風の如くに Ⅷ

 王太后レリアは、叛乱発覚直後にその身柄を抑えられたものの、その処遇は王城内での軟禁にとどまっていた。
 国王の生母という立場に一定の配慮がなされたということもあったが、なにより王太后自身が全く抵抗も逃亡の意志も示さなかったのである。
 王城内、王太后の起居する建物を突如として衛兵隊が取り囲んだ時も、近習たちが邸内で右往左往する中、レリアは全く無反応であったと言われる。
 彼女の周りにはその地位に応じた複数の近侍衛士もいたのだが、突然建物を封鎖されたことに竦み上がっていた。我に返って封鎖を解こうとした者もいたが、逮捕状を携えて到着したばかりのエルンストに文字通り素手で叩き伏せられたのである。以後は王太后が命じて抵抗をやめさせたために、それ以上の騒擾はなかった。
 エルンストに国王発行の逮捕状を突きつけられても…王太后は驚くふうさえ見せなかった。
「…そうですか。わかりました。陛下の御諚とあれば是非もなし」
 泰然とも、茫然とも違う。ただ無関心なだけという印象に、エルンストは一種の薄気味悪さすら感じていた。
「国王陛下なり宰相閣下に伝えたいことがおありならうけたまわろう」
 一応、国王の母であり宰相の実姉である。その地位と、現宰相との確執を周囲に利用されただけという可能性もあったし、一目散に逃げ出したシードル卿のように逃亡・抵抗の意志がないなら、相応の配慮はあってよいと考えての申し出だった。だが、それに対してレリアが発した言葉にエルンストは思わずかっとなった。
「〝宰相に〟ということは…あの子リオライは生き延びたようね」
「王太后陛下!」
 エルンストは、奥歯を噛み締めてその手を剣にかける寸前で自制した。
 五日間戦役が終わり…シードル卿戦死の報がもたらされても、その様子に全く変化は無かったと伝えられる。だが、追討軍総司令官・颯竜公レアン・サーティスの名を聞いた時だけは、微苦笑を閃かせて近習の者にこう漏らしている。
「…だから言ったのに。なりふり構わぬのも大概にしないと、足下を掬われます、と…」
 シードル卿が賛同者を募るために書き送った文書のうちいくつかが宰相の手に渡り、謀反の証拠とされたことまで、彼女に知らされた訳ではない。しかし一緒になって足下を掬われた形でありながら、そのことを悔しがるでもなくただ他人事のように笑っていた彼女は、それを薄々気付いていたようであった。
 レリアは入内したばかりの若い頃にも一度問題・・を起こし、暫く地方荘園で蟄居させられている。それでもカスファーはアニエス亡き後レリアを呼び戻したばかりか、正式に王妃とした。ただし実態としては、アニエス所生のアリエル立太子に対する承認を、ジェド=ヴォリスから取り付ける代償としての恩赦であった。
 今またこれだけの企てに名を連ねてしまっては…リュースとしてはいかに実母、王太后といえども庇い立てはできなかった。むしろ今後も政治的に利用される危険を考えれば、王太后としての地位を返上させた上で地方で穏やかな生活をして貰うのが妥当。
 ――――その判断をしたのはリュース自身であった。
 リオライはその判断を是とし、その為の手続きをとったが、リオライ自身はその後ツァーリを離れるまで、レリアと面会することはなかった。その必要を認めなかったというのもあるが、リオライほどの青年が、この姉にエルンストが感じたのと同様の薄気味悪さを感じていたことと無関係ではなかっただろう。
 レリアは臣籍に戻され、地方の荘園へ移される。5年ほどそこで単調な、だが穏やかな生活を送った後…病没した。

