エルンストが改めて調べてはみたが、ミティア=ヴォリス襲撃事件の経過はかなり曖昧だ。
ヴォリス家は停戦直前の政変に伴い当主が交代した。政変の直後から体調を崩しがちだったミティアは新当主・リオライのはからいで本邸を出て、幼時から住んでいた東別邸で静養していたのだが…その彼女がある日、邸の外を散策していると、突如として何処からともなく現れた数騎が取り囲み、連れ去ろうとしたのだという。
邸の者が異変に気づいて衛士を繰り出したため、その時は諦めて去ったというのだが、ミティアは軽傷を負った。
「どう考えてもおかしいよな…そうは思わないか、ディル?」
ディルとそのほか数騎を伴って、件の現場となったヴォリスの東別邸の周囲を見て回ったエルンストは、唸りながら頭を掻いた。
「おかしいって…そりゃ、ヴォリス宗家の娘となれば人質の価値としては結構なもんじゃありませんか?誰が何の目的で誘拐おうとしたか知りませんが、ただ単に金銭目当ての誘拐未遂だったとしても十分ありそうでしょ」
「いや、そりゃそうなんだが」
木立の向こうに東別邸をのぞめる場所に馬を立て、その冬枯れの景色を眺めながら吐息する。
「そもそも貴族階級の、至って躾も行き届いたお嬢さんが、近侍も連れずに森を散策したりするもんなのか? 言っちゃ何だがあのリオライとか、ノーアの銀姫将軍の話じゃないんだぞ?」
言われて、ディルは天を仰ぐ。確かに、ほぼ伝説に近い銀姫将軍・ナルフィリアス=ラフェルトの話はともかくとして…リオライ=ヴォリスの微行癖というより家出癖についてはエルンストがリオライに苦言を呈する場面へ実際にディルも居合わせたことがある。
「言われてみりゃそうですね。近侍も一緒に誘拐われかかったとか?」
エルンストが苦々しげに舌打ちする。
「免職にしちまえ、そんな近侍。…てェか…そんなぼんくら、あのリオライがよりによって大事な妹御につけると思うか? 考えにくいな。あ、いや…別邸の近侍なんか基本的にはヴォリス譜代の騎士とかだろうし…となると第一、二隊の連中と似たり寄ったりか…」
「うーん…」
この隊長は、ひどく大雑把に見えて着眼点は鋭い。それでいて、細かい事は苦手だと言って適当に部下に仕事を振ることを知っている。第三隊が宰相リオライのエルンストに対する個人的信頼で重用されているという事実は確かにあるが、エルンストが隊長職に就いてからの第三隊はなんだかんだ言って対外的には問題を起こしていないし、王都内の治安維持に関して相応の実績を上げているのだ。その理由の一端を見た気がして、ディルは改めて舌を巻いた。
「そうなるとやっぱり、セレスからの連絡待ちですね。別邸の者の事情聴取、セレスが請け負ったんでしょ?」
「…それしかないか。ああディル、それとお前に頼みたいんだが…最近、森に毛色の違うタヌキが住み着いてないか洗っといてくれ」
「〝毛色の違う〟タヌキ?」
タヌキが時にアナグマの巣を勝手に使用していることから、王都の森によくいる…廃墟となった邸に住み着く盗賊の類を俗にタヌキと言っているのだが、あえてそういう指定を付けた真意が読めずに訊き返す。
「この国の者じゃない可能性。ないし、タヌキのフリして実は王都の中にちゃんと本邸を構えてる人種の可能性さ。ミティア嬢の立ち位置は結構微妙だからな。金銭以外の目的で狙われたって線もあるだろう。ま、どっちかっていうとそっちが濃厚じゃないのか。…セレスも言ってたが、ヴォリス家は敵が多い。
現ツァーリ宰相に対して、人質としての効果がある身内としちゃ…あのお嬢さん以外の人物は今のところ他にないだろうからな」
「…さっすが隊長…」
ディルが感歎の吐息とともに呟く。エルンストは笑って、小さく手を振った。
「おだてても何も出ねぇぞ。じゃ、すまんが頼むわ」
***
衛兵隊から護衛が派遣されてきた、と聞いて、ミティアは思わず身体を強張らせた。今は誰にも会いたくない、と閂までおろしたものの、扉の外から聞こえた声に思わず顔を上げる。
「ミティア様、私です」
その声に、ミティアが即座に扉に駆け寄る。閂を開ける間すらもどかしい。ようやく開けた扉から、その人物は影法師が滑るように音もなく室内に身を滑り込ませていた。
「お加減は?ミティア様」
会釈すると、鴉羽色の髪がさらりと揺れ、深い碧の眼が微笑む。セレスであった。扉にもういちど閂をかけ、整った所作で一礼する。
