残照の日々 Ⅰ

 シュテス島、エルセーニュ。
 緋色の髪をした長身の青年が、放心したように早朝の海岸線を歩いている。
 見るからに足取りが危ないというふうではなかったが、ひどく面窶おもやつれしたうえ白い神官衣に包まれた身体はすっかり痩せ衰え、深い赤褐色の瞳には生気がなかった。
 アンリーである。
 マルフ紛争収拾にルイと共に赴くはずであったのが、直前になって熱を発して倒れ、一時人事不省に陥った。発熱そのものはカザルに在った頃から時折あったが、病床にあっても目覚めていればその判断に誤りはなく、いつも通りに正確無比であったから、当初は回復戦争の疲れとしか見られていなかった。
 しかし、今度という今度はルイがマルフ島へ出発して数日後にようやく起き上がれるようになったものの、衰弱が著しくほぼ役務に就ける状態ではなくなった。
 だが、時折ふと起き上がってエルセーニュ東岸の海岸線へ降り、彷徨さまようようにして歩いている。
 エルセーニュ東岸は神官府の立ち並ぶ山稜の海側で、東端にあたる本殿の先は切り立った崖となっている。しかし神官府のある山稜から市街へ降りる道のいくつかから分岐があり、崖下の海岸へ出る道が通じていた。海岸は所々砂浜も存在するが、満潮ともなれば完全に水面下となるため、通う者もない。
 ただし、弱った足腰で踏み込めば怪我は免れない場所である。それでもさらりと本殿を抜け出し、翼もて舞い降りでもしたかのようにいつの間にか人の通わぬ波高い海辺を歩いているのだ。声をかければ我に返るようだったが、どうやってそこまで来たのか憶えていないという状況であった。
 「心身共に磨り減らした」というのが、彼以上に当てはまる人間はシェノレスにはいなかっただろう。
 その理由を知るものはほとんどなかった。感情を表わすことが少なく、大神官直属の細作・波の下の者ネレイアの統領、そして審神官シャンタールとして前線における大神官代理の役目を十二分に果たした彼は、大神官リュドヴィックそのもののようだ、と見る者も少なくなかった。
 本殿から動くことのない大神官の代わりに、外を自由に遊弋する大神官の耳目。そして手足。
 ─────大神官の憑代。
 回復戦争の陣中、レオンの帷幕に大神官の代理として参加する頃の彼を、皮肉を込めてそう呼ぶものすらいた。アンリーが歯に衣着せぬ物言いを常としたため、その実力を認めながらも嫌う者が少なからずいたのである。
 加えて、アンリーは正確には神官ではない。本来の神官としての修行に費やすべき時間をすべて戦いの準備…南海航路の開拓やリーン・シルメナとの折衝に費やしたからだ。しかし、彼の名に「神官」の称号をつけることはごく自然に行われていた。それが神官府内で一時期問題になったことすらあったのである。
 審神官シャンタールはとどのつまり便宜的な官名だ。彼は公的には大神官直属の細作でしかなく、しかも周囲は決して味方ばかりではなかったのである。しかし最近の彼の様子を見る者は、口を噤まざるを得なくなっていた。
 大神官リュドヴィックも紛争勃発後暫くして病に倒れ、今も病床にある。だが、アンリーのような人格崩壊の徴候を示してはいなかった。
 ふと、彼の視線が遠い海の彼方へ飛んだ。
 空の藍色がゆっくりと淡くなり、白になる。と、水平線を閃光が断ち切り、光の浮橋が一瞬にしてそこから波打ち際のアンリーの足下まで架けられた。
 夜明け前のほの青い空気が追い払われ、昼の世界が始まる。
 今日という日が始まる情景を眩しげに見ていたアンリーは、ふいにその光の浮橋に向かって歩き出した。
 アンリーは波の上を草原の如く歩く水精ではない。沓さえ履かぬままの足は波を被り、白い神官衣は潮水を吸った。だが構わず彼は歩を進める。
 光の浮橋の向こうに、何を見ているのか。