***

「…何だ、やっぱりここだ」
 黄昏時のテラスを覗いたマキが、吐息混じりに言った。
 エリウスも中月。このところの寒さで散り損ねていた花が、今日の暖かさで一斉に花弁を散らせている。
「花のあるうちは飲んでやらんと花が可哀想じゃないか。ま、花に対する礼儀だよ」
「よく言うよ、花が散ったら緑で飲む癖して。…ね、どうしたの? さっき、レクシスに…サティが捜してるってきいたんだけど…」
 サーティスは椅子から身を起こし、マキをかえりみた。
「…ああ。マキ、こっちへ来い。渡すものがある」
「何?」
 いつもの軽捷な足取りでテラスへ出てくる。だが卓の上に置かれたものを見て、マキがふっと息を停めた。
 ――――一振りの剣。そして、貨幣の入った革袋。
 マキは剣を取り、その長さと重さ、そして持ったときの均衡バランスを慎重に確かめた。それから革袋の中の貨幣を見て、軽く驚いたようにサーティスを見る。
「これ…!?」
「…マキ。旅支度をしなければならないんだろう?
 そろそろ、今の剣では軽くなってきている筈だ。私のとしては少し軽いんだが、今のお前には丁度良かろう。年季物だが、手入れはしっかりしてある。切れ味は保証するぞ。他にも色々持たせてやりたいのはやまやまだが、荷物になってもまずい。だがまあ、金銭ってのはあって邪魔になるものじゃない」
「…サ…ティ…」
「リオライ卿の一行…出立は明日だ」
 努めて穏やかに、サーティスは告げた。
「明日、私からリオライ卿へ旅のはなむけの使者を立てることになっているが…その使者の役、ラリッサ公主リュシアン・ミアレス、お前に頼む。支度は、この間からセレスに頼んである」
「うん、それは知ってる…」
「もう誰も皆、お前の力を認める。何せ、瀕死の宰相の命を救ったのは、他ならぬお前なんだからな。そのまま、お前は彼と一緒にギルセンティアを越えて…当面は愁柳の処へ身を寄せるんだ。…愁柳には、もう話は通してある。いずれ、腕によりをかけて輿入れの支度をしてくれるさ」
「ちょっと待ってよ、何、輿入れって…!何の話!?」
 俄に顔を赤くして身を退くマキを、サーティスは柔らかな笑みで眺めやり…雪のように花弁が降り注ぐ庭へ視線を移した。
「やりたいことがある。そのために力と知識が欲しいと…お前は言っていたな。
 リオライ卿の傍に在って、彼を助けていきたい。あの日、たった一人でギルセンティアを踏破しようとしたときからの…それがお前の望みだったんだろう?
 お前はもう、それに足る力を持っているよ。確かにリオライ卿の周囲には、それなりの者が居るが…決してひけはとらん。この私が保証してやる」
「…いつから知ってた…?」
 少女が立ちつくしたまま、慎重に言葉を押し出しているのがわかる。突然こんなことを言われれば、当たり前の反応というべきだろう。
 だが、サーティスにとっては突然ではない。雛鳥はいつか飛ぶことを覚え、巣から飛び立っていく。飛び立てば、二度と戻らない。それが自然の掟。いつか巣立つと知りながら過ごした日々は、サーティスにとって確かな救済であった。

 ────生まれ変わった緑瞳の鳥が、繋がれた竜を解き放つ。

 遙か昔のエルンストの予言を、サーティスはたった今、信じた。存外、するすると言葉が出てくることに軽い驚きを感じながら、立ち上がって艶やかな黒髪にそっと手を載せる。
「ギルセンティアでお前を拾った頃から知っていた。…礼を言うよ、マキ。楽しかった。
 まあ、誰かの傍にいるには様々なかたちがあっていい。輿入れは冗談としても…いや、この間からの書状からすると、愁柳は至って真面目だな。雪姫もえらく乗り気らしい。
 どのみちリオライ卿も、ノーアに落ち着いて銀姫将軍を補弼する立場を担ったとて…そろそろ身を固めろという話にはなるんだ。その時、そこいらの姫君にあの獅子の伴侶がつとまるものか。俺に教えられることはもうほとんど教えた。今のお前なら、あの雪姫にだって見劣りせんぞ」
「…他ならぬ自分が手塩にかけたからって?露骨に手前味噌だよね」
 赤い顔のまま、少し拗ねたようにマキが言った。
「何とでも言え。そこら辺はルーセ1の折り紙付きだからな。…今日はもうやすむといい」
 剣と革袋を握りしめたまま立ち尽くすマキの肩を軽く押して、くるりと向きを変えさせる。そして、そっと背を押した。
 返事をし損ねたまま…マキは自身の居室へ向かって歩き始めた。

