緑瞳の鳥

 足を滑らせた訳ではない。
 天の蒼と地の白銀が織る絶景にふと心奪われ、雪に紛れて道の端に寄り過ぎたのか。雪を被った道が突如として崩れたのだ。
 絶望的な浮遊感。雪渓を睥睨するかのように佇立していた喬木の瑞々しい緑と、天の蒼、そして雪の白銀が視界で回転する。その直後、叩きつけられた雪の下に木の根が触れた。
「………!」
 全身全霊を込める、というのは、こういうときを言うのだろう。木の根が触れた指先に、サーティスはありったけの力を込めた。
 この瞬間に木の根が切れなかったのは、天佑神助というべきであったろう。ぶら下がったまま足下の雪渓を見下ろして、ふっと息を吐く。
 だが、問題はこれからだった。とりあえず落下は免れたものの、足掛かりもなしにどうやって上がるか。
「…やはり日ごろの不善が祟ったかな。全く、今一歩のところで墜死では笑い話にもならん」
 木の根に両手をかけて一息つく。反動をつけての軽業という手段もなくはなかった。自身の膂力には相応の自信がある。だが、そういう荒事をしてこの根が保ってくれるかどうか。
「…やるしかないな」
 サーティスが肚を括ったとき、不意に頭上から澄んだソプラノの声が降った。
「大丈夫!?」
「…何とか落ちてはいないよ」
「つかまって!早く!」
 雪に阻まれて、顔は見えない。だが、そう言って蒼穹と白銀の狭間に差し出された手は、大の大人が借りるには少々華奢だった。
「無茶だ、誰か人を…」
「あなたがそこにつかまってられる間に呼んでこれるようなところに、人がいるとでも思ってるの?ぐたぐた言ってないで早くつかまんなよ!大丈夫だから!」
 一気にまくし立てられて、思わず鼻白んだ。なんとも威勢のいい娘だが、通りすがりの旅人と心中する破目になったらどうするつもりなのだろう?
 もしものときに心配する命の数が増えることになるが、ほとんど声の威勢に押されてその華奢な手を借りた。
「ひっぱるからね!」
「無茶はしてくれるなよ?」
 ぐっ…と、引っ張り上げられる。なかなかどうして大した力だ。だが、それと同時に微かな違和感を感じる。半ば差し出された手の力を借り、半ば木の根に掴まった手の力を以て、懸垂の要領で身体を持ち上げる。足を根にかけて、ようやくのことで崖の上まで這い上がった。
 サーティス自身も疲れ果てて暫く雪の上に伏したまま動けなかったが、救援者もまた息をはずませていた。
 礼を言おうとして顔を上げた途端、サーティスは勘違いに気づいて天を仰いだ。それと、先刻感じた僅かな違和感の正体にも。
「…どうしたのさ?」
 雪の上に座りこんで息を整えていた救援者が、きょとんとして彼を見た。
 ─────声が高いはずだ。手も華奢なはずだ。救援者は、まだ十代も入りたてと見える少年だった。…違和感の正体は、胼胝たこだった。まだ少し華奢な掌には、それでも剣を持ち慣れた者特有の胼胝があったのだ。
 ノーアでは珍しい、つやのよい黒髪と鋭さの目立つ紫の瞳。
「…いや、なんでもない。助かったよ。どうもありがとう」
 率直に礼を言うと、少年は屈託のない笑みをして言った。
「ほら、大丈夫だったろ?」
「全くだ。しかし・・・よく支えきれたな」
「はは、俺の体重であなたを支えようと思ったらどうしても無理があるさ。これがタネあかし」
 彼に差し出したのと反対側の手に、なめし革の太い紐が巻きついていた。ノーアの衣装に使われる、細いが長く丈夫な帯。そしてその先は、雪渓を睥睨するように佇立する喬木の幹に回されている。
「…成程」
 それにしても、僅かな間…殆ど瞬時だっただろう、よくそこまで頭が回ったものだ。
「どうやってお礼をしたらいいかな。旅の途中で余り持ち合わせがないんだが…」
「そんなのいいよ。…あ…っと」
 不意に、その生気に溢れた瞳が真剣味を帯びる。
