南海の風神 Ⅳ

海流の中の島々


「嘘だ…こんなこと…」

 大神官リュドヴィックの長子リシャール。既に神官として神官府に入り、大神官の後継者となるための知識と経験をを積む日々を送っているが、弟アンリーと比較してやや精彩を欠く、と言われていた。だが、リシャール自身はその噂を否定しない。そこに感情を持ち込むことさえせず、己に課せられた課題を日々、黙々とこなしていた。
 ただ、輝くような才気はなくともすべきことを確実に行う能力は本殿の上級神官達の認めるところであった。それゆえ無責任な噂はあっても立場は揺らぐものではなかったのだが、かといってそのことは格別、彼の沈黙に寄与しているふうでもなかったのである。
 だがそのリシャールが、いま洞の口を塞いで沈黙している岩に取り縋ってかすかに肩を震わせていた。

 海蝕洞で二人が生き埋めになったという報を持ってきた半泣きの子供たちを帰した後、リシャールは事の次第を父である大神官に伝えるよう近侍の神官に頼み、問題の海蝕洞へ駆けつけたのだった。

 岩の沈黙に無音の抗議をするように、リシャールが押し当てていた掌を握りしめる。だが、そうしている間は短かった。人間ひとりの力で押して動く岩の量ではないのは明らかだったから、リシャールは彼らが別の道を捜す可能性に賭けて、海へ降りた。
 子供達が目を付けた洞穴は間違いなく海神窟の旧い支洞だ。海神窟の開口部、岬の南側へ回って出口側から捜索するべきだろう。そう考えたのだ。
 海岸線伝いに海神窟の開口部へ回ろうとして、リシャールは思わず立ち竦んだ。
 雷と紛うほどの音。遅れて、海神窟の内部から沖へ向かって波が広がり始めたのだ。
「何…!?」
 波。本来沖から打ち寄せてくるべきもの…。リシャールは足を速めた。
 だが、ひどく場違いな色彩が視界の隅を横切った気がして立ち止まる。赤、というより緋色。海と空の青と、岩の白…その狭間に、鮮烈な緋色が舞ったように見えたのだ。
 足をとめ、蒼穹を振り仰いだリシャールは呼吸いきを呑んだ。
 空の碧と白い崖。その狭間に、それはいたのだ。
 みちがあるのかどうかもわからぬ切り立った崖の半ばに佇立し、やはり海神窟から沖へ向かって広がりつつある怪異な波を眺めているようだった。神官衣に似た白い衣服が強い潮風をはらんで膨らみ、体格は判然としない。いっそ禍々しいほど紅く長い髪…否、あれは頭に巻いた布だ。風に煽られ、それでも小揺るぎもせぬ立ち姿は火焔光背1を背負った神像のようにも見えた。
 そう、あれに似た神像を見たことがある。
 この国の主神は海神であるが、その眷属として風神が配される。神殿に林立する神像の中にも、その姿があった。
 誰の手になるものかは知らない。だが、その風神の姿は、アレンの姿を模したという伝承がまつわっていた。
 緋の風神アレン。最期までツァーリに牙をむいた、いにしえの神官。
 思わず、リシャールはその場に凍り付いた。だがまた、遠雷の如き音が響いて海神窟が新たな波を吐き出す。何か大きな流木のようなものが一緒になって流れ出していた。
 視線を逸らした一瞬に、崖からその人物の姿は消えていた。…忽然と。
 何やら薄ら寒いものすら感じて、リシャールは再びまた足を進めるのにかなり自分自身を叱咤しなければならなかった。