***

「…どうなさいました、リオライ様」
 ヴォリス邸中庭。仕立てられた荷駄を眺め遣るふうのリオライの眼が、実は遠く遥かを見つめているのに気づいたカイは、そう声をかけた。
「…ああ、カイ。お前の支度はできたのか?」
「はい、たった今。まあ、支度というほどのものはありませんが」
 いつも通りの、のんびりした調子でそうこたえてから、カイはちょうど十歳年下の主君が先まで見ていた方向へ目をやって、言った。
「…何か、気に掛かることがおありですか?」
 リオライは、苦笑した。
「すべてを颯竜公になすりつけておいて…この上このツァーリに気掛かりな事があるなどと言ったら、颯竜公に張り倒されるな」
「…リオライ様…」
 相槌に困った様子のカイを見て、いつも通り曇りのない笑いをすると、また先刻の方向に視線をやって言った。
「きっと、生きている。…生きて…きっと幸せでいる」
「…リオライ様…」
 誰が、とは言わない。だが、カイにはその察しがついた。あれからリオライがあの少女に言及したことはなかったが、やはり。
「リオライ様ーっ!」
 正門のほうから、レインが走ってきた。レインが走るのは緊急時に限ったことではないから、リオライもカイもさして慌てない。
「どうした、レイン」
「今、餞別の品を持って颯竜公の使者一行が来てますが…どうします、お会いになりますか?」
「…会わなきゃ礼を失するだろうな」
 リオライは笑った。レインはどうも颯竜公を毛嫌いしているようだ。颯竜公が政権委譲に際して相当ゴネたことを、あまり快く思っていないらしい。
 正式な使者であれば邸内に招いて饗応するのがならいである。しかし旅支度の最中にある邸内を騒がせるのは心苦しい、と謝絶されたため、中庭に案内することになった。
 使者一行といっても、妙齢の娘が一人と後は御者兼護衛と見える若者だけである。だが、中庭に現れた使者というその娘を見て、一瞬だけリオライの呼吸が停まった。
 髪を結い上げ、春に相応しい柔らかな緑を基調とした色彩の長衣ドレスを纏ったその娘が、先日来治療に遣わされてきたあの従騎士だと気付いて…リオライだけで無く居合わせた一同が思わず瞠目する。
 娘が、完璧な儀礼に則って一礼した。
「閣下、あれから傷のお加減はいかがですか?…ご多用の折、お時間を取らせて申し訳ありません。本日は颯竜公レアン・サーティスの使者として参りました。
 改めましてご挨拶を。ラリッサのリュシアン・ミアレスと申します」
「…ラリッサ…!」
 周囲に控えていたリオライの側近達が、その名を聞いてざわめく。今まで颯竜公のところの従騎士、くらいにしか認識していなかったのはリオライだけではなかったのだ。ラリッサといえばシルメナの族長会議に名を連ねる家である。それは、シルメナにおいては王家に次ぐ家格であることを意味していた。
 リオライは詰めた呼吸を、殆ど溜息のようにしてゆっくりと吐き出して言った。
「…ラリッサの公主殿であられたか。知らぬこととはいえ…先日の非礼、赦されたい」
 娘は穏やかに笑んで言った。
「私こそ、名乗りもせずに失礼致しました。
 颯竜公レアン・サーティスは、閣下の道中の無事を衷心よりお祈りいたします。閣下に風の加護のあらんことを。そして、閣下の前途に幸多からんことを」
 長衣ドレス姿に見合った、たおやかで優美な使者儀礼。だが、その挙措には一部の隙もない。間違いなく、あの従騎士で…そしておそらく、ミティアの心を救ってくれたという友人。
 燕のように軽捷でありながら、今此処に在る姿は白鳥のように優美だった。