「ご安心ください、本日から私が護衛につきます。邸内については私が責任を持つことになります。邸の周囲には第三隊の者を配置しますが、ご容赦くださ…」
言い終えるのを待たず、強い力で縋り付かれてセレスが言葉を切った。
「…セレス、セレス、私…どうしたら…」
声も、肩も、小刻みに震えている。今にも崩れ落ちそうな肩をそっと抱きとめて、セレスは低く言った。
「大丈夫ですよ。…あの方が、一番良い方法を考えてくださいます…」
ミティアの知るところではなかったが、このときのセレスの眉目には微かに苦しげな翳りが過っていた。
まるで、その言葉を自分自身に言い聞かせるように。
***
王城の宰相執務室は、ツァーリという国家の事実上の中枢である。出入りする文官・武官の数も多いので相応の広さがあった。
その中でツァーリの新宰相リオライは、かつて対立した父ジェドが使っていた執務机を位置さえ変えることなく使用していた。父親との確執が隠れもない事実であることから、部屋すら使わないのではないかという周囲の憶測は完全にはずれたのである。
リオライ=ヴォリスという青年は、戦場においては智将というより勇将というに相応しい働きをするが、政務に関する限り殆ど感情を介在させる事なく、至って冷徹である。一線を退いた父親に対しても…鄭重に遠ざけたのみであった。それも、閑静な離宮での隠棲を、本人の希望に沿って許した格好である。
エルンストが定例報告のために王城を訪れたときも、リオライはその机について堆く積まれた書類に目を通している最中だったが、エルンストの姿を認めると、伸びをして立ち上がった。
「丁度いい、一手仕合おう!」
「おいおい…」
堆積した疲労の色彩を一瞬で吹き払い、紫水晶のような双眼を活気で燦めかされては無下にもしにくいが、エルンストとしてもそう軽々に承諾しかねた。
王城の窮屈さを嫌って頻々と抜け出す悪癖はあったが、リオライは自身の立場としてやらねばならないことについては至って勤勉な質ではある。それが判っているからエルンストとしてもある程度微行癖にも目を瞑ってきた部分がある。しかし政変からこちら…王城どころか執務室からさえなかなか出られない日が続いている筈。そろそろ鬱憤も溜まろうというものだ。
付き合ってやりたいのは山々だが…今は、決裁を待っている文官達の視線が痛い。
だが、エルンストが入ってきたのとは別の扉から入ってきたひとりの文官が、書類の束を盛った書盆を措きながら笑って言った。
「そうですね、リオライ様。ここらで少し、身体を動かして来られては?」
アレクセイ=ハリコフであった。ついこの間までは宰相家が管理する王立図書館・ユーディナの司書長の役職にあったが、リオライの宰相位継承に伴い書記官長に任じられた男だ。「本に埋もれて死ねるなら本望」と公言して憚らない書籍狂いで、栄達にはまったく興味を示さず、書記官長という栄職さえかなり渋った末の就任であったらしい。
それでも今の立場にあるのは、リオライの失踪期間中も王都に在りながら、聖太子アリエルの自害を阻止出来なかったことへの慚愧であると聞く。
「…よろしいのか、書記官長?」
エルンストが思わず訊き返す。アレクセイは苦笑して言った。
「そろそろリオライ様が筆を潰してしまう頃合いですからね。そろそろ息抜きなさらないと、書記官を歎かせることになってしまいますから」
「筆を?」
エルンストの狼狽を見て、リオライが苦々しげにつやの良い黒髪を掻き回して零す。
「まだ2回ほどやっただけじゃないか」
「やったのか…」
エルンストが頭痛を堪えるように額に手を遣った。サインしている最中に筆が潰れたら良くて墨が散るか、悪ければ紙が破れる。どのみち文書は作成し直しである。実のところ自分以外にもやってしまう者がいるとは思っていなかったエルンストとしては、安堵していいものかどうか微妙だった。
「そういうわけで、どうぞ行ってきてください。すみませんがエルンスト隊長、リオライ様のお相手を頼みます。その間に私のほうで書類を仕分けておきますから」
頼みます、という言葉に含まれたもう一つの意味を、エルンストは汲んだ。アレクセイもミティアの件を第三隊に依頼していることは承知しているのだろう。
王城の中庭は晴れてこそいたが肌寒く、春の訪れを感じるにはいますこし時間が必要と見えた。