***

 自分がつくづく丈夫だと思うのは、こんな時である。
 ルイは水から上がって頭を振った。あちこちぶつけたが、何処も大きな怪我はしていない。水の中で砕けた船と一緒にもみくちゃにされて無傷というのがどれだけの僥倖か、その時のルイには想像がつかない。しかし心配なのはアンリーであった。よせばいいのにルイを庇おうとしていたのは分かっていたが、その直後に見失ってしまったのだ。
 正確に言うと、ルイは途中から気を失っていたのだが…どういう加減が気がついたら船の破片のひとつに上半身を預ける格好で浮いていた。無我夢中でしがみついたまま気を失ったのか…実のところよく憶えていない。
「まさか、死にやせんとは思うけどね。あいつに限って…」
 まるで何者かの意志が働いたかのように、一本の帆柱から船は木端微塵に砕け散ってしまった。ほの暗い水面はバラバラになった木片が揺蕩たゆたう。その中にアンリーの姿を見つけることができず、ルイは少々焦っていた。
「アンリー!」
 声を限りに叫び、呼んでみる。だが返る答えはない。代わりに、海神窟の入口の方から声がした。
「ルイ…か!?…そこにいるのか?」
「!…リシャールさん!?」
 神官衣の白が、陽をはねてルイの目を射た。
「どうしてここが…」
「怪我は?それに、さっきの異様な波は…?アンリーはどうしたんだい、一緒じゃなかったのか?」
 矢継ぎ早に問われて混乱したルイは、栗色の頭をかきむしった。
「だーっ!いっぺんに言うなよ!」
 リシャールはそれで幾分落ち着きを取り戻し、大きく一つ息を吐いて穏やかに言った。
「とりあえず君は無事のようだね。アンリーは一緒じゃなかったのかい?」
「ついさっきまで一緒だったんだ。それが、船がいきなり壊れちまって、そのどさくさで…」
「船…だって?」
「もうないよ、粉々になっちまってるから。木切れならその辺に浮いてるだろ…異国の、船だった。でも、今まで見たこともない造りで…」
 ルイはそこで一旦言葉を切った。
「中を調べてる時に、いきなり崩れたんだ。落ちてくる木材で離ればなれになって、気がついたら…」
「さっきの異様な波は、だからか…」
 リシャールは暗い水面を見た。視界に入るのは、やはり木片ばかり。いや、中には布の切れ端をまとわりつかせた、骨すら覗かせた骸も漂っている。船が砕けた衝撃で、船の中に閉じ込められたまま溺れた者の骸が浮いて出たのだろう。
 エルセーニュは良港に恵まれてはいるが、複雑な海流もまた多い。難破船も決して珍しくないし、来し方のわからぬ骸を弔わねばならないこともあるから、神職に名を連ねるリシャールも水漬く屍にそれほど怖気づいたりはしなかった。
 ただ、この砕けた船に生者が乗っていたのは、かなり前のことのようだ。かつての乗組員を乗せたまま、かなり長いこと漂流していたのだろう。そうでなければ、俄にここまで木っ端微塵にはなるまい。
「…俺、捜してくる!」
 目前を流れてゆく骸をこれも割合平然と見送ったルイだったが、嫌な想像をしてしまって居ても立っても居られなくなったのだろう。飛び込もうとするルイを、リシャールは寸前で止めた。
 他でもない、水音を耳にしたからだ。
「リシャールさん!」
「…聞こえたね?」
 水から上がる音だった。奥の、光が届かない辺りだ。
 二人とも、思わず息をつめた。アンリーか、それとも他の何かか。それでなくてもこの海神窟には、陰惨な物語が無数に染みついている…。
 足音が近づいている。ひどく、緩い歩調だった。まるで、何か重いものを抱えているかのようだ。加えて何か引きずるような音が、一歩ごとに重なるのだ。
「…アンリー!」
 重い空気に耐えかねて、ルイが叫んだ。
「ルイ…兄上…」
「アンリー」
 リシャールが一歩踏み出した。不意に、その歩みが止まる。
 海神窟の崩れた天井から差し込む、淡い光の領域に姿を現したアンリー。彼は一人ではなかった。異国の服にくるまれた人物が、彼の肩に縋っていた。正確には、背負おうとしても背負い切れずに足のほうは引きずっているという格好だった。
「アンリー…その子は…」
 子供。異国の服を着て、恐らくは異国の船に乗っていたであろう子供。
「…生きている…この子…」
 リシャールが倒れそうなアンリーからその子供を抱き取った直後、アンリーはその場で膝を折った。
「おい、アンリー!」
 慌ててルイが駆け寄る。アンリーの顔は真っ青だった。眼をみはり、微かに震えている。
「どこか怪我したのか?」
 アンリーは首を横に振った。
「呼ばれた…誰かいないのかって。返事をしてくれって…ルイが呼んでるんだと思った。でも、途中で気付いたんだ…声じゃないって。あんなにはっきりと…」
 リシャールは子供の脈と息を診て、回数も正常で弱まってすらいないのに気がついた。
「驚いたな…」
 この少年は神官府預かりとなり、〝レオン〟という名を与えられた。そして『海神の加護を受けし者』という異名を授けられる。