***

 嵐に揉まれ満身創痍、いつ崩壊してもおかしくないほどに朽ちかけた異国の船。奇跡のようにその形を維持していた魔法が、一瞬にして霧消してしまったかのような…突然の崩壊だった。

 砕け散り、海と同化していく船の中で、アンリーは友人ルイの姿を必死で追った。
 発案したのが自分ではないにしろ、本来ならこの冒険を制止すべき立場――一応、年長者――でありながら…自分の興味を優先させたのだ。ここでルイに怪我をさせるわけには行かなかった。
 だが、崩壊する船が作り出す乱流は…少年の手に負えるものではなかった。
 必死に伸べた手がルイの腕を取り損ねた一瞬の、どうしようもない喪失感。そして砕けた船の欠片はアンリーの背に容赦ない一撃を加える。だが途切れかけた意識の最後の一瞬、呼ぶ声が聞こえた。
『誰か! 誰か返事をして…!』
 魂を削るような…切実な叫びを、一瞬ルイの声だと思った。ここにいる、と…もはや方向さえ定かでないのに手を伸べようとして、慄然とする。水の中なのだ。何故、こんなに明瞭に聞こえる?
 それが声でない声だと気付いた直後、意識は途絶えた――――――。

 気が付いたとき、アンリーは岩の上に臥せていた。
 海神窟の中なのは間違いないが、天井はそれほど高くない。海神窟に無数の支洞があるのは知っているが、そのうちのどこかまではわからなかった。
 岩の裂け目から細い陽が差し込んでいる。
 岩の天井を眺めながらのろのろと起きあがり、そのおぼろげな光の下に周囲を見回す。自分の横に誰かが横たわっていた。
「ルイ…!」
 他には考えられなかった。思わず、やはりずぶ濡れの背に手を伸べる。だが、すぐにそれがルイでないことに気づいた。年頃は変わらないが、異国の服。黒い髪。意識はないようだった。
 身を起こし、その口許に手を遣ってみると…呼吸はしている。
 先程の呼び声が脳裏をよぎった。
「…おまえが…呼んだか…?」
 そのとき、背後でざぶりと音がした。
「ほう…やはり、おまえにも聞こえていたか。これは真正ほんものだな」
 降って湧いたような他者の気配にアンリーは戦慄した。
「そうびくつくな。取って喰いやせん」
 振り返ると、それほど大柄というわけでもないが相応の膂力を窺わせる体躯の青年がその身から水を滴らせながら半身を岩の上に預けていた。
 白い髪…否、陽に晒されることで褪色した金髪。色の判然としない深い色の双眸。その膚もまた陽に灼けており、精悍そのもの。その青年は水の重さを些かも感じさせない動作で自身の身体を岩の上に引き揚げた。
「…誰」
 今、最も妥当な質問であるはずだった。だが青年はそれに応えることなく、ただ面白がるような、不躾な視線でアンリーを一撫でしておいてから…黒髪の子供の傍に膝をついてその脈を診た。
「驚いたな、本当に生きてる…」
 そうして子供の髪に絡みついた一片の海藻を取って水面に投げる。今度はアンリーへ手を伸べた。思わず、半身退いてしまう。だが、青年は委細構わず膝を詰めて更に腕を伸べた。アンリーの顎を捉えてわずかに仰向かせる。
 ここまで無遠慮に踏み込まれると、退くのも業腹だ。アンリーはすこしむっとしてそのまま青年を睨み返した。
 だが、青年は岩の裂隙からもれる細い陽に照らされたアンリーの顔を一瞥すると、笑っていとも簡単にその手を離す。
「…成る程、よく似てる…」
 誰が、誰に。
「この子供を連れて、この流れに沿って下れ。出口近くまでリシャールが探しに来てる。おまえの連れも無事だ。
 …手伝ってやれなくてすまないが、俺はあまりおおっぴらに人前へ姿を晒すわけにはいかんのでな」
 視線をその青年に据えたまま、アンリーは片手を水につける。仄暗さで見た目ではわからないが、確かにその洞の水には緩やかではあるが流れがあった。アンリーはゆっくりと、用心深く訊いた。
「…あなたは誰」
「知りたければまた来い。この洞を捜してみることだ。おまえなら、見つけられるだろう。…答え…ああ、あるいは俺の墓かも知れんが」
 そう言って…岩の上に置いていた、紅い布を取った。簡単に水を切っただけのその白髪に手早く巻いてしまうと、立ちあがる。
 薄明かり、そしてずぶ濡れだから判然としないが、その衣服は神官のものと見えた。