 リオライは完璧に答礼した。
「颯竜公のお心遣いに感謝を」
 餞別の品を引き渡し、娘が辞去の礼をとる。その時、リオライは初めて儀礼以外のことを口にした。
「…先日は、長話に付き合わせて申し訳なかった。従騎…否、公主殿がシルメナの人とは思わなかった。竜禅か…もっと北の方の人かと」
「いいえ…」
 緑瞳が、僅かに揺らめく。
「…私は、幼い頃ギルセンティアの麓で颯竜公に拾われ、養って頂いた者です。この度颯竜公のはからいとシルメナのルアセック・アリエル陛下のご厚意にてリュシアン=ミアレスの名をいただき、ラリッサの名跡を継承させていただきました」
「…ギルセンティア…?」
 リオライは再び、息を呑んだ。娘がふと目を伏せ…そして、向き直る。
「閣下、正直に申し上げます。私はこの度、閣下に随行してギルセンティアを越えよと…颯竜公に言いつかっておりました。ノーアへ赴き、佐軍卿シュライ閣下の許に身を寄せた後、然るべき処へ縁づけと」
「佐軍卿…シュライを、ご存知か」
「過日、私がギルセンティアで死にかけました折、颯竜公と共にお救いくださったのが佐軍卿閣下であられます。爾来、数える程しか目通り叶いませぬが…勿体ない程にお気に掛けていただきました」
 そして陽光のような笑みを零す。だが、続けた言葉は。
「ですが閣下…私はたった今、颯竜公の命に背く事に決めました」
 それは鰾膠にべもないほどにきっぱりと…そして胸を張らんばかりに凜然と宣言された。
「…何と、言われる?」
「私は閣下に随行すること叶いませぬ。父とも仰ぐ佐軍卿閣下には衷心からお会いしとうございますが、この地に心を残したまま、何処いずこかへ縁づけといわれても…先様さきさまが迷惑されましょう」
 この口上には、居並ぶリオライの側近達も開いた口が塞がらなかった。だが、リオライは微苦笑を漏らして問うた。
「…公主殿におかれては、この地に心残りがおありか?」
「勿体なくもミティア様の知遇を頂きましたゆえ、これからもかの御方の力になりたいと存じます。そして私は…いえ、何でもございません。ご放念くださいませ」
 それまでの歯切れの良さが俄に曇った事に、リオライは気付いていた。だが、踏み込むことはしない。
「そう、御礼がまだだったな。はからずも今日、お目にかかれたことは幸いだった。
 我が妹ミティアの命と心を救って頂き、感謝する。私はこの地を離れるが…これからもあの子を支えてやっていただければ有難い」
「…我が身のあたう限り」
 昂然と顔を上げ、そう宣する。その姿の眩しさに、リオライは僅かに目を細めた。
「公主殿、貴女のミティアの友人としての御名を…ラリッサの名跡を継ぐ前の名を…お尋ねしてもよいだろうか?」
「はい、閣下。私はマキと申します。もとより、姓もあざなもございませんでした。ですが、これが我が真名、私が私と成った名です」
 その一瞬、リオライは言葉を飲み込んだ。そして、自身を落ち着かせるために敢えて一呼吸おき…ゆっくりと開いた口許には、巧まざる笑みが浮かぶ。
「…佳き御名だ。真っ直ぐな御身にふさわしいな」
「勿体なき御諚」
 喬木から透いて見える木洩れ日のような、すがしい微笑。過日、確かに見たもの。
「〝貴女と…貴女の護るものの幸福を心より祈る…〟」
 形式というものの有難さを、リオライはこのとき心からかみしめていた。旅のはなむけとしてはごくありふれた、型どおりの祈りの言葉。…だが、それに敢えて一言を付け加える。
「そして、いつか貴女の想いが届くことを」
 ──────娘は、深く一礼した。

