篝火は消えない Ⅲ

『お前は、絶対に死ぬな』
 ―――――おれなんかより、お前らが斃されることのほうがシェノレスにとっては損失だろ、と笑ったら、たっぷりと説教をくらった…。
 レオンは傷を押さえ、牢の冷たい壁によりかかって座っていた。
 ミオラト。昔は王城として使われたこともあったらしいが、現在は修道院になっていると聞く。かつての王城というだけのことはあってそれなりの規模を有するが、その半ばは獄舎として使用されているという話はどうやら本当であったものらしい。
 石造りの壁は前に囚われていた場所と同じだが、それにも増して湿気が多い。おそらく、ここが城として使われていた時代に水源として利用されていた場所なのだ。言ってみれば井戸の底。今は水が涸れたか、天井の間際にある吐水口は沈黙している。しかし、往時は一方だけ低くなっている壁の直下まで水が湛えられていたようだった。
 逃亡を防ぐには効率的なやり方というべきだろう。ここへ下ろされる時に使った梯子は当然引き揚げられて手は出せないし、壁は湿気の所為か苔だらけで登ることは難しい。よしんば立坑たてあなの上に這い上れたとして、そこにはやはりというべきか格子が嵌っている。
 灯火は鉄格子のすぐ脇に一つだけ。小さな壁龕ニッチの中に置かれた燈盞とうさんで時を止めたように佇立する細い炎。窓は一切ないから今が夜か昼かもわからない。
 ―――――生きたまま陣頭にさらし、シェノレスに撤退を迫る。こやつにはその程度の無様な役どころが似合いでしょう。
 宰相の言葉が焦燥の火種となってレオンの胸中を灼く。そんなことになるぐらいだったら、自害も辞さない覚悟はあった。

 だが、絶対に死ぬな、という二人との約束がそれを押しどとめていた。今から戦をやらかそうっていうのに、無茶言うな。そう言ったら、自分たちが何としても護るからと真顔で言われた。
 レオンは、有り体に言えば自分が海神の子だなどと信じてはいない。シェノレスを勝利に導くなど、レオンには過ぎた重荷としか思えなかった。…戦が始まって2年も経つ、今でさえ。
 だが、あの二人ができるといったらできるのだと信じていた。だから、約束は守る。どんなことをしても生き延びて、シェノレスへ帰る!
 ただ、何をどうやったらここから逃れられるのか。こんな牢から抜け出る魔法なぞ、持ち合わせがあろうはずもない。
「…ま、ここはひとつ粘ってみるさ」
 ならば、今は待つ。レオンはそう結論して、そのまま目を閉じた。
 どのくらい経っただろう。少しうとうとしたような気もするが、ほんのわずかな間であったのかもしれない。燈盞とうさんの細い炎が、不意に揺れた。その揺らめきを瞼に感じて、レオンは思わず目をみはる。揺れて、そのまま微風の存在を示して揺れ続けていた。…風?この閉鎖された空間で?