修練用の剣を取って仕合前の礼を執るリオライの背丈は、今もまだエルンストに僅かに届かない。だが、その烈気は歳を追うごとにただ鋭いだけというより厚み、深みをもってきた気がする。
「――――参る!」
リオライはノーアの北方戦線でサマンとの戦を経験し、サマンからも畏れられる武将に成長している。儀礼重視の宮廷剣術しか知らない第一隊、第二隊の連中では到底相手は務まるまい。
リオライはリオライで、昨今机仕事ばかりの鬱憤が溜まっているところへ…エルンストならば全力でぶつかっても怪我をさせる心配はないと高を括っているらしく、全く手加減がない。信を置いてもらえるのは有り難い話だが、実のところ冷汗ものではあった。
もはや、王都の森で遊んでばかりで、しばしば第三隊の調練に混ざり込んでは隊の連中ー一歩間違えれば市井のならず者ーに挑みかかっていた悪童ではないのだ。そうさせたのは時間だけではなかろう。雪姫や愁柳の薫陶か、あるいはかの王太子との出会いか…。
――――かつて教えた面目にかけて、勝負は五本中三本をエルンストが奪った。
所々雪を残してはいるものの、木洩れ日降り注ぐ芝生。そこへ勢いよく大の字になって仰臥し、リオライがゆっくりと呼吸を整える。こういう所作は少年の時分と全く変わらない。エルンストもまた、立ったまま少し呼吸を整えてから声をかけた。
「相変わらず元気だなリオライ。少し安心したぞ」
「その台詞、熨斗つけて返す。あの数日、定例報告に来るディルの顔色ときたら尋常じゃなかったからな。今にも死にそうだったらしいじゃないか。
ああ、でもやっぱり足下が敷石ってのはいただけないな。何度か滑りそうになった。こんなお上品な布沓じゃなくて、軍靴か、いっそ裸足でやるんだったよ」
「とことん野戦向きに慣らしてるな、お前…」
エルンストの嘆息に、リオライは一瞬だけ悪童の表情を閃かせたが…ふとそれを払拭する。
「…何か掴めたか」
「済まないが、確証といえるものがまだない。再襲撃の兆候もなくてな。荒事にならないのは結構な話なんだが、有り体に言えば手がかりがないんだ。今、タヌキどもの巣を洗ってはいるが」
「言いたかないが心当たりには事欠かないからなぁ。俺を葬りたい…ないし、失脚させたい奴なんぞ腐るほどいるだろう。面倒を頼んで済まない、エルンスト」
「それこそ衛兵隊の仕事だから気にするな。それよりも、お嬢さんのほうが…」
「…ああ」
生気に満ちた紫水晶が不意に憂色に曇る。口許を覆い深く吐息して、言った。
「…俺も何度か行ってみるんだが、扉すら開けてはくれないんだ。…とりあえず、副長のセレス?彼女は部屋に入れてくれたようだが…。
やはり入内の話が衝撃だったのかも知れない。宮廷雀ってやつはウチの邸にも巣喰っていてな。どこからともなく聞こえてしまったんだろう。…困ったもんだ。
俺はまだ是とも非とも言ってないんだ。大体、言えるか、今の今?…リュースもリュースだ。何をどう思い詰めたものか、こんな時期に言い出すなんて。しかもまだ、俺は直接には何も聞いてないんだぞ。噂だけが先走って、リュースも言うに言えなくなってるのは目に見えてるし…何がどうなってるんだか」
エルンストは苦笑した。
「お嬢さんに関してはセレスに一任するしかない。普通、あれを女扱いするとひどく叱られるんだが…この際は女じゃないと解らないことってのもあるだろうからな。セレスから報告が上がったらまた報せる。実直に、俺達にはどうしようもないよ」
「そうだな…」
リオライが嘆息する。
「なあエルンスト。…ミティアは、本当に…」
言いかけた言葉を、リオライは呑み込んだ。言わんとするところは解っていたが、エルンストはそれ以上何も言わなかった。
言えなかった、というほうが正しかったであろう。
***
「少しは、気が晴れましたか」
いつの間にか執務室に戻って書類の決裁を始めているリオライの姿を見て、アレクセイがそう声をかけた。
「ああ、有り難う。やはり間で身体を動かさないと頭も働かなくなるな。御蔭で眠気が吹き飛んだ」
眠気などとは無縁な緊張感を漂わせていたくせに、リオライは笑ってそう言った。ふと、その笑いをおさめて問う。
「アレクセイ…お前、リュースがミティアの入内の話なんてしたのを聞いたか?」
「何で私が」
「俺もだ。…なのになんで、こんなに噂になってしまっているんだ?」