***

 『アレンの後身』
 物心ついてより、アンリーを見る周囲の大人達がそう口にする時…彼らは決まって目を伏せ、声を潜めた。
 〝アレン〟の名は禁戒とされ、その名を使われることも大侵攻以降は憚られてきた。それでも、ツァーリに反撥を覚える者の間で…いつかは、という期待とともに囁かれ続けた。
 それがどうやら自分にむけられているらしいと最初に気付いたのは、いつであっただろうか。
 言葉に乗せることが憚られるのなら、文字に残されているだろう。アンリーが神官府の記録を読み漁るようになったのは、ひとつにはそのためだった。
 ツァーリはシェノレスの王家を殲滅し、その王城を焼き砕いたが、早々に降伏した神官府については実権をとりあげたのみで、武器の類を例外として破壊・略奪の災禍に遭うことがなかった。よって記録の類もほぼ損なわれることはなかったから、調べ物については大神官家の直系であるアンリーは確かにいたって恵まれた環境にあったというべきだった。一般の神官には容易に開示されない史料さえ、当然のように閲覧できたからだ。
 だが、そうしてアンリーは周囲の大人達が自分に何を見ているかを知らされることになる。
 海神窟に封じられた緋の風神アレン。最後までツァーリに抗った神官。表向きは賊とされ、弔うことさえ禁じられた者に、墓などない。言わば、最期の地となった海神窟そのものが壮麗な陵墓といえた。
 だが所詮、記録は記録に過ぎない。
 事実を知ることと、それを理解するということの間には深い溝が存在する。
 禁域と解っていても海神窟に行ってみたかった。だから、ルイをふくめた遊び仲間が純然たる洞窟探検として海神窟探索を企てたときも止めなかった。…むしろ、積極的に行動した。
 そして何かに牽かれるようにして…レオンに邂逅であった。
 仕組んだのはあの男か。それとも父か。あるいは真実、海神わだつみのかみか。
 今となってはいずれであったとしても構いはしない。アンリーにとって楽しいと思えたほんのわずかな時間を、あの邂逅は与えてくれたから。

 自分はからっぽだ。何も持たないとレオンは言った。名前さえここシェノレスで与えられたと。…彼にとってはそうかもしれない。
 だが、アンリーにとっては彼の存在そのものが福音であった。

