2000.9.13 A.D.――――
南極 カルバリーベース
EVER AFTER
You are not alone.
榊タカミは、悲鳴をあげる四肢を叱咤して、ようやく立ち上がった。
立っていられない程の強風。そこは数時間前まで大勢の人間が立ち働く研究所、その外は見渡す限りの雪原であった。だが今、雪はもとよりすべての水分は蒸発し、乾いた砂礫の中に建造物の残骸が点在するのみ。だがそんな荒涼とした風景でさえ、これから起こる事象の前に消え失せる運命にある。
「とうとう…やっちゃったか」
〝完全〟であることを希う者達は、遂に禁断の扉を開けた。
海の浄化、大地の浄化、魂の浄化を経て、総ての魂をひとつにまとめ上げ、〝完全な生命体〟へと進化する。それは禁を犯して知恵の実を得た人類が生き残るただひとつの道、儚い抵抗。
「わかってる…わかってるけど…まだ他に方法があるかもしれないじゃないか。爺さん連中、なんだってこれほどに事を急いだんだ…!」
これまでの文書の解析結果が正しければ、今…総ての浄化を行ってしまうわけにはいかない。条件が満たされていないからだ。…おそらく、何処かの時点で止める算段はついている筈。
そしておそらく、その役目に当てられているのは…。
その時、強風に煽られた巨大な建材の一部が糸の切れた凧のように飛ばされて来た。避けきれない。
「できるかな…できるといいな。まあ、できなきゃ死ぬけど」
タカミは呼吸を整え、猛然と襲いかかってくる…捻じ曲がった鋼材をまとわりつかせた壁材に向かって手を伸べた。無論、こんな脆弱な腕で止めきれるシロモノではない。
この地上に生きる者は、他者と自身を隔てる絶対の壁を持つ。それは本来、自身の身体を構成するために与えられた力だ。それを、自らの身体をジェネレータとして、恣意的に自身の身体の外へ防壁として展開する。理論上は可能なはず。…今までそんなものを行使する必要に駆られなかっただけで。
――――〝絶対不可侵領域〟。
オレンジ色の光芒が散り、硬い音がして壁材が木っ端微塵になって吹き飛んでいった。
「…は、できるもんだね」
風と共に吹き過ぎた残骸を見送ってそう呟き…強風の中、砂礫の大地の上にまた膝を折る。
まさか、これほどに消耗するものとは。致命的な一撃は免れたものの、断続的に吹き飛ばされてくる小さな建材の破片や岩石は容赦なく身体を打ち据えた。小さな破片が頬を叩いて飛び去る。
あぁ、切れたな。
頬に手を遣ると、禍々しい緋色が指先を染めた。
「ここまでかなぁ…」
跪き、祈るように瞼を閉じた時、不意に腕を掴まれて目を開けた。
「駄目だよ…」
白銀の髪が、薄闇の中で遠くの光を受けて輝く。
「諦めないで。…お願いだから、生きることを諦めないでくれ」
ようやく焦点を結んだ視界の中で、辰砂の朱色が、零れそうな涙を湛えていた。現在のタカミよりも上背も肩幅もあるのに…まるで子供みたいな泣き顔で。
「カヲル君ってば…狡いなぁ。そんなこと…そんな顔で言われたら、なけなしの体力振り絞って頑張るしかないじゃない?」
カヲルに引き起こされるようにして…タカミはもう一度、ふらつく足に号令をかけて立ち上がった。
「よっこらしょっと…あぁ、ありがと。とうとう、はじまっちゃったねえ。想定してた中で、一番嫌な展開になっちゃったみたいだよ?」
ともすれば頽れそうな自身の膝を両手で軽く撲つタカミを見て、カヲルが安堵したように微かに口許を綻ばせた。
「そうだね…だからここは、僕が止める」
そうして決然と、カヲルは突風の中心…薄闇の中にそそり立つ光の柱へ向き合う。ああ、やっぱりそうなるのか。あの老人達はきちんと保険をかけていた。研究途上なのに実証実験とばかりに無理矢理コトを起こしたのは、こうなることを見越してか。
「…どうして、君が…?」
答えが判っていて、タカミは訊いた。
「だって…このままじゃ皆、消えてしまうよ」
「後悔してるの?研究に手を貸したことを?」
カヲルは哀しげに微笑い、首を横に振った。
「僕はね…皆に幸せになって欲しかったんだ…」
それを言うならね、僕らは君にこそ笑ってて欲しかったんだよ。…そんな哀しい笑いじゃなくて。君が犠牲になったんじゃ誰も救われないんだ。それでも君は行くの?――――喉元まで出かかった言葉。でもタカミがそれを口にしても…彼はきっとその歩みを止めない。
「僕のことなら心配要らない。…僕は消えることができないから。
一刻、実体がなくなるだけだ。僕は必ず、帰ってくる。でも、それがいつになるかがわからない。だからタカミ、皆を頼むね」
涙痕鮮やかな目許に、精一杯の笑みをうかべての懇請。…肯う以外、何ができる?