「それこそ噂ですがね…今上がミティア様に出された文にその意向を問う文章があったとか」
「手紙?誰がそんなもの見たんだろうな」
「そりゃ侍女とか…邸の近習でしょうよ。侍女ってのは、主人の私事なんて喧伝するためにあると思ってる人種ですからね。それと、概ねご婦人方というのは身分の上下を問わずそのテの噂噺が大好きと相場は決まってます。火の無いところに煙は立たないとは言いますから、憶測の基になるような何らかの事実があったことはあったんでしょうが…長大な尾鰭がついて広まってるのは間違いないでしょうな。
王都なんて、森の木の葉が物言う土地柄ですからねえ」
容赦ない論評にさすがのリオライもわずかに鼻白んだ。
「手厳しいな。お前…ひょっとして昔、なにか非道い目に遭いでもしたのか?」
「何を仰る。言いたかありませんけど、私に艶聞とかその類の噂がありそうに見えますか?」
「見かけで判断出来るわけじゃないだろう」
「大きなお世話です」
堅物を揶揄うのは面白いが、これ以上は虎の尾を踏む。リオライは苦笑した。
「まあ、俺がノーアへ送られることになったのもどうやら〝その類〟の醜聞が契機だったらしいし…それもヴォリス家への反撥が原因と思えばつくづくヴォリスの名が鬱陶しくなるな」
しかし、その言葉にアレクセイが一瞬、息を呑んだ。
「…ご存知、だったんですか」
「まあな。俺が父の実子ではなく、ライエン=ヴォリスの落とし胤だっていう、どうでもいい話だろう?」
「さっぱりしてますねえ…」
「拘泥ってどうなる。俺は心からノーア大公の子でいたかったんだ。姉上の弟でいたかったんだ。それを否定されるなら、今更父親があの前宰相だろうが、顔も知らん兄上だろうが知ったことか」
吐き捨てるように言い放つリオライに、アレクセイは苦笑いで応じた。
「…まあまあ、ええと、一応弁護させてくださいよ。
ご存じの通りシェヴン様…あなたのご母堂はノーア大公家に親い方だったんですが、ご両親が早くに亡くなられました。そのために先々代ニコラ陛下の猶子ってことでお小さい頃からこっちで生活なさってたんですけど…まあ、言ってみればアニエス妃と同じようなお立場です。宰相の後添って話も元々あるにはあったんですけど、それこそ次代宰相であるライエン様の配偶者にって話もあったんですよ」
「…なんでそうならなかったんだ?年齢的にはその方が妥当だろう」
「当のライエン様には、想い人がおありで。それも、到底結ばれ得ない…ね。…姫様を正室に、想い人は別にって器用なことが出来る御仁じゃありませんでしたからねぇ」
「…詳しいな」
「言いませんでしたっけ? 私は昔、ライエン様にお仕えしてたんですよ。だから、元・侍者として主人の名誉のためにお話するんですが、ライエン様はシェヴン様とは本当に何もなかったんです。ただまぁ、お優しい方でしたからね。結局宰相の後添ってことになって、あなたをお産みになりながら、言ってしまえばわりとほったらかされてた姫君を何かと気に掛けて…親切になさってたのは事実ですよ。手紙や届け物を取り次いでた侍童ってのは他ならぬ私ですからね。そこは嘘偽りありません」
リオライは、改めてこの飄々とした書記官をまじまじと見た。アレクセイが少し居心地悪げに顔をしかめる。
「そんな、意外そうな顔しないで下さいよ。私だって子供の時分ってのはあったんですって」
「いや、それはわかるが…初めて聞く話だったんで少し驚いただけだ。
しかし…真偽はともかくあんな噂を立てられては親父殿としても面白くなかった…と?」
「さてね、そこらへんは私にもはかりかねます。あなたをノーアへお預けになった先代様には…実は深慮遠謀があったのかも知れませんよ。実際あなたはかくも立派にお育ちになったわけだし。…お陰で今、私が息つく閑もないくらい酷使されてますが」
「お前、そこで当て擦るか。…しかしアレクセイ、兄上の近侍だったってことは…やっぱり本来、ゆくゆくは書記官…しかも首席級だったんじゃないか。俺ばかり悪者にしてないで、いい加減に運命と思って受け容れろ」
「どうしてそういう話になるんです…?」
きっぱりとそう言い切られ、アレクセイが項垂れた。
「莫迦話はさておくとして…。エルンストも言ってたが、この一件…何か大きな一片が隠れている気がする。見落とせば禍根になりそうだ」
「同感です」