「女の子、見なかった?俺より少し小さいぐらいの、黒い髪で…特に荷物は持ってなかったと思うんだけど」
 この瞳で見つめられた日には、大抵の人間は知っていること全て洗い浚い喋らなければならなくなるのではなかろうかという程に切実だったが、残念ながらサーティスは少年の尋ね人を見てはいなかった。
「…いや…見なかったな。一体、何があったんだ?」
「…俺の怪我が自分の所為だって思いこんじゃって…家を飛び出したんだ」
 苦しげに、紫の瞳が曇る。
「怪我?」
「大した怪我じゃないんだ。ちょっと歩くのが面倒くさいだけで…」
「診せてみろ、私は一応医者だ。さっき力を入れたりして大丈夫だったのか?」
「傷の庇い方ぐらい心得てるよ。骨に異状はないみたいだったし…」
 そう言いながら、雪の上にぺたんと座り込む。靴を放り投げ、雪にまみれた下衣ズボンを膝まで捲り上げた。下腿部全長に渡って巻かれている包帯は朱に染まっている。
「…あ、こりゃまずいか」
「『あ、まずい』じゃないだろう!? 傷が開いて…!」
 当人のほうはけろっとしているが、無理をさせたことが原因ならこのまま看過する訳には行かなかった。こんな傷を引きずってまで、一体誰を探していたというのだ。
「痛くないのか?痺れは?原因は一体何だ。この傷の大きさは只事じゃないぞ!?」
 今度は、少年が鼻白む番のようだった。さしあたってはこのままにしておくと服が血に汚れる……そっちの方を気に掛けているのは明らかだったが、素直に答えた。
「ちょっとだけ…ずきずきするけど、痺れてはないよ。…原因は…」
 口ごもる。だが、サーティスが手早く包帯を取ったときにすぐに知れた。明らかな刀創だ。
「…なんとも、穏やかじゃないな…。おまけに誰だ、こんなお粗末な縫合をしたヤブは!」
「…悪かったね」
 少年がむすくれる。
「…まさか、自分で?」
「…知られたく…なかったんだ…だから…フレイのとこから針と糸だけ持ち出して…」
 ぼそぼそと、とんでもないことを告白されて驚く前に慄然とした。
 相当な痛みだったはずだ。はがねどころか金剛石ダイヤモンド並みの精神力である。おまけによく、化膿しなかったものだ。
「…縫合をやり直す。いいな?」
「…“お願いします”」
 そっぽを向いて、棒読みそのままの科白だった。
 幸い、商売道具は崖の上に残っていた。雪の上に投げ出されていた背嚢を引き寄せる。投げ出された衝撃ショックは雪が吸収したらしく、薬瓶もあったのだが壊れてはいなかった。
 薬瓶から取り出した葉を少年に渡す。
「口に含んで、ゆっくり噛むんだ」
「…何か、染み込ませてあるね」
「このまま縫っても眉ひとつ動かしそうにないが、痛みをこらえれば縫合もやりにくくなる。だが、それを噛んでいれば、少しはましになる」
「ふうん…」
 少年は何だかよく分からない、という面持ちだったが、特に異議を差し挟むことなくそれを口に含んだ。
 無茶苦茶な縫合の糸を切って抜き、傷口を手持ちの酒で洗って縫い直す。本当ならもっとしっかり洗浄したいところだが、幸い膿んでいる様子はないから薬草を当てて保護すれば酷いことにはならないだろう。創が長いだけに手間は掛かるが、特に難しい部位という訳でもない。
 かなり鍛えた身体であることは一目見て判った。身形みなりもそうだが、先程の剣胼胝けんだこのついた掌といい、少なくとも騎士階級以上、しかもかなりしっかりした実戦向けの基礎教育を受けていることは分かる。痛みを和らげる薬を含ませてはいても相応に疼痛があるはずだが、上手に呼吸を整え過度な緊張を抑制しているのに気づいて、舌を巻いた。
「…さ、終わった」
 サーティスが縫合を終えて包帯を巻きなおし、道具を仕舞うと、少年は頭を振って言った。
「何だか、頭がぼうっとする…気分は悪くないんだけど」
「おっと、その葉はもう吐き出せ。余り多用していいものでもないしな」