***

 ギルセンティアの山稜中腹にある、カウールの関。ここから北へ進めばいよいよノーアの領域だ。リオライの一行は本格的な山越えの前にそこで小憩をとった。
 北は碧空に聳えるギルセンティアの稜線、そして南は王都北面の荒野。
 焦燥に灼かれながらここを駆け下ってから、まだ2年と経っていない。しかし…ひどく長い年月が経ってしまったような気がする。
 聳え立つギルセンティアの姿は、昔日の痛みを思い出させたが、それはもう今のリオライを苦しめるものではなかった。
「なぁカイ…」
 リオライは、傍に控える最古参の近侍に声をかけた。
「俺はどうやら振られたらしいぞ」
「そのようですな」
 真面目くさって、カイは応えた。
「佐軍卿閣下がリオライ様の縁談を準備しているらしい、という話…実をいうと以前ラース2から聞き及んでおりました。どうやらあの娘御だったようですな。よもやラリッサの公主とは…」
 リオライがくつくつと低く笑った。
「イグナート伯邸だけでなく、傷の治療のために幾度もやしきに訪れてくれていたのに、俺もそうだが誰も彼女が娘御・・とは思わなかった…というのが可笑しくてな。あんな修羅場で眉一つ動かさない女性など、姉上くらいのものかと思っていたんだが…やられたよ。愛想を尽かされても仕方ないな。
 だが、彼女のようなひとがミティアの傍にいてくれるなら…俺も安心してツァーリを離れることができる」
「…何方どなたでしょうな。あれほどの娘御に懸想されるとは」
「さて、存外…近くにおられるのではないかな。そんな気がする」
 笑いをおさめて、リオライは蒼穹を仰いだ。
 鳥は生きていた。生きて、その翼を以てかける空を見つけていた。それで十分だ。
 この国で得たもの、失ったもの。だが、ツァーリという枷は、確かに自分を自分たらしめたものであると、今ならはっきりと言えた。
 こんな国は捨ててノーアにこいと、過日リオライは何度かアリエルに言った。その厚意に対してアリエルは礼を言ったが、鄭重に断わった。…ここが、自分の国であるから…と。
 仮に、第一位王位継承権などなくても、アリエルはこの国に留まっただろう。どんな仕打ちを受けても彼は全てを許した。ただ一つ、この国を滅ぼす因となる行為を除いて。
 だからこの国が危機に瀕して初めて、剣を取った。その剣を以て人を傷つけることもあえて辞さなかった。森の静穏を護るためなら、アリエルは自らの血を流すことすら厭わなかった。
 兄ライエン=ヴォリスも大切にしていたという王都の森。しかしリオライはその想いを理解はしても心から共感することはできなかった。リオライの心はギルセンティアより北にあったから。
 だが、颯竜公は違うのだ。アリエルのように、ライエン=ヴォリスのように、あの森の静穏を心から愛している。
 だから、これでいい。
 この山を越えるのは、これが最後であろう…と、リオライは思った。
 魂よ、休かれ。心のなかでそう呟いて、騎首を北へ向ける。
 リオライ=ヴォリスはこの後リオライ=フォルブランニルとしてノーアに帰化、公女ナルフィリアスが大公位に就いて後は佐軍卿シュライと同格の地位で、その治世を終生補弼した。

