Section-3

 情報、それは海だ。

 無限に存在する情報。その中から自分にとって意味のあるものを選び取り、繋げ、使う。それは波間を漂う小さな氷塊を、広大な海から拾い出すのに似ている。それはいとも簡単に溶けて掴めないものとなり、またあるときに別の塊として波間に姿を現す。だから人は意味の塊を掬い上げ、溶けてしまわないうちにひたすらその似姿を書き留めることに苦慮してきた。

 だから長い間…情報の海というものは、概念上にしかなかった。

 人類はそれを近似的に現出させることに成功した。それが電子的な情報ネットワークである。
 それまで紙とペンで書き綴ってきた情報を、人類は電気的な信号に置き換えることで物理的束縛から解き放ったのだ。
 電脳世界という人間の制御可能な領域に、人類はこの世のありったけの情報を叩き込んだ。それを自由に検索し複製し模倣し、共有し活用できるようにした。当時の技術で記録し、保存し、再生出来るあらゆるものを蓄積するようになっていったのだ。
 それは情報の海に手を掛けたとも見えただろう。
 だが、そこにも限界は存在する。所詮は制御可能な領域に情報を詰め込んだだけ。世界にはそこに入りきらない莫大な意味情報が存在する。
 近年、人類が蓄積した膨大なデジタルデータは、既に混沌カオスといっていいほどの量に達していたが、その実…人の眼、耳で捉えることができ、また定量化できるものに限られている。

 もし、本物の情報の海にアクセスできる感覚を備えた者が出現したら、人類は新しい段階フェーズに到達するだろうといわれている。だがまた、そうなったときの人類が果たして生命と言えるのか?そんな疑問を投げかけた者もいる。

 だが、21世紀初頭に地球を襲った災厄は人類をその探求どころではない窮地に追い遣った。数を減らし、あるいは地下へ、あるいは海中へ、そして宇宙に遁れた人類の殆どが、かつてそんな概念があったことさえ忘れ去っていた。