「うん…」
 少年が葉を吐き出して、側頭部を叩く。
「あ、まだ名前言ってなかったっけ」
 元どおり靴を履き、まだ少し頭がはっきりしないのか、傍らから取った雪の塊を頬に押し当てながら立ち上がる。
「痛みは?」
「動けないほどじゃないよ…ありがとう。俺は、リオライ。…ただの、リオライだ」
 ただの、と強調する少年の表情は、ひどく複雑だ。だがそれよりも、その名に記憶を刺激され、サーティスは一瞬だけ表情を引き攣らせた。
「どうしたのさ?」
 少年に気取られてしまったことに一抹の口惜しさはあったが、何事もなかったように柔らかい笑みを浮かべて見せる。表情を隠すことには慣れているつもりだったが。
「…いや、何でも…。私はサーティスというんだ」
「シルメナの人?」
「母がそうだったらしいね。…じゃあ、リオライ、気を付けて。暫く、足に無理をかけるなよ。腫れるぞ。それと、包帯はマメに換えるんだ」
「サーティスさんも気を付けてね。もうあまり、道から外れないほうがいいよ。確かに景色はいいけど、一つ間違えば冬神シアルナ宮行きなんだから」
「ありがとう…。捜している子が、早く見つかることを祈っているよ。それと、たずねびとが気になるのは理解るが熱が出るかも知れないから…暫くおとなしくしておけ」
「ありがとう。それじゃ!」
 足に無理をかけるなと言ったばかりなのだが、少年は彼がきたほう…ギルセンティア山脈への間道へ走って行った。
「…意外なところで…意外な人物に出会うものだな…」
 サーティスは少年を見送り、金褐色の髪をかきあげて息をついた。髪に纏わりついた雪が水滴になって滑り落ちる。
 確かに、色合いは全く違うが目許は少しライエンに似ているだろうか。ライエンの眸は碧とも翠ともつかない微妙な色彩であったが、…あれは、紫水晶アメジストだ。ライエンにはない、苛烈な何かを持った…。
「“リオライ=ヴォリス”…次代の、ツァーリ宰相…」
 本来、ライエンが継ぐべきだった地位ポジション。ライエンの死が、あの少年の未来を変えた。それが少年にとって幸いとなるか災いとなるか、今はまだ霧の向こうだ。
 あらゆる資質に恵まれ、正統かつ優秀な後継者として嘱望されていた長男ライエンと違い、とかく噂になった子供だ。生まれて間もなく、生母シェヴンが不義の疑いをかけられ、既に後継者があるを幸いノーアへの人質として放擲されたとか。あるいはヴォリスの血統にはない見事な黒髪、鮮烈な紫瞳――その昔「狂嵐」を引き起こし聖風王に牙剥いたという地の精霊の持物アトリビュートを忌まれたからとも。…いずれ、宮廷雀どもの無責任な噂噺に過ぎぬが。
 資質については未知数というしかない。だが大人達の事情はさておき、この地でノーア公や雪姫ナルフィリアスの鍾愛と薫陶を惜しみなく注がれ、至って自由闊達、しかも真っ直ぐに育っているようである。ツァーリに呼び戻す話は随分前から上がっているが、ノーアの方が居心地が良いとみえ、何のかのと理由をつけてツァーリへ行くことを渋っている…というのは、このあと少年の義兄に当たる人物から聞いた話であった。
 だが、この時点ではその人物に会う予定はなかった。予定ではこのまま西へ抜け、まっすぐイェンツォ郷へ行くはずだったのだ。
 予定の変更を余儀なくされたのは、そのあと暫く歩いた後、雪の中に半ば埋まっていた小さな手を見つけたときだった。
 雪の中から掘り出したとき、その子は辛うじて息をしていた。目立った外傷はないがひどく身体が冷えていたのだ。埋まりかけていたところを見ると、昨夜の雪で方向を失い、行き倒れたのだろう。息があったのは僥倖というべきだった。
 揺り動かされ、その子供がうっすらと目を開けた。
「…ここ…どこ…?ツァーリ…?」
 ─────この季節に、子供の足でギルセンティアを越えようとしていたのか?