 このため、後世「二国宰相」と呼ばれる。

***

 サーティスは、新緑溢れる庭に立って、渡る風の音を聞いていた。
 ふと、眼を開ける。風によらずして、庭に面した扉が開く音が聞こえたのだ。
「…エルンストは、発ったのか」
 空の碧と木々の緑、そして散り残した僅かな花がひとひらずつ風に溶けていくさまをを眺め遣りながら、振り返らずに問う。
「…はい、つい先程」
 扉の傍に立っているのは、セレスだった。
「今朝は済まなかったな。セレスも忙しいのに、マキの支度に駆り出したりして。い仕上がりだったぞ。有り難う。…ヴォリスの坊やが驚愕に目を丸くするのが見えるようだ」
「あの子に合うものがあって幸いでした。もっと早くに仰って頂ければ、新しくあつらえることもできましたのに」
「全く以て済まない。…何のことはない、俺の踏ん切りがつかなかっただけのことなのさ。
 …嗤うか?」
「いいえ…でも、それほどに悩まれるのに、何故…敢えてあの子を手放そうとなさるのです?」
「いつまでも籠の中に入れておく訳にもいくまい?」
「籠…ですか?」
「鳥は羽撃はばたく姿こそが美しい。そうは思わないか、セレス? 眺めているのが美しいからといって、籠の中で飼う愚は冒したくないものさ」
 そう言って、笑う。
「鳥の方は、ここを鳥籠とは思っていないのでは?」
「それを決めるのは、俺ではないからな…」
 セレスは沈黙した。黙するしかなかった。旧主は笑っていた。笑いながら、その笑みの何と寂しげなことか。
 サーティスはテラスの卓に置いたさかずきに酒を満たした。出立祝いの杯であった。

この世に何故とも知らず
何処からともなく 唯々流れ込んで来た
そしてこの世から 荒野を渡る風のように
何処へとも知らず 唯々吹かれてゆくのだ

 杯を掲げ、西方で聞いた古い詩を、サーティスは口ずさんだ。旧い記憶と、今の自身に言い聞かせるかのように。
「風のように…唯、吹かれてゆくのか…」
 そう呟いたとき、がさりと枝が揺れた。
 重なり合う新緑の間から現れた姿に、サーティスが杯を取り落としそうになる。
「―――マキ!?」
「サティ、ただいまっ!」
 新緑に溶ける、美しい春の色の長衣ドレス。その裾を翻しながら、マキが陽気に手を振った。
「ただいまっておまえ…戻ってきたのか」
 危うくひっくり返しかけた杯を卓に戻して、サーティスが呆れたように言った。
「うん、戻ってきた。だって私、まだ此処にいたいもの。ミティア様やエミーちゃんのことだって心配だし」
「あのな、マキ…」
 諸々の下準備を一蹴してくれたこの娘に何を言ってやろうかと、サーティスが考えながら頭髪を掻き回す。だが、言葉がまとまるよりも、マキの行動のほうが早かった。
 燕が空を滑るように歩み寄り、その両手を伸べた。サーティスの胸に額をぶつける勢いで飛び込む。
「やっぱり私は此処に居たい。サティが駄目って言っても…私は此処にいる…!」
 宥めるための言葉は…行き場を失い、消える。
「私はサティが好きだから、此処に居たい!」
 サーティスにしてみれば、余りにも思いがけない言葉だった。だが、飾りを一切つけないそれは、あまりにも明瞭。
「サティの傍に居たい!…それだけは判った。
 そうだよ、ずっと、リィを助けられたらいいなって思ってた。そうしたいと思って、その為にいろんなことやってきた。
 でも違った。違うってわかった。
 私、ずっと…そうしたいからそうしてただけだ。サティにいろんなことを教わるのが確かに楽しかった。でも、それだけじゃなくて…サティといるのが楽しかったんだ」
 サーティスの上着サーコートを握りしめるマキの指先は、かすかに震えていた。
 言うべきことを全て吐き出してしまったかのように黙り込み、サーティスの胸に額を埋めたまま微かに肩を震わせてさえいるマキの背に手を遣って…サーティスは文字通り天を仰いだ。
 かつて西方で、エルンストに匙を投げさせるほど派手な女性関係をくり返したサーティスが、事もあろうに狼狽うろたえていたのである。
 助けを求めるように投げた視線の先で、セレスが穏やかな笑みを浮かべていた。
「…だから、申し上げました。鳥の方は、籠と思っていないかも知れませんよ、と」
「俺は…どうすればいい?」
 セレスは答えを返すことなく、ただ静かに微笑んだ。
 言いたいことは解っている。…決めるのは自身しかない。
 たった十年。それでも、その月日が目の前に存在している。時は、必要かも知れない。だが、一緒にいることに時間は必要ないだろう。
 包むようにして抱き寄せる。
「とりあえず泣くな。俺が愁柳に半殺しにされる。…苦労と勉強はもう飽き足りたんじゃないのか?」
 マキがしゃくり上げながら、サーティスの背に回した手で再び上着を握りしめ…すこしむくれたように言った。
「…私、そんなこと言ってない。サティがいきなり輿入れなんて話するから、私が邪魔になったのかと思った」
「何で邪魔…」
「だって。セレス姐さんがナステューカに残るって言うし」
「あのな、マキ…!」
 流石にサーティスが苦虫を噛み潰したような表情になる。サーティスが言葉を濁すとみるや、マキがするりと身を離した。その指先は相変わらずしっかりと上着の裾を握りしめていたが、昂然と顔をあげてサーティスを睨む。
「勝てるわけないじゃない!セレス姐さんって綺麗だしオトナだし何だって出来るし!敵うわけないもん!」
 その目の縁は紅いが、声の調子トーンはいつも通りに戻っていた。
「勝つの敵うのって…お前、何の話を…」
「自分がまだ、ほんの子供だって、よくわかってる…。でも、私はサティが好き。だから傍に居る。…駄目?」
 いつものように…簡潔明瞭、理路整然。だが少しだけ、心細げな声音。
「…駄目なわけがあるか。だが…」
 サーティスが深く嘆息して、その腕の中にもう一度緑瞳の鳥を包み込む。
「諸々の根回しに支度、それに掛かった労力やら、ついでに俺の決心も木っ端微塵にしてくれたな」
 マキが笑って言った。
「ごめん。でも…こっちの意向を無視して勝手に準備しちゃうからだよ。とりあえず愁んとこには私が謝りに行っとくから」
「そうか、それは助かるな…」
 少し苦笑混じりの微笑を閃かせ、サーティスは〝現在〟を抱き締めた。