***

 アウレリア=アルフォードは、応接間のソファに身を落ち着けている横着な客人を眺め遣った。
 襟と袖口に同色の刺繍が入った白いトーブに身を包み、やはり白のクーフィーヤを黒いベルベット調の細いイガールで抑えている。クーフィーヤの下から僅かにはみ出た金褐色の癖毛以外、特に豪奢なアクセサリをぶら下げているわけでもない。
 それでも、ただ黙してそこに座しているだけで確固たる存在感を放つ――――。
「…あぁ、忙しい時にお邪魔して申し訳ないね、アウラ」
 アウレリアの姿を認めて客人が立ち上がり、軽く一礼する。洗練された動作と慇懃な口調であったが、浮かべた微笑はそれらが示す礼節を完全に裏切っていた。アウレリアは鄭重に椅子を勧めながらも、至って冷ややかに応じる。
「そう思ってもらえるなら…可能な限り手短に願いたいものね。キリディック=トゥグリーフ」
「これは手厳しい…」
 キリディックはソファに身を沈めて端正な口許に再び微笑をうかべる。
「他でもない、キシャルの姫の行方が判りそうなので、ちょっと救出に行ってこようと思うんだ。貴女あなたにことわりもなしというのは不人情だと思ってね。一応報告を入れておこうと思って」
 さらりと放たれた言葉に、テーブルを挟んで相対する位置の一人掛けソファに着座したアウレリアの眉がかすかに揺れる。
「…マキ…マキ=セイラルの行方が判ったの?」
「確定ではないがね。有力な情報が手に入った。何、貴女の手を煩わすまでもない。ただ、なにかやらかしてからじゃ、やっぱり叱られるだろうからね」
「…・叱られるようなことを仕出かす前提…というわけね」
 彼女は端然と座したままであった。しかし…低く、怒気をはらんだ声音はそれだけで胸ぐらを掴み上げ詰め寄るかのような迫力を持っていた。
 キリディックは軽妙に笑い、手を振った。
「滅相もない!…大体、私なぞにそんな荒事が出来る訳がないだろう?…私はご存知の通り蒲柳の質でね。極力穏便にしたいと思っているんだ。何事もね」
「よく言うわ…」
「ただ…今回の件に限らず、貴女は大っぴらに動くわけにも行かないだろう?私のような立場の者が動く方が、何かと便利ではないかと思うわけさ。
 私がなにかやらかしたとして、大抵は『ああ、またか』で済まされるけどね。貴女はそうもいくまい。FIO長官・アウレリア=アルフォード閣下?
 それとも、本来の御名・・・・・でお呼びすべきかな?」
 キリディックが万人を魅了しうるであろう微笑をうかべて微かに首を傾げる。だが、アウレリアはそれに対して眉ひとつ動かすことはなかった。
「…厭味かしら、それは。私に喧嘩を売りに来たと思っていい?」
「ああ、どうしてそうなるかな」
 キリディックは天を仰いで歎息すると、芝居がかった動作でこめかみを押さえる。
「大切な方に対する最大限の配慮、と解釈してはもらえないのかな」
「言ったのがあなたでなければ、そんな解釈も出来たかもしれないわね」
「信用がないなぁ…」
 キリディックは苦笑し…ふとその笑みを消した。
「キシャルの姫があの事故以来姿を晦ましたのは、十中八九ダミアンを警戒してのことだ。
 ダミアンに目立った動きのないことを考え合わせると、彼女はまだダミアンの手に落ちてはいないのかもしれない。…その場合、天の磐戸をこじ開けるのはいかにも無粋というものだが、何と言ってもダミアンに限らず皆、気が長い。奴が姫様を手の内におさめた上で、靡いてくれるのを辛抱強く待ってるという線だって棄てられないだろう」
 アウレリアの凜然たる横顔に、キリディックの正しさを認めながらもそれを全面的に肯んじることの出来ない苦渋が滲む。
「だから、彼女を保護すべきだと? ダミアンが不文律を無視するほど野放図とは思わないけれど」
「〝我らは、決して互いの身体に武器を向けない〟…か」
 その時のキリディックが浮かべたのは、間違いなく嘲笑であった。ただそれはアウレリアに向けられたものではない。此処に居ない、誰か。
「姫は姫であってキシャルではない。『王権を握る者オジマンディアス』の論法がどこに重心を置いているか、貴女だってわかってるだろう。言いたかないが、ウィルの一件が完全なコルネイユの独断などという話…信じる者がいたか、『裁定者アストライア』?」
 アウレリアは沈黙した。…沈黙するしかなかった。ただその眉を憂色に翳らせ、深く吐息する。
「我々が破滅を回避するためには律が必要で、私はそのために在る。ただ…」
 キリディックが横手を振ってそれを遮る。
「ああ、皆まで言わない言わない。私は別に、貴女にそんな悲壮な顔をさせるために来たわけじゃないんだ。
 まあ、荒事にしなくたってやりようはいろいろあるさ。私はほら、そこそこ人脈があるから」
 アウレリアが再び眉を顰め、注意深く訊ねる。
「…誰を引っ張り込んだの?」
 キリディックは悪戯っぽい微笑をうかべて立ち上がった。
「まだ内緒。あなたには極力迷惑をかけないように、これでも気を遣っているんだ。あなたは性格上、知らない振りってまず、できないだろう?だからあなたには言わない。あなたは何も知らなかった。それでNo Problem」
 そして、いとも優雅に辞去の礼をとる。アウレリアの声が僅かに尖った。
「…キリディック=トゥグリーフ!」
 氷を撚りあわせた鞭のような一声にも、キリディックの微笑は微塵も揺らがない。
「僭越ながら、貴女の心配事もすこし減らしてあげられるかな、と思うよ。…まあ、巧くいけばだけどね」

――――To be continued