篝火は消えない Ⅳ

「この道は……」
 アリエルの声に我にかえる。いつの間にか相当走ったらしく、森を構成する樹々はがらりとかわっていた。慣れない騎行にずいぶんと余計な力を使っていたようだ。腕に軽い痺れさえあったが、それほどに力を入れなくて済むことにようやく気付いて手を緩めた。
「海岸線に隣接する丘陵地帯へ続いている。これでも一番兵の少ないルートだが、森を抜けた辺りに街道の監視のための物見台がある。見つかったとしても全力で走るより他ないが、万が一の時の覚悟はしておくのだな」
「わかった」
 もしもの時は一戦交えることも辞さぬという訳である。声の調子から、彼が決して威しで言っているのではない事はわかる。
 不意に目の前の空間が広がるのを感じた。アリエルが手綱をひいたので、それに倣う。
 おあつらえに月が陰ったが、朧気に地形はわかる。草原の丘陵、そしてその向こうには海がある苦だった。微かに、潮の香りがする。
 アリエルが無言で、小高い所にある明かりのついた粗末な小屋を示した。確かに兵はいるのだ。遮るものさえない草原である。囲まれればひとたまりもないが、アリエルの言うとおり強行突破するしかないのだ。レオンは馬腹を蹴った。
「見つかったら・・・その時はその時さ!」

***

 王都北面。南北に走る街道の守備隊駐屯地に複数の締の音が近づきつつあった。数にして十数騎。服装みなりはいっそ見事なほど多彩で、見るからに重武装というほどではないが、一人残らず帯剣している。あまり見かけない武器を携えた者もいた。
「止まれっ!」
 王都守備隊の兵が前に立ち塞がったので、先頭の騎手が手綱を引いた。
「誰だっ!」
 先頭の騎手が身軽に降りる。北の国・ノーアの衣装をまとっていた。
「ノーア大公閣下の急使である。速やかにお通し願いたい!」
 元来血の気の多そうな青年ではあったが、ひどく殺気立っていた。…だからといって引き退がっては、守備隊は用を成さぬ。
「下乗し、通行証を出されよ」
「この方に通行証だと!?」
 守備隊の兵は至極真っ当な対応をしたのだが、青年はいきり立った。だが、その肩に背後にいた人物が手を置いて宥める。
「良い、レイン。正当な職務だ」
 それは黒い髪と鋭い紫の瞳をした、二十代も前半と見える青年であった。男たちのなかでただ一人、ノーアの正式な軍装を纏っている。レインと呼ばれた血の気の多い青年が一瞬でおとなしくなった。
「急使であるのはまことゆえ、馬上より失礼する。ノーアのリオライ=ラフェルト。ツァーリの大事に関し、ノーア大公ミザンより伝言を預かっている。速やかにお通し願いたい」
 堂々とした声がよく通る。若いが、将軍級の武人といわれても不自然でない所作で、正式な使者の印である杖を示した。
「…失礼しました。お通り下さい。道中お気を付けて」
 兵士が判断に迷う中、古参の兵が深甚な礼をとって言った。
「感謝する」
 馬上ではあったが、青年が深々と頭を下げた。兵士達がぽかんとしている間に、蹄の音が遠去かる。
「いいのかい、爺さん。あっさり通しちまって。今の大将、ノーアの軍人らしいが…あんな怪しい集団、見たことないぞ」
 若い兵士が、いつまでも通り過ぎた騎影を見送る老兵士に問うた。
「お前はお会いした事がないかもしれんがの。あんな姿なりだが歴としたツァーリの方だ。それ、あの…嬰児の頃に頃ノーア公に預けられた…」
「えっ…でも、あの方は、確か2年前に…」
 若い兵士は聞いた噂を思い出し、とたんに蒼白になる。出自と、2年前の出来事と、二つながらに。
 老兵士はと言えば、安堵と不安を複雑に綯い交ぜたような表情で深い吐息をして、呟いた。
「…まさかとは思ったが…生きておられたか。しかしあの様子では…これは、王都で一荒れあるな」