「一人なのか?親はどうした?」
「ねえ…ここどこ…」
 彼の問いなど聞いてはいない。だが、サーティスはその子の身体の冷え方に危険を感じていた。早く手当てしてやらねば命に関わる。かといって周囲に人家があるでなし、一番近い町といえばノーアの首都アズローしかない。
 身元より、命を救うのが先だ。サーティスはその子供を抱き上げて歩きだした。
「…どこ…いくの…?」
 どこかへ連れて行かれるのを何となく感じたのか、半睡半覚のまま、その子は言った。
「アズロー…とりあえず、屋根のあるところで身体を温めたうえで休まないと、死ぬぞ」
「…だめ…」
「…何?」
 伸べられた小さな手が、存外強い力でしがみつく。思わず足が停まった。
「…だめ…だめ…あそこには…帰れない…」
 譫言めいた、だがそれは切羽詰まった拒否であった。

***

 サーティスがアズロー郊外・キルナにあるその館にたどり着いた頃にはすっかり日が暮れていた。
 当惑されて当然の時刻で、状況だった。しかし穏和な館主人やかたあるじは何も訊かず、久闊を叙するもそこそこに速やかに子供の手当てと旧い友人の饗応の支度を家人に命じる。気働きのよい家人たちがその子をてきぱきと介抱する間、サーティスもまた旅塵を落として雪で湿った衣服を換えることができた。
 サーティスが程良く暖められたその部屋に通された時、少女は毛布にくるまって長椅子の上で眠っていた。
「今、床の準備はさせています。それを待つ間に何か少しでも口にできると良いのですが、先程少し重湯を摂っただけで、眠り込んでしまいましてね」
 ひとまず、凍死の危機からは脱したらしい少女の髪をかきやりながら、館主人が言った。
「粗餐で恐縮ですが、此方こちらも準備させました。…召し上がりながらで結構ですから、さしあたり事情をお伺いしてもよろしいですか?」
「久し振りだというのにいきなり厄介事を持ち込んで悪いな、愁柳シュウリュウ
「…その名で呼ばれるのは久し振りですねえ」
 いつもは後頭部に結い上げている鴉羽色とでも言うべき長髪を、今はおろして背で軽く纏めている。深緑の双眸を僅かに細めて、館主人が柔らかく笑んだ。

 ノーアの現・佐軍卿にして、ノーア公女ナルフィリアス=ラフェルトの夫君。今はノーア風にその名をシュライと改めているが、かつては愁柳シュウリュウと呼ばれていた。
 虫も殺さぬ穏和なかんばせでありながら、かつては西方の戦場で諸国から紫電竜王しでんのりゅうおうと畏れられた竜禅国りゅうぜんこく皇太子愁柳シュウリュウとはまさにこの人物であった。サーティスよりもいくつか歳は上の筈だが、西方人の常で一見して年齢がわかりにくい。
 異母弟・桂鷲ケイシュウ一派の策謀で眼を病み、一度は戦場を離れるも、その剣技の冴えは些かも衰えることはなかった。しかし当時竜禅に遣わされていた公女ナルフィリアスを巡って異母弟・桂鷲ケイシュウと衝突、結局彼女と添い遂げるために皇太子の地位はおろか国さえ放擲してこのノーアに渡ってきた傑物である――――。

 雪の中を歩いてきた身には、温かい食事はどんな贅沢にも勝る。
 サーティスが有難く饗応にあずかりながら事の次第を説明すると、愁柳は小さく嘆息した。
「それでわざわざ?アズローのほうが余程近いのに、この冷え切った子供を懐に入れて、このキルナまで運んできた訳ですか。あなたも唇を真っ青にしていた訳がわかりましたよ」
「あんな切羽詰まった様子でアズローは絶対駄目、と言われたら…そうするしかないだろう」
「それはそうかもしれませんが、あなたが合理的判断より感情を優先するという状況が少々意外でしたので。存外律儀なんですね」
