
「…別の時間軸…?」
「どうしてなんだろうなぁ…僕はあのひとに、迷惑かけてばかりだ…」
 力が抜けてしまったように、閉めた扉に凭れ掛かる。紛うことなき自嘲がタカミの表情に影を落としていた。
「何度も出会って…何度も 離別わかれて…それでも僕が僕で、あのひとがあのひとであることは変わらなくて…結局ここでも、結果的にあのひとを陥れているんです。あるいは、襲撃されたのだって僕が原因かも知れない。今更、どんな顔して会えばいいんです?」