 レオンは異国の船に乗り、異国の衣服を纏い、シェノレスに逢着した。…明らかに、レオンはあの海の彼方から来た。
 それは逆を言えば、生きたままあの海の彼方へゆく方法があるかも知れない、ということだ。
 子供の夢想と片付けるのは容易かろう。だが、あの男はその夢想を現実にするすべを知っていた。あの男――――結局、本名を教えてくれることのなかった波の下の者ネレイアが指し示した可能性。
  ――――――南海航路。
 海神窟でアレンの墓所を見つけて程なく、アンリーはやはり海神窟の支洞のひとつに男が拠点としていた場所を見つけた。
 名を明かそうとしないその男を、アンリーはヴァンと呼んだ。明かすつもりがないなら勝手に呼ぶ、と。
 波の下の者ネレイアとは、本来海神宮に仕える者を意味し、死者の暗喩でもある。だがこの際は、大神官直属の細作組織のことであった。
 航路開発のために既に密かな活動を始めていたヴァンは、その頃は海神窟に観測拠点のひとつを置いていたのだった。
 観測拠点。南海航路の開拓に必要な位置情報を正確に把握するための。
 リュドヴィックにとってはシェノレスをツァーリの軛から解放するための秘策。だが、アンリーにとっては戦が終わった後の新たな世界への可能性であった。大陸の向こうに、他の大陸がある。それは天文の初歩を修めればすぐに行き着く可能性。だがそれを確かめようとする者はいない。…方法がないからだ。
 無闇に南へ漕ぎ出したところで、行き着くところは補陀落渡海。海の藻屑となる運命だけが待っている。
 だが、南海航路が現実のものになれば道は開けるのだ。
 ツァーリは新たな航路の開拓を禁じている。陸からの制御が困難となるからだ。しかしツァーリの支配から脱することができれば、思い切った新航路開拓が可能となる…!
 ツァーリの支配に対し、10歳やそこらの子供がそれほど深刻な憎悪を育てていた訳ではなかったであろう。だが、墓所に刻まれた緋の風神・アレンの血を吐くような無念、アニエスを差し出さねばならなかった父リュドヴィックの深く静かな怨嗟、そしてヴァンの韜晦された悲嘆をあがなえるなら、アンリーは戦ってもいいと思った。
 ツァーリの軛を断ち切る為に自分ができることがあるというなら、そうしよう。神官府が、大神官であるリュドヴィックが、アレンの後身たることを自分に望むというならそれに応えよう。
 それによって、自身の望みを叶えられると…アンリーは信じた。
 アンリーは『奉献』というかたちでエルセーニュから去る事を決めた。ヴァンと同じく死者となり、ツァーリの監視を遁れるのだ。そしてリーンーシェノレスーシルメナを結ぶ、従来のものより遙かに南寄りの新航路を密かに確立するために。
 ツァーリの監視を免れることの出来る新航路。だが、それはアンリーにとっては道程みちのりでしかない。それが確立することによって三国はツァーリの軛から自由になる。それで、南の海に新たな道を拓けるなら…ある程度の犠牲をはらう覚悟を決めてもいい。
 『奉献の儀』の時…アンリーは、確かにそう思っていた。

***

 ヴァンが倒れたのは、南寄りの新航路が概ね確立し、ようやくリーン~シェノレス~シルメナの本格的な往来を始めることが出来るようになった頃だった。
 リーンやシルメナとの折衝は概ねアンリーの役目となった。即位したばかりのシルメナ王ルアセック=アリエルとの白刃を擦り合わせるような折衝を為果しおおせたアンリーをヴァンはいつになく素直に褒め、数ヶ月後に燈盞とうさんの灯が消えるように歿した。…本名はおろか、何故波の下の者ネレイアとなったかさえ、明かすことはなかった。
 その後、ネレイアの統領としての責務もアンリーの負うところとなる。
 ヴァンがネレイアの統領にあった期間、宮廷内部までは手が届かなかったものの…王城の森周辺の自由民に幾許かの協力者を確保することはできていた。
 だが、アニエスの遺児とその近侍に接近することは叶わなかった。
 館は下働きに至るまで宰相の息の掛かった者で占められており、遺児の傍に残ることを許されたわずかな近侍…乳母イレーネ=デュナンとその家族には、ネレイアとの接触が可能な者はいなかった。それは、自身が不在の間に宰相側へ動きが露見することを警戒したアニエスが敢えてそうしたのだった。
 準備が整うまで、表向きは恭順を装わねばならぬ。宰相にネレイアの存在を察知されるわけには行かない。そのために最悪、尋問されたとしても何も知らない者だけを残したのである。残される子の安全のためにもやむを得ぬと判断してのことであったが、最終的に、徐々に病が篤くなっていくアニエスにとっての痛恨事となった。
 結果、アニエスの歿後、その遺児と近侍の一家は完全にシェノレスと分断されることになる。大神官リュドヴィックの指示で積極的な介入が避けられた結果でもあった。ヴァンはその方針を堅持したが、心中快々として必ずしも納得していたわけではなかったらしい。
『コトが始まった後…アニエスの遺児にその意志があれば、ナステューカから脱出させろ』
 倒れた後、自身の余命を悟ってからは、大神官の命にはないことだと明言しながらもこう言った。
 ヴァンがつけた留保の意味を、アンリーは後に知ることになる。
 ナステューカに潜入する機会は幾度となくあったのだが、王城となるとそう容易くはない。しかし王太子に立てられ既に公事に参加していたアニエスの遺児の姿を遠目に見ることは可能だった。直接の接触は大神官から禁じられていたが、ヴァンの遺言のことがあるから、一度顔を見ておこうと行幸の際に群衆に紛れて接近してみたことがある。
 王位継承一位を名目に人質として留め置かれた少年。そんな先入観は、冬の陽のような柔らかな微笑で周囲全てを拒絶する、静かな中にも勁烈な佇まいに打ち破られた。
 自分と同年と聞いていた。だが、故国から分断されたことを歎くような弱さはそこに窺えなかった。決して自由な身分というわけではないのに、出自に囚われる事なく、自ら択んだ場所にいる。
 亡命を勧めるのは無益かも知れない。そんな予感はその瞬間からあった。
 だがまさか、あそこまで峻烈な途を択ぶとは思っていなかった。