 感心したように言われ、サーティスが苦虫を噛み潰す。本当に感心しているのか、単に揶揄っているのか…この佐軍卿の場合、しばしば区別が付けづらい。
「…感情を優先したわけじゃない。何か理由があるんだろうと思っただけだ」
 サーティスの言い訳じみた訂正を、愁柳が完爾として受け容れ茶を啜る。
「まあ、それはそれとして。…ノーアの子供ではないようですね」
「…やはり、そうか」
 身体を内から温めるには一番効果的な方法ー酒ーによって、サーティスはとうの昔に顔色を取り戻している。今は純粋に、ややきついノーアの酒を楽しんでいた。
「あの黒い髪だけでも、北の人間ではなかろうと思っていたんだが…」
「…いいえ、北の人間ではあるようですよ。北にも、黒い髪の人間は多いものなんです。…どうやらこの子はサマンの一部族のようですね」
 愁柳の、穏やかな…だが重大すぎる言葉に、サーティスは思わずむせた。
「サマンだと?」
「これを…」
 少女を起こさないように、そっと襟元を広げる。左の肩口に、紋章のような刺青があった。
「…!」
 息を飲む。成人に程遠い少女に刺青をするなど、サーティスの属す文化圏では考えられないことだった。
 愁柳はやはりそっと、毛布をさらに深くかけ、眠りを妨げなかったのを確かめて側を離れた。
「…左の肩口なのは、たぶん命を守るための護符のような意味だからでしょう。似たような話を以前聞いたことがあります。どこの部族かまでは、さすがに分かりませんが。
 …アズローへ連れて行かなかったのは、正解でした。私はてっきり、あなたがこの子をサマンだと気づいてのことかと思っていたのですよ」
 ノーアとサマンの対立はもう数百年に及ぶ歴史を持つ。うっかりアズローでサマンの者と分かれば、たとえ子供であろうと身の安全は保障できない。
 あの少女一人にギルセンティアは越えられないのは明らかだ。では、アズローとギルセンティアへの山道をつなぐあの道で倒れていた彼女は、アズローにいたのか?
「…最近ノーアで何か変わったことは?」
「特に物騒なことは起こっていませんよ。暦はともかく、ここはまだ眠りの冬ですからね。春神が本格的に訪れればまた活気も出て、ついでに物騒なことも増えますが…。
 ただ、直近の詳細はちょっと分かりませんね。レインがアズローの状況については定期的に報せてくれるのですが、あくまでも重要事項だけですから」
 サーティスは手のなかの杯を揺らしながら僅かな間を置いたが、ふとその手を止めて言った。
「…立ち入るまいとは思っていたが…やはり聞いておこうか。何故こんな、郊外にひとり居を構えているんだ?」
 愁柳は一瞬、何を尋かれたのだろういう面持ちだった。
「別に、私の館という訳じゃありませんが?」
「…そうなのか?」
「今、たまたま管理しているのが私だというだけの話ですよ。ここは本来、大公家の別邸なんです。…まあ、それなりに理由があるんですが」
「…それは去年の秋辺りから銀姫将軍シアラ・センティアーが人前から姿を消しているのと関係あると見て良い訳か?」
「さて?どうでしょうか」
 にっこり、としか形容できない、いかなる負の感情とも縁遠い微笑みではぐらかす。降り積もった粉雪の下の氷壁めいて、うっかり突っ込めないから怖い。あえて臥竜の尾を踏みつける気のなかったサーティスは、一度視線を天井に放りあげて話題を戻した。
「…それはそうと…ギルセンティアの麓で、面白い子供に出逢ったよ」
「というと?」
「年の頃は十三か十四。無茶と向こう見ず加減が人の三倍ばかりで、頭の回りの早さは人の五倍はあるかな。実に威勢のいい黒髪紫瞳の子供」
 愁柳が破顔した。
「…あれでナルフィと血が繋がっていないなどとは、とても思えないでしょう?」