 知らず、呼吸いきを詰める。それから、小さな音も聞き漏らさないように深くゆっくりした呼吸に切り替え、揺れ続ける細い炎を凝視する。…変化は、それからいくらもしないうちに訪れた。
 石が擦れるような、砂を噛んだ音。聞かれることを憚るように少しずつ、慎重に滑らせているのが分かる。…ややあってそれがやみ、確かに衣擦れの音が聞こえた。
 思わず、身を硬くする。剣は当然取り上げられているから、今のレオンに身を守る術は無いに等しい。ツァーリの内部とて一枚岩とは限らないだろうから、さっさと処刑してしまえという一派がいたとしても驚かないが…。
 おとなしく殺されてなんかやらないぞ。
 思わず呼吸が荒れそうになるのをぐっと堪え、気配を探る。衣擦れは続いている。…明らかに、こちらへ向かっていた。じりじりと、牢の奥へと移動する。得物が短兵なら事を遂行するためにこちらへ入ってくる可能性だってある。もしそうなれば、千載一遇の好機が向こうから転がり込むのだ。
 だが、レオンはその気配に違和感を感じていた。おかしい。どうにも、足音も衣擦れも一人分にしか聞こえない。
 かくして、格子の前に立ったのは、頭巾フードのついた長衣ローブに身を包んだ人物が、たった一人。修道僧がごく普通に羽織っている代物だ。ゆったりした服だからその長衣の下にどんな武器を持っていても分かりにくいが、槍や弩などかさばる類の武器は持っていないだろう。
 牢の奥で、レオンはじっとその人物を凝視する。見上げるかっこうではあるが、灯りはわずかで頭巾もあるからその下の顔までは分からない。…ただ、額面通りにここの修道僧と考えるほどレオンも暢気に構えてはいなかった。
「…シェノレスのレオン?」
 身を屈め、静かに放たれたのが確認の問いかけであることは明白であったが、そこで素直に応答できるわけもない。
「…人に名前を訊くなら、自分が名乗ってからってのがすじだろう。…ツァーリの礼儀ってやつがどんなものかは知らないけどな」
 ツァーリの言葉で返答したが、聞く者が聞けばシェノレスの訛が分かっただろう。
 長衣の人物は、低い笑声を漏らした。
「…成程、道理だ」
 そして、目深に被っていた頭巾を後ろへ滑り落とす。…細い灯火を、陽光の色彩がはねた。
 レオンが思わず声を呑む。それは、昼間見た貌。玉座に次いで高い場所、宰相に等しい場所に佇んでいた…。
ツァーリ王太子ツェサレーヴィチ、サーレスク大公アリエル」
 その肩書に違和感はないのに、なぜか所作に尊大さは感じ取れない。柔和な眉目は薄く笑んですらいるように見えた。…だが、敢えてシェノレスの言葉で続けて紡がれたのは。
「…シェノレスのレオン、君と取引がしたい。こちらが提供する条件は、君の自由の保証だ」
「…っ…!?」
 この状況で面食らわない奴がいたら見てみたい。完璧に、レオンの想定の枠を超えた事態だった。声を失ったまま立ち尽くすレオンに、アリエルは少し困ったような苦笑を閃かせた。
 背後をちらりと気に掛けてから、レオンに向き直る。
「…残念ながら熟考してもらう時間がない。今すぐ私についてここを出るか、このまま宰相の謀略の贄となるか。選択の幅が狭くて申し訳ないが、択んでくれ」
「…ツァーリ王太子ツェサレーヴィチが、おれを逃がすと?」
 ようやく、それだけ声に出せた。シェノレスの言葉に戻ったのは、万が一聞かれた場合のことを考えた訳ではなく、言葉を選ぶ余裕がなかったからだ。
「逃がす、というと…語弊があろうな。無償とは言わない。だからこれは取引。…信じる信じないはこの際訊かない。取引に応じるか否かをここで判断してくれ」
 双眸の若草色は場違いなほど優しい色彩であったが、細い灯火の下でもはっきりとつよい光を放っていた。それが、拒絶の途をやんわりと閉ざす。…これは見た目ほど穏やかな御仁じゃないな、とレオンは内心で舌打ちする。ある意味、あの国王や宰相より厄介な相手ではないかという気さえした。
 …大体、取引というには提示する条件が一つ足りない。そう言おうとしたが、レオンは呑みこんだ。
「いいだろう、乗った」
 その時、遠くとも近くともとれる不可解な場所でごとりと重い音がした。
「何だ?」
 レオンは眉を寄せただけだったが、アリエルがさっと青ざめる。
「…やはりそうか…っ!」
 鉄格子にかけられた鍵をあける音が、静かな牢に響いた。が、その金属音を圧する新たな音がそこへ近づいていた。…流れる水の音?