***

 レオンは思わず舌打ちした。あと少しで安全圏というところになって、物見台の扉が開かれ騎兵が躍り出たのだ。
 アリエルの若草色の瞳に、静かだが明らかな怒りの色が閃いた。サーレスク公領の兵士ではない。その上、十騎は下らないだろう。決して、こんな物見台に常駐している数ではない。…ということは。
「後ろを見るな!そのまま丘を抜けろ!」
 アリエルが鋭く叫ぶ。
 言われなくたって、と応じかけたレオンは、そう叫んだアリエル自身が馬首を返したのに泡をくった。
「おいっ…!」
 だが、アリエルとて無策であったわけではなかった。
「行けっ!」
 鞍につけていた背嚢から身長の半分ほどの紐を引き出す。…紐、というより数珠。引き出したと同時に着火する仕掛けであったらしく、点々と炎が点いている。それを投擲すると、端におもりがついていたと見えて驚くほど飛んだ。そして、あやまたず追手の騎馬の足元で強烈な閃光と共に炸裂した。
 先頭の数騎が足を取られて転倒する。それに巻き込まれて二騎ほどがもんどりうって倒れた。
「…うわ」
 物静かな王太子が荒事とは無縁と見えていただけに、レオンは内心で舌を巻いた。それでも折り重なる人馬を超えて五騎ほどが急迫する。アリエルは既に反転していた。彼の目的は僅かな足止め、もしくはあくまでも兵力を削ぐことだったのだろう。だが、その僅かな時間にある程度の距離を稼ぐことはできた。
 ただ、レオンが騎行に不慣れであることに違いはなく、熟練の騎兵からまともに逃げ切るには無理があった。アリエルはその無理を埋めるべく動いたのだが、騎兵が構えたクロスボウがあっさりとそれを妨げた。
 数本の矢が飛び、レオンの乗騎が後脚を射られて棹立つ。落馬するのではなく、自ら飛び降りられたのは僥倖というべきだった。
 霜でも踏んだらしく、冷気が皮鞋サンダル越しにレオンの足を突き刺した。
 追いついたアリエルがすぐに馬上へ引き上げようとしたが、その直前に自身が背に矢を受けて乗騎へ伏す。辛うじて落馬を免れたものの、見る間に距離を詰められた。レオンは腹を据えて剣を抜き、馬上で動けないアリエルと騎兵の間に割って入った。
 レオンの剣とレオンに向かって振りおろされた剣とがぶつかりあって、はでな昔をたてる。
「誰何の声すらない…か。…はん、もう伝わってる。ツァーリの伝令もけっこう優秀じゃないか…!」
 ぶつかりあったままの剣をはさんで、騎兵は力で押してきた。
「…っ!」
 かかる力をすっと横へ流す。勢い余って前のめりになった騎兵を引きずり落とすと、替わって馬上へ。形勢を逆転させると、レオンはその闘いに相手の槍を奪うことで決着をつけた。
 一方アリエルも他の兵と衝突、数の不利に耐えて善戦していた。…あくまでも善戦・・である。背の傷は浅手のようだが、いかんせん数が違い、勝負以前の問題だった。
 その時、後方からもう一騎追ってきたのが見えた。腰に吊った長剣の他、武装がないために馬の脚も早い。あっという間に追いつき、騎兵の一人の槍を叩き落とした。
 レオンは状況が読めずに一瞬だけ硬直した。つい先日、あばらを砕かれた相手だと気づいたのだ。確か、衛兵隊の…。
「剣を引け、莫迦共!」
 肚に響く、よく通る声であった。聞き覚えがあったのはレオンだけではなかったようだ。
「貴様、何の権限があって・・・!」
 騎兵たちの指揮官が憤然と抗議するのへ、後から来た人物…衛兵隊第三隊隊長・エルンストは容赦なく怒鳴りつける。
「喧しい!ここはサーレスク公領だろうが!! てめえらこそ、ここで何の権限があっての捕物とりものだ!?」
 それを言われると、騎兵たちにも弱味があったものと見える。一瞬、騎兵たちの動きが鈍るのを、アリエルは逃さなかった。
 二騎を落馬させ、指揮官の乗騎へ肉迫する。反射的に、指揮官は抜剣しかけたが、鞘のままのエルンストの長剣に右手を叩かれて動作を止める。
「第三隊の容喙するところではないぞ!」
やかましいっつってんだろが!」
 いきり立つ指揮官は軍装からすると少なくとも同格かその上であったようだが、エルンストは全く頓着しなかった。頭ごなしに怒鳴りつけ、指揮官の乗騎の臀を叩く。竿立った馬を鎮めるのに指揮官が躍起になる間に、アリエルに向き直る。
「殿下!…こんなの無茶だ。今すぐお戻りを!」
「ご無沙汰しています、隊長。・・・申し訳ありませんね。ご迷惑をかけます」
 アリエルはエルンストの焦燥をまったく意に介さないふうに涼やかに笑んでみせた。だが、やおら馬腹を蹴って指揮官とエルンストの脇をすり抜け、素早く両騎の手綱を断ち切った。エルンストはなんとか立て直したが、指揮官は派手に落馬する。
「・・・殿下!」
 その間に、アリエルは乗騎を反転させていた。
「レオン、行けっ!」
 硬直から自由になったレオンが、我に返って馬腹を蹴った。
「追え!殺してもやむを得ぬ」
「誰に向かって剣を向けるか、この莫迦共!」
 自分たちの直属の上司と、衛兵隊第三隊隊長と…相反する命令に騎兵たちの動きは鈍った。
 普通ならどちらに従うべきか明らかである。しかし皆、目の前の人物が誰だか理解っているのだ。王国騎士のくせに王太子ツェサレーヴィチに剣を向けるのか、という至極まっとうな詰問には、いくら何でも戸惑わざるを得ない。
 逡巡が兵士達をわずかな間だけ縫い止める。
 その時、一騎がどこからともなく飛んできた矢に射抜かれて声もなく落馬した。
「何…!?」
 この闇の中で。こうも正確に。レオンには射手の正体がわかった。たて続けに数本の矢が飛ぶ。あっという間に、動ける兵のほとんどが動きを封じられた。ある者は乗騎を射倒され、そうでなければ四肢のいずれかを射られて落馬する。
「アンリー!」
 蹄の音。そして聞き慣れた声。
「レオン、無事か!」
「ルイ!」
 月光を遮っていた雲が、切れた。