***


『私はサーレスク大公アリエルだ。今更どこにも行くところはないし、逃げることが許される立場でもない。誰かとは問わぬ。御身の心遣いは有り難いが、私はその誘いに乗るわけにはいかない。聞き分けてくれないか」
 準備が整い、戦の火蓋が切って落とされようとしていたあの月の夜、アンリーを諭した…穏やかでありながら、揺るぎない声。

 どうすれば、かくも清冽なつよさを手に入れられるのだろうかと思った。

 しかし、その日を境に南海航路に微妙ながら探りが入れられるに至り、アンリーは自らの失策に気づいた。自分がアリエルに接触したことが、シェノレスの動きとして感知されてしまったのだ。そこで、初めてアリエルが決して孤立していたわけではないことが解ったのだ。

 ツァーリ宰相の嗣子であり、ノーア大公の猶子でもあるリオライ=ヴォリス。

 誕生前後の経緯からかくも奇妙な立場にあったこの人物は、北の戦場では『雪女神の猛き守護獣』と北方の民サマンをして畏怖させるほどの勇将であった。
 ネレイアとしても当然監視対象となるべき人物だった。しかし、一年の殆どをノーアで過ごしていたということと、ツァーリにおいてはいまだ無位無官、父宰相との間にげきさえあるという噂がその重要度を下げていた。しかしそのことはかえって彼の自由を確保し、アリエルが抱いた疑念を調査するための時間を与えてしまったのだ。
 ただ、その時間は至って短かった。総督府襲撃の日取りは既に決まっていたのだ。予定通り戦端は開かれた。
 総督府襲撃に確信を得たアリエルは、リオライの調査を論拠として国王に対しツァーリ包囲網と言うべき同盟の存在に警鐘を鳴らしたことだろう。だが、幸いツァーリ王カスファーと宰相ヴォリスはそれを容れなかった。
 結果としてアリエルは軟禁されることになったが、リオライ=ヴォリスがそのまま証拠固めに動けばその先はわからない。新航路を暴かれることにでもなったら、この10年の準備が水泡に帰すこともあり得た。
 ここにきて、アンリーはリオライ=ヴォリス暗殺に踏み切ることになる。おそらくはアリエルのたったひとりの理解者であり、友人。だが、生かしておいてはこの戦が不利になる。ツァーリの喉元を締め上げるまで、三国同盟はツァーリに知られるわけにはいかないのだから。
 アリエルには四肢をもがれるがごとき痛手となることは解っていたが、踏みとどまるわけにはいかなかった。
 しかし、ギルセンティアの峠道で…リオライ暗殺を実行に移そうとしたアンリーの前に割って入った近侍衛士マティアス=デュナンの絶叫に、胸を抉られなかったといえば嘘になる。
『海神宮はアリエル様を見棄て給うのか!?…アニエス様の御子ぞ…!』
 戦が始まったことで、マティアスはアリエルが遂に人質としての立場に立たされることを危惧したのだろう。そして、神官府が何も言ってこないのはアニエスの子を贄として差し出したためだと考えた。
 そのときアンリーは初めて、アリエルが月夜の訪問者アンリーのことを、近侍であるマティアスにさえ告げていなかったのを知った。