 格子を引き開けたアリエルがしたのは、梯子を下ろすことではなかった。実に思い切りよく井戸の底へ飛び降りたのである。確かに登るには難儀な高さであるが、降りる分には差し支えない。ただしそれはある程度身体を動かすことに慣れた者であれば、ということであって、下手をすると足を折る。
「おい、ちょっと待て!?」
 あんたがこっちへ飛び込んでどうするよ、と言おうとした。しかし、アリエルは着地の際に軽く片手をついたのみで存外しなやかに降り立つ。そして何も言わずに長衣の下から背嚢を放って寄越した。見れば、アリエルが纏っているのと同じような長衣が入っている。剣も入っていた。使い慣れたものではないが、この際は文句は言えない。
 受け取ったものの、思わずまじまじと王太子を凝視した。だがそれも数瞬のこと。アリエルは壁の一隅の石組みに手をかけていた。その姿が、降り注いだ水で遮られる。
「な…!」
 先刻まで沈黙していた吐水口から、凄まじい勢いで水が噴き出ていたのだ。
 だが、同時にアリエルが手をかけていた石組みがガラリと動き、牢の一隅にひと一人はゆうに入れる穴が穿たれる。
「此処に居れば殺されるぞ。どっちを選ぶ?」
 否やはない。レオンは長衣をひっかけると、剣を握ってその暗闇に身を投じた。アリエルが即座に石組を閉じる。
 それほどの剛力とも見えなかった。一筋の光もないから何も見えないが、何かの仕掛けで扉のように開閉するのだろう。閉じた石組から水が押し寄せてくることはなかった。
「こっちだ。灯りを点けてもいいんだが、時間が惜しい」
 闇の中であるが、アリエルがするりと傍を通り抜けていったのが判った。そのまま、先へ歩き始める。
「…見えてるのか、あんた」
 迷いのない歩調に思わず訊いてみる。
「いや、全くの手探りだ。図面は頭に入れているが。
 …驚かせてすまない。宰相はああ言ったが、昼間君が切った啖呵に震え上がっている輩がいるのはわかっていた。何らかの手を出してくる可能性はあると踏んでいたのだが…あんな手に出られるとは思わなかったよ」
 先程の、吐水口から突如吹き出した水のことを言っているのだろう。確かに、あのままだったら格子に阻まれて溺れ死ぬしかなかっただろう。今更ながら、背筋を悪寒が走り抜けた。直接手を下そうとしない、陰湿なやりかたに腹が立ったのはその後だった。
 傾斜の急な通路を半ば手探りのようにしてどのくらい進んだか。足下の感触からして、堅い木材か、石造り…。湿気はあるが要所に補強が入れてあるようだった。
 前を行く足音が停まったのでレオンも立ち止まる。今度は木の軋む音がして、月明かりと思しき光が差し込んだ。灰色の長衣が薄闇に浮かびあがり、半身はんみほどこちらを向いたアリエルが沈黙を守るよう指を唇にあてているのが見えたから、それに従う。
 木の扉が内側へ開かれると、そのすぐ前に石像が背を向けて佇立していた。
 壁龕ニッチだ。廊下に沿って神像を安置するために作られた壁のくぼみの奥、神像の背後に飾られた板絵が、そのまま通路の扉になっていたのだ。
 水牢とその脱出口といい、凝った仕掛けにレオンが思わず言葉を失っていると、アリエルは石像の脇をすり抜けて壁龕から降りた。等身大の石像を納める壁龕だから通り抜けるのに苦労はない。続いて降り立ったレオンはそこが礼拝堂の周囲をを巡る柱廊であることに気付いた。
 月下に列柱が佇むのみで、動くものとてない。柱廊の向こうは黒々とした森。梢は冴えた月光を受けて浮かびあがるが、木下の闇は深い。
「王城の森?…いや…」
 規模の大きな中庭クロイスター。しかしおそらく往時に比べて手入れが荒いのであろう、木々が茂り放題で森と紛うほどだった。アリエルは周囲を探るように目を配っていたが、長衣の頭巾を再び被ってレオンに続くように指示した。あくまでもゆっくりと、終課の祈りを終えた修道僧が沈黙のまま居室に戻る途中であるかのようなたたずまいで。
 中庭に沿って、柱廊を進む。角を一つ曲がると、木々に侵蝕され、敷石も草生すにまかせた一隅に辿り着いた。…しかし、これでは行き止まりだ。