「ミティアが襲われたのが、何者かのヴォリスへの反感から来るものだとして…俺ひとりが狙われるうちはまだいい。だが…王都全体を巻き込む騒乱になっては、どこから付け込まれるかわかったもんじゃない」
「〝まだいい〟って…それだってよくはありませんよ、リオライ様、怖ろしいことをさらっと言わないで下さい。判ってると思いますが、今あなたに何かあったら、他国に付け入られる間もなくツァーリは転覆するんですからね?」
リオライはアレクセイの苦言を笑殺して立ち上がると、ゆっくりと窓へ歩み寄った。
「曇ったな…この様子だとまた雪か」
窓を開け、天を仰ぐ。いつの間にか日没を迎えていた。冬の日暮れは早い。加えて曇天が昏さに拍車をかけていた。
「王都暮色深く 雪催…か」
リオライが何気なく口ずさんだ詩句に、アレクセイは僅かに眉を顰めた。
お願いですからこの間で不吉なものを口遊まないでくださいよ、と言いかけて、リオライの沈鬱を晴らす材料 にはなりそうもない話題だと口を噤む。
王都暮色深く 雪催 枯野深閑として行人なし 芳樹の下 清歌妙舞の錦繍は朽ち 別れを為して孤蓬万里を征く
―――宰相家の祖、王弟ヴォリスの辞世と伝えられる詩である。
***
ミティア自身が人前から姿を消したこと。どうも、焦臭いといわざるを得なかった。
数日後。エルンストは薄く雪化粧をした王城の森を、単騎ヴォリス別邸へ向かっていた。
セレスから報告の文書は来るが、襲撃場所周辺の検分がてら、別邸にもう一度顔を出しておこうと思ったのだ。実のところ警備対象への伺候に託けてセレスの様子を見るという些か狡い心算もあるにはあった。口に出せば怒られるだろうが、やはりどうにも気に掛かる。
エルンスト自身、まだミティアに会う機会がない。リオライから警護の依頼を受けたときに一度伺候しているが、丁寧な中にも強硬に拒まれ邸内にさえ入れなかったのである。リオライでさえ自室の前で拒まれているのだから無理もないのだが、警備体制を敷くにも状況が判らないまま周囲を取り囲むだけ、というのでは余りにもお粗末だ。
だからこそ、セレスを頼った。
セレスは本来、仕事の上で女扱いされることを極端に嫌う。すんなりと引き受けてくれるかどうかは微妙だと思っていたが、今回ばかりは若い娘が名誉に関わる噂の種にされ、そのうえ命を狙われているとあれば率直に惻隠の情を催したのだろう。自分から言い出してくれるとは思わなかった。
世間が噂するような…ミティアがサーレスク大公の子を身籠もったなどという世迷言は、エルンストは洟もひっかけていなかった。シェノレスのレオン審問前夜まで軟禁されていたサーレスク公の身の上を考えれば、あり得ないことはわかりきっていたからだ。
では、あの噂は何を意味するのか。良家の娘の襲撃・誘拐未遂事件。下手人はわかっていない。目撃証言は別邸の近習のみで、聴き取る限り証言に微妙な食い違いがあって、時間も、場所もいまひとつ曖昧。以後引き籠もり、信頼する兄にすら顔を見せなくなった娘。…考えれば考えるほど、嫌な想像に傾いてしまってエルンストは頭を振った。
だがその時、故意に消された気配をエルンストは敏感に察知した。
「…誰だ!」
逃げる様子はないが返答もない。だがエルンストが左手の手甲に仕込んだ刃を引き抜いたとき、意外な声がした。
「待て、そう慌てるな」
木立ちの間で、金褐色が揺れた。蔽いつきの外套を羽織ったサーティスがやれやれといったふうに木立ちの間から出て来たのだ。後ろには鞍に薬箱を括った馬が所在無げに立ち尽くしている。
「サーティス…?」
「…気配を察するのも獣並みか。相変わらず鋭いな…何ともえらいのに見つかってしまった」
エルンストは訝りながら馬を寄せた。
「何で、お前がこんなところに…? この先はヴォリスの別邸があるだけだって…の…に…」
エルンストは言葉の途中で、体調の優れないミティアのために数日おきに医者が呼ばれてくるという話を思い出した。これがまた、男だといったり女だと言ったり、若いという話から…いや年寄りだったと年齢さえもはっきりしないという、別邸の外で警護している第三隊士からの報告を受けて違和感を感じていたのだ。
ただ、別邸の使用人が何も怪しまずに邸内に入れているというからさしあたり看過してきたのだが、ひとつの可能性に思い当たって言葉を呑み込む。
それを看て取って、サーティスは深い溜息をついた。