 マティアスの推測が的外れであったとは言うまい。大神官リュドヴィックは確かにアリエルを積極的にナステューカから脱出させようとはしていなかった。むしろ、ツァーリ側にシェノレスの服従を信じさせる要素として据え置いたのだ。
 マティアスは神官の血筋だったが、そのマティアスでさえ国元に対する不信を募らせたのも、あるいは無理もなかったかも知れない。結果としてマティアスはシェノレスの神官たるより、アリエルの近侍たるほうを択んだ。…つまりは、そういうことだ。
 それでも、アンリーは射た。そうしなければならなかった。
 マティアスに阻まれ第2射でさえ射損ねた時、アンリーは逡巡が自らの手許を狂わせていることに気づいた。そのため、雪壁を破壊し標的リオライ=ヴォリスを雪の鎚矛メイスでもって谷底に葬ることで目的を達したのだった。
 ――――マティアスと共に。
 崩落した雪渓が標的を崖下へ叩き落としたことを確認した直後、アンリーは眩暈と嘔気に襲われて動けなくなり、結局一晩ほどをギルセンティアで露営ビバークした。
 人を殺したのは初めてというわけではない。躊躇えば自身が殺され、失敗しくじれば十年に渡るはかりことが崩れ去る。決して躊躇うなというのはヴァンの垂訓であったし、それは正しいことだとアンリーは経験から理解していた。それでも、胸奥で暴れ狂う何かを抑え付けるために…その夜は雪の中に身を沈めていなければならなかった。留まることでリオライの部下達に発見される危険があるのは解っていても。

 シュテス島へ戻り、庇ったマティアスごとリオライ=ヴォリスを雪渓に葬ったことを大神官に復命した時、アンリーは平静に戻っていた。
 大神官はマティアスの件について、特に咎めだてしなかった。

 しかしこのとき、アンリーの裡で確実に何かが壊れた。

***

 リオライ=ヴォリスを失ったうえ、その身は軟禁中。
 王太子アリエルがそれ以上の行動を起こすことは…アンリーも予測していなかった。国王と宰相は、結局王太子の進言を容れなかった。それなら、当初の筋書きから些かも外れはしない。カザルを墜とし、そこを橋頭堡として騎馬隊を編制、最終的にはナステューカを墜とす。そうなるはずだった。

 レオン捕縛、という不測の事態さえ起きなければ。

 審問の後…アリエルが卒然と行動を起こしたことを知った時、アンリーは愕然とするしかなかった。行動を起こすことを予測していなかったのではなく、起こさないことを祈っていた自分に気付かされたのだ。
 単身レオンを獄舎から連れ出す行動力は、とても2年間従容と軟禁されていた人物とは思えなかった。あまつさえ、大神官の思惑さえ最初から最後まで看破していたのではないかというような交渉の持っていきかたには…あの冬の陽のような微笑が怖ろしくさえ思えた。

 そして停戦を発効させるために…アリエルは自身の命さえ昂然と火にくべた。ただリオライ=ヴォリスの帰還を信じて。

 その勁烈な信念は遂に、確かにアンリーが殺した筈のリオライ=ヴォリスをして…停戦の場に立たせた。その事実を目の当たりにして、アンリーはいつかと同じ眩暈を感じていた。

 自分は何を犠牲にして、何を得た?

 アンリーの身体が明らかに変調をきたすようになったのは、それからだった。