 アリエルが頭巾をわずかにずらして周囲を窺う。確信を得たのか、やにわに長衣の襟元を緩めて肩から滑り落とすと、木々の間に姿を消した。…忽然と。
 レオンは危うく声を上げるところだった。こんなところで置き去りにされても困る。…が、月光に淡く浮かび上がる長衣の灰色が木々の狭間へ吸い込まれるのが見えて、得心する。あるのだ、通路が。
 先導者に倣い、木々の間をすり抜けるには邪魔な長衣を脱いでその通路に身を滑り込ませる。うまくしたもので、一見隙間などないように見えるが、蔓や葉が絡まっているだけで十分な間隙があった。しかも、外からは分からない。
 木々の侵蝕だけではない、おそらく地震か何かで崩れたまま放置された棟なのだろう。倒れたままの石柱、崩れた壁、木々に割り砕かれた天井。数段の朽ち果てた階の先に、円形のホールがあった。天上の隙間から冴えた月光が降り注ぎ、縦横に皹の走ったモザイクタイルの床に木々が落とす陰翳が不可思議な紋様をつくる。まるで、水底へ潜ったようなその静謐の中で、アリエルは待っていた。レオンが狭間から入ってきたのを見て、薄く笑む。
 レオンは軽い違和感を感じた。その薄い笑みが、ここにいない誰かに向けられていた気がしたのだ。
 だが、とりあえずレオンが口にしたのは別のことだった。
「できれば、一言説明してから行動を起こしてほしいんだが」
「済まない。あまり説明が上手なほうではなくてね。シェノレスの言葉も口にするのは久し振りだし」
 そう言って、また身振りで行き先を示す。だが、先ほどまでの極端な緊張はそこから感じ取れなくなっていた。一応の安全圏ということなのだろうか。
「なんだってこんな凝った通路があるんだ?」
「通路というわけではないさ。…まあ、どっちかというと隠れ家、かな。…ああ、水牢の仕掛けは昔からあったものだ。動作するかどうかは賭けの域だったけれどね。古い記録を調べていて行き当たったんだ。なにせ、この2年ばかり他にすることもなくて、古い記録ばかり探っていた。どこで何が役に立つか、分からないものだ」
 隠れ家、という言葉に込められた意味を、レオンは掴み損ねた。…少しだけ考えて、追及するのをやめる。
 ツァーリ王太子ツェサレーヴィチアリエルが開戦後、軟禁状態にある…という話は、レオンも聞いていた。どうやら本当であったものらしい。ほの昏い廃屋を危なげない足取りで進むその姿からは想像がつきにくいが。
王太子ツェサレーヴィチアリエル…俺を助けるのは、俺がシェノレスの人間だからか」
 レオンはようやくシェノレス出身である彼の母、アニエス妃の事を思い出していた。それならば流暢なシェノレス語も合点がいく。…が、暫く応えはなかった。
「そう思ってもらってもいい。…だが、これは取引だと、私は最初に言った」
「……」
 当然ながら道案内のアリエルは先を行っていたため、レオンはこの時の彼の表情を見る事はできなかった。
 そう、取引というなら、提示する条件がもう一つ足りない。アリエルがレオンの自由を提供するとして、レオンに望まれていることは何なのか。もしくは、レオンが逃亡に成功することで、彼に何の益があるというのか。
 ツァーリ王太子という立場をなげうったとしか思えない行動の理由が、見えてこないのだ。言ってはみたが、アリエル自身がシェノレスの血を引くがゆえ、というのはあまりにも現実味がない。助けてもらっておいて何だが、ただその一点のために、明らかな利敵行為に走る理由は無い筈だった。
 ツァーリは周辺四国を抑え付ける目的で、しばしば王家かそれに準ずる貴族の家から娘を輿入れさせた。アリエルの生母アニエスもそうしてツァーリ王カスファーに嫁した大神官家の娘で、十年以上前に病没している。その際、アニエスについてツァーリに渡った近習の者は殆どシェノレスに帰されてしまったというから、アリエルはそれ以後ほぼ孤立無援であったことになる。…挙句の幽閉だ。廃嫡どころかいつ命をとられるかわからない境遇である。それで十年。まともな神経で耐えられるとは、レオンには到底思えなかった。
