献辞
この掌編を
当サイトに度々ご来訪頂き、いつも丁寧なコメントをお寄せ下さる
ぐうたらママさんに捧げます。
一緒に歩こう
~Beautiful World Ⅱ~
細い、雨の音…。
…ああ、雨が降っているのか。
薄目を開けると、カーテン越しに淡い朝の光が差している。雨は降っていても、然程に雲は厚くないらしい。
僕はもう一度枕に顔を埋め直して、木琴のような雨音に耳を澄ます。
暑くもなければ寒くもない。少し雨が多いことを除けば、決してこの季節は嫌いじゃない。雨の音を聞きながら微睡むこの時間の心地好いことといったら、何物にも代え難い。
「…カヲル」
少し体温の低い掌が肩に触れる。優しく揺られる感覚がまた心地好くて、思わず狸寝入りを決め込みたくなる。…だが。なかなか世の中そううまくいかない。
「起きてってば、カヲル…よいしょっと」
少し強引に、仰向けにひっくり返される。いつも思うのだけれど、触れたら折れそうな細腕が…なかなかどうして剛力だ。それを口にすると、「こんなの要領次第だって」と笑うけれど。
「…起きなきゃ駄目かな」
「うん、駄目」
にべもない返答に仕方なく、目をあける。紅瞳が僕を覗き込んでいた。
腰に届くほどのびた青銀の髪は、いまは背で緩く結んでいる。短くしていた間は判らなかったけれど、すこし癖がある…それが、僕の上に屈みこんだ拍子に滑り落ちてきた。
銀の髪が僕の頬を擽る。お願いだから誘惑しないでくれるかなぁ…。
「雨が降ってるよ、レイ」
落ちかかる髪に指を絡めて、僕は言ってみた。お出かけにはあまり良い日じゃないよね?
「もう止むよ。予報は晴れだって。ほら、空も明るい」
顔を上げて、レイはカーテンをあける。その動きで相変わらず指通りのよい銀色の髪はするりと僕の指を離れてしまった。雲の切れ間から差し込む光が、目に眩しい。
「〝今日という今日は首根っこ抑えてでも挨拶させるから、絶対来てね〟って…母さんに言われてるんだもの」
「うーん…」
眼と髪の色合いを除けば、姿形どころか声も仕草もそっくりなものだから…レイにそれを申し渡したときの〝お母さん〟の様子は手に取るように分かる。ああ、やっぱり逃げちゃ駄目なんだろうなぁ…。
「はい、起きて、食べて、さくさく支度して。あ、そうだ…あんまり構えた服装じゃなくていいよ?私ももうこのまんまエプロンはずすだけ」
緩々と起き上がった僕の前で、生成りのリネンエプロンをひらひらさせながらレイが笑う。その下はギャザードネックの白いブラウスと、ターコイズグリーンのふんわりした丈長のワイドパンツだ。前で結んだ、やはりふんわりした同色のリボンが可愛い。
「はいはい、起きますよ…」
そこでぼーっと見惚れているとまた叱られそうだったから、しばらく見入っていたいのを我慢して、僕はベッドを降りた。
この家の本来の持ち主であるミサトさんは、昨年関東へ転勤になった。
『全く以てすまじきものは宮仕え 1 、よね。ここって酒は美味いし、のんびりしてて好きだったんだけど』と言いつつ、反りが合わない上司とおさらばできるという旨味には勝てなかったらしい。加持さんはといえば、丹精した畑を置いて行くのは断腸の思いだったらしいが、それでも結局ついていった。
その前の年に就職した僕は家を出て、アパートで一人暮らしを始めていたのだけれど…ミサトさんはこの家を僕に預けて行ったのだった。
『いつ帰ってこれるか判んないけど、売り払うのも何だし…カヲル君、あなたが留守番しててくれるなら助かるわ。それに……あなたの家でもある』
そのあとで『どうせ近々住み替えるつもりだったんでしょ?』とこっそり耳打ちしていったのは…その頃丁度、僕がレイに一緒に暮らす話をしていたのをどこからかキャッチしていたからに違いない。…おそるべしミサトさんの情報網。
そうして僕とレイは、この家で生活を始めた。
加持さんが残して行った畑に、レイはいたく興味を持ってくれて…できた野菜を赴任先へ送ったら、二人から深甚なる謝意のこもった手紙が返ってきた。添付ファイルがあったから何かと思ったら、加持さん謹製の野菜栽培カレンダーだった。
『そろそろ家族が増えるかしらね~』
ミサトさんからはそう揶揄われるが、実の処レイの身内にはまだきちんとした挨拶ができていない。一緒に住む、という段になって会えたのはお母さんだけだった。
レイのお母さんというひとは、前述の通りレイにそっくりなのだが、実に鷹揚な女性だ。
僕が内心おそるおそる…レイと一緒に住む許可を貰いに行ったところ…一目見るなり『まあ素敵♪この子をよろしくねっ!』ときたものである。それどころか『お式挙げるならいい教会、知ってるけど?』と畳み掛けられた。