「酷いなぁ…カヲル君。一番キッツい役目を、よりによって僕なんかに振るつもり?」
「ごめん。でも、そうでも言わないと…タカミってば、生きて帰るつもりなさそうなんだもの」
「老獪なんだから…」
「それは…年季が違うからね」
カヲルが微笑う。それはわずかだが、先程より明るく見えた。それは今この状況では…全く何の救いにもならなかったけれど。
吐息して、タカミは光の中心を見る。
「多分、初期段階で南極大陸くらいは十分に吹っ飛ぶよね?その後、L結界はゆっくりと世界の海を覆い尽くす。数年…場合によっちゃ1年と経たずに海は死ぬ…な」
悪夢のような光景が脳裏に浮かび、石を呑まされたような重みにタカミは思わず鳩尾を抑えた。
「…あ、爺さん達…今、間違いなくライゼンデの中で一番怖い敵をつくったぞ」
「そうだね…イサナってば、無茶しないといいんだけれど。存外、熱いとこあるからなぁ。ごめんねタカミ、頼み事ばっかり増えちゃうな」
「とりあえず、努力はしてみるよ。…さしあたっては、生き残るところから」
もうすぐここはすべての生命を拒む原初の海に戻る。脱出艇らしいものは既にない。生身で放り出されれば、生命を成す前の姿にまで還元されて溶け込むしかない。
――――人類であれば。
タカミを引き起こしていた手がそっと放される。触れていたことの安心感からふっと放り出された気がして、タカミは思わず息を詰めた。
「――――カヲル君!」
それに続けるつもりだった、引き留める言葉は…喉に張り付いて出てきてくれなかった。その手の代わりに、温かな両腕がタカミを背中から包み込んだからだ。
「…生きてくれ」
耳朶のすぐ傍で、絞り出すような…いっそ囁きに近い幽かな声が聞こえた。それと一緒に、L結界から身を守る繭1の術式が頭の中に流れ込む。
繭…ATフィールドを応用した防壁の物質化。物質として空間に固定されれば、展開した者が何らかの事情で意識を手放したとしてもある程度の時間、L結界の浄化を無効にすることが出来る。
これなら!
その瞬間、触れていた腕の温かさが硬質な繭に置き換わる。そう、この術式。この上なく完璧な実例。…やるしかない。
術式とは設計図…データだ。それを、自身の身体を媒介として物質化する!
生物の身体は精巧かつひどくおおらかな一面も持つ電子回路。それをジェネレータとし、術式を現実世界に展開する。そうすることで、術者が意図した現象を空間に顕現させる。それは往古、魔術という呼ばれ方をすることもあっただろう。
できるか?できる。今、自分を包み込む繭はカヲルが作ったもの。その更に内側に、伝えられた術式で〝繭〟をつくるのだ。
ただ、物理防御としてのATフィールド展開にしてからが、タカミには正直ギリギリだった。構成に成功したとして、どのくらい意識を保っていられるものか?おまけに繭の生成は、ようやく物理防御としてのATフィールドを組み立てることが出来たタカミにとっては…言ってみればようやく連立方程式を解けるようになったところで微分積分の証明問題を突きつけられたようなものだ。いくら解が既に提示されているといっても、ぶっつけ本番でそれを間違いなくなぞることができるものかどうか。
――――だが、何としてでも生き残ってやる。どれほどに惨めでみっともないことになろうと、必ず。
そこはまだ青い海と、白く美しい砂浜との間であった。薄暮の空は不穏な雲に覆われていたが、海も、陸も、平穏そのもの。海と陸を分かつ波打ち際、波が置いてゆく白い泡でできた淡い線が遙か向こうまで続いている。
突如として、空間に亀裂が生まれる。
ガラスが割れるような音と共に、繭が爆ぜた。繭の破片は六角形の結晶体となって零れ落ちながら形象崩壊してゆき、風の中に溶ける。
タカミは、降りたというより落ちた。傍からそれを見る者があれば、忽然と砂浜に人が現れ、倒れ伏したように見えたことだろう。
「…あいたたた…うっかり死んじゃうトコだった…」
立ち上がって数歩、しかし結局立っていられなくて、もう一度倒れ込む。穏やかな波に顔を洗われて咽せ、咳込み、タカミは辛うじて砂の中に肘をついて上体を起こす。
ここは何処だろう。どのくらいの距離をおくことができたのかはわからないが、今すぐにここが原初の海に還されることはなさそうだった。少なくとも、今のところは。
さしあたって這うようにして波打ち際から少し離れたところまで上がり、仰向けになって砂に身を預けた。
昏い空の彼方に黄金の火柱があがっているのが見える。それがゆっくりと翅の形を成し、ゆっくりと赤く染まる虚空に広がってゆく…。
ある一瞬、その動きが止まった。
広がった翅は広がった時と同じようにゆっくりと畳まれていく。
タカミはただ深く吐息して両手で目を覆った。細く嗚咽が漏れるのを、止めることはできなかった。
――――消えることがない、消えることができないとしても…痛みも苦しみも無い訳じゃないだろう。
時としてカヲルに現れる記憶の欠落は、永劫の俯瞰者として存在し続ける為の、ある種の救済措置でもあろう。あるいは…自分たちはそれを補填するための装置であるのかもしれない。
「…カヲル君、君を必ず連れ戻すよ。君はまだ、探し続けたひとに…逢えてさえいないんだから」
忘れることが恩恵だとしても、見ているほうは辛すぎる。
砂浜に仰臥したタカミの、目を覆った両手の下から、滂沱たる涙が滑り落ちて砂を濡らした。