 レオンとて十年前、自分が誰かもわからず、言葉さえ通じない世界へある日突然放り出された。だが、自分にはルイがいて、アンリーもいた。当時のことはもうあまり憶えてはいないが、少なくとも、孤独や絶望とは疎遠でいられた。そこには確かに自分の居場所があったからだ。
 この人には誰かいてくれたのだろうか。孤独と絶望が、この人を蝕むことは無かったのだろうか。
「条件については、安全圏まで移動できたらきちんと説明をする。心配しなくても、私は別に気が触れてはいないよ。それなりの成算…いや、この場合打算、かな。それはあるつもりだ」
「…っ!」
 一瞬、疑いかけたことを見透かされたのかと焦った。歩を緩めることなく歩き続けるアリエルの背を追いながら、続ける言葉を探すが、探し当てる前に少し笑いを含んだ声がそれを制した。
「まあ、疑われても仕方ないがね。実際、無謀ではないにしろ無茶ではある。…それは認める。だが今は、黙ってついてきてもらえないだろうか」
「…わかった、信じよう」
 無茶であることを認めているが、それが必ずしもこの人が心の均衡バランスを欠いていないという証左にはならない。しかし、この機会を無にする理由ともなりえない。なにせ、獄舎からは出られたものの、ここがどこだかわかるわけではない。王城の森なのか、それともまだ僧院の内部なのか。…ならば、ついていくしかないではないか。
 建物は進むにつれて崩壊の度合いを深め、ついには壁もなくなって崩れた石組みと木々が絡み合う廃墟へと行きつく。そして、崩れた壁の一隅に馬が2頭繋がれていた。
「乗れるか」
 長衣を無造作に崩れた壁へ放り投げると、アリエルは手綱を解きながら言った。
「シェノレスにだって馬ぐらいいるさ」
 レオンが渡された手綱をとり、一動作で乗る。矢傷を受けた肩が軋んだが、構ってはいられない。
「結構。では、行こう」
 およそ獣道としか思えないような道を指す。レオンが思わずぎょっとした半瞬の後、馬が走り出した。
 この道を知っているのか、それともアリエルの乗騎に追随するよう仕込まれているのか、レオンが乗った馬は鞍上の者を全く意に介さず疾走する。
 侮られても面白くないのでああは言ったものの、馬を駆ることにさほど慣れているわけではないレオンとしては、振り落とされないようにするのが精一杯であった。
 月明かり、森の中の道ともいえない道を疾駆する。一歩間違えば木の根や枝葉で馬ごと転倒、さもなければ鞍上からたたき落とされるだろう。自然、手綱をとる指先やあぶみにかける足に力がこもった。
 夜明けにはまだ間がある。早春とはいえ空気は刺すように冷たかった。

***

「遅かったかもしれない。…既に、姿は無かった」
 王都ナステューカからイェルタ湾へ続く道は数本あるが、二人が立つのはそのうちのひとつ。既に、王城の森がすぐそこに見える場所まで来ていた。単身偵察に出たアンリーが戻ってきたとき、ルイは友人の顔色を見て思わず背に氷塊を感じた。
「…どういうことだ?」
「レオンは政治犯としての扱いになるはずだから、収監されるとすればミオラトとは思っていた。ナステューカへ放った者からの報告で裏付けは取れている。…だが、問題はサーレスク大公が俄かに軟禁を解かれ、その審問の席にいたらしいということだ。…どういう経緯かはわからないが、彼がこの状況で軟禁を解かれたとしたら、必ず動く。おそらく今から行っても、ミオラトにレオンはいない…」
「サーレスク大公って…王太子ツェサレーヴィチか!? あの…!…ちょっと待て、話が見えん。お前、どこへ何を探りに行ってきたんだ? ミオラトじゃなかったのか」
「サーレスク大公邸。警護というより軟禁するための兵力だからさほど入り込むに労はない」
「いやだから、そういう話を聞いてるんじゃなくて!」
「ミオラトへも探りを入れるつもりだったが、戻った。大公の姿が邸から消えている。単騎でレオンを王都から連れ出すなら、自領を通るのがほぼ唯一の選択肢だろう。…サーレスク領を通れば、海岸線も近い」