***

 ルイとアンリーの援護を受け、レオンとアリエルは何とか丘を越えた。矢を抜く暇すらなく先行するアリエルの騎行の速度が目に見えて落ちているのが気にかかってはいたが、レオンはあえて追及はしなかった。とりあえず追撃を振り切るのが先と肚を括っていたからだが、海岸線…カザル砦のある岬へ続く高い岩壁の上まで辿り着いたとき、堪らなくなって声をかけた。
「…大丈夫なのか!?」
 アリエルは、その声でようやく現在位置を把握したかのように俄かに手綱を引いた。
「…大したことは無い」
 そう言ってレオンをかえりみたアリエルの顔色は、薄明の淡い光の下でさえ科白を完全に裏切っていた。だが、おもむろに馬を落ち着かせて下乗し、手近な立木に手綱をゆわえた。
 崖下に広がるイェルタ湾の海面は、月が雲に隠れていまだ闇に沈んでいた。しかし反対側の山稜は淡い紫に染まり、夜明けの近いことを報せている。
「…うわ、待てって!」
 刺さったままの矢に手をかけ、引き抜こうとするアリエルを見てレオンが慌てる。肩とはいえ背中側に刺さっている矢だ。無理な姿勢で引き抜こうとすれば傷を広げてしまう。
 レオンが慌てて馬を下り、制止にかかったところでルイとアンリーが追いつく。
「アンリー、頼む!」
 状況を理解したアンリーが冷静にアリエルの手を抑え、背に刺さった矢を抜く。一時血が噴き出したが、止血の態勢を整えていたアンリーが的確に出血を抑えた。アリエルは小さく呻いたが、拒絶はしなかった。
 一方で、馬を降りるなり怒鳴ったのは無論…というか、ルイだった。
「この大莫迦っ!」
 問答無用で後頭部を小突かれたレオンが憤然と抗議する。
「痛ー!何するんだよっ!」
「こちとら寿命が縮むかと思ったぞ!」
「だからっていきなり小突くか!? 俺だって好きこのんで捕まった訳じゃないぞ」
 安心も手伝ってか、レオンもついいつもの調子でやり返してしまう。
「ほーう、そういう大口たたける立場か?…この考え無し!」
「何だとっ!もう一ペん言ってみろっ!」
「その辺にしておけ。時間が惜しい」
 呆れたように、それでもかすかに笑みのようなものを閃めかせて、アンリーはこれもいつもの調子でいつ果てるともない喧嘩に終止符を打った。実際のところ、レオンにしろルイにしろ、どうも何かという時にはアンリーには迫力負けしてしまう。
「サーレスク大公、ツァーリ王太子ツェサレーヴィチアリエル殿下…であられますね?」
 アンリーは淡々と自身の神官衣の片袖を裂いてアリエルの傷を簡単に手当すると、王太子に対するにふさわしい礼を以て尋ねた。
「…然り。では、御身が大神官リュドヴィックの名代として従軍する、奉献されし者サクリフィス・ラ・メール、アンリー?」
 これには、言われたアンリーよりルイとレオンのほうが戦慄した。アンリーの本当の身分なぞ、シェノレス軍の中でもごく限られた範囲にしか知らされていない。
 「海神の御子」レオンを補佐する神官府衛視寮の武官という位置づけは決して嘘ではなかったが、それは事実の半分でしかない。
 大神官の名代。大神官の意を受けて動き、現地での判断を任された者。ルイが軍事上の統括者であるのと同等に、アンリーは政治向きの判断を任されていたのである。
 だが、何故それをツァーリ王太子ツェサレーヴィチが知っている?
 しかし、アンリーの返答は簡潔であった。
「…御意。ここで成されることはすべて、大神官リュドヴィックの諒解のもとにあります」
 それを聞いたアリエルが静かに微笑し、レオンに向き直った。
「…ではレオン、先刻話しそびれたこちらの条件について、今ここで提示をしよう。
 私、ツァーリ王太子ツェサレーヴィチアリエルがシェノレスのレオンを獄舎から出し、帰陣せしめるのは、シェノレスのレオン、君の解放をツァーリとシェノレス間における即時停戦の条件とするためだ。
 無論、決裂すれば仕方ない、私の責任において…差し違えてでも君を此処で斃す」
 冬の木洩れ日のような…穏やかな微笑を浮かべながら、アリエルは宣言した。