「全くだ」
 瞳の色は異なっても、髪の色は異なっても、あの二人は確かに姉弟なのだと思わせる何かがある。
「…どうやら、その子は彼の尋ね人のようだ」
「この子を?リオライが?」
「おそらく…年の頃と黒髪は一致する」
「また、どうして…」
「分からない。だが、この子のため大怪我をして、それでも傷をひきずって早春のギルセンティアを捜して回る程、大切らしい」
「…あの子らしいですね。万事、やると決めたら一直線ですから…近侍の者は苦労しているようですよ」
 にこにこしながらそう応える愁柳のおもてには、いっそ誇らしげな色彩いろすら見えた。出自は異国人ながらこの地にしっかりと馴染み、やんちゃな義弟を温かく見守るかつての“紫電竜王”の姿に、サーティスは微かに口許を綻ばせる。
 だがそことは全く別次元に、コトはあまり単純ではなさそうだ。
「…何か、アズローで起こっているようだな。とりあえず愁柳、彼には悪いが…この子がここにいることは伏せておいたほうが良かろう。話がややこしくなるかもしれん」
「事がサマンに関わるとすれば、それもやむを得ないでしょう…時にサーティス。その口ぶりは、しばらくここに逗留していってくれるという意志表示と見ていいんですね?」
「…仕方あるまい、然程急ぐ旅というわけでもないし、そもそもタネをこの館に持ちこんだのは私だ。愁柳おまえに押しつけて逃げる訳にも行かないからな。しばらく世話になるよ。
 だが、それがそんなに嬉しいか?こっちは明らかに厄介事を持ち込んだんだが」
「それはもう。あっちこっち飛び回っている割に、ノーアにはちっとも遊びにきてくれない薄情な友人が、どういう風の吹き回しか突然訪ねてくれた上、しばらく逗留してくれるとあってはね。嬉しくて当然でしょう?」
 稚気さえ漂わせる微笑でありながら、永の無沙汰をちくりと刺すことは忘れない。
「幸い私も、今はただ一つだけのことを心配していれば良い身の上ですし……」
「遊びに…って…」
 サーティスは思わずこめかみを押さえた。これが紫電竜王と謳われ畏れられた元・龍禅皇太子の科白とは!彼がかつて白旗を揚げさせた国々の将軍方が聞いたら果てしない脱力感に襲われるのではないだろうか。
「…尤も」
 不意に、笑みはそのまま…双眸だけがすっと冷える。
「有事の際、戦える人間がいたほうがいい…という事情もありますけどね。ここキルナは静穏を保つ意味で、あまり荒事向きな者は置いていないんですよ」
 艶の良い黒髪の下……千尋の深淵を思わせる緑瞳。背筋に冷汗を感じてしまったことに、サーティスは内心で舌打ちした。
「何を言う。愁柳おまえがいれば野盗山賊の類は寄りつきもせんだろうが」
「いえいえ、私など。あなたが救ってくれなければ、私の右腕は疾うの昔に胴を離れていたんですよ?命だってあったかどうか怪しいものです。でも、あなたがいてくれるなら…たとえ明日、ツァーリがギルセンティアを越えて侵攻してきても敗ける気がしませんね」
「…買い被りもいいところだな」
「まあ、与太話はさておくとしても…」
「与太話か!」
「怒らないでくださいよ。喩えが悪かったのは認めます。でも、そのくらい信用してるってことは理解ってほしいんですがね。私だって頭はひとつだし、腕は2本しかないんです。荒事になった時に背を任せられる御仁を貴重に思うのは当然でしょう?」
「突っ込むところが多すぎてどこから突っ込んだものかわからんが…まあいい。荒事は必至ということだけはよく理解った」
 雪のなかで凍死しかけた少女。刀創を引きずった少年。…どうやらそれだけで済みそうにない、という予感は、サーティスの裡にもあったのである。