「…王太子が、こちらへ寝返ると?」
 アンリーは静かに首を横に振った。
「…それは、ありえない」
「アンリー?」
「ありえないんだ、ルイ。あの人はツァーリを守ろうとするだろう。…だからこそ、レオンを生きたままシェノレスに返すために動く」
 アンリーの言わんとするところにようやく思い至り、ルイの顔から一瞬だけ血の気が引いた。
「…まさか、王太子ツェサレーヴィチは…」
「あの人は、この戦の裏に気づいている。おそらくは、幾許かの証拠を抑えてもいるのだろう。ただ、惜しむらくは…いや、我々にとって幸いなことに、それを理解し、支援する者が傍にいない。だから開戦から二年間、今までどうすることもできなかった。
 そこへ、レオンの捕縛。取引材料としてはこれ以上のものはない。我々は本来、どんな要求でも呑まざるを得ない…が、現在の処ツァーリの正式な要求は、こちらに時間的な余裕を与えてくれる。そこが我々の活路でもある。
 返答を引き延ばしてその間に我々の手でレオンを奪還してしまえばいいのだからな。…だが、あの人はそうさせない・・・・・・つもりだ」
「…ひとつ間違わなくても、王太子本人が背信者として処断されるのは火を見るより明らかじゃないか」
「それでも、一日でも早い停戦のためならあの人は動く。…そういうかただ」
 ルイがぐっと言葉に詰まった。
「レオンの奴…俺達を待ったりはしないだろうな、多分。罠だろうが何だろうが飛び込んじまう。
 まあ、何としてでも生きてろ、って言ったのは俺達だしな。戦の駆け引き抜きにレオンを殺そうとする奴だっているかもしれんし、そうなったら脱出できる時に脱出しちまえ、って考えても不思議はない」
 アンリーが頷く。ルイは頭を掻き毟って幾分乱暴に馬の手綱を取った。
「…サーレスク大公領だ。こうなったら、一瞬でも早くレオンと合流してとっととカザルに退くぞ!」

***

 イエルタ湾に展開するツァーリ軍本陣。
 前日の海戦でレオン捕縛という戦果をあげたとはいえ、ツアーリ軍とて損害はあった。そのため降伏を迫る間、体制をたてなおしつつの監視にとどめるか、余勢を駆ってすぐさま攻勢に転ずるかの軍議がまとまらず、結局派閥争いに発展して時間を空費し、緊張感もなし崩しに各隊ばらばらのの戦勝祝いを始めてしまったのである。
 ひたすらに忍耐力を試される軍議の間、衛兵隊・第三隊隊長エルンストは奥歯を噛みしめながら肚の中で呟いた。
 ――――この国ツァーリが滅ぶとしたら、シェノレスに積年の恨みでもって蹂躙されるからじゃない。この阿呆どもの所為だ。
 衛兵隊・第三隊は国王直轄という立場にはあったが、その起源が国王の食客集団、いわば傭兵隊である。ほとんどが騎士階級でもないことから、隊長といえど発言権はそれほど強くない。
 その時代の司令官によっては実戦に長けた職能集団として重用されることもあるが…現在の司令官は騎士階級でさえない者が軍議に連なることさえ不快、という人物であり、エルンストが何か進言しようにも聞いて貰える雰囲気はなかったのである。
 審問からとんぼ返りした後、湾岸を回って自分の予感を証拠立てるいくつかの事象は見つけたものの、頑迷な司令官を説得するには弱かった。下手をうてば、臆したと思われて第三隊の配置を変なところへ移されかねない。
 考えた挙げ句、夕刻…エルンストは副長・ディルにいくつかの指示を出し…そして最後に言った。
「いいかディル。今から俺は熱噴いて面会謝絶だ。伝染病うつりやまいだといけないから、誰も幕屋に入れるなって言っとけ」
「了解です、隊長」
 笑いを堪えながら、ディルはいらえた。
「じゃ、あとは頼む。俺が朝までに起きて・・・こられないくらい重態だったら、さっきの指示通り動け。何、あの軍議の様子だと咎めだてはされまいよ。あんな莫迦共につきあって自滅するこたぁ無い」
 流石にディルが笑いをおさめ、神妙に頷く。
「…気をつけて」