***

 レオンは、当初言葉を話すことが出来なかった。声さえも出なかった。こちらの言うことも身振り手振りならわかるようだったが、言葉や文字はまったく理解出来なかったのである。
 だが、そこは子供のこと、すぐにシェノレスの言葉を覚えた。ところが自分の名前も、国も、今まで何処で何をしていたのか、両親はいたのか…それすらも、彼は憶えていなかったのである。
 彼が神官府預かりになったのは、確かに発見された場所の所為もあった。だが、何分見つかったときの状況が状況である。“海神の加護を受けし者”という異名を授けさせるほどの特異性がそこにはあったのだ。だが一月ばかり後にはルイの家に預けられ、兄弟同様に育てられることになる。
 その頃から語彙も急激に増え、表情も出てきた。まるで生まれたときからそこにいたようにルイの家とその周囲に溶け込むまで、三月とかからなかったのである。
 アンリーも、レオンの様子を見るために以前より頻々と市街へおりてくるようになった。それがひとつには、レオンを神官府からルイの家に移すときの約束でもあったようだ。
 神官府にも『海神の加護を受けし者』は神殿で保護すべきという意見は当然あったが、他ならぬそのレオンに声なき声で『喚ばれた』アンリーが、レオンに声を、言葉を取り戻させるには、神殿の最奥よりも市井で生活させるほうがよいと強く主張したためだと後になって聞いた。
 尤も、それが通ったのはアンリーの主張が最終的に大神官リュドヴィックを動かすに至ったという事実が存在した筈だ。大神官リュドヴィックが息子の懇請だからといって唯々諾々と自説を枉げたりはしない人物だという認識は、ルイにさえあった。大神官が判断したなら、相応の理由があったであろう。
 結果としてアンリーは正しかった。
 そして、レオンがあっという間に話し言葉に不自由なくなったあとは、アンリーが読み書きに関して苦手なルイをふくめて面倒を見ることになる。
 巻き添えをくったかたちのルイは、当初『読み書きなんて自分の名前が読んで書ければいいだろう』と盛大に駄々をこねた。だが、他でもないレオンが読み書きを通してこの国のことを丁寧に教えようとするアンリーに至って素直についていくから…いっぱしにレオンの保護者をもって任じているルイは付き合わざるを得なかったのだ。
 退屈じゃないか?と訊いたルイに、レオンは笑って言ったものだ。
『俺はからっぽだ。何もないから、今いるここについて、いろんなことが知りたい。それじゃ駄目か?』
 自分を確かめる術がない。それはきっとひどく心細いことなのだろう。レオンの言葉が何かひどく響いて、ルイはそれ以降、おとなしくアンリーの『授業』につきあうようになった。
 あの頃が、ルイにとっても一番楽しかった気がする。
 わざわざ引っ張り出さなくても、アンリーは毎日のようにルイの家の扉を叩く。
 アンリーの『授業』に付き合った後は、近所の悪童どもと一緒に浜に出て遊ぶ。
 夕刻の浅瀬、入日色に染まる波に足を浸しながら…あるときふとレオンが言った。
「この向こうって…何があるんだろう」
 レオンは暮れゆく水平線の彼方を見つめていた。
「夕日が落ちる方角がシルメナ、朝日が上がるほうがリーンだっけ。…じゃあ、この向こうは?」
 南の水平線を指して、レオンが問う。
「海があるだけだ。そしてその先は、常世国ニライカナイ海神宮わだつみのみやさ。こないだ聞いたろ。」
 夕餉の足しにしてやろうと拾った貝を網袋スカリに放り込みながら、ルイが至って無感動にいらえた。
「海神のします宮…だっけ」
「生きてる人間は海神宮へは行けないんだ。行くのは、寿命が尽きた後さ。だから、本当はどんなとこかなんて本当は誰も知らない筈だけどな」
「そう、誰も行ったことがない。見たことがない。海神宮なんて、確かめた者はどこにもいないんだ」
 そう言ったのはアンリーだった。アンリーもまた浅瀬の波に足を洗わせながら、真っ直ぐに南の水平線を見ていた。
「だから、行けるものなら行ってみたい気もするけどね…」
「行けるの!?」
「おいこらアンリー、縁起でもない。それがどういう意味だか…神官見習いのおまえが一番よく識ってんだろうがよ」
 眉を顰めるルイを、アンリーが笑った。その珍しく屈託のない、悪戯っぽいとさえ見える笑いに、ルイは少し驚いた。
「いや、海が繋がってるものなら、生きたまま行く方法もあるんじゃないかと思って」
「うん、あるといいなぁ」
 レオンが両眼をきらめかせて南の海を見た。
 ルイは友人達の無謀なたくらみに思わず天を仰ぎ、挙げ句は何か無性に可笑しくなって笑った。
「だったらしっかりした船が要るぞ。エルセーニュの南はちょっと沖になると海流が凄いからな。見てろ、あの流れでも乗り切るくらいの船、造ってやるから」
「ルイの船なら安心だな」
 その台詞がレオンのはしゃいだ声だったか、アンリーの珍しく悪戯っぽい笑みを含んだ声だったか、ルイの中では記憶が定かでない。あるいは、そんな話をしたのも一再ではなかったような気がするから…あるいは両方であったのかも。

 ――――そんな、時間にすれば一年に満たない平穏な日々。それを、貴重だったと思える日々が来るなどと…その頃は、考えてもみなかった。

  1. 火焔光背…不動明王像などの背後にある、燃え上がる焔の形をした光背(光背…像の背後にある飾り)