 『飛燕公主』と通称される『颯竜公妃リュシアン・ミアレス』が正史に名を現すのは、この翌年のこととなる。

***

 大陸暦901年エリウスの中月、ヴォリス家最後の宰相たるリオライ=ヴォリスが退位、代わって颯竜公レアン・サーティスが国王リュースの摂政として立つ。摂政位に在ったのは十年程の間であったが、職を退いた後もその薨去まで王城に対して影響力を持ち続けた。
 また、本人の意地、法制上の事実関係とは全く関わりなく…巷間では「流浪宰相・・」の渾名を奉られる。その前半生が殆ど謎であり、宰相家の迫害を遁れて諸国を旅していたらしいという風聞が数々の逸話の苗床なえどことなった所為であった。

 同年リシエラの中月、国王リュースの正妃としてミティア=ヴォリスが入内、優秀な共同統治者となる。後に彼女が編纂した「大侵攻」から四国体制崩壊までのツァーリ史は、彼女とリオライを以て終焉したヴォリス宰相家の歴史でもあった。

 アレクセイ=ハリコフは結局颯竜公が摂政に在位する間、書記官長を務めた。その後再びユーディナの司書長に戻り、希望通りの人生を全うする。

 衛兵隊第三隊隊長となったセレスは後にミティア王妃よりランフィス姓を賜り、衛兵隊を辞して王家の近侍衛士となる。ミティアの猶子エミーリヤは彼女に師事し、後にエミーリヤ・ソフィ=ランフィスとして颯竜公家に仕えることとなった。

 元・衛兵隊第三隊エルンストは東へ旅立ったと言われるが、その後ツァーリの記録に現れることは…ついになかった。

 そして…921年。ノーア南下によって、歴史は再び大きく動くことになる。

END AND BEGINNING
空へⅢ
  1. シルメナ王ルアセック・アリエルⅤ世、サーティスの従兄にあたる。マキにリュシアン・ミアレスの名とラリッサの名跡を継がせるのに協力した。
  2. ラース=ルトガルト…ノーア公女ナルフィリアスの近侍衛士でレインの実兄。「西方夜話」で出演。