…いいんだろうか。そんなに軽くて。
父親と兄は仕事で海外なのだそうだ。以前から帰ってきたら紹介するから、という話ではあったが…父親の方は帰ってきてもなかなか家に居着かず、むしろこちらが挨拶に行こうとするとそそくさと用事をつくって逃げられている感すらあった。幼時に身体の弱かった娘を溺愛していて…それが海外赴任の間に巣立ってしまったものだから、ひどく臍を曲げているのだとか。
しかしお母さんは、僕とレイが一緒に住むことに関していとも簡単にGoサインをくれた上、煮え切らない父親のことなんて気にしなくていいわ、とさっぱりしたものである。
『大体、いつまでも逃げ回って往生際の悪い!どうして娘の幸せを素直に祝ってやれないの』
むしろ、父親の話が出る度にそう言って憤慨していたというが……この度ついにお母さんの方が爆発して、『今度こそ首根っこ抑えてでも引き留めておくから、二人で来てね♪』という御諚が下ったのであった。
レイの言葉通り、僕が朝食と外出の支度を終える頃には…すっかり空は晴れ渡っていた。だがその晴れ渡った空さえ何だか恨めしい。
駅を降りたら、レイの実家まで歩いて10分というところだ。雨に濡れた歩道の敷石は、輝く陽光に照らされて見る見るうちに乾いていく。
「ね、晴れたでしょ」
「そうだねぇ…」
レイは燥いでいるふうだが、僕としてはこの道の先に待ち構えるものを考えると、雨上がりの心地好い散歩という気分にもなりにくい――――。
ぱしゃん!
派手な音に、僕は我に返った。
「カヲル、足下…!」
僕は足下を見た。小さな水たまりに、僕は踏み込んでいた。青い空が映り込んだ水面に、漣が立っている。…それはいい。問題は、踏み込んだ拍子に跳ねてしまった水が、その時丁度傍を通りかかった子供の小さな靴を濡らしてしまっていた。
「わっ、ごめんね。大丈夫?」
僕は狼狽えた。だが、レイは慌てず騒がずバッグからミニタオルを出して、立ち竦むその子にはねかかった水を拭う。
「ごめんね、吃驚した?」
その子供は水がかかってしまったことよりも、見知らぬ人から急に話しかけられたことに吃驚したようで…目をまん丸くしたまま立ち尽くしていた。
「あれ、君…」
レイが手を止める。僕も時を同じくして気づいた。きょとんとしているその男の子の面差しは、何処かで見たような…
「坊や、ひとり?」
僕も周囲を見回してみたけれど、保護者と思しき人影はない。だが、目の前の子供は人通りの多い駅前を一人歩きさせるにはまだ少々心細い年齢ではあった。黒いズボンにTシャツ、黒の上着は多分ズボンとのアンサンブル。おやおや、この組み合わせって僕とお揃い?
レイの問いに、その子は一拍遅れて小首を傾げ、周囲をぐるりと見回した。やはり何も見つけられなかったと見えて、不意に涙ぐむ。遊びに夢中になっていて、はぐれた事実をたった今認識したというところか。
「迷子…かな?」
「うん、そうみたい…でも」
レイはひとり得心したように笑み、子供にはねかかった水を丁寧に拭き終えると、その子のさらさらした頭を撫でた。
「いっしょにパパとママ、捜しに行こうか?」
レイに微笑みかけられ、その子も笑ってレイに抱きつく。…えらく人見知りしない。
「レイ、その子知ってるの?」
「ううん、初対面。でもまあ…見当ついちゃった」
そう言って、悪戯っぽく微笑う。ここら辺はレイにとっては地元だ。知人がいてもおかしくはない。知り合いにでも似ているのだろうか?
駅前交番はすぐ後ろだ。届け出た方が良いのかな、と僕は視線を向けたが、レイは立ち上がってその子の手を取り、駅から伸びた真っ直ぐな道の先を示してさらりと言った。
「多分、あっちだと思うよ。一緒に行こうか?」
子供が嬉しげに頷いた。
- すまじきものは宮仕え…恥ずかしながら柳はコレを書くまで「凄まじきものは宮仕え」と理解していた。正しくはすまじき(するべきでない)もの。会社や官庁に勤めるのは気苦労が多くつらいものだから,できるならしない方がよい、という警句で、出典は幸若舞の「信田」とか。「あらあじきなや 世の中にすまじきものはみやづかえ われ奉公の身ならずは かかる憂き目にはよもあわじ」という次第。たまには辞典も引いてみるものである。
尤も、宮仕えというやつが凄まじき(古語なら面白くない、興醒めといった意味。現代においては恐怖を感じるほどすごい、逃げたくなるくらいおそろしい、呆れる程ひどい…etc.)ものであることに関しては間違いでないと柳は思う。